第3話 ちんけなガラスとハムスター
***
しゃんら、しゃんら。
聞こえる不思議な音は、竜の鱗が擦れ合う音だ。竜は空を飛び、天空から音を運ぶ。きらきらと輝く鱗に気づくと、人々は両手を広げ、祝福を待った。
「エルナルフィア、ほら、手を振っているぞ。お前も振ってやったらどうだ」
「ふざけたことをぬかすな。私は竜であるのだぞ」
エルナルフィアはヴァイドから魔力を分け与えられた。だからこそ、人語を解す。竜は精霊よりも高位の存在ではあるが、もとは同じく自然の中から生まれたものであり存在としては似通っている。憮然としたエルナルフィアに対して、「ふざけていない、だからこそだ」と、ヴァイドは意地が悪いとエルナルフィアに評判な笑みをにまりと浮かべた。
神にも等しい竜であるからこそ、ほんの僅かな反応も子供達は喜ぶだろう、と彼はいう。そんなもの、とエルナルフィアは思う。人に恐れられ、逃げられ。ただそれを繰り返してきたのだ。ああ、けれども。
「しっぽでかまわんか」
「まったくかまわんぞ」
エルナルフィアの中のわだかまりなど、簡単に投げ捨ててしまうほどの価値が、彼にはあった。
しっぽは、エルナルフィアの自慢だった。ヴァイドになでられると、妙に嬉しくなってしまう。
丘の上から必死にこちらに手を振る子どもたちが理解したのかどうかはわからないが、ふるりと動かしてやると、嬌声が響いた。うるさくてかなわん、とふんと息を吐き出しそのままぐん、と速度を上げてさっさと目の前から消えてやった。すると、頭の上がうるさくなった。ヴァイドが馬鹿のように腹をかかえて笑っていた。このまま落としてやろうかと思った。
「いや、やめろ、やめろ。しゃれにならん。いや、しかしな。もう一度笑ってもかまわんか?」
ヴァイドはかすれ声でささやくように、エルナルフィアの言葉を真似てくふりと口元をゆがませる。さらに高く空を上って返事をした。やめろ、という意味だ。
湿った雲で体中をびしょびしょにしながら飛び抜けた。けれども火竜である彼女が一息すれば、すぐさま身体はからりと乾く。その先にはまじりっけ一つもない真っ青な空が頭上には広がっていた。雲の絨毯はさながら一つの国のようだ。いや、もしかするとこの雲の上にも、また別の国があるのかもしれない、とふとしたときにエルナルフィアは考える。エルナルフィアさえも届かないほどの高く、高い先に。
「……なあ、エルナルフィア。俺はきっと、死んでもお前のことは忘れないんだろうよ」
感嘆のため息のかわりに、ふとつぶやいてしまったセリフ。そのように聞こえるが、実際のところ、彼はこれが口癖である。またか、と呆れてしまう。「今日のことは、忘れられんな」「お前には毎日忘れられぬ今日があっていいことだ」 もちろん、嫌味である。
「本当だぞ、本当だ。大事な相棒の言葉だ。たまには心に刻んで信じてくれ」
「わかった、刻んでやるよ。私の方がずっと長く生きる。生まれ変わったお前を見て、覚えていないと嘲笑ってやろう」
「エルナルフィア! 本当に、お前の鱗はきれいだなぁ! きらきらと光の中で輝いて見えるぞ!」
「さっそくごまかすんじゃない」
こんな日も、あった。
多すぎる想い出は、なんと寂しいものだろう。人は前世など思い出しはしない。きっと寂しいものなど、不要だからだ。だからエルナルフィアも全てを捨てることに決めた。自分はただのエルナであるのだから。
「いいこと? このちんけなガラスが、もとはあんたのものだったということは絶対に、絶対に口を開くんじゃないわよ……!」
「そう何度も言わなくてもわかってる。わかってるって。はいはい」
「はいは一回! 赤子相手にするような文句を私にさせるんじゃないわよォ!」
「はーい」
「伸ばすなァ! 伸ばすな! 伸ばすなー!」
そう言ってローラは怒り狂いながら地団駄を踏んでいる。少しエルナルフィアに影響を受けすぎたな、とエルナは反省した。エルナルフィアはすでに消えた人どころか竜であるのだから、きちんと人にならねばいけない。こほん、と息をして、「言いません。大丈夫。これで満足?」 それでも随分偉そうな口調になってしまったが、先程までと比べてちょっとは殊勝に見えたのだろう。ふんっとローラは鼻からばふっと息を噴出させた。ローラの癖だ。
「ふんっ。あんたがエルナルフィアだなんて私は信じてもいないけどね。でも下手に勘ぐる人がいても困るし。こんなのただのちんけなガラスでしょ? たまたま鱗とよく似たガラスを持っていただなんて、笑わせるわぁ」
ローラはからからと手の中でガラスを遊ばせている。そんなことをしているものだから、うっかり手の中から滑り落ちたネックレスは、するりとエルナが救出してみせた。「ちんけなものでも、今は竜の鱗ということになっているし、大切にした方がいいんじゃない」「あなた、最近生意気よ! ちゃんと立場をわかっているの!? これ以外の“もの”を踏み潰してやってもいいのよ!」 そしてすぐさま引っこ抜かれてしまう。いつもの脅し文句だ。
ぷんぷんと怒りながら消えていくローラの背中を見て、「わかってるよ……」とエルナは呟く。ちゅんちゅんと平和な鳥の声が聞こえる。
そこは男爵家とは比べ物にならないほどの立派な庭だ。庭、と言われれば囲まれた敷地のようなものを想像するが、ここはそんなものではない。川が流れ、池があり、丁寧に木々は整えられ、どこまでも花畑が広がっている。宝剣キアローレが突き刺さっていると言われる国の中心部でもあり、王家の庭だ。
そう、エルナは、未だに王城にいた。
ヴァイドと出会って、いやその姿を見て、さっさと逃げ帰ってしまおうと思った。その場で身体を翻そうとしたとき、「エルナ!」と叫んだのだ。
声の主はローラだった。エルナに、自身の幸福を見せつけてやろうと思ったのだろう。勝ち誇ったように微笑んでいたが、すぐにそれが自身の失態であることに、すぐに気づいたに違いなかった。なんせ、ローラが持つ竜の鱗はもとはエルナが持っていたものであるのだから。ローラは、エルナは目立たせるべきではなく、さっさと田舎に返すべきであった。
ヴァイドはローラに疑問を投げかけ、こわごわとした口調でローラはエルナのことを妹であると説明した。わざわざ妾の、血のつながらない、と言葉を人前でつけるほどローラは世間知らずではないからその場では伝えなかった。ヴァイドは、「そなたがエルナルフィアというのであるのならば、しばらくの間王都にて逗留してもらう必要があるだろう。心細いであろうし、妹御も王城に残られよ」と何の感動もないほどに静かに告げたのだった。とても勘弁してほしいが、まさか一国の王の言葉を無下にするわけにもいかない。
ローラはヴァイドの言葉を聞き、顔を真っ青にさせた。けれどもエルナが何も言わない様子を見ると次第にもとの調子を取り戻し、人目につかないようにとエルナを王城の庭へと呼び出し、調子に乗らないようにしめてやった、というわけである。
もちろん、念押しされずとも事実を伝える気などどこにもない。
なんせ、ヴァイドは何も覚えていなかったのだから。生まれ変わった後にこっちの方が引きずっているだなんて馬鹿みたいな話である。
そう考えたとき、たぷりと不思議な音が胸の中に聞こえた。それが何なのかはわからない。「ううん」とエルナは頭を抱えた。そして、「だあっ!」と両手を伸ばして、だんっと地に足をつけた。元気なので、これでよし。よしとしよう。エルナの周囲にはいつの間にか精霊たちが集まっている。火の精霊が一番多くて、その次は風だ。小指や、手のひらくらいの大きさや、それぞれ姿も違っていて、むちゃむちゃと丸まって遊んでいる。でも、だんっとエルナがポーズをつけたときには、彼らも倣った。だんっ。なんだかちょっと、楽しくなってきた。
***
いつの間にかエルナの周囲には精霊がよく集まるようになった。『本日も、おめでとさんです』 魔力を与えると、みんなそれぞれが礼を言って去っていく。『お日柄もよく、さいこうでごんす』 たくさん遠くから来ているのだろう。よきかな。
とりあえず、こうしてぼんやりと王宮の片隅に住まわせてもらって適当に日々を過ごし、忘れた頃に姿を消せばいいと考えていたエルナだったのだが。
「エルナ様のお世話係として言いつかりました。わたくし、ノマと申します」
そう言って、すらりと高い背を優雅に折りたたみ挨拶をした少女を前にして、お世話って一体なんの冗談なのかな、と考えてしまった。そして残念ながら冗談でもなんでもなかった。
与えられた個室は広くて、ふわふわのベッドで、自身の面倒はすべてノマや他のメイド達が率先して見てくれる。特にするべきこともなく王城の中は自由に歩き回ることができ、身体をお風呂でつやつやに磨かれてしまったときは、ぴぎゃあと悲鳴を上げてしまった。エルナはあんまり水が好きではない。
バケツにかぶる程度なら問題ないが、大きな風呂の中に沈められるのはなんだかぞわぞわするのだ。「エルナ様、暴れないでください!」とノマには案外気が強く怒られてしまったので、思わず半泣きでさらにぴぎゃあとエルナは泣いた。……そして、立派なドレスにまで着替えさせられてしまった。鏡を見て、誰ぞ知らない人がいるぞと不思議に思うと自分であった。なんてこった。『びゅーてぃふる!』 魔力を分け与えた、なまりの強いハムスター精霊はいつの間にかエルナの肩にいつくようになっていた。
ローラがエルナルフィアであると知られてから一週間。ローラはともかく、意外なことにもエルナも中々の高待遇を受けていた。『びっぷで、ごんす!』とハムスターに似た姿の精霊がぴこぴこと小さなしっぽを振って表していたが、そんな感じである。
聖なる竜の、ただの妹としての待遇にしては、ちょっと行きすぎなものを感じる。ヴァイド、お前は生まれ変わって随分変わってしまいすぎやしないだろうか。いや、生まれ変わった時点で他人なのだからそりゃ変わっているのだが。昔のヴァイドは人のいい顔をして切り捨てるところは切り捨てるキレキレだったし、こんなどこぞともわからない小娘など、笑いながらほっぽりだしていたじゃないか。
なんて、文句を言っても仕方なかった。
竜としてのローラは、エルナと同じように扱われているらしく、日々エルナの悪口をヴァイドの耳に囁いているらしい。それがどんなものか、聞きたいわけではないがよそよそしいメイド達の様子を見ているとなんとなく察しはつく。
廊下に顔を出すと、ノマ達がささめき合うような小声で何かを話していたから、思わず息を止めた。そうすると、彼女達にもエルナの様子は伝わったらしく、「あっ」と目が合ったときには、なんとも気まずい気分だった。
だから、いつも通りに聞こえていなかったふりをして部屋に戻った。
故郷でもこんなものだった。ローラは、エルナが何を持っていても気に食わない。そして屋敷の中で彼女をいびる理由はさぞ正当なものであるように大声を出し告げる。これはローラの母がエルナの母にしていたことで、それが娘に引き継がれるのは当たり前のことだとエルナは思っている。
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