第12話 鮮やかな記憶。忘れられぬ物語。

 

 そのときと、エルナは同じ顔をしつつ、腹を抱えて笑うクロスの前で小さく座り込んでいる。


「おっまえ! 飛び降りるか! 城の上から下まで! あの高さを! 思いっきり!」

「……人は高いところから飛び降りないってことを忘れてたんだよ。いや、覚えてるけど、なんていうか、たまに何か、こう、頭の中が変になるときがあって」


 もちろん、ノマには後でめちゃくちゃに怒られた。忘れ物を届けに行ったはずの兵士もすっかり腰を抜かして呆然としていたので、さすがに気の毒なことをしたと反省をしている。

 人間としてはありえない身体能力を持つエルナに彼らは疑問を持ったが、「あなたって、風の魔術がすっごく上手なのね」と呆れたような声でノマが言っていたので、そういうことにしておいた。

 思い出す度に苦い気持ちになってしまうエルナだったが、クロスは自身の椅子に座り込みながらくつくつと肩で笑い続けている。


「おかげで妙なメイドがいるって噂がもう広がりつつあるみたいですよ……っと。はい、王様! 厨房からのお届け物です! 戻りますね! 消えますね! はいさようなら!」

「待て、すねるなすねるな」


 わななくエルナの手には盆が載せられていた。本日、エルナが雨の中お使いに行った販売店で購入した砂糖で作られたものらしい。大量の砂糖を持ち上げながらひょいひょいと軽い足取りで帰ってくるエルナを見て、厨房では悲鳴が響き渡ったし、頼んだノマもまさか全部を一度に持って帰ってきていたとは、とくらりと意識を遠くしていた。


「なんなの。仕事中ですから、構わないでください」

「お前をここに来させる上で、コモンワルドには伝えてある。まあちょっと、話だけさせてくれ」


 お前にも伝える必要があると思っていたんだよ、とクロスが立ち上がると、執務室の机の上に置かれた書類の雪崩が起きた。慌てて盆を持つ手と反対側の指を振ると、格子の隙間からやってきた風の精霊がひゅうっと息を吹き出し、まるで時間が巻き戻ったかのように元通りとなる。


「悪い。しかし、さすがだな」

「別に簡単なことならお願いしたらしてくれるだけ。それにしても、この部屋。随分精霊が多いよね?」

「俺には見えないが、そうか」


 うん、とエルナは返答をしようとするが、すでに体中にわいわいとやってきているため、「だぁ!」と叫んで暴れた。きゃあ! と精霊たちはすぐさま逃げたが、何度でもやってくる。遊んでいるわけじゃない。


 庭のように自然が近く過ごしやすければ精霊は自分から勝手にやってくるものだが、明かりがよく差し込む格子窓があるとはいえ、少し違和感があるほどにクロスの執務室はわいわいと賑わっている。いつものハムスター精霊もエルナの頭の上で、えいやほえいやほと踊っていた。


「うん。伝えたいことは、それだな。ちょっとこっちを見てみろ」


 と、言いながらクロスは自身の右手を突き出した。ゆっくりと息を吸い込み、ぴたりと止める。そのとき、クロスの右手から魔力が溢れ出していることに気づいた。


「……これは?」

「証印だ。俺の場合、この身に刻み込まれている」


 ――証印。それは兵士の忘れ物と同じだ。許可された扉を開くことができる魔術なのだという。

 ゆらり、と吹き上がるような魔力とともにゆるやかな風が生まれ、クロスの右の手の甲は淡く燐光した。こぼれ落ちるような光が静かに消えて収まったとき、いつの間にやら部屋の壁にはぽっかりと人が通ることのできる穴ができあがっていたから、エルナは目を丸くしてしまった。


「……ん? いやこれは、ん? 何これ?」

「エルナ、こっちだ」


 クロスはそう言って迷いのない様子で進んでいくものだから、エルナは彼の背中を追いかけるしかない。盆を両手に持ったまま訝しげに周囲を見回しつつ、先に向かう。かきん、ぱきん、かきん。穴の先はただただまっすぐに続いていて、妙な音がすると思えば、驚くことに足元の道は薄く透明なガラスでできている。周囲は草木が生い茂り、まるで森の中を突き抜けて通っているようだ。精霊達が楽しげにくるくると飛び回っている様子を見て、こんな道が近くにあれば、そりゃあ部屋の中にいくらでもやってくるだろうな、とエルナは呆れた気分になってしまう。


 かきん、ぱきん、かきん。からん。歩く度に音を立てるガラスの道は、よく見ると、足元からほとほとと静かな波紋が広がり続けている。水の上を歩いているようだ、とも感じた。


 ときどき屈んで木の枝を避けて、歩くだけで音楽を鳴らしながらエルナとクロスは進んだ。「……どこまで行くの?」「もうすぐもうすぐ」 何度目かの問いかけである。このまま無視して走り去ってしまおうかな、なんてエルナが考えたとき、やっとのこと開けた場所にたどり着いた。


 片目を眇めつつ様子を窺うと、そこは周囲も、天井も、全てが緑で覆い尽くされていた。一本の太い樹木が悠々と伸び上がり、枝葉で空を覆い尽くしていたのだ。さすがのエルナも目を次第にぱちくりさせながらその光景を見回した。


 地面は短い草が生え揃い、みずみずしい。なのに、妙に静かだ。


「……この場所は、キアローレの大樹の下……? 空間が、ねじれ曲がっているのね……」


 ――ヴァイドは誰もが恐れるはずの火竜エルナルフィアを仲間とし、宝剣キアローレを片手に魔族に果敢に挑んだ。そしてやっとのことで魔族を突き刺したはずの傷からはみるみるうちに緑が溢れ、穀物が生まれ、一本の大樹となったキアローレを礎とし、今日の王国が出来上がったという。


 子供なら誰もが知る、初代国王の英雄譚だ。


「そうだ。そして、あのおとぎ話には、一つ間違いがある」


 クロスは呆然とするエルナを置いて、ざくざくと進む。白い丸テーブルと二つの椅子が置かれていたから、エルナは盆をテーブルに置きつつ、慌ててまたクロスの後についた。


「おとぎ話の剣は大樹になったが、実際は違う。ただ、大樹と国を守っているだけだ」


 エルナが両手を伸ばしても抱きしめることもできないほど太く大きな幹の前には、ぽつりと、一本の剣が突き刺さっていた。木漏れ日の中でそれは時間すらも忘れているようにも見えた。柄に巻き付いた蔦に指を添えながら、クロスはじっと、感情を抑え込むように呟く。


「代々のウィズレイン王国の王は、この場所を守っている。そして、ここは俺が、過去の記憶を取り戻した場所でもある」


 クロスにとっては、きっと見慣れたものなのだろう。けれども、エルナは違う。はくはくと口を動かし、震えた。飛び出したのは、随分かすれた声だった。


「キアローレ」


 そうして、やっとのことで剣の名を呼んだとき、剣はエルナに呼応した。一瞬にして視界が移り変わり、大勢の人間が笑っている。


 大樹の下で溢れかえんばかりの人々がジャグを打ち鳴らし合い、エールの泡を飛ばしている。ざあざあと、雨のような花弁が降り落ちていた。子供はそれを拾い集め、大人は酒や踊りに夢中である。一番大声で笑っている男の名前はケネスといって、ヴァイドの右腕のような男だった。エルナルフィアはうるさい男だと思っていたが、もちろん嫌いなわけではなかった。


 ケネスは、ルルミーという女性に惚れ込んでいて、ルルミーはそんなケネスに気づいていたが、いつもそっけない態度をとってしまうことに悩んでいた。エルナルフィアは、ルルミーからの相談を聞きつつも、悩みながら優しく鱗をなでてくれる彼女が好きだった。ケネスには弟がいて、彼は将来立派な騎士となったが、今は大樹からこぼれ落ちる花弁を拾うことに熱中していた。きゃあきゃあとうるさいほどに声を出して街中の子どもたちを率先し、いつの間にか大きな布まで持ち出している。


 そこらいっぱいになるまで机や椅子を持ち込み、うまい飯を作って、食って、一年の始まりを祝う。ただただ楽しげな様子を、背が高い黒髪の青年が一人、剣の横にたたずんでいる。その隣にエルナも二本の足で立っていた。男の顔を見ることはできなかった。エルナは顔をしかめて唇を噛みしめ、それでも吐き出てしまうような感情をなんとか呑み込み、堪えたと思ったはずが、鼻の奥が、つんとする。

 いつの間にか、静かに涙が頬をつたっていた。


「なんてもの、見せるんだよ……」


 これはもう、消えてしまった彼らだ。


 誰も彼もが、エルナを置いて消えていった。待ってと叫んでも、誰も待ってなんてくれなかった。必死にエルナも歩く速さを合わせようとして、足りなくて、追いつけなくて、消えていく彼らが恐ろしくて、大切なものなど、もう決して作るまいとエルナは誓ったのだ。


 ……違う、誓ったのはエルナではなく、エルナルフィアだ。

 そう気づく頃には過去の記憶は色鮮やかに通り過ぎていた。誰もいない静かな大樹の下でいつの間にかへたり込んでしまっていたエルナの頭を、クロスの大きな手のひらが優しくなでていた。とめどなく涙が流れる。エルナルフィアが愛したものは、全て消えた。うたかたの夢のような愛しい記憶は、目覚めたときにさらに虚しくなるだけだ。


「……エルナ、悪いな。しかしこいつも、悪気があったわけじゃないんだろう。ずっとこの場で国を見守ってきてくれたからな。……悪童が握りしめていたはずのただの剣は、長く人々に語り継がれることで物語となり、力を得た。懐かしいと、伝えたかっただけに違いない」

「……おかげで、随分泣かされたけど」

「うん、泣きやめ。俺はお前の泣き顔は得意じゃない。むかむかするし、もやもやする」

「もう泣き止んでるに決まってる。問題ない。自分が弱くなったことを実感して、私だって嫌だよ」

「何度も言うが別に弱くはなってはいないだろう。ところで何度も言うといえば、そろそろ俺の嫁になってはどうか」

「ナチュラルに会話に盛り込むのはいい加減やめようか!」


 エルナの頭からは、『ごんすごんす』とハムスターが頷いている。エルナの言葉に肯定しているようにも見えるが、多分適当に相槌を打っているだけである。このハムスターはちょっとそんなところがある。


「それはさておきだ。さあエルナ、こっちにこい。茶でも飲むぞ」と、クロスが向かったテーブルには、いつの間にやらティーポットが置かれている。先程までは間違いなくなかったはずなのだが、もちろん、カップも常備されていて、温かな湯気まで立ち上っていた。カップの中に入れられたゆらゆらと踊る黄色い鮮やかな花弁は精霊達からの贈り物か。


「やだな。古代遺物<アーティファクト>じゃない。なんでこんなところにあるの」

「いいだろう。紅茶がいくらでも噴き出るポットとカップだ。カイルヴィスが作ったものが城の中に残っていたんだ」

「あの発明バカの? ポットとカップ、両方から吹き出たらポットがある意味がないよね? 何考えてたの?」

「作りたくなったから作ったんだろう。俺だってよくわからん」

「変なやつだったからね」

「変なやつだったな」


 そう言って、二人で座りながらカップを両手で抱きしめて静かに口をつけると、また泣きたいような気持ちになった。今度は、悲しくなったわけではない。竜であった頃のエルナの指先はこんなすぐに壊れてしまいそうなカップを持つことなんてできなかった。人としての今があるからこそ、こうしてお茶を楽しむことができる。新しい何かを、一つひとつ、知っていくことができる。


「ほら、エルナ」

「ん? ん、んん!?」


 ぽい、とエルナの中に放り込まれたのは星だった。エルナがクロスにと厨房から持ってきたおやつである。つぶつぶとした星型の砂糖は色とりどりで可愛らしいが、どんな味がするのか想像もできなかった。ぽり、と噛みしめるとエルナの全身で甘みが弾けとんで駆け抜けた。なんせ、竜としての生の記憶の中にも、カルツィード家の養子としても、甘いものを食べた記憶なんてものはなく、実はこれが初めてだ。


 人生初めての“おやつ”に、エルナは顔を真っ赤にさせながら目の前をくらくらさせた。


「な、な、な、な、なに、これ……!?」

「何と言われても。ただのコンフェイトだが……。うん、うまい。もっと食うか。いや、食え」


 ごくり、とエルナは唾を呑み込み、瓶の中に入った色とりどりの星の粒をまるで恐ろしいものを見るかのように椅子の背にぴたりと体を合わせて距離を取りつつ首を振った。「や、やめとく。お、おいしすぎるもの。すごく怖い」「……どんな理由だ……?」


 甘党なのだろう。訝しげになりつつも、クロスはぽい、と口の中にコンフェイトを放り込みながら「まあ、たしかに。うますぎるものは少しでいいな」と呟き、ぽりん、と歯で音を立てた。そんなクロスを見ると、やはりヴァイドのことを思い出してしまう。


 ヴァイドは肉も酒も好物だったが、『健康に、長く生きる秘訣はうまいものを少しにすることだ』とよく笑っていた。長い命を持つエルナルフィアが一人きりになってしまう時間を、ほんのわずかでも短くするために彼は人の生をたらふく生きた。そのように、努力してくれた。


 瞬き一つの短い、大切な、大切な時間だった。エルナはぐっと紅茶のカップを両手で握りしめ、なんとか膨れ上がる気持ちを抑え込んだ。幾度か息を吸い込んで吐き出したとき、クロスはじっとエルナを見つめていた。今度は別の意味で心臓が大きな音を立てたから、クロスに聞こえてしまったのではないかとエルナは慌てて顔を伏せて、カップの中身に視線を落とした。


「さっき、ここは俺が過去の記憶を取り戻した場所でもあると言ったな? まだ、十にも満たない頃のことだ。俺も幼かったからな。ヴァイドであった頃と今の俺と、正直よくわからんと混乱した。お前以上のひどい醜態を晒したこともあるぞ」


 そこまで語るクロスを見て、なぜエルナをこの場に連れ出したのかということを理解した。エルナは、エルナルフィアとしての記憶を取り戻してからまだふた月も経っていない。朝になると未だに自分のしっぽがないことに驚くし、飛ぶことのできない空をいつまでも見上げてしまうときがある。そのことを気にするな、と言ってくれているのだ。また、温かい何かがエルナの胸の内に膨らんでいく。でも、そのことに気づかれないようにと出てくるものはひねくれた言葉だ。


「……クロスは、ちょっと私に過保護すぎじゃない?」

「え? 養うか?」

「文脈大丈夫!? 会話の流れ本当にそれで合ってる!?」


 エルナのツッコミが止まらない。白いテーブルの上には、いつの間にかハムスターが移動してかしかしとコンフェイトを口にしながらほっぺをぽっこり膨らませている。精霊なので、なんでも食べる。


『これはこれでデリシャスでごんすな。もっと食べるでがんす』

「いつか頬袋が弾け飛ぶよ……。じゃなくて、その、ううんと」

「ああ、言い忘れたが、俺がヴァイドの記憶を持つことは誰も告げていない。できれば口を閉ざしてもらえれば助かる」

「そうだったの!? たしかに記憶があるってなったらものすごい騒ぎになるだろうけど! 言ってよ! 私がぺろっと言ってたらどうする気なの!?」

「どうもしない。うっかりしていた俺が悪い」

「正直者めぇ!」


 クロスと会話をしていると、とにかくぜぇはあしてくる。体力は魔力で補っているので無尽蔵であるはずなのだが、それ以外の何かが疲れる。


「だから、言いたいことは、その、そうじゃなくて」


 簡単に、養うとか、嫁にするとか、言わないで。


 そう言いたいはずなのに、口を開けるとはくはくと声が出なくて、心臓がとにかく痛い。「……どうした?」 ぱちり、とクロスが金の瞳を瞬くと見つめ合うことすらも苦しくなる。「なんでもない」と、絞り出した声がせいぜいだ。胸の中がぎゅうぎゅうする。


「ほれ、もう一粒くらい食え」

「うん……」


 なのにクロスは甲斐甲斐しくエルナの世話をして、口の前にコンフェイトを見せつけた。頷いてそのまま身体を乗り出し、ぱくんと食べるエルナの気分はエルナルフィアだ。竜であった頃の食事はヴァイドの魔力で十分だったが、時々は嗜好品として野菜や果物を食した。ヴァイドの手ずから与えられ、なんだか懐かしいなと瞳をつむりながらころころと口の中でおやつを転がすエルナは、彼女が舐め取るように食べた瞬間、弾かれたようにクロスがぱっと指先を跳ね上げたことは知らなかった。


 エルナが食べ終わり瞳をあけたとき、クロスは自分の手を見つめて、なぜだか何度も拳の形にしたり、開いたりと忙しそうにしていた。なんだか変だが、クロスがエルナの理解の範疇外であることはいつものことなので特に気にしないことにした。


「……そういえばキアローレもそうだけど、この木も随分大きくなったよね。昔から大きかったけれど、こんな……円状じゃなかったし、まだ常識の範囲内の大きさだったと思うし」

「あ、ああ。キアローレの物語と混じり合って、いつの間にか力を得たんだろうな。言葉を紡ぎ、語ることは魔力を紡ぐことと似ているから」

「そっか……ねえ。さっき見たみたいに、春には一斉に花が咲いて、散っていたわよね? 雨みたいで好きだったな。今でもそれは変わらない?」

「ああ、むしろそれよりも、もっとすごいことになっている」

「もっとすごい……」


 ごくり、とエルナは唾を呑み込んでしまった。昔からすごかったような気がするが、もっとと言われると想像ができない。


 街も、人も変わっていく。それは長い時間が流れてしまったのだから、当たり前のことだと思う反面、エルナはやはり寂しくなる。もしかするとクロスも同じなのかもしれない。「長く、国を見守ってきてくれた者達だ」と、戦友を相手にするように、クロスは大樹を見上げながらしみじみと話した。けれども――。


「俺には、難しいことだろうがな」とぽつりと落とした言葉が、エルナにとって、少しだけ意外ではあった。

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