18話
「独りは、寂しいだろう」
十九時。用意された時計が規則正しく刻む音と、和風ハンバーグを食べれば食器がたてる音にまざったそれは、いつになく寂しげな声音だった。
月音はナイフとフォークを皿の上に重ねて、首を傾げる。唐突だったゆえ、意味を理解するのに数秒かかる。ゆっくり咀嚼してから、目を伏せて首を振る。ずきりと痛む胸を無視した。
「寂しくないです」
独りで生きるしかない。だからこの生活も、一時の休息でありいつか失われるものだ。冷えた水が、心に注ぎ込まれるような変な気分だった。
泰華、そんな月音とものが増えた部屋を見比べて、何かを納得したかのように一つ頷くとハンバーグを一口食べた。それを眺めて月音は、自分の分であるミニトマトを放り込む。歯を押し当てれば、潰れて、はじけた。
夢から覚めたような感覚だった。宝箱がみしみしと軋んで壊れていくのが聞こえた気がする。
変わらず取り決めは行われた。
行ってらっしゃいと見送り、ベッドに横たわる。
本を読むのもテレビを見るのも気力が沸かず、ただ無意味な時間をぼーとして過ごした。
終わりが忍び寄っていた、ひたりひたりと冷たい足音をたてて背後に歩み寄っている。
彼との生活で生まれてきた感情を拒絶して、分厚い壁の向こうに押しやって固く閉ざした。終わりではなく、始まってすらいないのだと自分に言い含める。
「――」
何事か呟こうとした口は空気を吐き出すだけに止まり、目を閉じて。気持ち悪さが過ぎ去るのをじっと待った。
「月音」
何かが崩れると、思った。
――だが、彼が帰ってきた夜。
差し出されたものによって、頭が白く塗りつぶされた。理解できない自分の感情やらが一気に置いていかれるほどの強烈なそれは。
「は、花束ですか?」
深紅の薔薇だった。
数え切れないほどに大きな花束は圧巻であり、言葉が出てこない。何本あるのか、数える気も起きないほどである。
黒いスーツで、恭しく差し出す様はまるで劇の一シーンだ。
泰華が持ってきた恋愛小説で、男性がプロポーズして女性が涙を流していたのを思い出す。
瑞々しく、くらりとする甘い香りが鼻腔をかすめる。
いきいきとした花々は生気を放ち、月音を魅了した。
鬱屈した心が晴れ渡るかのような強烈な色彩は、視界を占領する。
「人生には、彩りが必要なんだ」
花束に目を落とし、指で柔らかな花弁をなぞる。
重たいからと月音には渡さず、いつの間にか購入していたらしい花瓶を戸棚から取り出した。
月音に背を向けて、生ける準備を始める。
彼の長い絹糸のような髪が揺れて、赤薔薇とのコントラストが映えた。白い指が丁寧に棘を確認する。
「贅沢ではないですか」
月音は可愛げのない言葉を吐いた。
彼の隣にいく勇気が出なく、鮮烈な赤を眺め続ける。
匂いが部屋にあふれて、月音を包んだ。
「人間はな。色のない世界では生きていけない」
「色?」
「そう、例えば嗜好品。本やケーキなどを味わうことや、人と愛を交わすのが色だ」
ぱちん、と切って花瓶へと一本差した。
枯れないように工夫したのか薬を入れている。
穏やかで、諭す声に聞き覚えがあった。
忘れず、心に残り月音を動かす言葉。
母の卵焼きについて話をしたときと同じだ。
心地よく、ずっと聞いていたくなる。
とくとく、己の鼓動と彼の声を重ねた。
ゆったりとした時間が、優しく流れていく。
「何もかも捨てて、感情を消してしまえば、生きながら死んでしまう」
大切なものを織り込むように彼は語りかける。
月音の欠けた部分を修復して、補っていく。優しさで埋めていった。
月音はそれらを味わうように一度目を閉じる。心の中で復唱し、指の先まで浸透させた。
「生きていくために必要なんですか?」
「そうだ。人生に必要ないと切り捨てたのが、本当は大切なものだった、ということも多い」
薔薇がふわりと揺れた。
彼が振り向いて、月音を見つめる。
どこか見覚えがある色だった。見守るような、慈しみにあふれた瞳を、昔どこかで。
泰華が手招きすれば、月音は糸をたぐり寄せられたかのようにふらりと近づき、横に並んだ。
薔薇を差し出され、そっと壊さないように握る。
こわごわとした手つきのまま、ハサミを受け取った。
「だから、せめて後悔が少ないで済むように、できる限り味わって判断するんだ。捨てるか、持って行くか」
「……卵焼きみたいに?」
思い出すと胸が締め付けられるような、痛みがある。
それでも手放せないのを疎ましく思っていた。
だが、泰華はそれを受け入れろと言う。
「そう、思い出も。今までと、これからのきみを作る大切な色だ」
寂しいという気持ちも、本当にいらないか。どうなのか。
月音は自然と頷いていた。
心に立てたばかりの壁を、そっと取り除く。
そこにある、形すらあやふやな思い。
拒絶する頑固な自分を押しとどめて、まだ不鮮明なそれを、理解しようと向き直る。
ぱちん。自分の手で茎を切った薔薇を、泰華が生けていた花瓶へと差し込む。
花弁が手の甲を撫でる。
彼の花と混ざり、芳香がよりいっそう強まった気がした。
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