さいごのばんさん
31話
――わたしは、いったい、なにをしているのだろう。
太陽は沈み、暗い海底のような室内。海で泳ぐ魚でもない月音は、死んだように部屋の真ん中で蹲っていた。浮かぶ方法もわからず、ただ、虚ろな瞳で薔薇を眺め続ける。
血を吸ったごとくの鮮やかさが、誘うように芳香を漂わせていた。
のろのろと視線を動かす。暗闇に浮かび上がるそれらを、ひとつひとつ数えた。
月音が来た当初は何もなく。ただの箱でしかなかった。水だけが詰め込まれた水槽。ただ泳ぐしかなかった、ちっぽけな世界だった。
だが、今は、違う。
箱の中身は、彼の私物と月音への贈り物で彩られている。
薔薇、本棚、読み切った本、テレビ、ブラックの革ソファ、テーブル、くまのぬいぐるみ。
台所にいけば揃いのカトラリーや調理器具などもある。
からっぽだったはず。空虚で寒々しい白黒の世界だったはずなのに。
溢れかえった箱は、まるで宝石箱のように輝いて、きらきら宝物のようで。
「……は、」
呼吸の仕方がわからない。
今まで、ここに来るまでの生き方が遠くなる。ぐっと胸元を掻きむしり、掴んだ。張り裂けるような圧迫感が襲う。
ずっと、このまま、ここにいたいと望んでしまう。外での生き方を忘れた魚は、水槽でしか生きられない。
ひとは、ひとりでは生きていけない。
頂点に立つ、誰にも頼らず我が道を行く男の言葉がよみがえった。
何度も何度も月音に言い聞かせる。幻聴だと理解しても、消える気配はない。反響して、腹の下あたりにずくりと重いものが溜まっていく。
――寂しいよな。
さびしくなんか、なかったのに。
月音はおぼつかない足取りで、台所に向かった。
了承を得て、先程作った夕食がダイニングテーブルに並べてある。黒くはならなかった卵焼き。黄色く、ふっくらしたそれを行儀悪く指でつまんだ。そろりと口の隙間に押し込んで歯で噛み潰し、舌に乗せて味わう。
「味が、しない」
塩も入れた。シンプルな味付けを確かにしたというのに。美味しくない。
前までは好みなど存在しなく、何でも良かった。
母の卵焼き以外、美味しいと思わなかったが、気にも止めなかった。
なのに。
「かれの、卵焼きがたべたい」
ラップをかぶせて冷蔵庫に突っ込むと椅子に深く腰掛けた。月すら雲に遮られ、地上を見捨てた箱は、暗くて己すら曖昧になる。
肺に溜まった息を全て吐き出して、目を閉じる。
冷たい空気が肌を撫でた。指先から感覚を失わせて、身体から意識を切り離す。ふわふわと浮くような不安定さが、ここにいる実感を薄れさせた。
俯瞰するのが昔は心地よかったはずなのに。
「ただいま」
がちゃんとドアが開いて、求めていた声が耳朶を打った。
彼の足音はなく入り込み、ぱちんと電気をつけられた。人工の光が瞼ごしに眼球を焼き、白くなる。
思わず眉を寄せて薄く目を開ければ、彼が薔薇の豊かな香りを纏って、華やかな微笑みをたたえていた。全てを魅了して心を奪い、踏み荒らす残酷な美しさだ。
「……おかえりなさい」
口は勝手に動いていた。
魅入られて、顔をそむけるのもできずに見つめる。
すると彼が、ほんの一瞬だけ瞠目して完璧を崩した。しかし指摘する前に元に戻り、幻だったのかと思わせる。何事もなく彼は、冷蔵庫を開けた。
「今日は作ったって聞いたが、どうだった?」
「……食べれないことはないです」
「はは、自信がなさげだな」
「やめときますか? 味の保証はできそうにないんですが」
「いや。君の手料理なら全部美味いって決まってるからな、是非ご相伴にあずからせてくれ」
冗談めいた口調で、テキパキとしまったばかりの食事を用意していく。
今回の手土産はマカロンらしい。ピンク、オレンジ、ライトグリーン、ラズベリー、クリーム色。鮮やかな色が皿の上でころん、と転がっていた。
「食べてみたらどうだ?」
「ご飯前ですよ」
「いいじゃないか、食前のデザートだ」
小鳥にやる親鳥のごとく、彼はオレンジ色を、人差し指と親指でやわく挟むと、月音に差し出した。
「はい、あーん」
ふに、と唇に軽く押し当てられ、月音は無意識に小さく食んだ。
ほろりと軽い口溶けに、クリームは案外さっぱりしている。不思議な食感のマカロンを飲み込んだ。残ったのはくどくない甘さのみだった。
おいしい。
こぼれた感想に、吐息混じりに笑った。
気道が塞がって苦しさに喘ぎ、眉間にしわがよる。うまく感情が吐き出せない、しびれて、思考が鈍った。我ながら矛盾しているが、呼吸しやすいのに、しにくい。
もし。私にとって不都合なら、危害を加えるなら排除するつもりだったのに。
いまは、もう、できない。
――魚は。水槽から出て、生きていけないのだから。
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