15話
黒いカーテンの隙間から夕暮れの、淡いオレンジ色がこぼれ落ちて部屋を包んでいる。
物音一つしない空間には、月音の睡眠を邪魔するものはない。よほど疲れていたのか、あれから夕方まで一度も目を覚まさなかったらしい。
しかし、平均睡眠時間を超過している。さすがの月音も寝過ぎは疲れるらしく、自然と意識が現実へと浮上した。寝起きの頭でぼんやりとする。
やがて上半身を起こして欠伸をこぼす。のびをしてから時計を探した。しかしそれらしきものはない。
この部屋にはベッドのみ。サイドテーブルもランプも、存在しない。必要ではないが、生活感の欠ける部屋だ。広々とした空間に、ぽつんとベッドが設置されているのは、些か違和感がある。
まるで監禁部屋のようだ。
またひとつ、あくびを静寂に落とせば遮るように物音がした。
びくりと身をすくませれば、玄関のほうから「ただいま」と澄み切った美しい声がかけれた。今朝も聞いた、泰華が帰ってきたと月音はいそいそとベッドから降りて寝室を出る。
キッチンに、ひょこりと顔を出せば気がついた彼がとろけるような笑みを浮かべる。はちみつを垂らしたような甘やかな瞳に、少々居心地が悪くなりつつも近づく。
恋をする乙女のようにら頬をほのかに染める姿は無垢で何処か扇情的だ。見るものを狂わせる魅力に、濃厚な花の芳香が誘惑し、月音を飲み込んだ。くるくると目が回るような、目眩を振り払う。
「ただいま」
繰り返された挨拶。泰華の指が月音の髪を撫でた。寝癖を手櫛で柔らかく直しつつも期待に満ちた視線を注ぐ。有無を言わさない、強要。何を求められているのかと暫しの逡巡の後、ぐっと眉をよせた。
ここは月音の家ではない。だから思いついた言葉を伝えるのは躊躇われた。小さな反抗で一歩下がったが、その分、いや二歩詰められた。ぴっとりと密着した身体に彼が前屈みになり顔を寄せる。さらりと滑らかな髪が降り注ぎ月音の頬を柔く撫でた。
かすかに、異臭がした。
鉄錆の、昨日に嫌というほど嗅いだそれ。だがそれもすぐに掻き消えて彼の花の香に覆い隠されてしまう。気のせいだろうか。
「……月音」
泰華は誘導するかのように名前を呼び、親指の腹で唇をなぞる。ぞくりと粟立つ感覚に負けて、カラカラの喉を無理矢せ理動かした。
「お、おかえりなさ、い」
かすれた、蚊の鳴くような声だったが泰華は満足したらしい。幸福そうに、全てを虜にする極上の笑顔を月音へと向ける。とてつもない破壊力に息すらままならない。
人の美醜にさほど興味がない月音ではあるが、人範囲を超えた美しさには恐ろしさを覚えた。
すっと離れると、泰華はいそいそとテーブルに置かれた白い箱と大きめの茶封筒に近づく。
一つ目、薄っぺらい封筒から出てきたのは、CDであった。
ピアノやヴァイオリンがセピア調の写真に収められて、ジャケットとして飾られている。おそらく曲はクラシックだろう。
残念ながら音楽に疎い月音では、誰の作曲かすら分かるはずもないが。
「音がないのも寂しいかと思ってな。見繕った。リクエストがあれば、すぐに手配するが」
「いえ。特には」
施設でもよく知らない曲が流れていたり、先生と呼ばれる人間がピアノを披露していた。曲調を覚えているかといえば、怪しい。興味があまりにも、ない。
ただ、これで無音の部屋ではなくなる――それは重畳。彼の行き届いた配慮に、頭を下げて感謝した。
「それで、次だが」
どこかワクワクとした様子の泰華に、月音は首を傾げる。目線を追いかければ、もう一つの白い四角い箱に辿り着いた。
彼の細い指が繊細な動きで、箱を開封する。
何が入っているのだろうかと月音が興味深く待てば、現れたのは。
「けーき?」
「あぁ。お土産にでもと思って。日中暇だったろうし、そのお詫びも兼ねてね」
ふわふわの純白クリームと、つやつやの真っ赤なイチゴ。本物より瑞々しく咲く薔薇に、アザランが散って雨露のようにきらきらと輝いている。飴細工が茨を表現され繊細な美しさを放っていた。
観賞用の芸術品だと言われてもおかしくない。手の付け方すらわからぬそれに月音は、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。
ケーキは施設で何度か用意されて、いつもどおり美味しいという感想もなく完食したが。これは。
「食べれるんですか?」
「……ふ、っ……食べれるさ」
間抜けな問いに、笑いが込み上げたらしい泰華は寸前で飲み込み平然を装った。
別に笑われても気にしないのだが。じっと泰華を見つめれば、ふいっと顔を逸らされる。
「……わたしは、貴方にお世話になっている身です。気を使わなくても」
「好いた女に媚を売りたい俺のためだ。きみは何も気にせず食べてくれ」
さも当然のように言ってのけて、器用にケーキを切り分けた。今日買ったばかりなのか、真新しい包丁を扱いつつ小皿へとうつす。
ことん、と月音の前に置かれたケーキには熟したイチゴと薔薇があしらわれている。断層にもふんだんにフルーツを使われており生クリームから見え隠れしていた。
「それ、言ったら台なしなのでは」
「魔化しは通用しないみたいだからなぁ、潔い方がいい」
笑みを象る唇に、そっと指を添える。品の良い仕草が彼の美しさを際立たせていた。目が覚める青で蝶と花々が描かれたティーポットに沸騰したお湯を注ぐ姿ですら様になる。ふわりと紅茶の香りが部屋を漂った。
先程の、不穏で嫌な臭いは、最初からなかったようにかき消えた。月音の心の中からも霧のごとく薄くなっていく、彼の不信感を強引に消されていく。それが、酷く恐ろしいのに、その恐怖すら掴めなくなっていった。
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