第4話 赤いドレスがはためく
***
人がいない場所はほっとする。エルナは、ざわざわと木々がこすれる音を聞きながら原っぱの中に足を広げて座っていた。遠く、まっすぐに伸びて空を支えるほどに大きな樹は、宝剣の名を譲り聞けた大樹なのだろう。
履いていた靴は、ぽいと抜いてしまった。借り物のドレスが汚れてしまうことは申し訳ないが、竜の鱗ではなく、人の肌で感じる風のささやきや、湿っぽい土の感触がどきどきした。そのまま、ごろんと倒れてしまおうとしたときだ。男がエルナを見下ろしていた。ひっくり返ったまま彼を見ていたエルナは、ヴァイド、と口から声が出てしまいそうになった。
「…………」
「…………」
お互い無言で見つめ合った。エルナは座って上を見上げて、ヴァイドはエルナの影になるように、かがみ込みながら。『んちゅらっ。んちゅらっでごんすががんす』とエルナの膝で踊っているハムスターの精霊の存在が、唯一エルナを現実に引き戻した。
慌てて居住まいを正して、しゃんと座って視線をふらつかせた。
「あ、えっと、陛下、本日はお日柄もよく……」
いや違う。最近精霊たちがやってきて、もぐもぐエルナの魔力を食べた後にみんながそろって謎の礼の言葉を言うものだから、思わずエルナも移ってしまっていた。ちょっと顔を赤くしてしまったが、ヴァイドはそんなことは気づきもせず、どすんとエルナの隣に座った。
「そうだな、いい天気だ」
線の細い身体だと思ったが、それでもエルナよりもずっと背が高い。癖のない金の髪がさらさらと風の中に揺れて、真っ青な瞳は空を映し込んでいるかのようだ。ようは、とてつもなく男前だ。
けれど、だからと言ってエルナの気持ちの何が変わるわけもなく、通りのよい心地の良いヴァイドの声を聞く度に、逆に“ヴァイド”ではないのだと落胆した。エルナが知っているヴァイドの声はもっとかすれていて、聞き取りづらい。でもそんなことを考えてしまう自分が嫌になった。
「お前、エルナと言ったか」
はい、とエルナは間をあけて返事をした。一国の王を相手にして、座ったままなどなんと不敬なことだろう。けれどもどうせ、ヴァイドもローラから妾の娘でなんの教養もなく、盗み癖もあるから気をつけるようにと伝えているはずだ。そうすれば人はエルナから距離を置くし、万一ローラが持つ竜の鱗がエルナのものだと伝えたとしても、まず信じはしない。そもそも、エルナはローラに逆らうことができないのだが。なんにせよ、無教養な女だと思われているのならそれにこしたことはない。むしろ、そう振る舞うまでだ。
「随分つまらなそうな顔をしている。ここでの生活は窮屈か」
「そうですね、とても。田舎娘ですので、さっさと田舎に帰りたいです」
「そうか、そうか」
くく、とヴァイドは笑った。意地悪そうな、でもそれを抑え込んだような不思議な笑い方だったが、まあいいか、とエルナは深く考えることをやめた。
「竜は、自身の故郷を特に深く愛します。故郷のない竜はかわりに人を愛し、死ねばその骨を抱きしめ眠る。私は竜を象徴するウィズレイン王国の民の一人なのですから、故郷を愛さぬ理由はどこにもありません」
ようは、もうさっさと帰っていいですかね? という意味である。男爵家の領地は別にエルナの故郷でもなんでもないので、そこに帰りたいわけではないがとりあえずそれっぽく言ってみた。竜の名を出せば、いくら王とはいえ引かざるを得ないだろう。「そうかそうか」と、またヴァイドは笑った。「愛するべき者の骨と故郷。それはたしかに竜にとって、自身の命と同じくするほどに愛しきものだなあ」 なんかもう笑いすぎである。
「ならば、近々カルツィードの男爵夫妻がエルナルフィアとなった娘を祝いに王城に来るとのことだ。その際に馬車を同じくして帰りなさい。お前の命と引き離してしまい、申し訳なかったな」
「……ご厚意、痛み入ります」
うむ、とヴァイドは王様らしく頷いた。王様だけども。あの夫妻がやってくるのか、面倒だな、と考えつつもこれでやっと終わるのだと思うと、またとぷんっと胸が鳴った。不思議な音だ。素直になってはいかがでござるか? とハムハム精霊は踊っていたので、つんつんつついてやった。ぢぢぢ、とハムはぷにぷにで怒っていた。
***
さて、面倒なことになる……とエルナが考えていた通りに、とても面倒なことになったが、まあ予想通りの展開である。
「おお、ローラ、お前がエルナルフィア様であったとは……!」
「あなたは昔から敏く、どこか人とは違う子であったと母は感じておりました。本当に、すばらしい子ですわ……!」
「お父様、お母様……!」
父母との感動の再会、のように見えるが、実際彼らはローラが持つ竜の鱗は、もとはエルナが持っていたものであることは知っている。なんせ、ローラを産んだ本人はローラが赤子のとき手のひらに握っていた、ということは真っ赤な嘘であることは理解しているし、ローラはことあるごとにエルナから取り上げたガラスの石をちんけだと言ってばかにしていた。
まさかエルナがエルナルフィアであるとは考えてもいない。ただ、降って湧いた幸運という名のローラの欺瞞を全力で引き寄せ、娘を竜に仕立て上げ、権力を手にしようとしている。
薄ら寒い感動はヴァイドと、執事長であるコモンワルド、そして数人の護衛の騎士達の前で城の一室にて繰り広げられた。
その中にぽつりと立っていたエルナは、母に抱きつき泣き出すふりをしていたローラにぎろりと睨まれてしまう。この城に来てからというもの、ローラと顔を合わせることはなかった。だからこれだけ長く会わないことは久しぶりだったのだが、初めエルナを見たローラは、ぽかんと目を見開き、そしてそばかすが目立つ顔に苛立たしさを隠すこともせずにエルナを睨めつけた。そんなものじゃびびりもしないが、エルナの肩に乗っていたハムスターは『ぢぢっ!?』と震えていた。落ち着け。
なんにせよ、仲間はずれとなってしまったエルナは、ふう、と息を落としてそっぽを向くと、男爵は慌てたように「お前も、なあ、姉がエルナルフィア様であったことは、本当に喜ばしいことだろう?」と言質を取ろうとする。そうですね、と答えてやるとほっとした顔をしていたが、すぐに男爵はヴァイドへと進言した。
「ヴァイド陛下。おそれながら、この子がエルナルフィア様の生まれ変わりだとするのならば、わたくしどものようなその、萎びた領地に置くことは忍びなく……」
「竜にとって、故郷とは自身の命と、また愛しきものの骨と同等なほどに価値がある。そのような謙遜をするな」
「け、謙遜など……」
男爵はしきりに汗を拭う仕草をして膨らんだ腹をもう片方の手で何度も叩いている。つまり、ローラを王城に置き、そしてそれ相応の対応をしろ、ということを言いたいのだ。まるで打っても響かないヴァイドの様子に、男爵の表情は次第にこわばっていく。そしてその母子はじっと様子を見守っていたが、とうとう耐えかねたようにローラは叫んだ。
「陛下! どうぞ私をおそばに置いてくださいませ! 初代国王をこの背に乗せ空を駆け巡り、数多の魔族、魔獣を打倒したこの力、必ずやあなた様のお役に立ってみせますとも!」
「ふむ、そうか……」
ヴァイドは何かを考えるように、しきりに顎の下をかいている。ぽりぽり、と考えて、ちらりと視線をコモンワルドに向けた。おそらくそれはエルナにしか気づかない程度の、些細な動きだ。老人は、静かに頷いたようにも見えた。そのときだ。
「て、敵襲! 陛下、どうぞお逃げください! 謀反が、謀反が起こりました……!!」
勢いよく扉が開き、今にも命からがら、と言った様子で飛び込んだのは若い兵士だ。きゃあ! とローラは悲鳴を上げた。兵士ははあはあと肩で苦しげに息を繰り返し、倒れ込むような仕草で、一部の貴族を中心に謀反が起こったこと。また、多くの兵士が王城を攻め落とさんとしていることを一気に告げた。エルナルフィアの生まれ変わりを見つけたことで、これからさらに王家は盤石の地位を得る。その前に、叩き潰さんとしているのだと。
あまりの恐ろしさに震える男爵家を一瞥して、「さあ」とヴァイドはばさりとマントを翻した。
「ローラ・カルツィード。先程の言葉に、嘘偽りはないな。ならばその力、今こそ示してもらおうではないか! その体一つで矢面に立ち、反乱軍を殲滅せよ!」
***
「無茶に決まっております!」とまず叫んだのは男爵夫人だ。
「こ、こんなか弱き乙女に、何をそんな……そうです! エルナルフィア様の生まれ変わりなのですから、まずは安全を第一とし、一番にこの場から避難させるべきです!」
ローラは、まるで救いの女神を見るかのようにぱっと顔を明るくさせたが、すぐに希望はヴァイドに叩き落とされた。
「飛竜であり、火竜のエルナルフィアの生まれ変わりであるというのなら、その魔力はすべてのものを焼き尽くすであろう。初代の王を乗せたエルナルフィアの伝説はお前達が伝え聞いている通りだ。また、先程のセリフはそれがわかっているからこそのものではなかったのか」と、話すヴァイドの瞳は冷たい。必ずや役に立ってみせる、とローラはたしかにそう叫んだ。
がたがたとローラは震えていた。癖である親指の爪をぎちぎちと噛んで、動かない。「ローラ、大丈夫だ、なあ、大丈夫だろう……」 男爵はローラがエルナルフィアの生まれ変わりであるとはまさか思ってはいない。ローラは魔法を使うこともできない小娘だ。だから、大丈夫なわけがない。けれども男爵はローラがエルナルフィアではないという言葉は認めぬといった様子だった。一度手に入れた幸福は、掴めぬとわかればさらに欲しくなるものである。
そこかしこで城内では悲鳴が響く。その度にローラはがちりと爪を噛んだ。「ローラ!」と母が叫ぶ。否定しろ! とエルナは願った。エルナルフィアであると嘘を告げられたことに腹が立ったわけではない。このままでは大変なことになると考えただけだ。エルナは人の死が嫌いだ。だから誰であろうとも、無駄な死など見たくはない。
とうとう、悲鳴がすぐ近くから聞こえた。兵士が飛び込み、開けられたままであった扉に体中を鉄の鎧に包んだ男たちが剣を掲げて飛び込む。たまらなかった。だから。
エルナはいつの間にか飛び込んで、ローラの腕をひっぱった。
彼女のドレスの裾が破れてしまったことにすらも気にもとめず、ローラをかばい男達の前に飛び出た。そして、伸ばした腕とともに、ばちりと指を鳴らす。
「――燃えろ」
熱さの一つもおこらず、反乱の兵士は鎧を溶かし武器も失った。
悲鳴すらも出なかった。鎧を溶かされてしまった兵士達は、自身に何が起こったのかも理解ができず、なくなってしまった武器を探した。そして、事実に気づいた。目の前に立つ、ただ一人の少女が恐るべき御業を使い、武器と防具のすべてを失ったのだと。
奇しくもエルナは赤いドレスを身にまとっていた。
可愛らしいはずのひらめくレースは不思議と少女自身が燃え上がっているようにも見え、わななき、一人、二人とその場にいた人々は平伏した。ずらりと、その価値を知るように。
……ただ、男爵家と王であるヴァイドだけがじっとエルナを見つめていた。
男爵家は恐れて、ヴァイドは静かに、冷静に、何かを飲み込むように。その二つの差は、大きな違いではあったが。
エルナは、自身がしでかしたことをそのときようやく理解した。身体が勝手に動いていた。それだけだ。なんの言い訳のしようもない。けれども、首を振る。必死で振った。「ちがう」 凛としてその場に立っていたはずの少女は、段々と自身の表情を曇らせる。「ちがう、ちがう!」 何度も首を振って、人々に訴える。「私は……竜じゃない!」 くしゃくしゃな顔で、苦しげに、何かを求めていた。
「竜じゃない、竜じゃない、竜じゃないから……!」
それはとても滑稽な仕草だった。恐れるべき竜が、涙で顔をぐしゃぐしゃにして震えている。するりと、彼女の視界が隠れた。誰かに抱きしめるように後ろにひっぱられる。大きな、温かな手のひらが視界を閉ざし、涙をぬぐった。とん、とエルナの頭が誰かの肩にくっつく。「何を恐れている。言え」 ほっとする声だ。すとり、と胸の奥に響くような。
「骨を……とられた。母さんの骨を」
瞬間、ヴァイドの怒りが弾けた。
「貴様ら、竜の、愛しき者の遺骨を、盗んだのか……!」
原っぱの中で、帰りなさいと意地悪に、けれども優しく告げた男の声はどこにもいない。噴き出る怒りは収まることなく、ばりばりとまるで空間すらも揺らしているようにも感じる。あまりのヴァイドの剣幕に「ひ、ひぃ!」と、男爵は飛び上がるように跳ね、そしてすぐさま跪いた。額が床にごりごりと当たるほどに小さくなり、ぶるぶると震えた。
「まさか、こ、この娘が竜、いえ、エルナルフィアの生まれ変わりであられるとは、まさか、まさか思いもよらず! この者の母は金で買った卑しい平民でございます、ですからその、病で役に立たなくなったものを、こちらで処分をしてやったまででして」
「馬鹿な! この国の守護者は竜とされている! お前たちも知っての通り、竜は故郷を守り、そして愛しき者の骨を自身の命と同じ価値を見出す。だからこそ、我が国では咎人でさえも骨は故郷の家族のもとへと届けられる。咎人でさえも許される権利だぞ! それを……貴様ら……! そして、人身の売買を私は許可をした覚えはない!」
ああ、とその場に崩れ落ちた男爵夫人は、病で死んだ母を焼き、その骨を隠した。エルナを勝手に養子とした夫への意趣返しの一つでもあったから、男爵は夫人の行いを見てみぬふりをした。娘のローラはエルナに骨の場所をいつかは教えてやると、かわりに何でも言うことを聞くようにと命じた。その中で、エルナは自身のガラスのような鱗を盗まれた。
彼らからすれば、エルナが母の骨にこれほどまでに執着するとは思ってもみなかったのだろう。エルナは、記憶がなかろうと、あろうともどこまでも竜であり、知らぬうちに自身の性に縛られていたのだ。
「娘が、エルナルフィアではないことは初めからわかっていた。しかし、成人したばかりの小娘の戯言だ。自身からの撤回の言葉の一つでもあれば、ただの笑い話として済ませてやろうとそう思っていたというのに、まさか家族ともどもこちらを騙しにかかってくるとはな!」
射抜くようなヴァイドの視線に、男爵家三人はひぃっと身を寄せ合った。これから先の自身の運命を想像し、恐れているのだろう。しかしヴァイドはそんな様子を見て、吐き捨てる。
「我が国の守護竜であるエルナルフィアであるとの虚言、また遺族への遺骨の受け渡しの拒否、人身売買。そして叩けばさらに埃が出てきそうだな! 沙汰は、追って言い渡す。相応の罰を覚悟しておくがいい!」
泣き崩れる彼らを、エルナはただ呆然と見つめていた。
そしていつの間にやら床に下り、『やったでがんす』とくっつけることができないほどの短い腕をまるっと頭の上でさせて足を交差させるというポーズをしながらぷひぷひ鼻を鳴らす精霊の口をそっと閉ざして、反対の手では涙でぐちゃぐちゃな顔をぬぐった。
毅然と告げたヴァイドは、決して誇らしげな顔をしているわけではなかった。どこか、苦しげで、また悔しげで。まるで、自身の力のなさを嘆いているような、そんな横顔であった。
***
――エルナルフィア、もし俺が死んだとしても。なあ、エルナルフィア。
***
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