第二章
第21話 竜の少女は城にいる
過去、この国には一匹の竜がいた。
竜はガラスのような鱗を持ち、背には勇者を乗せ国を守り、どこまでも高く空を飛んだ。
人々は竜を愛し、彼女が国を去った後もその名を伝えた。いつの日か、竜がまた帰ってくる日を待ち望んだからだ。長い、長い時間が過ぎ、そして――。
***
「どうにも最近、市井ではエルナルフィアの生まれ変わりが城に住んでいると噂されているらしいぞ」
と、面白げに話すのは金髪の美丈夫だ。きらびやかな顔面かつ王子様然とした風貌であるが実際もこの国――ウィズレイン王国の国王であり、そして類まれなる馬鹿力の持ち主である。とてもとても長い本名を持つため国民は彼のことを死した勇者の名であるヴァイドと呼び、身近な者はクロスと呼ぶ。
手の中の資料に目を通しながら、ふとしたように顔を上げて告げたクロスの言葉を聞いた瞬間、エルナはぶふっと口の中の紅茶を噴き出しそうになった。
「げほっ、げほ、げほっ、な、何……?」
「ん? そんなに驚いたか?」
「そうじゃなくて、この紅茶がすごく苦いの!」
涙目のままなんとか口元を押さえていると頭の上に乗ったハムスター精霊がハムハムと心配そうに小さな手でエルナのアプリコット色の髪をぺちぺちと叩いている。お茶の時間になるとこうして執務室に呼ばれる――のは次第にいつものこととなってしまって、今やクロスがつまむ菓子と紅茶を運ぶのはエルナの役目になってしまった。
いつもなんだかんだといってクロスに口の中へと菓子を詰め込まれてしまうのだが、今日に限ってはクロスが持つカップの中身をエルナが不思議そうな顔をして見ていたため、「飲んでみるか」と声をかけられ、こくこくと何度も頷いてしまったのだが。
……黒い汁のような奇妙な飲み物は、この世のものとは思えないくらいに、苦かった。
渋い顔をして両手を伸ばしながらカップから顔を遠ざけるエルナを見てクロスはくつくつと肩を動かしている。次第に怪しい気持ちになってきた。
「……これ、本当に飲み物だった?」
「間違いなく飲み物だ。紅茶ではないがな」
そう言うクロスは自分のカップの取っ手に指を添えて、ついと優雅に持ち上げ匂いを楽しんでいる。その姿を見て、エルナは眉をひそめてもう一度カップを近づけてみた。それからすぐにぶるぶると首を振って距離を置く。一緒に匂いを嗅いだハムスター精霊はピンクの鼻の先を震えさせて、くわ、と口を開いたまま固まっていた。
慣れないものに手を出すのはやめておこう、と部屋の端にあるテーブルにカップを置いた。
「それで、エルナルフィアの生まれ変わりがいるって噂になっているって、どういうこと?」
自分で問いかけながら、なんとなく原因は想像できてしまう。
――発端はエルナの義理の姉、ローラが起こした騒動だ。
ローラは自身こそがウィズレイン王国の守護竜であるエルナルフィアの生まれ変わりだと多くの人々の前で主張した。だが事実は違う。竜の生まれ変わりである少女は、ローラではなくエルナだった。
ローラの虚言はすぐさまクロスに見破られたが、ローラはエルナから奪った竜の生まれ変わりである証明――竜の鱗を握りしめていた。ローラとその家族は罪を問われ、人知れずしかるべき場所に移送されたが、ローラが竜の鱗を持っていたという事実は変わらない。
エルナが竜の生まれ変わりであるということまでは知られずとも、ローラがもたらした波紋は静かに広がっていく。だからこそ、街で噂になる程度ならば想像できたことだったのだが。
「……生まれ変わり部分はともかく、城に住んでいる、というのは随分具体的よね?」
噂がローラのことを指しているのなら、たしかに城で逗留していた期間はあったので間違いはない。だが逗留していたのもそう長い時間ではなかったし、今は表向き両親とともに領地に戻ったということになっているので違和感がある。
首を傾げるエルナを見てクロスは子どものような笑みを作った。クロスはたまにこういった顔をするので、エルナは思わず唇をきゅっと噛みながら、なんとなく顔をそむけてしまう。
「俺も奇妙に思ったので調査はしてみた……が、そこまで不安に思う必要はなさそうだ」
「つまりどういうこと?」
「そうだったらいいという願いが、噂の一部を変えただけのようだ」
もしかするとエルナのことがどこかから漏れてしまったのか……と考えたが、事情が異なりそうだ。言葉の意味を捉えかねて眉をひそめると、クロスは楽しげな顔のまま、細い、けれどもエルナよりもずっと大きな指先をくるくると宙で回す。
「どうやらエルナルフィア様の生まれ変わりが、城にやってきたようだ」
民の言葉を代弁しているのか、いつもよりも口調が平坦だ。「しかし、それが誰なのかわからない」くるり、とまた指を回す。「しかし生まれ変わりのお方がやってきてくださったというのなら、きっと自分たちの近くにいるはずだ。いや、そうであってほしい」まだ指は動いている。「じゃあどこにのか。――もちろん、一つしかない」ぴたりと指先が天井を差した。
「きっと、エルナルフィア様は、今はお城にいらっしゃるはずだ」
長い間の後で、「……なるほど」とエルナは呟いた。
なんとも言えない気分だった。
「エルナ。お前は愛されているなぁ」
だというのに、エルナの心の底にあった気持ちをクロスが的確に言語化してくる。
「やめてよ」と、冷たい声が出たのは、照れてしまっている感情がわずか程度にはあるためだということを自分でもよくわかっている。
「もちろん俺からもな」
「だ、だからやめてったら!」
さらりと続いた言葉に対して、今度は自分の髪の色と同じくらいに頬を真っ赤にして叫んでしまった。このところ、いつもこれだ。
クロスの嫁になるとエルナは決めた。そう決めたときこそはお互いにどうしようもない顔をして、もしかすると少しくらいエルナの方が優位に立っていた気がする。なのに、いつの間にか結局いつも通りの関係に戻っていてクロスにからかわれる毎日だ。
正直、若干の不本意はあるが、仕方ないとも思っている。なんせ、と少しだけ考える。
「まあ、此度の噂に対して不安に思いすぎる必要はないだろうが、偶然とはいえ事実を言い当ててしまっているわけだ。気に留めておくに越したことはなかろう」
「うん……」
視線をそらすとテーブルの端に置かれたままになっている、先程の奇妙な飲み物が見えた。苦くて思わず噴き出してしまいそうになったけど、なんとか我慢できてよかった……と思うくらいにはエルナはクロスを前にするとぎゅっと胸が痛くなってしまうのだ。
そんな姿をクロスに見せるわけにはいかない、と心の奥から湧き出ることが恥ずかしいのに、そんな自分は嫌いじゃない。むしろ、とまで考えてびっくりするほど熱くなった自分の首を手のひらで冷やした。
でもエルナは火の魔術を扱うからか、人よりも体温が高いのでまったく意味がない。
奇妙にぱたぱたと挙動不審に動くエルナに眉をひそめて「どうかしたか?」とクロスが問いかけてくる。エルナことはなんでもお見通し、というふうに思えるのに、さすがのクロスでも奇天烈に変化するエルナの心情を慮ることは難しかったらしい。それがまた、さらに恥ずかしく感じてしまう。
クロスはすっくと椅子から立ち上がった。「本当に、どうかしたか」と言って、机を避けてずんずんエルナに近づく。「なんでもない、なんでもない」となんでもあると言っているような声で繰り返すエルナを、とうとう見下ろすほどの距離に来てしまった。あっ、と思った。
きらきらと輝くような綺麗な金色の瞳が、じっとこちらを見つめている。クロスの大きな手のひらが、エルナの手首をゆっくりと、けれどもしっかりと掴んだ。きゅっと引っ張られて、ぐんと近づく。無意識にエルナは顔の角度を上げた。それからそっと目を瞑った。するりとクロスが動く気配がする。わずかな布ずれの音に緊張して、エルナはさらに強く瞼を閉じた。――そうして、覚悟を決めたそのときだ。
唐突に、魔術の気配が部屋に飛び込んだ。慌てて目を開けて周囲を見回す。クロスを庇う形で動いたつもりが、なぜだか庇われる形になっているのは不本意だったが、そんなことを考えている場合ではない。エルナが青い瞳の色をさらに濃くして魔術の気配を探ると、テーブルの上に先程まではいなかった一匹の白い鳩がぱさぱさと羽を動かしていることに気づいた。そして鳩がぱさりともう一度羽を動かした途端、ほどけるように一枚の紙に変化した。
「伝書魔術か」
「……伝書、魔術?」
「風の精霊術の一種だ。比較的最近生み出された技法だな」
聞き覚えのない単語を繰り返すエルナに返答しながら、クロスはそっとテーブルの上に置かれた紙に手を伸ばす。おそらく何らかの文面が書かれているのだろう。クロスの視線がするすると文字の上をなぞっているのがわかる。
今では
何を、とは言わない。でもとにかく受け入れていた。紙を見ているクロスの視界に自身が入っていないことをいいことに、顔を両手で押さえてぶるぶるする。
(く、クロスと、き、キスをするくらい、初めてでは、ないけれどもっ!)
言わないと言ったのに、はっきりと考えてしまった単語にさらに耳の裏が熱くなってくる。
(こっ、こんなふうに、なし崩しみたいにするのは違うような気がするから! よかった! 止まってよかったあ!)
心底ほっとして息をついているエルナだが、多分そのとき一番安心していたのは、エルナの頭の上で為す術もなく固まっていたハムスター精霊である。
『ご、ごんす……』と切なげな声を出して、エルナがクロスと会うときはなるべくポケットの中に隠れておこう……と考えていることを、エルナは知らない。
「なるほどな」
そう言ってクロスが伝書魔術で届いた紙から顔を上げるまで、あまり長い時間はかからなかった。けれどエルナ、そしてハムスター精霊が互いに動揺から回復するには十分な時間で、エルナはなんてことのない表情を作ってクロスを見上げる。
「伝書ということは、誰かからの手紙ということ? 私書、みたいな?」
考えてみれば、ここはクロスが普段使用している執務室だ。ウィズレイン王国は古代遺物なる結界に守られており、私室を含め、特に王が特に使用する部屋はどれも厳重な守りが施されている。その隙間を縫ってやってきたということは、もともと許可された人間からのものである可能性が高い。
「手紙か……まあ、そうだな。手紙だ」
窓の暖かな陽光を背にしてクロスはエルナの声にちらりと視線を向けた。そしてどこか意味ありげに口の端を上げたが、妙にアンバランスな光景で一体何を考えているのかよくわからない。
「……誰からの?」
だから思わず問いかけてしまった。その後で、「あ、ううん。別にいい」と否定した。人の手紙をわざわざ知ろうとするのは無粋なことのように思ったし、そもそもクロスはこの国の王なのだ。エルナに告げることができないような内密な話など山程あるに違いない……と考え直しての言葉だったのだが。
「気になるのならば目を通してもかまわんぞ」
あっさりと返答されたので知らずに組んでいた腕が解けてしまった。
拍子抜け半分、好奇心が半分。
「見てもいいものなの?」
「うむ」
ここでエルナは気づくべきだった。クロスの口元が、妙にいたずらめいていることに。
クロスの前世であるヴァイド――この国を作った勇者は実はいたずら好きな男だった。そのことにエルナルフィアは頭を痛めたものだが、たとえ過去の記憶があろうとも、現在はまだまだ十六の小娘であるエルナはあっさりと手紙を受け取り、その中身に目を通した。
そして、少しずつ表情を失っていった。それこそ、ぽろぽろと感情を落としていくように。
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