第8話 精霊、ぐるぐる
「エルナルフィア様……いえ、エルナ様、むうん、申し訳ございませぬ、エルナ、とお呼びするしかございませんな」
しょんぼりと頭を下げる角度ですらも直角な男性――くるんとひげが長いおじいさま、コモンワルドはすぐさまびしりと直立した。もふもふヒゲのハルバーン公爵にしろ、出会うヒゲのヴァリエーションがちょっと多い。しかし公爵がどでかい獅子とするならば、コモンワルドは細く長い針のようで隙のないぴしりとした服の着こなしで性格も伺い知れるというものである。
しかし今現在のコモンワルドは中々に悩ましげな表情をしている。その不安を払拭すべく、エルナは必要以上に明るい声を出してみた。
「もちろんです。執事長の方に様付けで呼ばれるわけにはいきませんから」
そして胸をはりつつどんっと叩いてしまったが、こういった仕草は少し間違っているような気がする、と慌てて手のひらをぱっぱと振って自身の腹の付近で両手を重ねた。
「だ、大丈夫ですよ」
「ふ、ふむ……」
不安のような、心配のような、なんともいえない空気がざらりと流れる。
――なんせ、今現在、エルナは王宮のメイド服を着ているのだ。つまり、本日からエルナは世話をされる側から、する側に回ることになる。
コモンワルドはエルナの正体を知っている数少ない人間だ。エルナ自身でさえもただのガラスだと思っていた、今はクロスが保有しているネックレスを竜の鱗だと一目で見抜いた知識人でもある。
そんな彼にじっと見下されると、思わずぴしりと背筋を伸ばしたくなってしまう。「…………」 さて、何を言われるのかと口元を引き締めつつ言葉を待ったが、コモンワルドは片眼鏡を眼窩にはめた彫りの深い顔つきを柔らかに変化させた。
「何かお困りなことがございましたらいつでもお声掛けください。あなた様のことは、クロス様からよくよく言いつかっております。必ず、お力になってみせますとも」
***
そう言われたのが今朝のことで、エルナは早速仕事に向かった。中庭を通り抜ける形となる回廊はアーチがいくつも取り付けられ、明るい日差しがさんさんと差し込み、なんとも朗らかだ。もともと城の中を自由に歩き回ることに制限をかけられているわけではなかったが、堂々と動き回ることができる身分を得た今の気分はまた別だ。
けれども、なんというか。『困ったことがあれば』と言ってくれた頼りがいのあるコモンワルドの言葉を思い出しながら、エルナは現在進行系で困っていた。けれど、多分本当に困惑しているのはエルナではなく、目の前の少女だ。
緑がかった髪の両端が肩よりも上の位置でくりんとカールした少女が、つかつかとエルナの眼前を歩く。少女は頭に白いキャップを被っていて、背中側のスカートはひらひらとリボンの端が踊っている。
つまり、今現在のエルナと同じ格好をしている少女の名前はノマである。
――エルナ様のお世話係として言いつかりました。わたくし、ノマと申します。
この一週間と少しの間、エルナの周囲の面倒を見てくれていたメイドの少女だ。エルナはノマの後ろをてくてくと追いかけていた。その背中を見つめつつも、うーんと考えている最中のことである。「あっ、こら、邪魔しないの」「……なにか?」 しまった、と慌てた。エルナの手の中には先程掴んだ精霊が、すみませんなとでも言いたげにぺこぺこしている。
「あ、えっと、あのー……」
エルナの周囲には、どうしても精霊が寄ってきてしまう。特に今は外に面しているため自然が近くほわほわとした精霊たちが目の前を回るから、思わず片手でむぎゅっと精霊を掴み、声を上げて注意してしまったのだ。ノマは胡乱げな瞳をエルナに向けている。これはしまった。
「目に埃が入って……思わず……」
精霊を握りしめたまま苦しい言い訳をすると、さらに困惑した瞳を向けられた。さっきから、ノマはずっと同じ顔をしている。当たり前だ。――なんせ、自分が面倒を見るように言いつかっていたはずなのに、なぜか今度は同じメイドとして働くことになってしまったのだから。
ちなみにノマが両手を下げて持っているのは、それはもう重たそうな、たっぷり水が入ったバケツだ。ノマの細腕では負担になるだろうとエルナが持つことを提案してみたところ、すげなく断れてしまった。つまり、お前なんて信用できない、といった意味合いかもしれない。
(コモンワルドさん、なぜ……!)
ノマはエルナが竜の記憶を持つということは知らない。本当にいきなりすぎる配置換えだ。
こんな混乱させる人選ではなくてもっと別の場所があったのではと思いつつも、結局どこに行ったところで同じようなものかもしれない。噂はどこにでも回るものだ。でもやっぱり、あのヒゲめ、と思わないでもない。
「……エルナ、頼む仕事だけど。いきなりだったから、何をお願いしたらいいか……わからなくて、すごく困ったというか」
(余計なことをしてくれたな、という意味かな)
「だから、ここ。人通りが少ないわりに外に近くてすぐに汚れるから困ってるのよね。これ、ほらバケツ。大丈夫なの?」
(こんな小娘が掃除の一つでもできるのかという心配かな)
「大丈夫です」と返答しながらもネガティブがすごい。なんせ、エルナはメイド達からの冷遇に慣れきってしまっている。実家とは名ばかりのカルツィード家では、毎日元気にエルナをいびるローラのせいでどこへ行こうとも一番の下っ端だったから、バケツを見ると頭からかけられるかもしれないな、と嫌な心構えまでできてしまう。
そんなことをされたところでメンタルの方は別に痛くも痒くもないが、火竜であるエルナルフィアは水との相性はあまりよろしくはないため、できることならやめてほしい。たとえ火竜であっても風邪には勝てない。悲しいことに。
「じゃあ私、他の道具も持ってくるから」
「えっ、あの、じゃあ私も」
「別にいい。そこにいて、待っててよね! そこから動くんじゃないわよ、ぴくりともね!」
(なるほど。これはもう戻ってこないな)
すでに虐げられはプロフェッショナルなエルナは去っていくノマの背中をぼんやりと見つめた。ノマが置いたバケツには布が一枚ひっかけられている。「うーん……」 どうしたものか、と考えて、「掃除すればいいのか」 やることはすでに提示されているのだから、なんの問題もない。
たしかに回廊はほとんど庭と接している形だから砂埃がつきやすく汚れやすくはあるが、定期的な清掃はきちんとされているようでそれほどの苦労は必要なさそうだ。
いくつものアーチの影が回廊に伸びていた。その隙間は、きらきらとした陽光が輝いている。光が当たる柱は輪郭をぼんやりとさせて温かい。柔らかい風の匂いがエルナの鼻をくすぐった。庭を覗くと鮮やかな緑の木々が庭園を彩り、ときおり鳥のさえずりが聞こえる。足元では精霊たちが楽しそうに踊っていた。
――まるでこの場だけ空間が切り取られているかのようだった。
『ほがらかでごんす』
一応隠れていたらしく、エルナが被っていたキャップの隙間からぴょこんと飛び出したハムスター精霊の言葉に頷くしかない。正直、このまま庭へと素足を踏み出してころんと転がり眠ってしまいたくなる。
「……いい考えかもしれない」
と、うっかり自分自身に惑わされそうになりつつ、「いやいや」と慌てて首を振りながら「とりあえず、色々と拭いていこうかな」とエルナがバケツに手を伸ばそうとしたとき、ころり、ころころと一匹の精霊がやってきた。透明な風がきゅっと詰まって形になった精霊は、なにやらエルナに言いたいことがあるらしい。ぴゅいぴゅい、きゅいきゅい、ぷきゅぷきゅぷ。エルナとハムスターの首がどんどん片側にもたげていく。なるほど、なるほど。
「いや別に、手伝いとかは」 お仕事をいただいているわけですし、「って聞いてないね」 ゆっくぞう! と精霊達は飛び出した。いえいいえい、ぐるんぐるん。
作業開始の合図とばかりに、風の精霊はまずはひゅる、ひゅるる、と小さな旋風をいくつも起こす。そこにやってきたのは、ぽこぽこした石ころみたいな土の精霊だ。ごろんごろんと身体を動かし隠れた場所までしっかりがっつり土埃を巻き込んで親指サイズがどんどん大きくなっていく。ぱっちゃりぱちゃぱちゃ! 今度はバケツの水が暴れだした。たまには私達も失礼しますね、とでも言いたげな様子で、雫となった水の精霊たちがしゅぱっと飛び出す。
「お、おおお……」
水の精霊が回廊を濡らして、葉っぱの精霊達がそっと拭き取り、さらには風と火の精霊がふうふうと息を吹き出し乾かしたと思うと、辺り一帯が一瞬でぴかぴかになっていく。
「う、う、う、うわー!!?」
他にも花やら木やら、広く長いはずの回廊が、あっという間に精霊たちで埋まってしまった。わいわいきゃあきゃあ、さらには小さな虹まで出来上がっていて、なんとまあ、いつの間にやら大混乱だ。そんな渋滞を解消すべく、ハムスター精霊はちょびちょび短い両手を振り上げ、楽団の指揮者の如く指示を飛ばしている。『ハムウッ! ハムハム、ハムウッ!』 いやなんかちょっとハム感が出すぎていないか? とこっちは若干の困惑をしたい。
「ちょっと待って、まだ私だけ何もしてないんですけど……!」
みるみるうちに回廊は姿を変えていく。エルナは慌ててバケツの縁にかけられた布へと手を伸ばし、ばしゃんとバケツの中に手をつっこんだ。「うう、冷たい!」 水はあんまり得意ではないが、体中浸かるわけでもなし、これくらいなら平気だ。「うわ、うわ、うわ、うわー!!!」
そして勢いよく布を絞って、飛び出して、柱や床を拭っていく。うわ、の一つごとに行動して、しゅぴしゅぴ動き回る。なぜならそうしなければ精霊たちに仕事をとられてしまいそうなので。
「ま、負けて、られるかぁー!!!」
とにかく、飛び出すしかなかったりする。
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