30話
「虎沢秀喜を引きずり出せるぞ」
裂くような静けさに、終わりを告げる。
車の走行音おろか町の生活音、部屋の時計すら止まった空間。カーテンからのぞいた夜空は雲に覆われ、光すら届かない。
完全な闇に支配された室内で、外をぼんやりと眺めていた泰華は、目を閉じた。
隣の部屋には彼女が寝ている、その僅かな気配を噛みしめる。
「そっかぁ。こっちもね、やっとこさ裏切り者の足を引っかけられたんだよ」
「ずいぶんと早かったな」
「そっちの裏切り者はどうなった?」
「あぁ、彼は完全な捨て駒。いや利用されていた駒だな。むしろ俺が保護しなければ死んでいた程度だ。なんの情報も持っていない」
「は? お前、そいつ生かしてんの?」
「とりあえず事情を汲んで――親に逆らったのだから、無罪放免とはいかないが。ほら、でも俺は優しいから」
「寝言は寝てからじゃないと言ってはいけないんだぞ、気をつけろよ」
軽口を叩ける間柄。そんな人間は泰華にとっては、彼一人ぐらいだ。月音とは異なる愛着はある。
当然彼女とは違い、殺すのに、躊躇いはないが。
「泰華」
つらつらと考えていると、急に彼の声がひそめられた。
真剣さが帯びて、あたりの空気が冷たく一変する。泰華は次に来る言葉を知っていた。
「もう。無理だ、これ以上は抑えられない」
「ああ、わかっているとも」
彼はよくしてくれている。ただ兄弟のように育っただけなのに、組織が違うのに一生懸命に動いてくれた。庇っていると断罪されてもおかしくないのに。
泰華はそういうところが、すこしだけ羨ましかった。人間らしさ、泰華がもっとも欲してやまないものだ。
「刀の件は、そちらと相違ないよ。月花の裏切り者が、虎沢秀喜に脅されて盗み出したってさ」
「そうか」
「それで、みなの不安を煽って扇動したのが、うちの裏切り者。あとひとり、実行犯がいるみたいだけど、まだ吐かせられてなくて、不明のまま……はぁ言葉にしてみると、ほんと、情けなくて涙が出るな」
真面目な奴だ、と泰華は思う。冷酷になりきれない、やさしい男だとも。
泰華は大きく息をつくと頭の中を整理した。
電話相手である誠司も同様に黙り込んだ。
タイミングが妙に合う、昔から。
――それは、月音に出会うより前の話。
某日、凪之で首領暗殺未遂事件が発生した。
凶器は月花の家紋が入った刀。大事にしまわれていたものであり、身内以外は盗めないと判断。その上で月花の頭である泰華が凪之の敷地内にいるという目撃情報が凪之内部で出た。
「それ以降、凪之では月花泰華……俺が首領暗殺の犯人と疑い始めた」
「お前がそんな無意味なことするわけない。やるならバレないようにする。僕の痕跡を見つけさせて濡れ衣着せるような、えげつない手口を使うはずだ」
「褒めてくれてありがとう」
「褒めてねぇわ。友達を売るヤバいやつだって言ってんだよ」
「照れてしまうな」
「怒るぞ」
誠司は当初から、目撃したと報告した部下を怪しんでいた。しかし、首領を殺されかけて頭に血が上っている若い衆の暴走により誠司は、その部下を捕まえにくくなった。
下手に部下を問い詰めると「やはり若頭は月花の首領とつながっている」と疑われてしまう。
それほどに誠司と泰華は周知の仲なのである。
幼いころから、関わってきたのが仇となった。
だからこそ、どうにか何でもいいから怪しい部下を捕らえる口実を作ろうと躍起になっていたのだが、ようやくうまくいったらしい。
「これが首領なら、一声で黙らせられるんだけどなぁ」
「そうだな」
「おい、今は慰めるところだろ。落ち込んでんだぞ」
まだ誠司は若い。
信用を積み重ねるには年齢、威厳、時間。何もかもが足りない。
「泣き言なんぞ、吐いてもろくなことにはならないぞ」
「……せめて、お前みたいになれたらな」
ぽつりとした羨望に泰華は、小さく笑みをこぼした。
まるで鏡だ。
お互いに羨み、似た考えごとをしている。
どうせ喉から手が出ようと手に入らぬだろうに。
とくに泰華の欲した人間性は、生まれてこのかたない。いや、あったのかもしれぬが、すでに壊れてしまい直す方法はもうない。
考えても無駄だ。泰華は感傷という縁遠いものは持たない、誠司の思考を切り替えるために、語気を強めた。
「あとは、虎沢秀喜と――陽野月音の件だけだ。片をつけよう」
「あの子は大丈夫なのか」
「はは、いまのところはうまくいっているよ」
「ふうん、まぁ彼女については泰華に任せるよ」
「いいのか?」
「別に。陽野月音について知っているのは限られてるし。そいつらも問題ない。あと、単純にお前が執着しているものを横取りしたら後がこわい」
そう言い残して、彼は一方的に電話を切った。
そのまま、すばやく自分の部下へと連絡する。ワンコールで「いかがなされました」と抑揚ない声がした。
「――虎沢秀喜を、今すぐ捕まえて俺の前に差し出せ」
「はい」
短い命令を下して電話をしまう。
寄りかかっていた窓から離れて、音もなく寝室へと滑り込んだ。寝息がしない、シーツがこすれる音も。
泰華はふくらんだベッドに目線をやり、目を細めた。
「行かなければいけなくなった。待っていてくれるか」
案の定、彼女は寝ていなかった。ぴくりと肩を揺らしたのち、戸惑い気味に問いかけた。
「あなたは、なにを知っているの」
固い声音。
泰華は、ベッド脇に寄って、彼女の黒髪を撫でた。優しく、慈しむようにゆったりと。
「きみより、知っている」
鮮明に思い出せる。
昨日見せた彼女の殺意。それからぬくもりに怯える顔。葛藤、戸惑い、諦念。まるで万華鏡のように次々と変わる感情の変化。
美しかった。
この世のなによりも、輝き、泰華を高潮させた。
ぞくぞくとせり上がる興奮は未だ冷めず、心にくすぶっている。
「そう、ですか」
訊きたいだろうに、そう言うしかない彼女の様子に泰華は嗤いがこぼれそうになるのを耐える。歪さを奥にしまいこんで、優しい微笑みを浮かべる。
まだ、まだ、まだ――だめだ。
「待っていてくれ」
「……はい」
蚊の鳴くような声に泰華は、寝室を出ていく。
彼女は最後まで身動き一つせず、じっと警戒するように固まっていた。
扉が閉じゆくその瞬間まで、泰華は彼女を見続けていた。
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