49話

 月に輝く華の微笑は、場に似合わぬほど上品かつ雅だ。舞台の役者の振る舞いに似た動作で、恭しくお辞儀をする。まるで観客への礼と言わんばかりに。


 とろけるような微笑みをたたえて、優麗にするりと一歩踏み出せば、周りの空気を一瞬にして塗り替えていく。凍える地獄から、熱狂で満たして魅了していく舞台へ。


 その威厳、堂々たる歩みに誰もが声が出なくなった。出してはならぬと、華の一挙一動に視線を注ぐ。


 全員が、見蕩れて。


「月音」


 名を呼ばれる。


 男に捕まれている姿を一瞥してから、こてんと首をかしげた。

 慈母神のように慈しみの込められた優しい顔と目が、月音だけに与えられる。


「きみは、何を望む?」


 問いかけ。

 聞き慣れた声が耳から滑り込んで熱を持つ。冷え切った指先まで染み渡り、いつの間にか堅く握った拳がほどけた。


 自然と口は開く。導かれるように。


「たすけて」

「どのように」

「この命を、生かして」

「何を犠牲にしても?」

「ええ」

「華が散ろうとも?」


 彼の目が爛々と輝いている。

 何故か重要な地点、分かれ道に立たされている気がした。

 間違えれば取り返しのつかない、そんな予感。


 予知能力などない。

 これは今まで彼と暮らして、彼が言葉なく、暗にに伝えてきたことなのかもしれない。


 月音が、いつか思い通りに答えるように、裏からひっそりと仕込んだ毒。



 彼が求めているものを、月音はあてなくてはいけない。


 一呼吸。

 まるで永遠とも感じた時間を月音は味わう。

 恐怖はない。

 思考は追いついていないのに華の思惑通りに、答える。


 月の役割は華を照らすこと。華を美しく輝かせること。


 迷う必要などない。

 月と華の利害は一致している。

 そうだ、それは会ったときからずっと。


 月は——華が散る瞬間も、輝かせる。


「散ろうとも、月を輝かせて」


 その気高い命に代えても、この汚くて醜悪な命を。


「……——は、」


 甘ったるい吐息がこぼれる。

 恋する乙女のように、頬をほのかに朱色を差して恍惚とした笑みを浮かべる。


 見たものが生唾を飲み込む音がした。


「ああ、ああ、ああ! ようやく、ようやく、俺の月を見つけた」


 華は歓喜をあふれさせ。

 甘く艶やかな、棘を含んだ大輪の華が咲き誇り、月を覆い隠した。


「これほど幸福なことはない。きみが、他の誰でもない俺を選んで、助けを求めてくれた。俺の命を犠牲にしても生きたいと願ってくれた。俺は」


 このときをずっと、待っていた。


 熱に浮かされ、欲を孕んだ瞳が月を一心に見つめる。

 いつも微笑して高みの見物をするかのような、余裕たっぷりで観劇する態度であるのに、よほどの激情が彼を包んでいるらしい。


 舞台のようだ、なんて間違いだ。


 これは華が描き、結末まで整えられた舞台そのものだ。



 彼の異様さに飲まれた男たちは、一歩下がる。

 月音を捉えていたものすら、放心したように、その場でへたり込んでしまった。


 月花泰華はその隙間に滑り込み、月音に近づく。

 彼の濡れた髪が月にきらめき、炎に揺らめく様は神秘的でありながらも何処か不気味である。

 作られたような美貌がよりいっそう現実味を薄れさせ、何かの劇の一部だと錯覚させる。


「……あなたの」

「うん?」

「あなたの望んだ劇に、なりましたか」


 狂ったあなたとわたしに、お似合いの舞台に。


 嫌みを含めた問いに、泰華はとろけてしまいそうなほど幸せそうに破顔した。



「当然だとも」



 彼の言葉に月音は一瞬だけ、思考を巡らせた。

 だがそれもすぐに霧散して、振り払う。


 望み通り、つまりこの状況も彼の予想通り。

 ならば月音にとっても問題ない。


 命の危険は、ない。


 死にかけようとも、屈辱を与えられようとも、彼の作った道ならば月音は死ぬことがないのだから。


「怒らないのか?」

「何に対して」

「この状況。今の会話できみは察しただろう。きみは案外かしこい」


 随分な言われようだ。


 月音は肩をすくめた。

 今の言い方にはもの申したいが。


「あなたは必ず月音という命を守る。なばらどのような事態が起きても、最後は私が生きているでしょう。ならば文句はありません」


 彼は守ると約束した。

 そして今一度、彼の命を犠牲にしても守ると。

 この町の頂点に立つ片割れ、月花の当主が言うのだから、これほど安全なことはないだろう。



 彼が、色が消えても、月音の命は生かし続けられる。



 大勢が大切にしている美しい命が、大勢が蔑ろにする汚れた命を優先するなど、笑い話にもならない。

 

 だが月音にとっては生命線だ。


 泰華はじっと月音を観察してから、にこっと少年の無邪気な笑顔になる。


 珍しい。

 いつもは艶やかな薔薇の如く、妖艶な笑みばかりなのに。

 今はまるで向日葵のような愛らしい、幼い顔をするものだから月音は毒気を抜かれた。


 死ぬほど似合わない表情ですね、とは言わなかった。


 泰華は、ぽんぽんと頭を撫でる。


 怪我していて痛いと文句を言えば、黙殺される。彼は自由気ままに動く。そのまま彼は月音を背で庇うように立つと、


「さて」



 柏手ひとつ。



 空気を一瞬で変えさせ、彼の声音から優しさの一切がかき消えた。冷たく鋭さがある、月花の上に立つ者の威厳と威圧感のある声。


 後ろにいて彼の表情が見えない月音ですら、ぞくりと寒気がして身震いをする。

 未だ縛られた身であるが思わず、ずり、と後退した。


 そして真っ正面から向けられた男たちの、ひっと息をのむ声と、どたんと何かが倒れる音がした。


 誰もが侵入者を止めることはできず、月音のいる真ん中まで辿り着かせたのだ。間抜け、と馬鹿にできぬほど自然かつ、圧倒される空気をまとっていた。


 月明かりで、中が照らされて、闇で隠されていた辺りはとっくに暴かれていた。


 一人一人顔を認識ができるが、月音はすぐさまに泰華の背中で視界を埋め尽くされてしまった。

 月の出番はおしまい、ここからは華だけが全て圧倒して、強烈に苛烈に、咲き誇るだけだろう。踏み場もないほどに。


「少々手間をかけたから、幕を下ろすのは勿体ない気もするが……何事も終わりがなければな。それに俺は、もうこの舞台に興味はほとんどない」


 つまり、お前たちにも興味がない。


 言い切る姿に、男の荒い息づかいが聞こえた。

 遅れていた感情が男を奮い立たせて、獣のごとく興奮と勢いをぶつけた。


「ッやはり貴様、裏切ったのだろう!」

「そう見えるなら、お前の目はない方がいいな。今すぐにえぐってやろうか」


 さらりとなんてことないような口調で、残酷な物言いをした。


 しかし相手もプライドがあるらしく、狼狽えたのも一瞬。

 怒気を膨らませた。何かを地面に叩きつける。


 乱暴な威嚇にも泰華はどこ吹く風だ。何一つ気にしていない。


「お前たちが大好きな裏切り者は、一人は片付けた。もう一人はお前たちにあげただろう」


 先ほど連れて行かれた男、祖父母を殺した人間だろうか。

 そこも計算のうちなのか。


「それより。俺もお前たち凪之に聞きたいことがあるんだ」

「は、何を」

「この事態について。陽野月音を攫い、虎沢をおびき出す。ついでに月花泰華の裏切りの証拠をつかむ作戦だ」


 お前たちは月音の命を使って俺から言質を取るつもりだった。その上で、虎沢秀樹及び月花全体への粛正を行い、報復を終わらせる。


「それがお前たちの動機。何処までも陳腐でつまらない策謀だよ」

「き……ッさまァッ!」

「ああ、勘違いするな。愚直で無鉄砲、後先考えない劇というのは勢いがあって俺好みだ。だが少々引っかかる部分がある」


 華は、何もかもを知っているかのように。蠱惑的に小首をかしげた。


「つまりは『このお粗末な劇は、頭領代理の命令か?』という至極基本的な問題だ」


 初歩的だろう、だがこれの返答次第で劇の結末は一変する。


 重大なところだ。


 つらつらと語るよう泰華に、沈黙が落とされる。

  

 

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