華の幕間
42話 華と月の邂逅
——毎夜夢を見る。
たまらなく甘ったるく幸福で、世界が色付いた過去を。
その夢に浸るたび、満たされていくのだ。
「泰華さま、こちらです」
「……あぁご苦労さま」
夜の帳がおりるころ。
暗闇に目が慣れたのと街灯のお陰でよく周りが見える。
にこりと微笑めば新入りの男は、硬直する。
瞬きすら忘れて見つめていたが、すぐに我に返ったように慌てて頭を下げた。
腰から曲げたのを一瞥してから、泰華は目線を滑らせる。
背後で、ぱたんと車のドアが閉まる音がした。
目の前には木造の門が出迎えている。
塀に囲まれた昔からあるであろう家は存外大きい。
月花と凪之以外、一般人が裕福なのを顕示した家を持つのは、まれなので月花たちは警戒していた。
外の街で勤務して金を稼ぎ、わざわざこの土地に家を構えるなど物好きな人間もいるものだ。ただの物好きならそれでいいが――。
「外で生きられるなら、その方が良いだろうに」
「え?」
「……いや、外で待っててくれるか」
「しかし」
呟きを拾った男が狼狽えたように口ごもる。
暫しして意を決して「僭越ながら」と隣に並ぶ。
彼を見ればかたかたと微かに揺れており、痛ましいほど怯えているのがわかった。
とって食うわけでもあるまいに——泰華は別段優しさを示す理由もないと、次の言葉を待った。
「ここにいる老夫婦は、虎沢と繋がっている可能性があります。手下が待ち構えていたら御身が危うくなります」
「お前は変わった喋り方をするなぁ」
「泰華さま……!」
先日、凪之と月花に非常事態が生じた。
嵌められたというべきか。
手引した人物に当たりをつけたものの犯人は巧妙に姿を隠しており、どうにか愛人の所在を知った。
が、会う前に病死してしまい致し方なく愛人の父母の家へと来たのだが。どうにも遠回りしているようで頭が痛くなる。
「虎沢の居場所を知っているといいが」
最悪、愛人との間に生まれた娘とやらを人質にとるべきか。
どれほどの効力があるのか微妙だが。
そのようなことをつらつらと考えているときだった。
激しい物音が中から鳴り響いた。
ガラスが割れ、ものが落ちたような人が争う聞き慣れた音である。びくりと怯える新人の前に出て泰華は目を細めた。
腰のホルスターに指を滑らせて、暴れる気配に集中する。
しばしの沈黙、何かが走り去っていくのを見届ける。追いかける必要はない。後ろで部下が既に手配していたが、気にしなくともいいだろう。あれは追いつけない。
――用事は済んだ。もうここは用済みだ。
手をおろして、部下へと指示を飛ばそうとした。とき。
それは。現れた。
門を開けず軽やかに塀を乗り越えて。
人工の光がスポットライトのように降り注ぐように、ふわりと降り立つ影をあらわにする。
はらりと短い髪が揺れてシャツの裾が風でまくれた。
ボロボロのスニーカーで踏みしめて、人形のように、がくんと糸で釣り上げられたような不規則な動きをする。
やがて仰け反るように空を見上げれば前髪が流れて、病的な肌と虚ろな瞳が露出した。
柔らかな頬に赤黒い血が付着して、染み付いた鉄錆の、死の臭いを漂わせていた。
彼女を、陽野月音を、はじめてみたのは、 そのとき。
死んだような顔をしていた。
死にたがっていると思った。
しかし、彼女は嗤った。
どこまでも高らかに狂ったように、ざまあみろと叫んだ。
深い悲嘆と狂喜がごちゃまぜになった貌。
感情に翻弄された乱れて淫らな表情。
狂気に満ち溢れて、でも血の臭いと共に風にのった小さな囁きが泰華に届いた。
――生きなきゃ。
「ひ、ひぃ」
不気味な光景だと感じたのか、新人が情けなく悲鳴をあげて腰を抜かす。
へたり込んだ男を、泰華は気にする余裕はない。
瞬きもせず、目に、脳に焼き付けるよう少女をとろけるように見据えた。見惚れた。
あぁなんて顔だろう。
それはおれが——したかった。
なんて羨ましい。
心を全て奪われる、生まれてはじめての感覚。
恋に落ちるなど生ぬるい、暗い底に沈み飲み込まれていく。
何も望まず望まれるがまま生きた男の欲求は、焼き尽くす勢いで燃え上がりやがて男の思考すらも奪った。
行動理念が彼女にうつり、基準となり作り変えられるのは酷く心地よかった。
「泰華、さま?」
なぜ、笑っておられるのですか。
震える声に、己が笑みを浮かべているのを知った。
だが返事する暇などない、今はただ。
彼女の哀しみと壊れた姿を慈しみたかった。
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