第11話 風の迷い竜
***
「……むしろ、知らないことしかないかもしれない」
エルナはむっつりと座り込み、街の歩く人の流れを見つめた。
掃除の次はお使いを頼まれ、今に至る。まだ王都には慣れていないだろうとノマは心配していたが、別に初めての場所ではない。世話好きのノマは、数日前にエルナに街の中を案内してくれていたし、もともと街のことなら全てわかっているつもりだった。
だから心配性の同僚が自分もついていこうかと提案してくれたときも、どうしても呑み込むことができない感情があったから、大丈夫と伝えて意気揚々と進んだ。
……そしてまったくだめだった。
いつの間にか空は曇り空になっている。晴れの日が大半のこの国では珍しいことで、まるでエルナの気持ちを空に写し込んでいるかのようで、なんだかもやもやする。
こぼれそうになるため息を抑え込みつつ石畳の階段に座り込んでいると、堪えていたはずのため息が口から重々しく溢れてしまう。別に、疲れているわけではない。
「……いつの間にか国が小さくなっているわ、逆に王都は立派になっているわと……」
あまりにもたくさんの変化についていけないだけだ。
もちろん、エルナルフィアは見上げるほどの大きさの竜だったからこんな風に直接二本の足で歩いて街をさまよったことはない。だから知っていることは人よりも少ないかもしれないけれど、王都の空はいつでも彼女のものだった。家も、店も、広場も、花も、木々も、どんな小さな変化だってエルナは大きく真っ青な瞳の中に写して、王都の空をいつもガラスの輝きや音で満たした。
――けれどもそれは、エルナルフィアだ。エルナでは、ない。
そう、わかっているのに。
「……天気が、悪い」
どれだけ瞳を細めて見上げたとしても、そこに竜の姿はいない。灰色の、重たい雲が流れていくだけだ。
「悔しいな」
言葉にして、さらに情けなくなってしまう。言ってしまった、と自分自身に呆れた。
エルナは貴族としては名ばかりだ。美しいと評判だったエルナの母は身重のままカルツィードの男爵もとへ妾同然の使用人として下り、そこで生まれたエルナは同じく使用人として扱われた。母の死後は養子としてカルツィードの名を与えられたが、結局扱いは変わらず、むしろ更に悪くなった。だから、国や王族の事情など知る機会さえもなかった。……でも、そう思うことはただの言い訳ということも理解してはいた。
「私は、ヴァイドのことならなんでも知っていると思っていたんだよ」
誰に話しかけているつもりでもなかったのだが、エルナの服のポケットから、ハムスターの精霊がちょこんと顔を出して、鼻の頭をぷひぷひと鳴らしている。聞いてくれる誰かがいるのなら、少しだけありがたい。
「そう、知っているって思ってたはずなんだ。でもヴァイドはもういない。私は竜じゃなくて、ただの田舎者で、王様に兄弟がいることも、自国の国土でさえもろくに知らない……粗忽者で」
ノマに城の中を案内される度に、この場にいる誰よりも知っているのは自分なのにと中途半端なプライドが黒い感情を伴って耳元でささやく。けれどもエルナが記憶の中で知っている城はもう何百年も昔のもので、改築や増築を繰り返された今の城など、もはや別物のようなものだ。
――俺は、ヴァイドであるが、クロスだ。お前もエルナルフィアでもあり、エルナでもある。同じ名を継ぐ必要はどこにもない。そして、俺たちが同じ関係である必要もない。
クロスは、エルナをぐるぐると持ち上げ、そう言った。けれどなるほどそうですか、とすぐに頷けるものじゃない。
「こんなの」
ぽつり、と石畳に丸いあとがつく。
「ただの迷子だな……」
ぽつぽつ、ぽつぽつ……。
いつの間にか、小雨が降り始めていた。いつの間にか歩いていた人の姿も見えなくなり、お前がいると雨の中にでもいるみたいだと過去に伝えられた言葉が、今では暗く重たいもののように感じてしまう。
『ハムハム。文字通り、ただの迷子でがんす』
「状況を冷静に伝えないでくれないかな」
座りながら膝の間に顔を埋めたまま呟く。
唐突に現実に引き戻されてしまった。エルナは目的地どころか現在地も把握していない。右も左もどころか北も南もわかっていない。『ピンチでごんす。ぷひぷひ』 新たな語尾を増やすな。
「……いやだめだ、こんなことしてる場合じゃない」
落ち込むことは仕方ない、と思う。でも座り込んで、びしょ濡れになりたいわけでもない。まずはどこか軒下に避難をして道を聞こうと考えたときに、ふいに頭の上が暗くなった。エルナのポケットから顔を覗かせていたハムスターは慌てたように潜り込む。
目の前には小柄なエルナよりもさらに小さな、淡い桃色の髪の少女が、傘を差し出したまま人懐っこい笑みを浮かべていた。少女の肩越しに見える暗い空を背景とはどうにも不釣り合いだ。
「お姉さん、もしかして雨宿りは必要かな?」
石畳の上を降り注ぐ雨が、ぽつぽつと黒く染め上げていく。ざあざあ、と次第に音は大きく、王都の街を塗り替えていく。
「さあさ、お姉さんどうぞぞうぞ。うちは誰でも歓迎だからね」と女の子はぴょこぴょこと高い位置でくくった髪の毛を揺らしている。大人びた口調だが、年は十かそこらに違いなかった。ぱちぱちと忙しなく瞬く瞳が可愛らしい。
女の子に案内されるままについた場所は、なんと教会の中だった。高い天井を支える柱には竜の彫刻が彫られている。思わずエルナは声に出さないまでもじっと見上げてしまう。
「うちはエルナルフィア様を祀っているから。タオル、取ってくるからね!」
そう言って、ぽたぽたと雫が滴る傘をエルナに渡して、ぴゅんっと姿を消してしまった。なんとも素早い。「お、お、おう……」 声をかける暇すらなかった。差し出した片手が、切なく揺れた。
「修道女……では、ないか」
もしかすると、孤児として教会に面倒を見てもらっているのかもしれない。教会と孤児院が併設しているのはよくあることだ。あとは司祭が個人的に孤児の面倒を見ている場合もある。エルナルフィアは子ども好きだから、といわれているらしい。たまに空を飛びながら尻尾を振ってサービスをしてやっていたからだろうか。
(そういえばハルバーン公爵も、エルナルフィア教だって言ってたな……)
エルナを養子にすることを提案した声も身体もでかい男のことである。
まさか早々に関わる機会があるとは思わなかった。頭の上からはしとしとと雨音が響いていた。だからだろうか。暗い室内は人気もない。
薄暗い室内では長椅子がずらりと入り口に背を向けて並んでおり、いつもならば多くの人も座って竜のオブジェに祈りを捧げているのだろうか、と考えるとなぜだか妙に気後れした。本来なら明るい光を取り込むことができるはずの色づいたガラス窓も、今はぱたぱたと雨が叩きつけられている。
ぶるり、と寒気がしたと思うと、「ぶくしゅっ」とくしゃみが飛び出た。口元を押さえたエルナの肩がぴょん、と上がる。「冷えたからかな……人の身体は簡単に駄目になる」とハムスターを入れているポケットとは別の場所からハンカチを取り出しぽふぽふと顔に当てつつ首を傾げた。
ご覧の通り、エルナは体質的に雨があまり得意ではない。だから、桃色髪の女の子に屋根がある場所へと案内してもらったのは実はとてもありがたかった。そして仮にもエルナルフィアを祀っている場所だ。少しは関わりも深い……はずが、奇妙に心の距離が遠い。まるで他所のご自宅である。いや文字通りそのはずなんだけども。
「でも、なんだろう、何か……」
「カカミ、帰ってきたのかい? それとも、どなたかいらっしゃるのかな」
思わず、ポケットの中から顔を覗かせようとしていたハムスターの頭を持っていたハンカチごと、ぽきゅっと押した。『ハムぎゅっ!』 あとで謝らねば、と思いつつもエルナは暗がりから姿を現した男を見上げた。
初老の、丸メガネがよく似合う柔和な男だ。背丈も高いわけでもなく、けれども低くもなく。顔に刻まれた皺はその人の人柄を表しているようで、口元は柔らかく微笑んでいる。カカミとは、先程の少女のことだろうか。
「見ない顔ですが……カカミのお客様でしょうか」
男はエルナが手元に持つ傘を見て、そう判断したらしい。「いえ、その……」 客、というには少し違うようにも感じてエルナは曖昧に返答した。そして、白い司祭服に腕を通した老人に問いかける。
「司祭様でいらっしゃいますか」
「ええ、そうですとも。エルナルフィア教は、どなたでも門戸を開いておりますよ。もしよければ、あなたも」
「ああ、はは……」
自分に自分で祈るというところを想像して、なんとも言えない気分になってしまった。エルナルフィアという竜を大切にする彼らを否定したいわけではもちろんないが、困惑する気持ちはどうしても消すことができない。エルナのそんな様子を、司祭はどうやら思い違いしたようで、ゆっくりと微笑む。
「考えてみれば城で働く方がわざわざこんなところまで来る必要はありませんね、ウィズレイン城では本物のエルナルフィア様がいらっしゃるとのことですし」
どくん、と心臓が跳ね上がってしまった。
「……こんな教会で祈りを捧げるよりも、よっぽどお近くにいらっしゃる。まだ、エルナルフィア様であるとはっきりと決まったわけではないようですが、竜の鱗を握っていらっしゃったのだと伺いました」
そこまで聞いて、彼はエルナではなく、ローラのことを話しているのだと気づいた。
司祭はエルナが袖を通している服を見て、どこからやってきたのかということがわかっていたのだろう。
「そう、らしいですね。ただ私は、よく知りませんが」
「そうでしたか。実は私も司祭という立場ですので小耳に挟んだだけでして」
すでにローラは城にはいない。疑惑があるカルツィード男爵家への調査、そしてエルナルフィア詐称の罪としてしかるべき場所に更迭されたと聞く。ただし、そのことを知るのはまだ一部の者達だ。
カルツィード家の調査が終わり次第、時期を見て公表されるのだろうが、多くの令嬢の前で自身が竜であると主張したローラの噂をかき消すことはできなかったため、一般の人々には“エルナルフィアかどうかは仮のまま、ローラはカルツィードの地へと戻った”と伝えられている、と聞いている。
「もし本当にエルナルフィア様がご転生なさったというのなら、ぜひとも教えていただきたいものなのですがねぇ。一体なぜ、こうもはっきりとさせないのか……」
「はは……」
「おっと、エルナルフィア様を待ち望むあまりに、こんなことを。失礼しました」
なんとも言えずに曖昧な返答ばかりを繰り返していたから、「お姉さん!」と大きな声を出して飛び込んできた少女――カカミという名前なのだろう――を見て、ほっとした。カカミは司祭を目にすると、「私のお客様! 雨宿りにお誘いしたの!」と早口で説明して、タオルを差し出す。
カカミの勢いに押されつつも、ありがたく受け取る。代わりとばかりに、借りていた傘を渡すと、「持っててくれてたのね、ありがと」と逆にお礼を言われてしまった。
「ううん。お礼を言うのはこっち。道もわからないし、雨も降ってくるし、正直すごく困ってた。あのままじゃ濡れネズミ……いや、濡れハムになってたかも」
「大したことはしてないよ。うちは迷える子羊はいつでも歓迎だもの」
「あなたの名前、カカミっていうの?」
「そうだよ。カカミ。お姉さんは?」
「エルナ」
「いい名前!」
カカミはにかっと白い歯を見せて、ぴょこん、と元気に飛び跳ねたから、エルナはきょとん、と瞬いた。それから、勝手に自分の口元が緩んでいることに気づいていた。
「この傘、すごく不思議だね。太陽の下じゃなくて、雨の下で使うなんて初めて見た。面白いな、王都じゃ流行ってるの?」
「違うね、私が流行らせたいと思ってるの。すごいでしょ? 普通は日に焼けないためにするけど、雨に濡れないためだからね。布は普通とちょっと変えてあるの。王都は雨が降っても小雨だから濡れてもあんまり気にする人はいないけど、こういうのがあってもいいと思うんだぁ」
そう言って、カカミは「ぱかっ!」と言いながら傘を開き、飛び散った雫に顔を濡らした司祭は、「やめなさい」とたしなめている。賑やかな女の子だ。
カカミはぺろりと舌を出しながら肩をすくめた。それからすぐに大きな瞳をくるくるさせて、エルナを見上げ首を傾げた。
「エルナさん、道に迷ってたんだね。――それで、どこに行きたいの?」
もちろん、彼女からしてみれば何の気なしに問いかけられた言葉なのだろう。
なのに、問いかけられたエルナからすると、まるで雨の中で一人きりでいるような気にさえなった。眉を寄せて、顔を伏せる。けれどもエルナよりもカカミの方が背が低いから、何の意味もない行為だった。カカミは「ううん?」とまるでいたずらっ子のような顔をして、「あ、まさかエルナさん」と、にまりと笑いながら自分の口元に人差し指をのせる。
「もしや照れているのだね? やだなぁ、人にものを尋ねることは、別になーんにも恥ずかしいことじゃないんだよ。どーんと人に聞いたらいんだよ、どーんとね!」
息を呑むように瞬いてしまったのは、少女の言葉が意外にも真実を灯していたからかもしれない。エルナは唇を噛みしめて、考える。
(そうだ、私は、恥ずかしい――そう、考えていたんだ)
自分の方が、ずっとこの国のことを知っているのに。街のことや、城の構造だってわかっているはずなのに――それなのに、長過ぎるほどの時間は国を、人を変え、場所を変え、エルナが知る全てを変化させた。
ノマが親切で教えてくれているということはわかっている。けれども、ノマの親切を感じる度にエルナの胸の内には渦巻くものがあった。
恥ずかしいし、悔しい。この国のことを、エルナルフィアを愛してくれるはずの彼らを、何も知らないことを。
「……サンフラワー商店、というところに行きたかったんだけど」
「そこなら知ってるよ、すぐそこだよ! 教会を出て、まっすぐに行ったら大きな看板があるから。案内しようか?」
「ううん、ありがとう。でも雨が上がる前に行きたいから。そろそろ戻らなくちゃ」
エルナのポケットの中ではハムスター精霊が、エルナにしか聞こえないように小さな声を出してごそごそと何かを主張している。『近くにいけば、匂いでわかるでごんす』 随分鼻がよろしい、と思うと、『隣が花屋でごんした。ひまわりの種は芳醇な香りでがんす』 鼻の先だけ出して、ふんすーふんすーとうっとりしている。中々に強い。ひまわりの種が。
それはともかく、とエルナは借りたタオルを返して、すっかり小雨になっているらしい外をガラス越しに見つめた。
「ええっ。エルナさん、もう行っちゃうの? そうだ、傘を貸してあげる」
「小雨だし、すぐにやむよ。わかるんだ。絶対に、またお礼に来るね。今度は道を忘れないから」
「やだなあ、大げさ!」
「お気をつけください。エルナルフィア様は雨を好まれなかったと聞いております。不浄なものと忌み嫌われていらっしゃったとのことですから」
カカミと話している最中にかけられた司祭の言葉にエルナは首を傾げた。けれど、もう随分時間を使ってしまっていたから、ぺこりと頭を下げてそのまま飛び出そうとする。そのとき、ちょい、とカカミがエルナのスカートをつかんだ。つんのめって、びっくりして振り返ると、彼女は不安そうに瞳を揺らしながらエルナを見上げていた。「ねえ、エルナさんはお城の人だよね。その……」 そこまで言って、首を振る。
「……どうかした?」
「ううん、よかったら、また会おうね。エルナさんが、迷子じゃないときに!」
返事は、思わず苦笑してしまった。
「……そうだよね、カカミに会えてよかった。そうじゃなきゃ、ずっと迷ってたかも。ありがとう」
そう言うと、カカミは大きな瞳をぱちん、と瞬いた。ぱちぱち、と瞬きを繰り返した後ににこりと笑ったかと思うと、さっとすぐに表情を曇らせた。どうしたんだろう、と思うと、ぴょんぴょんと飛び跳ねて口元を片手で覆った。なんだろう、と不思議に感じつつエルナがしゃがむと、カカミはエルナにしか聞こえないくらいに小さな声を、そっと耳元で囁く。
「……あのね。私もね、頑張らなきゃいけないことがあるの。応援してくれる?」
先程までとは打って変わって、とても自信がなさそうにして、カカミは顔までしょんぼりとしている。だから、ちょっとでも元気を出してもらいたくて、「もちろん」とはっきりと答えると、カカミは可愛らしく頬を緩めた。
そんな彼女の顔を見るとなんだか嬉しくなって、エルナは手を振りながら飛び出した。
雨で消えていた人たちも、ちらほらと街の中に戻ってきた。教会を背に、エルナはぽんっと足を踏み出した。いつの間にか、空には雲が流れ、真っ青な空が見える。ぽん、ぽんっ! 大きく進んで、濡れてしまった服もエルナが歩くほどに乾いて、ふわりとやわらかくスカートの裾が翻った。
エルナが飛び跳ねるようにお使いを終えて城に戻ると、「エルナ、あなた一体どこに行っていたの!」と飛び込んだノマの眉はつり上がっていた。しかし言葉の割にはどうにも勢いがなく、すぐに泣き出しそうな顔になり、短い髪の端をぴよぴよと跳ねさせるように身体を上下にしてしょぼくれ始めた。
「どこって……そうよね、わかってるの、お使いよね。頼んだのは私だもの! でも随分帰りが遅いし、雨も降ってくるしで」
「あのね、道がわからなくなっちゃったんだ」
案外するりと言葉が出たことに驚いた。今朝までの自分なら、嫌なプライドが邪魔をして適当にごまかしてしまっていたかもしれない。
ノマはエルナの顔を呆然として見つめた。
ちょっと気まずい、と思うと、「そうよね!」とノマは叫んだ。
「そうよね、王都に来て日が浅いんだものね! 地図くらい、書いて渡すべきだったわよねぇ~~~!」
「え、いや……」
後悔のあまりに歯ぎしりまでしそうなノマを見て、エルナは小さく笑ってしまう。ポケットの中から、お昼寝をしていたらしいハムスター精霊が『……んごっ! ふごっ』と寝ぼけて顔を出している。外は昼寝をしたくなるくらいにぽかぽかな天気に変わっていた。
「……ごめんね、ノマ」
「えっ、なにが?」
ノマはぱちっと大きな瞳を瞬いて首を傾げた。その様子がカカミととても似ていて、エルナは楽しくなってしまったが、そんなことは知らずにノマはエルナの身体全体をぱんぱんと叩き始めた。
「それより濡れてない? 濡れてないわよね、あれっ、ほんとに濡れてないわね!?」「ああ、お使いの品はきちんと厨房に届けたよ、そっちは濡れてないから大丈夫……」「それはいいのよ! いやよくないけどいいのよ!」
すったもんだである。誰もいないから気が緩んでしまっている、と言えばその通りで、だからと言ってこれはよくない、とお互いに顔を見合わせて口を閉じた。けれども次の瞬間、「あー!!!」 ノマの視線がエルナの足元に移動し、何事かと驚くと彼女はすばやく何かを拾い上げた。ただの木の板のようだが、表の面には文様が刻まれていて、上部にあけられた細い穴にはちぎれた飾り紐がだらりとぶら下がっている。
「こ、これっ、証印じゃないの!」
「……しょういん?」
「城の兵士が一人ひとり持たされている自身を証明する印だけど、ああ、ちぎれてる……」
すぐさまハッとしたようにノマは顔を上げて、城の窓から顔を覗かせ、「ほら、あそこ! あそこにいるのがさっきまでここにいた兵士! 雨が降ってきたから城を包む法術の確認をしなきゃってさっきまで点検してて今は外に……こらー! 忘れ物よー!」
ノマが大声で叫ぶと、兵士は立ち止まりきょろりと周囲を見回した。灰色の髪の青年のようだが、こっちから見えてもあちらからわからなければ意味がない。どこから声がしたのか、わからなかったのだろう。兵士はすぐに首を傾げて、ぽくぽくと遠ざかっていく。
「あーあ……」
ノマの手に握られた飾り紐が、ぷらりと虚しく揺れた。城は高く、すでに兵士は小指の先のような大きさになってしまっている。伝わらないのは無理もない。
「……困るの?」
「そりゃ、困るんじゃない? 門を通る許可も証印を使うから。でも落としたところで本人にしか使えないように魔力をなじませてるって聞くし、悪用できるわけじゃないから別に後に渡しても」
と、ノマが説明したとき。
エルナは、ひょい、と窓枠に足をかけた。「え?」とノマが首を傾げる。ノマの手に握られていた証印をするりと引き抜き、そのままぽんっと。「え、あ、え、え?」「じゃ、届けてくるね」 身体を、宙に放り投げた。
「うそ、え、え、え、エルナーーーー!!?」
ノマが掻き抱くように両手を伸ばしたが、もちろんそんなものは届かない。すぐさま、エルナの頬を冷たい風が叩きつけた。
――もう、エルナは空を飛ぶことはできない。
エルナの身体の全身に、激しい風が叩きつけられた。両手と足を広げ、身体を大きくさせ、抵抗を防ぐ。スカートの布が足にはりつき荒れ狂い、頭にかぶったキャップは簡単に吹き飛んでいく。
『ハムッ!? ハムムムムムゥーーーー!!!!』
「大丈夫」
ハムスター精霊はポケットから飛び出し、小さな爪をエルナの服にひっかけばたばたと風の中を泳いでいたから、手を伸ばして助けてやる。
ひょおう、ひょおう。響く風の音は、まるで他人のようだった。懐かしさなど、どこにもない。エルナの身体は小さく、風の中を引き裂くにはあまりにも頼りない。だから、そう。とにかく、寂しい。
変わってしまったみんなが寂しい。もう出会えない彼らを思い出す度に、胸が苦しい。
ぐんっとエルナは壁面を両足で叩きつける。そのまま、身体をねじり、隣の塔の壁に着地し、さらに蹴り上げ少しずつ高度を落としていく。
悲しくて、寂しい。けれど、それは。
――俺たちが同じ関係である必要もない。
(うん。……そうだ)
クロスの言葉は、エルナにとってまるで薬のようだ。何度も、何度も思い出して、胸の内にある大切な小箱の中にこっそりとしまい込んだ。
エルナがとうとう細い両足で地面に着地したとき、「はわ、あ、あ、あ、あわわ……」届けに来たはずの灰色髪の兵士は、尻もちをついて口をぱくぱくとさせていた。なんだか表情に愛嬌のある青年だ。
「落とし物です。どうぞ」
「いや、今、上から、上から……? 上から……」
「大切なものなのかなと」
こっちの方が速いので、と伝えるエルナの頭の上では、ノマが何かを言っている声が聞こえる。遠すぎて、何を言っているのかわからないけれど、あれだけ危ないと言っていたはずの彼女も、上半身を乗り出して、ぶんぶんと拳を振りかぶっていた。なんだろう。なんとなくだけど、あんまりよくない雰囲気な気がする。怒っているような感じ。
どうしたのかな、とぼんやりと考えて、やっとこさエルナは今の状況に気がついた。それから、居心地悪く、頭の後ろをぽりぽりと引っ掻き――ちょっとだけ照れた笑いを落とした。
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