word5 「松阪牛 タダで食べる方法」④

 スマホで時刻を確認する。指定された時間まではあと40分ほどあった。かなり急ぎ足で来たからもっと早く着いてしまったかと思っていたが、ギリギリ嫌な顔をせず我慢できる待ち時間だった。


 黒いパソコンによると40分後に小太りの男があの自販機を利用するらしい、その後に俺が指定されたとおりにボタンを押せば、めでたく最高級松阪牛ゲットという寸法だ――。


 俺は何をするでもなく、ベンチに座ったままで時間が経つのを待つことにした。腰を落ち着けると、急に足から疲れが来たのだ。こんなに長く歩いたのも久しぶりだし、直近数日間の睡眠時間が少ない。


 お供にしたのはスマホと考え事。この2つでどこに居たってそれなりに暇を潰せる。


 松阪牛についてもっと色んな検索をしてみた。別にそれほど興味は無かったけど、飼育頭数や年間出荷頭数なんてものまで調べてみたりした。


 指ではそうしながら、行き交う人やアパレルショップで働く店員なんかを見た。背中を預ける壁に同化するようにして、自分より1回り歳の離れた若い子を見ていると、数年前の自分は何をしていたのかと考えてしまった。


 数年前、まだ20代前半で学生だったりした頃は俺もこういう所に来ることがあったのだ。でも何故だろう……その頃の記憶が全然ない。余りにも懐かしさを感じないものだから、自分がこの子達と同じ歳の頃はあんな風に歩いていたかと自問してしまうものがあった。


 思い返してみると、働き盛り飲み盛りだったここ数年の記憶がない。一体いつの間に俺は良い歳をした大人の仲間入りをしていたのだろう……。大人になると時の流れが早くなることは子供の時から聞いていたことだが、本当のことだった。


 もちろん記憶喪失ほど全く何も覚えてない訳ではない。何と言うか脳の奥まで刻まれたような……その時の匂いや感触まで覚えているみたいなことが1つも無いのだ。


 高校生の時に行った修学旅行のほうがずっと強く残っている。ここ数年の間にも旅行には行ったりしたのだけど、何となく楽しかったという記憶が漠然とあるだけ。


 どうやら良い思い出や無駄な思い出は、嫌な思い出と一緒に酒で綺麗さっぱり流されてしまったようだ……。


 40分の待ち時間はあっという間に過ぎていった。完全に自分の世界に入ってしまって、今が何時だとか、何をしにここに来たのかとかをつい忘れてしまうほど。


 けれど、呆けていても俺は待ち人を見逃さなかった――。


「あっ……」


 ある時黒いパソコンに聞いていた小太りの男が視界を横切ると、思わず声が出た。正に「あっ」と言えば過ぎていた40分だった。


 赤色の服を着ていて、ギラついたアクセサリーをしている小太りの男。まさしく黒いパソコンが言っていた通りの男はそのまま真っ直ぐに自販機コーナーのほうへ歩いていく。


 俺も鞄を手に持ち、いつでも立てる準備をした。


 つい先ほどまでノスタルジックな気持ちになっていたのに、松阪牛で頭が満たされる。唾液が口内に溜まって、「よしよし」と頭の中で言った。


 小太りの男は迷うことなく、1つの自販機の前で足を止める。肉ガチャの自販機があった辺りだった。どうやら目的は決めて来ているようだ。


 急いで俺も自販機コーナーに向かう。黒いパソコンから急げという注意は無かったけど、小太りの男と俺の間に、別の誰かが割って入ってきたら大変だ。


 周囲の様子を伺いながら早歩きをして、小太りの男が自販機のボタンを押すのと同時に、俺も自販機コーナーへ辿り着いた。ざっと見渡してみると、小太りの男意外に人もいない。


 「よしよし」とまた心の中で言って、別の自販機に興味を持ったふりをする。


 小太りの男は肉ガチャを1回ではなく4回も利用した。ハズレでも700円相当の肉が手に入るらしいが、体型的に1つで足りないことに納得はいく。


 しかしきっとハズレしか出なかったから余計にお金を使ってしまったのだ。厳密に言うと、3回と1回のようにガチャを引いた。最後の1回は30秒ほど迷ってから1000円札を入れた。


 財布を尻ポケットに突っ込みながら帰っていく男の後ろ姿を見て、持ってない男は可哀想だと思った。俺だけ持ってる男に生まれてしまって申し訳ない。


 改めて肉ガチャの前に立つ。ハラミやホルモンといった肉達の画像がいくつも並んでいる。右側には当たりの確率と内容が書かれていた。3等が2500円相当の肉、2等は牛タンのブロック肉、そして1等が松阪牛……。


 次はこれが排出される。俺の願い通りにステーキ用のサーロイン。200gが2枚、値段は14000円相当らしい。いつも食べているスーパーで買う肉は、安い物だと100g100円もしないから一体何倍だろうか……これ1食でちょっとした家電も買えるほどの値段だ。


 俺は財布を開き、1000円札を取り出した。ちゃんと朝のうちにコンビニで10000円を崩しておいた。その1枚を丁寧に投入口へ入れる。


 一呼吸だけでボタンも押した。タッチパネルに映った4番のボタン、「4」と書かれた4番目のボタンなので、間違うはずもない。


 自販機が音を立て、中で何かを下に落とす。何故だか不安になったので、タッチパネルの画面が元に戻るまでの間は動かなかった。


 黒いパソコンの検索結果を思い返し、何も間違ってないことを確認して、しゃがんだ。


 半透明な取り出し口から金色が薄っすら見える――その時、何にも触れていないのに指へ電流が流れたような感触がして、ピクリと動いた。


 手にした。手に入れてしまった、松阪牛。プラスチックの容器を取り出して裏返すと張り付けられた包装紙の隙間からわずかに霜降りが見える。


「よしよし」


 誰もいないのをいいことに小声で言いながら、軽く容器を振った。十分に重くて、冷凍だから冷たい。


 世界が煌めきに満ちていった。包装紙と同じ金色に輝いて見える。手に入ると分かっていたのに、想像を超える幸福感。これからおいしい物を食べる時ってやっぱり、小学生に戻ってしまう。


 すぐにでも食べたい。帰って早速いただくとしよう。


 と、その前に海鮮ガチャもちょっと回していこうかな――。


 実は先ほどの待ち時間にも少し考えていた。もっと言うと何のご馳走を食べるか決める時から魚もありだと思っていたし、肉ガチャを利用して何が出るか分からないドキドキも味わいたくなった。


 今度はいつここまで来てガチャを回す機会があるかも分からない。せっかく来たし何より、既に1000円で14000円相当を入手しているのだから何が出ようと総合すれば勝ちだ。


 ついでにさくっと1回か2回、大当たりなんかでなくてもマグロの赤身や、ネギトロなんかでもいいから入手しよう。明日の酒の肴だ。そんな気持ちで俺は雑にタッチパネルの真ん中辺りを連打した。


 しかし、音を立てて出てきたのは「イカ」だった――。


 中身を見て数秒固まる。何でもいいと思ったとはいえ、イカの切り身はちょっと違った。刺身1種類だけをおかずにするとなったとして、イカは絶対に選ばない。あんまり好きでもない。


 うん、もう1度いこう。俺は1000円札を入れて、また雑に真ん中あたりのボタンを押す。


 しかしまたしても、出てきたのは「イカ」だった――。


 まあいいや、まだ余裕で勝ちだし、今日はチートデイだ。さらに、俺は1000円札を投入する。


 しかし2度ならず3度までも、出てきたのは「イカ」だった――。


 片手で持てなくなる白い切り身が入った容器……これで3000円だと、今3000円が消えたのか。あれ、どうなってるんだ。俺は今何してるんだっけ。


 何が起こっているか分からない。しかし、俺は両替機へ向かった。

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