第31話 月夜あふれる自室にて
――夜半。こんこん、と何かが窓を叩くような、小さな音が響いた。
ベッドに潜り込もうとしていたエルナは寝巻きのままに立ち上がり、風の音だろうかと首を傾げた。けれど――こんこん。
やっぱり間違いない。音の出処であろう窓を確認したとき、ぬっと伸びるような大きな黒い影にぎょっとした後、エルナは大きな目をさらに大きくさせて瞬いてしまう。
「……え、まさか、クロス?」
「開けてくれるか」
窓越しのくぐもった声を聞いて慌てて鍵と窓をあけると、クロスはひらりと部屋の中に着地した。
「意外に手間取らんな」
そう言って、はたはたと自分の体についた埃を叩いている姿を見て、エルナは一瞬目眩がした。自分の部屋に、クロスが。一国の王が、すっくりとその場に立っている。
もう何かの冗談としか思えない光景だった。
「ど、どど、どうやってここに?」
「ん? 屋根をこう、ぴょこぴょこ飛んでだな。うん、これならいつでも来られそうだ」
「な、なななな、な、なんということを……!」
私じゃないんだから、と言いそうになった台詞はなんとか呑み込み、「危ないでしょ! 信じ、られ! ……ない……」と最後にどんどん声が小さくなってしまったのは、ノマの気持ちが、段々わかってきたからである。過去には屋根どころか、城の窓から飛び降りたことがあるエルナである。
「ケーキの礼をしに来た。昼間のことはフェリオルから話を聞いている。弟が世話になったな」
「え?」
「美味かったぞ」
カカミに注文したチョコケーキのことだ。エルナはぱっと表情を明るくして、「でしょう!」と声を弾ませてしまう。そうした後で自分の様子に思い至って照れ隠しのように眉をひそめてそっぽを向く。
「ふうん。それだけのために、わざわざ?」
労力に見合ってないんじゃないかしら、と腕を組みながら思わず付け足してしまった台詞は、言いたくて言ったわけではない。自分自身に呆れて唇を噛み締めた。
「うむ。しばらく会っていないからな。エルナに会いたくなったから来てしまっただけだ」
しかし一瞬して、今度は別の意味でぐうっと唇を噛んでしまう。あっさりと言うのはやめてほしい。恥ずかしさに口元がぴくぴくしてしまう。
「エルナ?」
「…………」
「エルナ」
「なあに」
「寝巻きのお前も可愛らしいな」
「ばっ、馬鹿じゃないかな!?」
どちらかといえば服装には頓着しないエルナでさえも、さすがにこの言葉には赤面するしかない。あとはもうベッドに潜り込むだけのつもりだったから、メイドのお仕着せではなくシンプルな半袖のワンピースを着ているだけだ。わたわたと現在の自分を確認した後、心持ち寂しい腕をこすりながら睨むように見上げると、クロスはからからと笑っていた。
「よし。やっとこっちを見たな」
「……もしかしておちょくってる?」
「そんなわけがないだろう。俺はいつもお前には本当のことしか言わん」
堂々としすぎていて、逆にこれ以上は閉口してしまう。
「まあ、ごまかすことくらいはもちろんあるがな」
「クロスって、なんでそんなにいつも堂々としているの……?」
「まあ座れ座れ。さっきまでが本題で、ここからがただの余談だ」
「ここは私の部屋でそこは私のベッドだよ。そして前にも言ったかもしれないけど、普通は逆なんだよ、逆だからね」
もはや部屋の主が逆転しているような立場で、クロスはエルナのベッドに座りばすばすと隣を叩いている。国王であるクロスは城主でもあるので、大きな枠で捉えるとエルナの部屋もクロスの所有物なのだが、そういう問題ではないような。
まあいいか……と、エルナはぽすりとクロスの隣に座った。クロスの余談が重要な案件であることもままあるので、集中は切らさないようにする。
すでにランプの火は消していたから、部屋の中は星あかりのみが照らしていた。すう、とクロスが息を吸い込み、足を組んだ動きが気配で伝わる。
「……ヴィドラスト山へと調査に赴いた部隊から連絡があった。マールズ国とウィズレイン王国の国境には、間違いなく鉱山がある」
「カイルは、本当のことを言っていたということ?」
「少なくとも表向きはそうだろうな。裏の事情があるかどうかは、正直わからん。あの使者が信用に足り得る人物であるのかの判断をする、残りの一歩が足りん」
「残りの一歩が……」
複雑な胸中のまま、視線を揺らすようにため息をついた。
「どうした」
すると、聞こえてきたのはしんと胸に響く声だ。暗い部屋の中であろうと、すぐ隣にいるのだからクロスの表情はよくわかる。優しげな金の瞳が、空からこぼれた星屑のようにこちらを見ている。
エルナはしばらくクロスと見つめ合い、「暗いね。ランプ、つけようか」と慌てて立ち上がろうとしたが、すぐにクロスに腕を引かれてまた同じようにベッドの上のシーツにすとりと腰を落としてしまう。
「大丈夫だ。それより……何か言いたいことでもあるのか?」
ごつごつとした大きな手に腕を掴まれたまま問いかけられると、触られている部分がどうにも暑くて、そこからじわじわと熱が広がっていくようだ。やっぱり、ランプをつけなくてよかった、とエルナはほっとした。きっと見られた顔をしていない。
顔を伏せたところで赤く染まった首筋はクロスの目には一目瞭然だろうが、放してほしいと嘘でも言うことができなくて、エルナは抑えきれない心臓の音を必死に我慢させた。
「今日、カイルに会って、不思議な質問をされて……」
そしてぽつり、ぽつりと自身の胸中を伝えた。
すでにコモンワルドを通じて伝えている内容ではあったが、やはり自分の言葉で直接説明するとなると、伝わるものも変わってくる……はずだ。実際、そうだったかはわからないけれど、クロスはエルナの言葉の一つひとつに、小さな相槌を打ってくれた。
「それで、エルナはどう思ったんだ?」
まるで鏡を相手にしているみたいな気分だ。隣にいるのはクロスではなく、もう一人のエルナがいて、問いかけている。そんなわけがないけれど、クロスは必要以上に言葉を重ねず、じっと待った。だからエルナはゆっくりと感情を紐解いていく。
自分の心を覗くことは、まだ少し、苦手だ。
「カイルヴィスだと思った」
声に出した後であまりの馬鹿馬鹿しさに笑いそうになってしまった。エルナが話しているのは、あのマールズ国の使者がカイルヴィスの記憶を持っているからとか、生まれ変わりだとか、そんなことではなく、本当にカイルヴィスだと思ったのだ。
それはカイルの質問に答えられなかったことよりも、エルナの胸の奥にずっと重たい感情を載せた。
「違うよ、絶対に違う。そんなことあるわけない。わかってる。わかってるけど、心がついていかない。前世と今は別だとわかっているはずなのに、本当は全然わかっていない」
「あの見かけだ。仕方がない、そんなものだろう」
「仕方がなくなんてないよ、カイルヴィスは死んだんだよ、もういないんだよ。あの使者は、カイルは、代わりなんかじゃないのに」
自分自身に、何度だって言い聞かせる。エルナだって、エルナルフィアではない。クロスも、ヴァイドだって。
「今を生きる、ただ一人の人間なのに……」
薄暗い室内で、顔を伏せた。どうしても、エルナは彼を前世の人間と同一視して見てしまう。そのことがただただ悲しくて――悔しい。
それ以上、エルナは何も言えなくなってしまって、互いの静かな呼吸ばかりが聞こえた。
夜の城はしんとして少し寂しい。
「正しいとは言わない」
ぽつりと、クロスが呟いた。
「けれども、俺は、お前が少し羨ましい」
何を言っているんだろう、と眉をひそめながらエルナは顔を上げた。エルナを慰めるために適当なことを言っているのだろうか? いや、違う。クロスは、ごまかすことはあっても、エルナに嘘はつかない。
「俺は、逆だよ。自身の国を優先するあまりに、あの男の見かけよりも、中身よりも、相手の立場にばかり目がいってしまう。俺は、逆に相手を見ていないようなものだ」
珍しくもクロスの気弱な言葉に、エルナは驚き瞬くことしかできなかった。いつの間にか、クロスがエルナを掴んでいた腕は、エルナの手の上に重なっていた。
「信じる、信じないの話など、本来はシンプルなはずなんだがな」
見上げたクロスの横顔と、その声色だけでは彼の心根を推し量ることはできない。けれど、穏やかな声色と相反して強く握りしめられた手のひらとその熱が、すべてを語っているような気もした。
「チョコケーキの味は、食べてみないとわからない……」
「……ん?」
「見かけだけじゃわからないなら、食べるしかないってことよ。ねえクロス。私、カイルにチョコケーキを食べさせてみようと思う!」
「ああ、土産にもらったケーキだな」
美味かったものな、とエルナの話はまったく理解していないようだが、おっとりと頷いている。
「あの、えっと、だから、なんていうか……私」
今更決意の表明をするのは、なんだか恥ずかしくなってきた。なんてったって、こっちは齢数千年――いや、それはエルナルフィアの記憶だ。エルナはただの十六の小娘であり、失敗など、これからいくらでもするに違いない。だから、勢いよく立ち上がった。そしてくるりと振り返るようにクロスの前に立ってみせ、手のひらに胸を当てる。
「ちゃんと、前を向いてみようと思う!」
そのとき勢いよく風が吹き乱れたのは、きっと窓をきちんと閉めていなかったせいだ。
強い風がカーテンを翻し、エルナのアプリコットの髪が月明かりの中できらめいた。クロスはわずかに目を大きくさせたが、すぐに驚きの表情を消して、穏やかに微笑む。
「ん。そうか」
「……いや、でも。うんその、やっぱりその」
「いきなり弱気になってどうした」
緩やかに風が収まり、膨らんでいたエルナのワンピースの裾が静かにひらめき終わった頃には、エルナは額に指を置いて難しく表情を歪めている。
「カイルに食べさせるとは言ったものの、私の立場は一介のメイドなわけで……。一人じゃどうにもならないところが多いから、色んな人……というか、クロスも含めて力を貸してもらう必要があるんだけど」
「いいぞ、構わん」
「返答が早すぎる……! むしろもうちょっと概要を聞いてから判断してほしかった……!」
「もちろん無理なことは無理と伝える。詳しく話も聞くぞ。できないことはできんと伝える。ただ基本的にはお前の考えを尊重したい」
信じると言っただろう、とクロスが話しているのは、きっと馬車でした会話の続きだ。
「俺は、お前を止めるよりも、背中を押す立場でありたい」
そう話しているのは、王としてではなくクロス本人の声だ。もちろん王としてのクロスがそれは無理だと判断することもあるだろう。でも、彼自身の気持ちとしてまずは伝えてくれた言葉がとにかく嬉しかった。同時に、やはり不安も膨らんでくる。信頼と不安はいつだって背中合わせだ。
「ありがとう、でも……」
「そう考え込むな。それ、どっこいしょ」
「なんでこうなる!?」
おなじみの馬鹿力で、クロスはエルナの腰に手を当てあっさりと持ち上げた。
さすがにじたばた暴れてクロスの腕から抜け出し、「なんでこうなる……?」と思わず逃げるように距離をあけて二度目の台詞を呟く。ちょっと流れの意味がわからない。
「いやほらな。空でもひょいと飛べば、元気にならんものかと」
「なるわけないでしょ! そもそも空なんて飛んでないし! ひょいっと持ち上げただけだし! 荷物じゃないから!」
「荷物ではなく、俺の可愛い嫁であることは知ってるんだがな。だはは」
たまにこうしてクロスは大口をあけて、王様らしくない笑い方をする。でも結構、エルナはクロスのこの笑い方が好きだ。
「まったく……もう持ち上げるのはやめてよね。すごくびっくりするから心臓に悪いのよ」
「そうか……残念だ。それならば。愛しい嫁らしく扱うか」
瞬間、嫁じゃない! と主張しそうになって、いや嫁になるんだった……と気づいてエルナは赤面した。その一瞬の判断の遅れの間に、クロスはエルナと距離を詰めて、エルナの片手を引っ張る。
「え」
そして、くるり、くるりと視界が回った。
「え、ええええ!?」
なんと、エルナは踊っていた。クロスがエルナの手を引いたと思ったら、いつの間にか反対の手はクロスの肩に乗っている。自分の意思とは関係なく、勝手に体が動いてしまう。つまり、文字通りクロスに踊らされているのだ。
「なんっ、なん、なんで」
「知っているか? ダンスが上手い人間は、下手な人間でも上手く見せることができる」
「たしかに下手だけど、というか踊り方なんて知らないけどっ!」
「俺の嫁となるからには、踊りの一つでも覚えてもらわなければな。というかエルナ、大声を出しすぎだ。外に聞こえる」
注意されて慌てて口をつぐんでしまったが、多分おちょくられている。その証拠にクロスは口元の笑みを隠しきれていない。
(でも、まあ)
いっか。と思ってしまったのは、クロスがとても楽しそうに見えたからだ。クロスが楽しければ、エルナも楽しい。もちろん、その反対だって。
ぽろぽろと、星あかりがこぼれた。
小さな窓からこぼれるような月と星の明かりだけがエルナたちを映していた。静かな夜の中で、くるくると動く度にワンピースの裾がふわりと舞う。
まるで夜空の中で踊っているみたいだ。回る度に小さな月が見え隠れして、クロスの金の髪が星のようにきらめいていた。
いつしか長い二つの影もゆっくりと動きを止める。
エルナは、肩で小さく息を繰り返した。クロスの両手が、エルナの肩にかかっている。
ゆっくりと、互いの距離が近づき重なる。そのときだ。
「……これは一体」
「ご、ごめん。思わず」
エルナは勢いよくクロスの顎を押さえていた。クロスの首は、なんとも痛そうな角度でのけぞっている。
「な、なんでかな……。なんでなのかな……。空気じゃなかったかな……?」
「いや存分にそういった空気だったと俺は感じていたんだが」
「この間、しすぎたかな!?」
「日数で割れば確実に平均以下ではないか……?」
もう何も言うまい、とエルナはしっかと口を閉じた。すっかり首を痛めてしまったらしいクロスはこきこきと首を動かし、曖昧な表情をしながら「まあいいが、次は抵抗するなよ」と呟いて、それで話は終わった。いつの間にかエルナの部屋は、エルナの部屋に変わっている。それでも、小さなきらめきが流れ着いた砂粒のように輝いているような気がした。
ここでエルナは、今更ながらにランプに火を灯した。砂粒は、ぱっと四散して消えていく。夢のような時間はここで終わりだ。
今からは、現実の話をする。
「……それで、俺にしてほしいこととはなんだ?」
クロスもそれをわかっている。ランプの中の小さな火が、赤々と彼を照らした。
あのね、とエルナは伝えた。それからクロスは少しだけ驚いたような様子に見えたけれど、なるほどな、と頷き、それなら大丈夫だと返事をしてくれた。
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