第30話 使者からの問いかけ
「ん……? あれ、ここはどこ? なんで僕は、こんなとこに?」
「ええっと、具合は大丈夫ですか?」
「え? あぁ、なんだか顎が、痛いような……?」
「一応冷やしてはおいたんですが……」
ソファーに横になって眠っていたカイルは、うっすらと目を開けたが、未だにすこし寝ぼけ眼だ。エルナはカイルの前に座りながら困惑気味に微笑んでしまう。
どこ、と聞かれればカカミの勤め先――つまり先程までいた甘味処の休憩室である。店主やカカミに怪我人が出たことを伝えて利用させてもらっているのだが、思わず質問に答える前にごまかしてしまった。なんせ彼は他国からの使者であり、この国の人間が下手に手出しをしていい存在ではない。ただの下町での揉め事が、国家間の問題に発展しかねない。
ちなみに王族であるフェリオルがいると事情がさらにややこしくなってしまうために、先に護衛とともに帰ってもらっている。お土産のチョコケーキを片手に、『本当に大丈夫か……?』と心配した様子で気遣わしげな瞳を向けられたが、とりあえずなるようにしかならない、と思うしかないだろう。
クロスには早々に報告するようにフェリオルには願っておいたが、多分今頃は頭を抱えているだろう。可哀想に。
しかしエルナも覚悟を決めるしかなかった。いつまでもごまかし続けられるわけもない。
「その……ついさっき店で揉め事が起きたんですが。ほんとうに、ちょっとした喧嘩がありまして。その際、たまたま、偶然、あなたが近くにいて流れ弾ならぬ流れ拳が、顎をかすってしまった次第でして」
……ちょっと強めに言い過ぎただろうか? 間違いなく事実なのだが、偶然にしておいてほしいという願望が表に出過ぎてしまったかもしれない。
「なるほど、そういえば……そんなことがあったような気がするねぇ……」
カイルもじわじわと覚醒してきたらしく、ソファーから体を起き上がらせた。エルナはカイルの前に座り込んでいるので、自然と見下される形になってしまう。
「あ。きみ、お城で見たメイドさんだ」
覚えられていたのか、と目を見開く。もしかすると、エルナルフィアの生まれ変わりとして認識されていた可能性も……とやはり体が硬くなってしまう。エルナはそのままちょこんと膝の上で両手を合わせて、緊張の面持ちでカイルと見つめ合った。すると唐突に、カイルはふはりと吹き出した。
「やだな、大丈夫。たしかにちょっと顎は痛いけど、わざとじゃないってことはちゃんとわかってるよ。むしろちゃんと避けることができなった僕が悪いよ」
「そんなことは……。あの、使者様に手をかけた男はその場では取り逃がしましたが、すぐに捕まると思います」
「いいよういいよう。面倒じゃないそんなの」
そう言ってカイルはひらひらと長い袖を振っている。
ふと、エルナは不思議な気持ちになった。カイルヴィスによく似た青年が、よく似た仕草で笑っているのだ。外見が同じということは、こうまで奇妙に感じるのだろうか。カイルがクロスに謁見した際の口調よりも、ずっとフランクなものに変わっているということも理由の一つだろう。
そんなエルナの複雑な胸中には気づかず、カイルはうんうん、と一人で頷き言葉を続けた。
「うん。向こうだって当てるつもりはなかっただろうし」
カイルには当てるつもりはなくとも喧嘩相手に拳が出たことは事実なのだが……。しかし正直、エルナはほっとしてしまった。口先では「そうですか」と残念そうにしてみたが、ここでなし崩しになかったことにできるのなら一番ありがたい。犯人が確定してしまうと、同時に罪もはっきりさせねばならないわけで、被害者がマールズ国の使者というのは本当に冗談にもならない。
「……君、すごく顔に出るねぇ」
「…………」
口調では残念そうにしてみたものの、表情がまったくついていかなかったらしい。エルナは無言のままでぐい、ぐいと眉間を指で押した。
「……なんにせよ、お加減はいかがですか。目立つ傷はないようでしたから、落ち着く場所まで運び様子を拝見していましたが、よければ城から医師を呼んで参ります」
「いやいや、やめて、勘弁して!」
本当に大丈夫だし、とカイルは元気にぐるんぐるん、と腕を振り回している。言葉に嘘はないようだし、ふらふらとやってきた風の精霊に目配せすると、同じく元気、元気とぴょんぴょこ跳ねていた。風の精霊は血や病の匂いに敏感だ。彼らが問題ないとするのならばとエルナも安心した。
「……あの、使者様。お詫びといってはなんですが、ケーキと紅茶の準備ができていますので」
「え? そうなの?」
カイルはきょとんと瞬いたが、わざわざ甘味処に来たということはよっぽどの甘党なのだろう。そろそろ目覚める頃合いだろうとカカミに準備してもらっていたのだ。
テーブルの上にはフェリオルとともに舌鼓を打ったチョコケーキと、冷えたフルーツティーだ。
「ご嗜好がわからなかったので、他にご希望のものがもちろんご準備致します。甘いものでしたら、いくらでもお出しできます」
「甘いもの? ああ、ありがと」
カイルがケーキに視線を落としたのは一瞬だけだった。「それよりもさ」とカップの中にフルーツティーをそそいでいたエルナに顔を向ける。
「聞きたいことがあるんだけど」
来た、と思った。
カイルは、城のメイドたちから何かを探っているらしいと噂には聞いている。以前のハムスター精霊からの報告を踏まえると、どうやらカイルはウィズレイン城の構造の把握に努めているらしく、他国の使者の行動とするならばあまりにも物騒だ。問いかけられたところで答えることはできないとばっさりと返答すればいいだろう、とエルナはわずかな覚悟を持って動きを止めた。
「……なんでしょうか?」
「うん。あのさ、 お城の――あっ、だめだ。これについては多分誰も教えてくれないんだよなぁ」
「…………」
「最近はメイドさんたちに避けられてるみたいだし……だからやることもないから、街を歩いてたんだけど。でも丁度よかった。もう一つ、聞きたいことがあったんだ」
メイドに避けられているというのはクロスがマールズ国の使者に必要以上には関わらないように、と通達を出したからだろう。今度こそ何を言われるのか、とエルナは思わず唾を呑み込み、わかりやすいと言われた硬い表情のままカイルの言葉を待った。
「君は、この国のことを――どう思う?」
「……え?」
「だからさ。この国、ウィズレイン王国のこと。どう思ってるの?」
カイルの問いかけは、エルナにとって予想外のものだった。
長い前髪の向こう側にある銀の瞳は、エルナの一挙一動を見逃すまいとばかりにじっとこちらを凝視している。
「どう思っている、というのは……?」
「その通りの意味だよ。好きか、嫌いか。そっか、君は好きなんだね。じゃあなんで? 僕はこの国に来たのは初めてだ。でも、みんな明るいよね。楽しそうだ。僕の国とは大違いのように思う。何が違うんだろう」
まるでこちらの内側を覗いているかのように、カイルはすらすらと言葉をつなげ、次第にエルナ自身に対してではなく自問自答のように小さな声でぶつぶつと呟きながら何かを考えている。虚ろな瞳はどこかを映すことなく、ただただ空っぽのまま天井を見上げている。
それは異様な光景だった。さすがのエルナもいつの間にか立ち上がり、カイルから半歩距離を置いて、いつでも逃げることができるように身構えてしまう。
ぴたりと、声が止まった。
「ああそうか、竜がいるから……?」
今度こそカイルには気づかれぬように、エルナは小さく唾を呑み込んだ。
まるで長い時間がたったように錯覚した。実際は時計の針がわずかに動く程度の時間だったのだが。
「うん。マールズ国には、いないんだよ。間違いなく、竜はいない。ごめんねぇ、変なこと言っちゃった」
「い、いえ……」
先程までの空気が嘘のように四散して、カイルは悲しいとも、照れているともわからないような表情でカイルは苦笑した。
「それで、どう? ねえ。君はどうして、この国のことが好きなの?」
幼い子どもがただ純粋に持った興味を問いかけるように、なんの混じりっけのない瞳でカイルはエルナに問いかけた。
結局、エルナはきちんとした返答をすることができなかった。
『どうして、なんでしょうか……』
思わず漏れ出た自分自身の声を思い出すと妙に情けなくて、恥ずかしい。
『そっか。わかんないのかぁ』
ただそれだけ言って、カイルは笑った。『僕はお城に戻るよ。今日のことは誰にも言わないから、安心して』とそれだけ告げて帰ってしまった。今は誰もいない部屋の中で、エルナは一人ぽつんと立ち尽くしている。ローテーブルの上には手つかずのケーキと紅茶が置かれたままだ。
「……この国は、ヴァイドが拓いた国だから」
だから、愛している。
理由を言うのならば単純だ。でも、本当にそれだけなのだろうか。
王国の中で変わらず生きている、すべての人々がエルナにとっては愛しい。けれど、なぜ愛しいのか。そう問われたところでわからない。なぜなら、エルナは彼らのことを何も知らないから。
エルナルフィアとしての記憶が蘇る以前、エルナの世界はとても小さかった。その中でただ必死に生きていたから、周りに目を向けることなんかできるはずもなかった。
「……なのに、なんでかな」
こんなに、この国が愛しいのか。
「いやいやいやいや! こんなカイルの言葉に煙に巻かれている場合じゃない!」
からかわれたと思えばいいのか、いいようにあしらわれたと考えればいいのか。なんにせよ奇妙な相手だ。「わかんない人だな」と眉をひそめながら口元に手を当てて考えていると、エルナの頭からずぼっとハムスター精霊が飛び出した。
『あいつは! 怪しすぎるでごんすよ!』
「えっ。ずっとそこに隠れてたの?」
そしてまたずぼっと消えた。前回のカイルとの会遇に対してよっぽどの恐怖を刻み込まれてしまったらしい……。
「大丈夫大丈夫。ほら、今日はフェリオルのお出かけに一緒に付き合ってくれたし。デザートはもう食べたけど、お店で買ったひまわりの種も食べようよ」
『ごんすぅー!』
「反応がすごく早くて嬉しいよ」
でも食べるのはお城に戻ってからね、と使わせてもらった部屋を片付けながら、今日の顛末を改めてクロスに伝えなければいけないな、とエルナは考えていた。でも最近はクロスに会えていない。またコモンワルド経由での伝言になるだろうか。
いつになったら、クロスに会うことができるのだろう、と少しだけ寂しくなってしまったのだが、すぐに恥ずかしくなってぶんぶんと勢いよく首を振ってしまう。『ハムじゅらぁー!』と、頭の上のハムスターは必死にエルナの髪にくっついていた。
「さ、寂しいだなんて、そんな。そんな場合じゃ、まったくないし、そんなこと、思ってすらないし」
言い訳をするようにぶつぶつ話しても、もちろんなんの意味もないけれど。
「そんなわけ、ないし!」
誰に見せるわけでもなく、ケーキの皿を持ち上げながら、つんっとエルナはそっぽを向いた。けれどもその夜のこと。
すぐに信じられないような驚きが、向こうからやってきてしまったのだが。
――夜半。
こんこん、と何かが窓を叩くような、小さな音が響いた。
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