第38話 もたらすもの




 日に日に日差しが強く、馬に乗っているとはいえ行軍は体力を消耗する。ふう、と静かにクロスが静かに息を落としたとき、「少し、休憩なさいますか」と近くの将に尋ねられる。「いや」とそちらを確認することなく短く返答した。クロスの言動一つが兵の指揮に関わる。


「俺を気にする必要はない。ただし、兵の動向はつぶさに報告しろ。そろそろ疲れも溜まっているはずだ」

「はっ」


 馬の蹄の音が離れていく。今度こそクロスは表情を変えることこそなかったが、アプリコットの髪色が、ふと記憶の中から蘇る。


(果たして、あちらはどうなっているのか……)


 現時点での状況を伝えるべく伝令を出したが、人間の足ではいまだ辿り着いてはいないだろう。かといって、伝書魔術を使用するにも事前に魔術で網を張られていた場合、即座にこちらの場所が敵に把握されてしまう可能性がある。平素ならばまだしも、行軍中での使用は望ましくはない魔術だ。


 溢れるような不安が胸の内を渦巻いている反面、おかしなことに奇妙に落ち着いた気持ちでもある。不安と、安心。いや、信頼といえばいいのだろうか。この相反する気持ちは同時に存在することもできるのだと、クロスは初めて知り驚いた。


(知らないことなど、これから山程見つかるのだろうな)


 これから先エルナとともに生きる中で、きっといくらでも。

 ならばまずは、この帝国の脅威から逃れねばなるまい、とクロスが眼前の木々を睨むように見据えたとき、がさごそと茂みが揺れた。動物か、と馬を止め、すぐさまクロスを庇うように数人の兵が前に出る。


「待て」


 兵が武器を構えたとき、クロスは制止の声を出した。ぴたりと兵は動きを止めるが、がさり、とさらに何かが近づく。そして男が転がりでた。先に斥候に送った兵の一人であり、クロスを確認すると同時に膝をつき、深々と頭を下げた。


「定刻より遅れ、大変申し訳ございません……!」

「構わん。むしろよくぞ戻った。それより、帝国の動きは」

「撤退しております!」


 興奮した様子で、斥候の兵は声を荒らげる。響き渡ったその言葉に兵は動揺し、馬にも人の驚きが伝播したのか、馬の嘶きとそれを抑える声がところかしこから聞こえたが、クロスのみが冷静な顔色のまま兵を見下ろす。


「続きを」

「はっ! 帝国軍はウィズレイン王国の国境を越え進軍を続けている様子でありましたが、先程唐突に撤退を始めました!」

「……どういうことですかな?」


 クロスに問いかけたのはハルバーン公爵である。彼はこの度の招集にもいち早く駆けつけ、すぐさまクロスとともに従軍した。今回は後方にて従軍していたはずだが、この騒ぎを聞きつけ素早く馬を走らせたのだろう。


 公爵は獅子のたてがみのような髭を相変わらずわさわさと動かし、「あちらが撤退する理由など、想像もつきませぬが……」と、眉を寄せている。


「ミュベルタ国の兵が動いたのだろう。……なんとか間に合ったな」

「ミュベルタ国とは、陛下の姉君様……オリアナ様が嫁がれた国ではございませんか!」


 驚き目を見開く公爵を相手に、クロスはにまりと頷く。


「そうだ。このために、のだからな。動いてくれねば困る。さすがの帝国も、我が国とミュベルタ国、二つの国の挟み撃ちとなれば泡を食って逃げるしかなかろうよ」


 クロスは帝国の動きを事前に察知し、すでに出陣の準備を終えていた。だからこそ帝国側が驚くような速度で出陣することができたのだが、その際、帝国――そしてウィズレイン王国の中に紛れたミュベルタ国の密偵にも伝わるように、あえて鬨の声を上げながら 炎に塗れる王都の中を駆け抜けたのだ。

 王都に火を放った犯人、つまりは帝国の人間も、クロスを先頭に伴っての出発に、さぞや驚いたことだろう。


「まあ、あちらも王都を抜け出している最中だったかもしれんがな……どちらにせよアルバルル帝国の王、リゴベルト王にもウィズレイン王国の出陣がさぞやスムーズに伝わったはずだ」


 クロスは自身の姿すらもパフォーマンスの一つとしてここまで来た。もちろん、ミュベルタ国の動きがあと少し遅ければ直接迎え撃つ必要もあったので、いまだ冷えた興奮は収まらない。


(敵と味方、どちらも傷つけることなく、なんとか収めることができたな……)


 不思議と安堵するような気持ちもある。きっとこの感情もエルナに影響を受けたものなのだろう。


(エルナならば、相手が死なねば多少の傷程度は問題ない、と言いそうだが)


 ふ、とわずかに口の端を歪めて笑ってしまう。人の死には臆病であるくせに、それ以外のところはとにかく大雑把なところが竜の生まれ変わりらしい。


「……近くまで来ているはずだな」

「むん?」


 ぴいっとクロスは指笛を吹くと、やはり想定通り一羽の鳥が木々の合間をくぐってクロスの腕を止まり木とする。「鳩ではなかったか」とクロスはなんてことのない顔をするが、「おお、これは立派な鷹ですな!」と公爵は馬の手綱を引きながら感嘆の声を出している。


「姉上からの此度に関する伝書魔術の鷹だ。俺がこの近くにいると当たりをつけて寄越していたのだろう」


 黒い鷹は翼を羽ばたかせると同時に、静かに一通の手紙と変化する。クロスはゆるりとそれをつまみ、文面に目を通した。以前にそれとなく苦言を忍び込ませたからかこちらをからかうよう文章ではない――と、苦笑しながら文字を滑るように瞳を動かし、ぴたりと動きを止める。


「これは、姉上からではないな」

「……では、どなたからで?」


 ――これにて、借りを返す。


 複雑な暗号を紐解くと、出てくるものはただその一文のみ。


「ミュベルタ国の、国王――つまり俺の義兄上殿からの一筆だ。借りを返す、とのことだそうだぞ」

「はて、彼の国に返していただく必要があるほどの大きな借りなどございましたかな……?」

「さてな」


 くしゃりと手紙を投げ捨てると、即座に魔術で燃え尽きる仕組みとなっている。曖昧に返答しつつもふと笑いが込み上げてくる。


(噂は、どうやら真実を捉えていたらしい)


 ミュベルタ国とは万一の事態に備え、表向きはそれほど密な関係を築いてはいない。帝国、そして聖王国と強国に挟まれている現状、手札はいくらでも隠し持っておくべきだ。

 だからこそミュベルタ国との関わりはただ一つ。クロスの姉、オリアナを正妃として迎え入れたことだ。


 そのことを借りと感じるほどに、オリアナはミュベルタ国の中で確固たる地位を築き、そして此度の出陣についても強力な力添えをしてくれたのだろう。


(有言実行、とはまさにこのことだな……)


 ――いい? 私はただ人質とされるために国の外に行くのではないわ。愛されるために旅立つの。必ず、王である夫の愛を掴んでみせるわ。


 在りし日の姉の言葉が、クロスの脳裏に思い浮かぶ。


「さて陛下、この後はいかがいたしますか」

「そうだな……撤退の知らせに間違いはないだろうが、一旦はこのまま進軍を続ける。この目で見届ける必要もあろう。また今一番怯えているのは周囲の村々であるはずだ。視察を行い、必要なら幾人かの兵を駐在させる」

「陛下が直接お出でになるのならば、村人たちも喜びましょう」

「王都に帰るには、まだしばらく時間がかかりそうだ。……ん、あとは二つほど、急ぎで伝書魔術を使う必要もあるな」

「ほほっ。恋文ですかな?」

「からかうな。片方はミュベルタ国の王へ、もう片方は――ん。まあ似たようなものか」


 軽く肩をすくめるクロスを見て、公爵はぱちくりと瞬いた。そうした後で、ほほほうっ、と赤もじゃの髭をもしゃもしゃと片手でいじりながら、楽しげな声を上げた。





 ***





「鳩だ……!」


 青い空の下で、こっちだ、とばかりにフェリオルが大きく片手を振り上げる。


「白い、鳩……」


 気づけば、エルナも呟いていた。


「兄上の伝書魔術だ、きっとそうだ!」


 どんどんと大きくなる白い豆粒を指差し、にこにこと、嬉しそうにエルナに声を投げかける。エルナは何度も大きく頷いた。きっとそうだ。そうに違いない。


「こっちよ!」


 おいで、と叫ぶ。早く、こっちに。早く、早く。

 待っているから。



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