第36話 炎を身に宿す
これほどまでに、自身の死を意識したことはない。
柱が落ちてくる瞬間、エルナはせめてもと少女をかばおうと体を動かそうとしたが、それすらも間に合わなかった。いや、違う。エルナの体は今この瞬間すら、ちっとも動かない。めらめらと踊り狂っていた炎すらも縫い付けられたようにぴたりと動きを止め、エルナは不思議なことにその場のすべてを俯瞰し、把握していた。
金の髪の、女がいた。
赤で埋まるこの場には不釣り合いなほどに真っ白なワンピースを身にまとい、覗く素足まで白く、小さな爪が覗いている。腰ほどまでの金の髪は歩くほどに星のようにきらめき、口の端は柔らかく弧を描いていた。
エルナの背後にいるらしき女を、動くことのない体の代わりに必死に視線だけを移動させ把握する。その間にも、止まった時間の中でただ一人、あくびをしながら女はてぽてぽと歩きエルナに近づく。
『私、人間のことは好きって言ったじゃない』
彼女はフェリオルと街を出歩いていた際に出会った高位の水の精霊だ。驚くよりも、困惑するが、声すら出すことができない。精霊は、もうエルナのすぐ背後に立っている。ふう、と冷たい息をエルナの耳に吹きかけた。
『どうして私に声をかけてくれなかったの? 忘れちゃっていたのかしら。まったくもう、憤慨ものね』
声ばかりは明るいが、彼女が一言話すごとに急激に空気が冷えていく。
『よければいつか、私とも遊んでちょうだいねとお誘いしたと思うけれど? ねぇ、一回くらいなら、あなただったら力を貸してあげてもいいわよ。どうしましょうか』
律儀な者もいれば、気まぐれな精霊もいる。この精霊は後者だとエルナは直感した。力を借りて、何があるか把握ができない。しかし迷うつもりは微塵もなかった。貸すと言うのならば、選択肢はただ一つだ。『嬉しい! ありがとう!』と、精霊はエルナの肩に細い指先を乗せた。ただそれだけのことでも、臓腑を裏返されるような激しい痛みにエルナは震え上がり、強く歯を食いしばる。いや、動くことのない体は歯を食いしばることさえ許されない。
けれども、愛しい者を守るために。エルナはただ全身に暴れ狂う痛みを耐えた。女の手が、ずぶずぶとエルナの肩の中に埋もれていく。
『痛い? 怖い? そうよねそうよね。火の竜の魂を持つ体に、無理やり水の力を注ぎ込んでいるんだもの。こんなの正気の沙汰じゃないわ!』
もはやそれは痛みとはいえない。
ただ視界が滲み、体の端から端まで。指の先まで別のものに成り代わってしまうような。
あるのは恐ろしいまでの恐怖だ。
『怯えてね、苦しんでね、笑ってね、泣いてね、怒ってちょうだいね、あなたの全部を私に見せて! ――人間って、これだから大好き!』
吠えた。あらん限りに喉を震わせ、エルナは叫んだ。止まっていた時間は、すでに動き出している。女の姿は、もうどこにもいない。燃え上がる炎は躊躇なくエルナの体を焼きつくす。
苦痛を感じなかったとはいわない。けれど、そんなものを感じているよりも、ずっと必要なことがある。エルナは横たわる少女を守り、頭上に落下した柱をもう片方の腕で受け止める。ぐちゃりと潰れる音がした。それはエルナが立つ床があまりの重さに砕けた音だ。水の力をあらん限りに注ぎ込まれたエルナには今や炎はなんの意味もなさない。そして落ちてくる柱など、もとよりエルナを傷つけるにはあまりにも貧弱だ。
「アアアッ!」
犬歯をむき出しにするように柱を弾き飛ばした。エルナが少女を強く抱きしめると同時に、爆風が辺りを包み、建物を破壊した。一瞬、炎は消し飛んだが、すぐさままた燃え盛る。しかし空が見える。二階も、屋根も、吹き飛ぶほどの衝撃だったのだ。肩で息を繰り返しながら、ただ頭上を見上げた。荒れた息を吐き出し、吸い込む。
ごうごうと、炎が燃える音が聞こえる。
「……消えろ」
かすれた声で、空を見上げる。埃と煙だらけの、灰色の空を。
「消えろォ!」
求めるものは、ただ一つ。
声にもならない声を、少女を抱きしめたままエルナは叫んだ。抱きしめたその体は温かく、柔らかい生命の匂いがした。
「雨だ……」
ぽつりと、誰かが呟いた。
煙に巻かれ、青い空は薄汚れた灰色が、さらに暗い色合いへと変化していく。ぽつ、ぽつ……。気の所為だろうかと思うほどにかすかな水滴は次第に勢いを増し、視界を灰色の紗幕で覆い尽くす。ざあざあと激しい音とともに、次第に炎は鎮火していく。涙か雨かわならぬほどに体中を濡らし、人々は泣き叫んだ。――あまりの奇跡を目の当たりにして。
そんな中、一人の少女が崩れ落ちた建物の中から一歩いっぽ、ゆっくりと踏み出した。
その体は薄汚れ、身にまとった城のお仕着せもところどころ焼け焦げている。ただ、しっかりと幼い少女を抱きしめていた。
「あ、ああ……」
まず飛び出したのは、彼女が抱きしめている少女の母親だ。雨で張り付く前髪をそのままに涙で顔を濡らしながら差し出された震える手のひらに、少女――エルナは、抱きかかえていた娘を母に渡す。それと同時に、すでに力尽きた体はそのままぐしゃりと地面に転がる。が、すんでのところでフェリオルと兵士が駆けつけ、エルナを支えた。
「エルナ、お前……!」
「大丈夫? ちゃんと雨、降っているかな、街の炎は、消えた……? 今、少し目がかすんでて」
「消えた! 消えた。全部、全部消えた! 無茶をするな、もう話すな!」
涙混じりで叫ぶフェリオルの声が、どこか遠くでエルナの耳に届く。
「すぐに救護の者を呼ぶ! いや、城へと向かう!」
「……待って、大丈夫。すごく、疲れてるだけ。目も……少しずつ、見えてきた」
かすんでいた景色が、光が灯ったエルナの目に静かに映り込んでいく。雨の勢いが弱くなるとともに、街の姿の全景が見えてくる。……それはあまりにも痛々しい光景だった。
美しかった街の姿は消え、崩れた建物ばかりが広がっている。痛みに苦しむ人々もいる。
「フェリオル。私よりも、重病者に人を……」
そこまで伝えたところで、エルナは青い目をゆっくりと瞬いた。
その場にいた市民の誰もが、エルナに目を向けている。
奇妙なほどの沈黙だった。エルナは兵士に肩で支えられたまま瞬きを繰り返し、周囲を見回すが、やはり皆同じような様子だ。怯えるような、恐れるような。あまり温かさを感じる瞳ではないように感じた。エルナはごくりと唾を飲み、しんと口を閉ざす。
「あなたは、もしかすると……エルナルフィア様の、生まれ変わりでいらっしゃいますか……?」
その沈黙を破り問いかけたのは、エルナに助けられた娘を抱きしめたまま涙をこぼす母親だった。エルナは困惑し、座り込んでいる彼女を見下ろす。
「炎の中に飛び込み、そして、そして……雨を! 雨を降らしてくださいました!」
どう返答していいものかと口を開き、すぐに閉じている間に、次に周囲にいた若い男が声を上げる。もしかすると、崩れた建物の隙間から見えていたのかもしれないし、少しでも魔術や精霊に縁があるものならば、この雨に気づくものもあるのだろう。
エルナが声を上げる前に、次々に街の人間たちが叫ぶ。
「え、エルナルフィア様の生まれ変わりのお方は、城にいらっしゃると噂を聞いたわ、あの服は、城でお勤めをしていらっしゃる証拠でしょう!?」
「子どもを、子どもを助けてくださった。そして、我らの命も……」
「ありがとうございます、本当に、ありがとうございます、伝説の竜が、我らをお守りくださった……!」
エルナを支えていた兵士すらも、鼻をすすり涙を流している。なんだか困ったことになってきた。フェリオルは、「お、お前たち、落ち着け! 落ち着くんだ!」とわたわたと叫んで、市民とエルナの顔を何度も交互に目を向けていた。エルナは少し、苦笑してしまった。
エルナルフィア様、と何度も竜の名を呼ぶ声が聞こえる。それは温かな声で、喜びで、怯えのように感じていたものは、きっと彼らにとっての驚きの感情だったのだろう。
少しだけ考えた。そして、今できる限りの声を叫ぶ。
「私の名前はエルナルフィアではありません。……エルナと言います!」
ずいぶんかすれた声になってしまったが、伝わっただろうか。しん、と静まり返ってからすぐに、「エルナ様!」と誰かが叫ぶ。壊れた街の澄み渡るほど青い空の下で、エルナを呼ぶ明るい声が響き渡った。はは、と変な風に笑ってしまう。こんなに、何度も大声で名前を呼ばれたなんて、エルナの人生としては初めてだ。そのときだ。エルナが捉えた光景に大きく目を見開き、悲鳴を上げそうになった。
壊れた建物の一部がぐらぐらと揺れ、そのすぐ下にはエルナに何度も手を振る男性の姿がある。「あっ……」危ない、逃げて。いや、叫んだところで間に合わない。手を振っていた男性も現状に気づいたが、驚きすくみ上がってただ自身の頭上を見つめることしかできない。助けねば、とエルナを支えてくれていた兵士の手を弾き、前に進もうとした。が、ふらつく足は一歩も進むことができずに、濡れた地面に転がり落ちた。
エルナ、とフェリオルは声を上げる。そんなことよりも、と泥だらけの顔のまま手を必死に前に伸ばす。時間がひどくゆっくりと流れている。また届かない。
力が、足りない。
「どっせーい!!」
泥のような時間はその力強い声とともにあっという間に吹き飛ばされた。頭をかばい小さくなった男の隣には、一人の背の高い男が立っている。茶色い髪をした頭にバンダナを巻いていて、太い木材を両手に握っている。その木材を思いっきり横に振り、落ちてくる瓦礫を弾き飛ばしたのだ。
バンダナの男はふんっ、と膨らませた鼻から大きくから息を吹き出し、両足を広げてどっしりと立ち、ずんと胸を張っている。――それは自称自警団のリーダーであり、エルナを誘拐した青年だった。
びっくりして目を丸くする人々の中で、もう一度、事情自警団の男はふんふんっと鼻から息を吹き出した。厳しい様子だったが、エルナと目が合ったその瞬間、ぱっと男は破顔した。年の割には幼く、また可愛らしい笑顔だった。
「エルナルフィア様、いや、エルナ様ぁ!」
にっかり笑った後に、はっとして、「あのときは、ほんとにすんませんっしたァ!」と勢いよく頭を下げた。忙しい男である。
「おいお前ら! 今こそ街を守る自警団の出番だぞ!」
持っていた木材をぼんっと放り投げた男は、ぐるんと力いっぱいに腕を振り辺り一面に響き渡るほどの大声を上げる。すぐさま体中を真っ黒にした年若い男たちが、鬨の声に反応するが如く、そこら中から張り裂けるような声を上げた。
「そうだァ!」
「わかってらァ!」
「お頭に続けぇ! 建物に取り残されてるやつはいねぇか! 火は消えても、まだまだ油断できねぇぞ!」
わあっ! とそれぞれが散り散りに駆けていく光景を、エルナは呆然として見つめていた。そっと差し出されたフェリオルの手にも、しばらく気づくことができないほどに。
「お前も、救助に向かうんだ。誰も取りこぼしがないように」
「はっ!」
エルナを支え続けていた兵士にフェリオルが声をかけたことで、エルナはハッとして顔を上げた。そして力なく微笑むフェリオルと瞳を合わせ、彼の手を借り足を震わせながらゆっくりと立ち上がり、眼前の光景をもう一度瞳の中に焼き付ける。
若い男たちが兵士とともに人々の救助に当たっていた。服や頭が真っ黒でぼろぼろなのは、それだけあの混乱の中、ずっと走り続けていたのだろう。
唐突に、猛烈な湧き上がるような羞恥を感じた。
――一体、今まで自分は何を見ていたのだろう?
「……正直、僕はあの者たちを心の底では見下していたのだと思う」
ぽつりと呟いたのは、フェリオルだった。
エルナの手をぎゅっと握りしめたまま、真っ直ぐに前を向く。
「街を守りたいという気持ちに、僕らも、彼らにもなんの差異はなかったというのに。なぜ、こうも僕は繰り返すのだろう。……本当に、僕は愚か者だ。浅はかな自身が恥ずかしい」
エルナは返事の代わりに、少しだけフェリオルの手のひらを握った。手のひらの火傷が少しだけ傷んだが、そんなことは気にならなかった。
「チョコケーキだ。あの者たちも、僕にとってのチョコケーキなんだな」
「……うん。そうだね」
それは食べてみなければわからない、不思議な味だ。
これからも、エルナたちは何度だってたくさんの味を知り、驚き続ける。そうであることを祈って、自身の行動を振り返るように、空を見上げた。いつの間にか、雲菓子のような白い雲が青い空の中でもくもくと膨れ上がり、涼しげな爽やかな風が、ひゅるりと二人の間を通り過ぎた。
フェリオルに支えられながら城に戻ると、まず泣きついてきたのはカイルだった。服は焼け焦げ、体中の至る所に火傷を負ったエルナに気づき、二重で大泣きされてしまった。
すっかりカイルと気心が知り合ってしまったのか、カイルの肩の上に乗ったままのハムスター精霊から向けられたのは無言の重圧である。はむはむごんすごんすぢっ、ぢっ、ぢいぃと唸っているような鳴き声を響かせ、ついでに前歯をカチカチ鳴らし、こちらに見せつけていた。心配をかけさせてしまったことに申し訳無さは感じるけれど、連れて行かなかったことに後悔はない。もしポケットの中にいたのならば、炎の中に飛び込むなどできやしなかったはずだ。でもやっぱり、「ごめんね」とちゃんと謝った。心配してくれる誰かがいるのは、とてもありがたいことだ。
そしてフェリオルたち騎士団や、自警団の面々が比較的早期に人々を広場へと誘導し避難させたこと、また鎮火を終えた後も昼夜休むことなく救助活動を行い続けたことにより、被害の規模に対して死傷者の数は格段に少ないことが判明した。
しかしただの一人として散らされていい命があっていいわけがない。
ウィズレイン王国では死者は炎で燃やし、白い骨を土に埋める。炎はエルナルフィアの加護を与えるとされ、苦しみを忘れるようにと遺族は祈り、浄化の炎を燃やすのだ。
しかし立ち上るいくつもの細く白い煙は、あまりにも悲しかった。
――それから幾日が経ち、街の復興はフェリオルを中心としてわずかずつではあるが進んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます