50話
静かな空間は重くのしかかり、息すらまともにできない。
泰華の後ろで丸まった月音にすら、ピン、と張り詰めた糸のようなか細く鋭い緊張感が、伝わる。
どれくらいの時間が過ぎたのか。
永遠のような一瞬のような時間に、男の震える声が差し込まれた。
「とう、ぜんだ、親の命令が絶対、そういう世界だ」
絞り出された答えに、泰華は静かに見据えたまま口を閉ざす。
鼻で笑うような吐息がこぼれて、軽く肩を竦める。
何処か芝居かかった動作に、男が耐えれなくなったのか、声を張り上げた。
「何が言いてェンだッッ」
怒声に物ともせず、泰華は何処かつまらなさそうに、何事か呟く。後ろにいた月音ですら聞き取れない微かな声だ。なのに、声の低さと響きが肌に突き刺さる錯覚。
ぞくりと寒気がして、一拍。
「――だそうだが、事実か。凪之当主代理?」
にこやかに、まるで晴天のような爽やかさと、甘さを含んだ泰華の問いは、やけに大きく聞こえた。
呼吸音すら死んだ空間の中、密やかに、秘めやかに、答える声ひとつ。
「随分な物言いだな。悲しくなるほど惨めで哀れで、鏡を見ているようだ」
甘い毒のような蜜を垂らす華とは打って変わり、華が弄んだ他の心を優しく包み込む。緊張を丁寧に解いて凪いでいく。
場にふさわしくない、些か強引かと思うほど人の心を穏やかにする男に覚えがあった。
そうだ、彼は。
「忘れていい」
ぞくりと、寒気が全身に駆け巡る。
無意識に泰華の背中から、顔を覗かせかけたのを咎められて威圧感に震えた。
おそるおそる見上げれば、まあるい瞳が三日月に歪んで笑っている。二つの月が、月音を拘束する。
「今、ここから。未来永劫、君の歩む道にアレは現れない。関係もなく、交わることない。赤の他人だ。覚えている必要はなくなった」
「……あなただけを覚えていろと?」
「月とは、華だけを照らし、華だけを見つめ、華だけを見届けるものだ」
穏やかさとは無縁の、有無を言わせぬ雰囲気に月音は数秒だけ黙る。
そして、身を引いた。
大人しく彼の背中へ、影に戻れば華は「良い子」と甘く囁いた。毒のように、月音の全てに浸透させるかのように、どろどろとした感情が巻き付く。月音は黙って甘受する。
もう、選んだのだから。迷う必要はない。
そっと瞳を瞼で隠して、舞台から降りる。
すれば華が嬉しそうに笑った気配がした。
「もうこれ以上、何も知ることはない」
たった一言、それで月は舞台から降ろされる。
たとえ、何かまだあったとしても、それは月の出番ではないと華が言う。
それだけで、月音は十分だった。
彼がいれば、生きていけるのだから。
静かで真っ白な部屋。
ふかふかのベッドに埋もれて、意識が夢と現を行き来する。
微睡みの中で、ふわりと薔薇の香りが寝室にまで届く。
己にも染みついた匂いだったが、一日離れているだけで恋しくなる。
「ままならないものですね」
呟けば、隣で読書を嗜んでいた華が、楽しげに声を転がす。
頬杖をついて、ベッドに足を伸ばすリラックスした体勢。
服装も上着を脱いで、ボタン二つ開けたワイシャツと、ズボンといったラフな姿だ。
それでも品があるように思えるのは、形と思える整った顔のおかげか。
「生きる術を教えると言っただろう」
「――あなたなしで生きれなくなる術ではなく?」
「同じこと。俺がいれば生きれる、生きる術だ」
「そうですか」
「きみにとって、どちらでもいいだろう?」
「……そうですね」
その通りだ。
生きられたら、構わない。
ただ、彼なしでは呼吸すらままならない感情は、壊れた月には重荷である。
「ひとつ、うかがっても?」
「何だ」
「これは、誰の劇だったんでしょう」
沈黙。
彼が本から顔をあげた。
長い睫を震わせ、静かに見蕩れるように見つめ合う。
感情を悟らせない表情だったが、すぐに破顔した。
花咲く可憐な微笑みだ。
「きみは聡いな。安心しろ、劇は俺の用意したものだ」
「――そう」
劇は。
何とも含みのある物言いだ。
月音は、好奇心は猫をも殺す、と話題を終了させた。
真相など興味もない。
唯一虎沢のみ、その後が気になるが泰華がそのままにしとくとも思えない。
おそらく月音の知らぬところで、何かしらの罰を受けるだろう。
(おかあさん。おかあさんの憎いひとはもう、私だけだよ)
それでも。母が望んだ最後の願い。
最初で最後の親孝行のため、死ぬわけにはいかない。
本当にままならない、と月音は自嘲の笑みを浮かべた。
「私は、あなたがいないと生きていけない」
「そうか、なら残る道はひとつだな」
白い手が月音の頭を撫でた。
するすると愛でる指を黙って受け入れる。
「この世、いやあの世も、これから永遠に共にあろう」
「それは」
「プロポーズだ。片時も離れず、きみを守らせてくれないか」
――わたしのこと、すきじゃないくせに。
口から飛び出そうになったのを、寸前で飲みこむ。
数秒、うちに秘めた反論を宥める時間を有した。
賢い彼が自身にある感情が、好きとは異なるのぐらい気がついているはずだ。
彼はただ、月を、月音の何を犠牲にしても生きたいという願いだけを愛している。
それぐらい。世間知らずな月音でもわかる。
それとも相手が泰華だから、なのか。
考えても答えなど見つからない。
たとえ分かったとしても月音には不要だ。
「拒否権がないのに、問いかけるのは、ずるいですね」
可愛げの欠片もない返答に、彼は何故だか嬉しそうにしている。
「すまない、俺はきみを手放したくない。きみの全部がほしい」
情熱的、こぼれた吐息の熱っぽさ、近づいた顔を拒まないでいれば、柔らかく、小鳥のような口づけが頬に落とされる。
「今日帰ってきたら、本格的に嫁に迎え入れる。嫌なら今のうちに逃げた方がいい」
「後悔しますよ」
役にも立たない、むしろ足を引っ張る。
愛しい男で、月花において何より大事にされる命を、月音は自分のために利用する。
周りが必死に彼が散らないように命をはっているのに、一番すぐそばにいる女は、蔑ろにする。
月音の命を優先する、躊躇わず彼を盾にする。
そんな女は嫁になど、彼には何の利益もないはずなのに。
「しないさ、君が欲しい」
迷いが一切ない。断言に月音はなじりたくなる。
恋してないくせに。
そう突っぱねられたら、どれほど楽だろう。
しかしそんなの許されない。
自分も彼を犠牲に、利用して生きるため手を取ろうとしている。言う権利ないのだ。
あぁ、もしかしたら。それさえ彼の思惑通りなら。
「――本当に、ずるいひと」
拒まないって知っているくせに。
ぽつりと呟けば、彼がとろけるような、
「死んでしまいたくなるほど、幸せだ」
華のごとく、艶やかで甘い笑顔で応えた。
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