2話

「あのガキ、どこ行きやがった!」

「探せ! いっそ足でも切り落としてでも」


 男たちの物騒な叫びが、夜の住宅街に響く。 

 幾ら羽無町の治安が底辺で、まともな人間が少なくとも騒ぎになりそうだ。


 とはいえ、いつものことだ。警察に通報する者がいるかどうかは、微妙である。


「う、っぐ」


 ざぁざぁ、と雨が打つ音がする。


 ぐっしょり濡れて重くなった服に、打撲や裂傷による痛みにより、立ち上がるのすら億劫だ。


 ずるりと塀にもたれ掛かり、呼吸を整える。


 すん、と鼻を鳴らせば雨の匂いに混じって、鉄臭さが突き刺さった。口の中が苦く、気持ちが悪い。

 げほりと咳き込めば、ぽたりと赤がこぼれて雨とまじり、地面へと吸い込まれる。


 未だ止む気配のない空。

 体温を徐々に奪い、生命活動も妨げる。夏とはいえ、夜は冷え込む。吐き気すらこみ上げて、頭が割れるように痛い。


 だめだ、動けない。


 声をかみ殺し、唇を噛みしめる。寝てはならぬ、と訴えるのに体はいうこと聞かず。急速に意識が落ちて、暗闇に包まれようとして。




「――いい夜だな、お互いに」




 夜の静けさを破いた声に、月音は反射で飛びすさった。ずきん、と杭を打たれる激痛が突き刺さり、咄嗟に膝をつく。

 片手にナイフを構えて、声の発生源を睥睨した。


「こんな夜は、ひとりでは寂しくなる」


 先ほどの男たちとは違い、瑞々しく柔らかい。

 穏やかで、不思議と聞く者の耳を傾けさせる。甘くて、印象が色濃く残る声だ。

 警戒心を優しくほどくそれは、現状では少々浮いていた。


「あなたは」


 暗闇に慣れた目を凝らして、その人物を認識した途端。


 絶句した。


 薄汚れた街灯が何度か明滅し、やがて電気がつく。人工的な光が、スポットライトのように男を照らし、浮かび上がらせた。


 上半身のみ起き上がらせ座り込む男。一目で高級品だとわかる、光沢のある美しい黒いスーツにシャツは、無残にも泥がこびりついている。


 ほっそりとした白い首筋を辿れば、すっとした鼻筋に、形のよい唇。精悍な顔立ちに、垂れ目が慈しむかのような、優しさを宿していた。滑らかな濡れ羽色の長髪は、後ろで高めの位置で一つに結わえているが、こぼれた一房が、色を失った頬にはりついている。


 一種の芸術品と思わせる花のかんばせは、ひっそりと夜に沈んでいた。


 なんの恐れも抱かず、ただ静粛に微笑みを横たわらせている。今の状況を味わうように、熱っぽい吐息をこぼす姿すら絵になった。


「お嬢さん、そのままではいけない。倒れてしまうぞ」 


 男はたおやかに微笑む。


 ひっそりと夜気に包まれた至美は、現世から切り取られたかのように、存在した。まるで現実感がない。幻想だといわれたほうが、まだ信じられる。


 ただ、しんとした厳かな夜が似合う男は、その美しさで強引に強烈に、迫る危機を押し退けて月音の思考を占領した。

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