6話
「さて、これ以上は自分でしよう。お嬢さんには刺激が強すぎる」
「……はい」
にっこりと笑う彼に月音は素直に頷く。
横腹をどうやって止血するのか気になるが、彼の進言から後ろを向いた。
そもそも自分でできる範囲は優に超えた傷であり、病院に行くべきなのだが。大丈夫、と自信ありげな彼に任せるほかない。
月音では、オロオロして無駄に時間を使うだけだ。
しばらくの沈黙。
広々とした部屋で、金属が軽くぶつかる音だけが響く。
時々、粘着質なのも耳に届いて勝手にグロテスクな映像が頭に流れた。
手持ち無沙汰になり、月音は恐ろしい想像を振り払うためにも、男へと問うた。
無視されてもかまわない。治療に専念したいのなら、黙るだろう。そのときは月音も静かに、たえよう。
「お名前を聞いてもいいですか」
「うん? 俺の名前か」
平然と、男は答える。
「
あぁ、やはり。
月音は急速に体が冷え、ぞっとするほど頭がクリアになっていく。心が凍っていくのを、ただ感じ取った。
月花を知らぬ者など、この
水底より深く暗い世界を統制する巨大組織。
警察すら手を出せない闇夜を泳ぎ生きるものたちの名だ。
「安心してくれ、きみを追っているのは月花ではない」
予想通りの言葉に、咄嗟に飛び出そうになった名前は寸前で飲み込む。
不自然な沈黙が落ちないように、努めて冷静を装い、頭に浮かんだ名前とは違うものを出した。
月花と同じく有名な組織の名前を。
「なら『
「さて。それは実際に追っ手の顔を見ないことには断言しかねるな」
「まさか、覚えているんですか。組織全員の顔」
「もちろんだとも。月花は当然、懇意にしている凪之も全員把握している」
月花と同じく有名な組織――
二大組織で町に君臨している。
噂では無法地帯の羽無町に、ある程度の秩序を与えているらしく警察としては難しい問題らしい。
華は、月花を象徴する。
刺青の時点で予測したとはいえ、底冷えする恐怖がじわりと足下から浸食した。
「あなた、何者なんですか」
「わかっているだろう? 俺たちの組織は、きみたち一般市民にも最低限の情報が、いっているはずだ。この町で生きるのに必要になるからな」
「泰華って、華の漢字を使っているんですね」
「そうだな。つまり、そういうことだ」
あっけらかんとした口調に目眩がした。
月花の当主は、代々華の漢字を受け継ぐ。
つまりは。
彼の背格好を思い出しつつ、慎重に考察する。
二十代前半の若さだが、今の含みをもたせた言葉。
――現当主か。
「騙っているわけではないですよね」
月花という名の影響力はすさまじい。
特にこの町では絶対に逆らってはならない。報復を恐れて偽る人間もいないが。
一応確かめれば、泰華は放り投げたジャケットへ、ぞんざいに手を突っ込む。
何かを探り当てて、ずるりと取り出したのは。
現れた黒に、背筋が凍った。
自分とは縁遠い重量と存在感は、嫌でも悪意と凶悪さを思い知らせる。
深淵の穴。指をかけるトリガー。拳銃だ。重厚な作りは、この無法地帯の町であっても、一般人では簡単に手に入らない。
それも月花と凪之が管理しているから、らしいが。
「持つか?」
軽々しい台詞に、体は考えるより先に拒絶した。
扱いかたもわからない。分不相応な代物は身を滅ぼす。
思わず距離を取ろうと仰け反る。
泰華は変わらず花のような美しい微笑みをたたえつつ、拳銃を見えないようにしまった。
「そんな怯えないでくれ。一般人に俺たちは手出ししない。まぁ悪さを働けば、その場限りではないが」
「具体的には」
「そうだな。俺たちの管轄で勝手に薬をばらまいたり、商売の横取りはだめだな。喧嘩を売ればどうなるか、見せしめをしなくてはならなくなる」
彼らに目をつけられれば、次の日には跡形もなく消える。
死体すら残さない。抹消するのだ。秩序をもたらすと同時に、常人がおびえる所業もこなす。
「月音」
思考の海に沈むのを彼の声で引き上げられた。
初めて呼ばれた名前に、勢いよく振り返る。
血に濡れた素肌は拭き取られ、白磁のように美しい色があらわになった。
細くも筋肉がついた身体から逃れるため視線を上に向ければ、彼の優しげな微笑みがうつる。
慈しみに満ちた瞳が月音をまっすぐに届く。
「誓って俺たち月花は、月音を狙っていない。むしろ助けるつもりでいる」
「……理由をお聞きしても?」
真意を読み取りたくとも、彼の表情は一貫として、微笑むのを崩さない。胸元に咲く大輪の曼珠沙華のごとく美しい。
華やかで、派手で、毒々しい。
「きみは一般人だ。こちらの人間ではないのに、巻き込まれている。それは看過できない。何事にも決まりはある、それを破れば残るは混沌のみで制御ができなくなる」
自身の胸元に咲いた華を、彼は指先でなぞる。
軽く伏せられた瞳が僅かに揺れて、乱れたかのように思えた。形の良い唇からため息じみた吐息がもれる。
「それは月花と凪之、双方望むことではない。俺たちはそういうのを正す役割を担っている。一般人を狙う輩は排除しなければ」
慈愛に満ちた声が、一瞬で氷のように冷たく鋭くなった。
闇がずるりと這い寄る、恐ろしさに月音は身震いする。
殺意ではなく、無に等しく粛々とした制裁を下すのだと容易に想像がついた。
「一般人は巻き込まない。それが数ある決まりのひとつ。だから、きみは月花からすれば守るべき存在だ。安心してくれ、必ず助けると約束しよう」
信号機の色が切り替わるように、空気が一変した。優しくまるで常人のように、害のない雰囲気。
あまりにも機械的で、不気味さに月音の心臓は早鐘をうつ。冷や汗が額から流れた。
からからに、かわいた喉を無理矢理動かして、声を振り絞る。苦労して出せばみっともなく震えていて頼りない。
「はじめから、知ってたってことですか」
「何が?」
「私が何者かに狙われていて、あそこにいると確信して、近付いた」
そうだ。
彼はこちらの状況を知りすぎている。
助けるべきだと語るのが嘘でなくとも、あそこで出会ったのは偶然ではなく仕組まれていたのならば。
それは月音にとって恐怖の何ものでもない。
彼はしばしの沈黙の末、眉を下げて月音の頬に触れる。汗をぬぐい、愛おしそうに目を細めた。
こてん、と首を傾げる姿は可愛らしい。
「そうだとして、きみに不都合があるか?」
心底不思議そうな問いに、どうしようもなく強烈な感情が湧き上がる。
逃げるべきだと警鐘がけたたましく鳴った。
男は月音を見つめたまま、更に言葉を重ねた。逃さないよう、ゆっくり言葉の毒を刺して、体内に巡らせて動けなくさせる。
「俺はきみのことを知っている。おそらく、きみ以上に」
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