第32話 それぞれの夜
さて、明日から忙しくなるぞとエルナはぐんと伸びをする。
すでにクロスは部屋にはいない。出るときも窓から出ていこうとしていたので、さすがに勘弁してと無理やりドアから帰らせた。「人目を気にして戻らなければならないのが面倒だ」とクロスはぶつくさ言っていたが、「そんなの屋根の上を歩いていても同じでしょ」と突っぱねた。クロスの心に届いていることを祈っている。
就寝する予定よりも随分時間を使ってしまった。さっさとベッドの中に入らなければならない、のだが。
「……もう一つ、確認すべきことがあるのよね」
クロスが去ったドアを見つめていたエルナだが、ぎゅんっと目の端だけを素早く動かす。
ベッドのそばに設置していたサイドチェストの上で、茶色い小さな何かがもふもふっと忙しなく移動したが、それを見逃すわけがない。
『ごんすや、ごんすや、ごんすや……』
嘘くさい寝言を立てながら自前の寝床の中に潜り込みお尻だけ出しているのは、もちろんハムスター精霊である。
エルナはそろりとハムスター精霊に近づいた。
「……ねぇ、見てた?」
具体的にいうと、クロスにキスされそうになったりとか、なったりとか。
ぶぶぶぶ、とハムスター精霊の短い尻尾が激しく震えた。
エルナはその尻尾を無言で見下ろした。『ぢっ!?』自分自身でも気づいてしまったのだろうか。出ていたお尻ごとひゅんっと寝床にすっこみ、ごそごそと布の中で小さな塊が動いているのがわかる。しばらくすると奇妙な動きはぴたりと止まる。
『す……』
なんだ、言いたいことがあるのなら言ってみなさい、とばかりにエルナは無言で待った。
『すりーぴんぐ、ハムでごんすよ? すやり、すやり』
「明らかなたぬき寝入り……いやハム寝入り……!」
『すやハムでがんすので、つぶらなお目々は何も見ることはなく…すややや』
「気を使わせてごめんね! クロスったらいきなりやって来たものね!?」
いつもはいそいそ隠れているのだが、今回ばかりは間に合わなかったらしい。正直エルナもこの同居人がいることをすっかり忘れてしまっていた。
「次から気をつけるから……!」
と、エルナはハムスター精霊に必死で謝罪をして、夏に近づく夜が、少しずつ更けていく。
***
同じ時刻、クロスは一人ため息をついて夜の庭を見つめていた。そこは普段、エルナが丹念に掃除をしている回廊だ。エルナの部屋から出る際には誰にも見られることなくここまで来たのだからもういいだろう、と白銅色のアーチにもたれながら、二度目のため息をつく。
じわじわと暑さが近づいてきたとはいえ、夜はまだ涼しい。ざわりと風が一吹きするごとに木々を優しくなでて、クロスの前髪をほんの少しばかりかきあげるようにして消えていく。そうすると普段エルナに見せることのないような表情を削ぎ落とした、冷たいほどに整った容貌がよく見える。
「もっと、俺に力があればな……」
弱音など、吐けるはずもない。クロスが心情を吐露するのは、こうして一人きりのときだけだ。クロスの周囲には精霊たちがひっそりとやってきて、不安そうに、ときには慰めるように集まっていたが、精霊を見る目がない彼は、そんなことに気づきはしない。
薄暗い夜にただの一人きり。そんな気持ちで、ただ重たい息を吐き出し空を見上げた。
今すぐに、会いたい。
「何を馬鹿な。会ったばかりだろうが」
自身の感情に嫌気がさすとばかりにクロスは眉をひそめた。エルナといると、自然と気持ちが明るくなる。けれどもそれは一瞬で、底が抜けた袋のように膨らむことなく、離れてしまうとすぐさま胸の内には不安が渦巻く。
自身の判断一つが、国を揺るがすのだ。
あまりにも、重い。
(果たしてその判断でさえも、俺は正しく、俺自身の考えとして結論出しているのだろうか……?)
過去の王の声が聞こえる。それは恐れることを知らぬ英雄の声だ。
――さあ、何を怯えることがある。この国はすべて、すべてが俺のものだ。なぜ他国に脅かされる必要がある。マールズも、帝国も、そのすべてを、手中に収めればいい。ただそれだけのことではないか!
(黙れ……)
違う。ヴァイドは、こんな男ではなかった。わかっている。だというのに、入り交じる過去の記憶と、その幻影に惑わされている。
この国は俺のものだ。それを、どう扱っても文句はあるまい。
湧き上がるような恐ろしい感情を、クロスはすぐさま否定した。嘘だ。違う、これは過去の記憶だ。こんなことを、思うわけがない。しかしだ。本当に、小指の先ほども考えてはいないと誓って胸を張ることができるだろうか?
わからない、とそこで思考を止める度に、自身はこの国から消え去るべきではないかと感じた。幼い頃から繰り返した問答だった。けれどもいつの日か、こんな日には一つの声が聞こえてくる。
――あなたはただ、努力しろ! 愚王ではなく賢王として、この小さく、危うい国を守るように努力をし続けろ!
泥の中のように薄汚れていた視界が、いつの間にか静かな夜の瞬きに変わっていた。りんりん、じりじり……。虫の鳴き声ときおり聞こえ、風の中に消えていく。
エルナは、知らない。クロスにとってあの言葉がどのようなものであったのか。この重たく薄暗い世界を、明るく変化させたのか。
もう一人、クロスには彼の人生を大きく変化させた女がいる。
それはエルナと似ても似つかないような、頑強な体躯と心を持つ女だった。クロスと鏡合わせのような姿を持つ彼女は、彼と血の繋がった実の姉だ。父と母が次いで早世し、形ばかりの王となったクロスとこの国を守るために姉は他国に嫁ぎ、助力を得る足がかりとなった。
そのことを、人身御供ではなかったと否定できる人間はいったいどれほどいるのだろう。幼いフェリオルが姉の顔を覚えてはいないほどの過去の出来事であり、クロスは今よりさらに力がなく、止める術などどこにもなかった。
言い訳はいくらでも重ねることができる。そうするしかなかったと、目をそらすことも。
まだまだ少年であったクロスは、姉が嫁ぎ国から去るその日、彼女の目を見ることができなかった。ところが、姉はぐいとクロスの頬を力強く掴んだ。
『私には、それが何かわからないけれど』
姉は、クロスとそっくりの同じような外見だった。けれども瞳ばかりは母と同じ、深い緑の瞳をしていた。
『クロス。あなたは自身の立場以外の、重たい何かを背負っているということはわかる』
過去の記憶のことは、誰にも話したことはない。当時は、自身が持つヴァイドの記憶はただの妄想か何かかもしれないと、異端とされる恐怖を感じていた。逃げ出そうと一歩引いたが、姉はそれを許さなかった。
『そのことを問いただしたいわけではないわ。私ではなかったけれど、フェリオルでも、コモンワルドでもいい。あなたの苦しみを分かち合えることができる伴侶や友人といつの日か出会うでしょう』
頬が赤くなるほどの強い力で掴まれながら、ぴくりとも動くことすら許されず、ただ自身と同じ顔の女と見つめ合った。森のような深い緑の瞳は、不思議なことにただ激しく、燃え上がっているようにも見えた。
『いい? 私はただ人質とされるために国の外に行くのではないわ。愛されるために旅立つの。必ず、王である夫の愛を掴んでみせるわ。たとえその望みが叶わなかったとしても、それは私の努力が不足していただけ。決して、私をあなたの重荷の一つにしないでちょうだい』
不愉快だわ、と姉は苛立つように吐き捨てた。
クロスの重荷となることを望まない優しい姉の言葉ではなく、戦場に臨む騎士が、自身の誇りを守るために告げた言葉のような。
あの言葉がなければ、クロスは早々に王の立場から逃げ出してしまっていたかもしれない。せめて後人を育てるまでと歯を食いしばり、その気持ちでさえもエルナに見透かされ、今となっては身を粉にしてでもこの国に尽くし続けることを心に決めたのだが。
件の姉と嫁ぎ先の王は、今となってはおしどり夫婦と呼ばれるほどだそうで仲の良い噂話を耳にする。姉は、その力強い自身の手で見事に結果を掴んだのだ。
「そうだな。努力し続ければ、いつかは前も見えてくるだろう」
涼やかな風がクロスの頬をなでた。濃い緑の香りが、すうっと漂う。深く息を吸い込み、柔らかく吐き出したとき、空に小さな白い粒が見えた。それはぐんぐんと大きくなり、かすかな羽ばたきの音を夜のしじまに響かせた。一羽の、白い鳩だ。
はたりはたりと浮き沈みを繰り返し、クロスの指の先で鳩はゆっくりと羽を休めた。
ただ一瞬、クロスが長いまつ毛とともに瞬くと、鳩の姿はもういない。代わりにあるのは一通の手紙だ。手紙の主は、もちろん一人しかいない。中を見てみると、あいかわらずエルナが見れば勘違いしてしまうような、困った文言が並んでいる。
あの姉がこの文面を考えていると思うと奇妙な気分になってくるが、おそらくいたずら好きの血が自分にも彼女にも流れているのだろう。しかし次こそはやめてもらうように苦言を呈しておこうとクロスは誓った。
一見ふざけたような文面だが、ある一定のルールに沿って読むと別の文面を読み取ることができる。確認するごとに、クロスはひどく難しげに顔を歪めた。
「帝国が、動き始めたか……」
手紙を持つ手が、自然と力が入っていく。クロスは深く息を吸い込み、するりと金の双眸を細める。
「あくまでも、まだ可能性の域だろうが……いつでも動くことができるように、こちらも準備をしておく必要があるな」
すぐさま冷静に事態を受け止め、前を向く。そして姉への返信をしたためるために、急ぎ踵を打ち鳴らすように夜の城を進み、そして、姿を消した。
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