word4 「美人の先輩 恋愛履歴書」②

 本当にいいよな……いいのか……。


「――いや、やっぱりダメだ」


 決意が揺らいだ俺は寸前で手を止めた。こんなことしていい訳がない。自分の恋愛歴の詳細なんて見られたくないに決まっているだろ。


 しかも相手はお世話になっている先輩だぞ――。何やってんだ俺は――。


 危ない危ない。伸ばしていた手で、自分の頬をぺちぺちと叩く。


 こうやって頭の中で右往左往するのは、かれこれ30分ほどになる。こうして次に検索するワードは決まっているのに、果たしてそれを検索していいものか迷っていた――――。


 30分前、寝る前に歯磨きをしながら思ったのは「ちょっとムラムラするな」だった。


 そういえば、週末は1度も致していなかった。ちょうど明日の検索ワードも考えているところだったので、検索の方向性がすぐに決まった。


 とびきりのご馳走を早めに1口いってみることにしたのだ。


 黒いパソコンを手にしたあの日から既に、そういう検索もしてみたいと思っていたことだ。大人の男女なら誰もが欲しているところ、他人の性事情――――“エロい検索”。


 検索を決めると顔がにやけて、歯磨き中だった俺は口から唾液がこぼれそうになった。


 なにしろ人の性癖や経験人数とかってなかなか聞けるものじゃない。深夜番組やAV、最近ではSNSなんかでは、それについて平気で話している人を見かけるが――。


 あたかも自慢をするように「俺こう見えて……」「私意外と……」っていうニュアンスで、こういうこと平気で言っちゃう俺!私!な奴も見かけるが――。


 しかし――。


 あんなのは低俗な奴らで。それをちゃんとしたリアルの知り合いに聞くのは相当ハードルが高い。大学生ならまだしも、社会人になって職場の人間を相手になんてしたら、普通は下品な人間だと評価を下げられる結果になる。


 仲のいい同性の先輩や後輩でもギリギリだ。


 しかもそれって、いくらでも嘘をつける質問だと思う。ある人間のベッド事情なんて確かめる術は存在しないのだから、何と言われても本当かどうか分からない。自己申告でしかないのである。


 だから、この何でも検索できるパソコンが物凄く輝く分野だ。このパソコンの前では隠し事はできない。人類皆ができることなら覗いてみたい夜の姿を、ありのまま……真実の鏡のように映し出せる…………。


 夢のようなことだ……だがしかし、簡単にそんなことしてもいいのかと思う。


 人としてどうなのって話だ。知られたくないから隠す、デリケートな部分を覗いてしまっていいものか。いざ検索しようとしたら罪悪感が生まれた。


 そんなこんなで、検索ワードを入力までしたのに、二の足を踏んでいた――。


 今はパソコンから1歩分、遠ざかってしまって、もう手を伸ばしてもEnterキーに届かない場所にいる。


 しばらく悩んだ後にやろうと決めてからは、ずっと頭の中でやるぞやるぞと言っていたのに、「美人の先輩」という文字を見ると、彼女の顔が浮かんで手を止めた。


 それというのも、俺が検索を躊躇う理由はただ他人の性癖を覗くことに罪悪感が芽生えたからだけじゃない。


 エロい検索を決めれば、すぐにどんな検索をするのかも思いついた。それが「美人の先輩 恋愛履歴書」だったのだけど、対象の美人の先輩というのが俺にとって傷つけたくない人というか……。


 検索の対象にしたら悪いと感じてしまう人で、清純で、後輩に優しくできる人で、直属の上司では無いのだけど、何度か助けてもらった。


 新卒の頃にオフィスのコピー機が上手く使えず、終いにはエラーを起こしてあたふたしている時に、遠くの席に座っているにも関わらず、さっと駆けつけてきてくれた……あの出会いの日は今でも覚えている。


 ときめき過ぎでコピー機のエラーの直し方はその時覚えられなかったけど、こんなに素敵な人がいるかのと思ったあの感情は永遠だ――。


 春夏秋冬いつも黒髪ロングで、目元がくっきりしている。お姉ちゃんと呼びたくなるような容姿。誰にでも優しくて、仕事もできる。きっとお嬢様学校を卒業しているし、幼少期はピアノを習っていた。


 今でも離れた席に座る彼女を作業中たまに見て、いつも明るい彼女が浮かない顔をしている時はちょっと心配になったりしている。


 そんな彼女を汚したくない。俺より2つ先輩だから、29歳か30歳。未だに処女だなんて思ってないけど、きっと心は綺麗なままだからそう思う。彼女に胸を張れないことはしたくない……。


 けれど、だからこそ興奮するのも事実で――。


 俺は座ったままの状態で、また黒いパソコンのほうへ近づいた。もう1度キーボードへ手を伸ばす。


 不倫とか青姦とかやったことないけど、まあ気持ち的にはそれと同じだと思う。してはいけないことだからこそ、性的興奮にスリルが乗っかって加速する。


 見たい――。


 正直……汚したくない感情よりも、見てしまいたいという感情のほうが強い――。


 だって、彼女の恋愛歴って想像できないんだ。彼女はなかなかいないタイプの女性で特別なんだ。


 その辺にいる女ならなんとなく経験人数とか想像できる。まあ、正確に当てることはまず無理だろうけど、どのくらい恋愛経験があるかを勝手に想像できてしまう。


 でも彼女は違った。平日は毎日見ているのに、まだよく分からない。男の匂いがするようなしないような。未婚であることだけは知っているが、ああいう全く嫌な感じがしない美人ってどんな恋愛をしてきたんだろう。


 先輩だと悪いと感じるなら別の人にすればいい話だけど、思いついた時から彼女以外は考えられなかった。


 ああ、見たい。めっちゃ見たい。きっとそこには何か想像もつかないものがある気がする。


 俺はついにEnterキーの上に指を乗せた。


 このパソコンを手にしてこういうこと検索しない奴なんているだろうか。いや、いない。だからこれは俺のせいじゃない。再び検索する方向へ考えを持っていく。


 俺のところに来るこいつが悪いのだ。こんなものを手にしてしまった以上、我慢できる人間などいるはずがないじゃないか。俺のせいじゃない。


 まだ人差し指を少し上にずらせば、BackSpaceキーを押すこともできる――。


 しかし俺は、自作のとんでも理論の力に後押ししてもらって、そのまま指を下ろした。

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