3.行きはよいよい帰りは怖い
27話
言われたとおり、その晩は冷蔵庫に入っていた生姜焼きを温めて食べた。
携帯電話には「明日の十時には帰れる」と連絡が来ており、ようやくこの部屋が埋まるのだと安堵した。
彼のいない部屋は、あまりに空虚で隙間が空いている。落ち着かない。
朝になると洗面所で、寝癖を直すため黒髪をくしけずる。蛇口からあふれた冷たい水を両手で掬い、ぱしゃぱしゃと顔を洗った。タオルで拭いたあと人心地つき深呼吸をする。
どうにも彼がいないのは息苦しくてかなわない。
まるで見えない大きなもので全身を圧縮されているようだ。
リビングに戻り時計を確認すれば、まだ七時にもなっていない。くまのぬいぐるみを抱えつつ、読書でもと本棚に近づいたとき。
呼び鈴が、鳴った。
びくりと肩を揺らして、はねるように立ち上がった。
この部屋で初めてだ、泰華は使わないし、他の人間が訪ねることもない。
一気に平穏が崩されて、冷えていく。
足音を消して、すばやく玄関へと近づく。息を殺して、ぴとりと耳をドアにひっつけた。人の気配がする。
どくどくとうるさい心臓を押さえつけるよう、服を握りしめた。
今すぐ泰華へと連絡するべきか。
逡巡は、すぐさまドア越しの声によって遮られた。
「お食事をお持ちいたしました」
丁寧な言葉に眉を寄せる。
泰華はドアノブに引っかけるよう伝えたはずだ。
直接渡すとは言われていない、くわえて誰が来ようと自ら開けるなと教わっている。
一歩下がり、ポケットに入れた携帯電話を取り出した。
扱いに慣れておらず手間取りつつも、連絡先から泰華を選ぶ。数字の羅列に触れた。
「……無視か。は、いいご身分だな。なぜあの人がお前なんぞを気にかけるのか理解に苦しむ」
悪意がふりかかる。
おそらく男だろう相手は不満、苛立ちを隠そうともせず、見えてすらいないだろう月音に続けた。
「お前のせいで、あの人は」
わたしの、せい?
液晶画面から顔を上げる。
呼び出し音とまざって、気になる内容が耳朶を打った。
なぜか、とてつもなく嫌な予感が襲う。聞くなと頭の中で警鐘が鳴る。足から這い上がる気持ち悪い、何か。
「いっそ」
どうした、何があった。月音。返事してくれ。
泰華の声が遠くなって、ドアの正体不明が囁きが鮮明になる。
「いっそ殺せば早いだろうに」
「――ころす?」
がつん。
携帯電話が手から滑り落ちて地面にたたきつけられる。
雑音がする。
月音はドアに手をついた。
体がのっとられて勝手に動いていくような錯覚。
何かが失われて、色が、ぬけて。
「そうだ。あの人は、聡明で残酷だ。有益であれば重宝し、無益であれば捨てる。害であれば切り捨てるのも躊躇わない」
「ころす」
トリガー。
それが、月音にとって何よりも大事で、特別で優先すべき事柄。
犠牲を払っても、心を殺しても、色を失おうと。
生きなければならない。
ころされる。
「月花泰華は、殺す可能性があるんですか」
「は?」
男が戸惑う。
「答えて。あの人にとって、私を、殺す理由があるのですか?」
臭いなどしない。
音も男の声だけ。
体は勝手に動いて、目当てのものを引き出した。
手になじむ、それ。
世界はあの雨の日より昔と同じになり、不要物は遠ざかり神経は鋭利に研ぎ澄まされていく。
忘れていたのが、暗く淀んだものが、よみがえってくる。
忘れるなと刻み付けた痛みが駆け巡る。
ふかくふかくしずみ、闇に覆われていった。
ぬくもりがいろがぬけてとけて。
冬の冷え切った水がまとわりつくように、五感が奪われ思うように動けなくなりやがて月音を支配した。
――約束するよ。
視界がぶれて、昔の光景が幻影として現れる。
こびりついた約束が、水底に眠っていた思いを浮き上がらせた。
「あるだろう」
なぁ、愛人のガキ。
瞬間、すべてが壊れていくのがわかった。
ふらりとドアの鍵に触れる。ノブを握った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます