45話
「どうする? 誠司が欲しいなら昔のよしみだ、譲ってもいい」
今しがたまで物言わぬ木だったそれが、うめき声をあげた。
ひんやりした床に転がり、わずかに身動ぎする。
空気を震わした存在を顎で示して微笑む華は、どこまでも冷え冷えとして濡れた色気を含んでいる。
蠱惑的な笑みに誠司は苛つき、頭をがしがし掻いた。
出来るならば、この状態の泰華に関わるのは止めたい。
が、そういうわけにも行かぬ状況に、神経を逆撫でられる。
募る苛立ちに、男を見下ろした。
とある男に見覚えがある。
月花の上層部だ、堅実で寡黙。
粛々と命令をさばく、泰華にとって良い手下だった。
「いいのか? こいつを渡すのはそちらが痛いんじゃないの?」
「はは。月花と凪之の良好な関係を続けるためだ。手ぶらでは誠意にかけるだろう。だから、どうするかと尋ねたまでだ」
男は——虎沢に妻子を人質に取られて、月花の家紋が刻まれた刀を盗んだ。
そのまま凪之の統領の殺害未遂まで手引きした、裏切り者である。
誠司の組織としても逃したくない。
だが刃を向けたのは、こいつではない。
そこだけが妥協できる部分である。
逆をいえば、それ以外は制裁を与えるに値する人物なのだが。
誠司はあきれつつ、首を横に振る。
「そんなつもりないだろ」
指摘された泰華は、にっこり笑う。
もちろん欲しいと言われたら差し出すつもりだろう。
しかし誠司が泰華との絆に弱いのを知っている奴は、この結末は手に取るようにわかっていたはずだ。
なにより、彼はこの案件に関して引けない部分があるはずだ。
月花当主の立場以外にも——。
脳裏に浮かんだ少女。
到底自分には抱く権利はない、重たく胸を刺す感情を押し潰して消し去る。
短く息を吐きだし、切り替えて口を開いた。
いつも通り、凪之の若頭としての冷徹で情を捨てた顔に戻す。
「あの子を売ってまで炙り出したんだろ、その成果を奪うなんて怖くてできないよ」
「売ったなんて。酷いなぁ」
「事実だろ」
裏切り者を捕まえるため、この男は愛してやまない女を利用した。
わざと手薄にして攫われやすいように。
バレないように。情報をこぼして。
そうして哀れにも好機と誤解して、間抜けに尻尾を出したところを引っ張り出した。
他の裏切り者を発見するためにも愛した女を。
本気で攫われていたら、どうするつもりだったのか。
「……無事じゃなかったらどうするんだよ」
「そんなヘマするわけないだろう。あと彼女はそこまで弱くはない、必ずどんなことをしてでも生きる。それに」
熱を孕んだ吐息をこぼして、とろりと目を蕩けさせる。
どこか遠く、彼女を思い浮かべているのだろう泰華は砂糖菓子を煮詰めた甘い声でささやいた。
「危機を利用すれば、彼女はようやくひとりでは生きていけないと、実感する。そうして彼女が不安になったところで縋るのは——俺だけなんだ」
そう仕組んだのだから。
ぞっとする言葉に悪寒が走る。
麗しい薔薇には棘があるというが、この棘は猛毒だ。
死を与える華だ。
手を伸ばしてきたものを躊躇いなく毒牙にかけて食らう、死華である。
その対象は過保護に守りたい存在だろうと容赦しない。
潤んだ瞳で、ここにはいない彼女に見惚れるのを、誠司はわざと触れない。
藪蛇などごめんだ。
泰華の周りだけ漂う、どろどろの甘ったるい雰囲気を変えるように、わざとらしく咳払いをした。
「こっちは、その刀を受け取った奴の方が重要だから。そいつらを捕まえるのに、手を貸してくれたらいい。あとは」
ちょうどよく扉がノックされた。
泰華は携帯電話をいつの間にか取り出し、操作してからポケットにしまう。
そして音の方には目を向けず「入れ」と抑揚なく短い命令を発する。
ぎぃと軋みながら開かれた場所には、泰華の側近。
若々しくガタイの良い男であり、泰華が並ぶと華奢なのが目立つ。
アンバランスだなと昔伝えれば「わざとだ」と答えられたのを思い出す。相手の、泰華への警戒心を解くのに役立つらしい。
確かに側近と泰華は、獣と美女……いや儚げな美丈夫なのが際立つ。
……油断させて、ばくりと襲いかかるとか食虫植物かよ。
口から、かわいた笑いがこぼれるが、泰華は無視したまま側近に指示する。
側近は肩に担いだ大きな麻袋をぞんざいに地面へと落とした。
ごとり、と重い音が響いて、そのまま側近が泰華と誠司に深々と頭を下げて出ていく。
無口な男である。
泰華のそばにいるのは、毎度無駄口を叩かない人間ばかりなのだが、それもわざとなのだろう。
「開けないのか?」
「……それはこっちの台詞なんだけど?」
しばしの沈黙の末。
悩む素振りを見せた泰華が近づき、麻袋の紐をシュルリと解いた。なんの間だったのかと問えば「お前が一番に開けたいのかと思って」と返事。
クリスマスのプレゼントじゃないんだぞ、そんな配慮いらねぇよ。
ずるりと麻袋から引き出されたのは、今まで何度も捕まえた顔——のオリジナルだ。
腹が出た小太りの中年男性、ボクサーパンツ一枚で後手に縛られている。口には猿轡をはめられ、涎がたれていた。
てかてかと輝く禿げ始めた後頭部、顔立ちを何度も確認しつつ誠司は心の中だけで「娘と似てないものだな」と独りごちる。
「本物だ。風呂屋で匿われてたらしい」
「どっちの?」
「お前のとこの管轄」
「げ、最悪じゃん。怒られるわ……」
誠司は苦く呻く。脳裏に雷を落とす親父の顔が浮かんだ。
「ちなみに本物だって証拠は?」
「DNA検査。あの子と血縁関係だと証明されたよ」
「そう。何人もの身代わりがいたから、今回も疑ってたんだけど」
「凄い根性だ。金に糸目をつけず、部下を整形させて同じ顔にするなんてな。マトリョーシカみたいで面白かったが 」
「面白くはねぇよ……」
中年男性——虎沢秀樹は、ようやくこちらの罠にかかってくれた。
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