第7話 光の雨、ほろほろ
唐突なハルバーンの提案に、むすめ、むすめ、とエルナの頭の中で文字が躍っている。思わずきょとんとして、瞬いて、首を傾げてのクエスチョンマークを飛ばすエルナを見て、「まあ落ち着け」とクロスからのストップが出た。
「これは、現在のお前の事情を知った公爵からのただの提案だ。エルナが、カルツィード家の養女であることに問題があるというのならば、別の……さらに有力な貴族のもとで養女になってはどうか、とな。俺の嫁になるにしても、養女となった後でも問題ないしな」
クロスが何かを言っていたが、エルナは無視することにした。たしかにカルツィードとの縁を今すぐ切ることができるというのなら、願ってもいないことだ。けれど。
大きな身体と強い瞳でこちらを見下ろしているハルバーン公爵と目を合わせ、彼が見つめているものはエルナの、さらに遠い場所であることに気がついた。自由な世界を羽ばたくガラスの鱗を持つ竜の姿を想像する彼と、今ではただちっぽけになってしまったエルナ。
「申し訳……ないですが……」
思わず、顔をそらしてしまった。気まずい空気が漂い、息苦しささえある。「ならば、仕方ないですなぁ!」 しかし瞬間、そんなものは吹き飛んだ。ハルバーンの大声はまるで一つの風のようで、直立したままひっくり返る手前で、エルナは身体を硬くさせてこらえた。元竜だって、びっくりするときはびっくりする。
「エルナルフィア様……いいえ、エルナ様にお会いでき、年甲斐もなく先走ってしまいました。……私は残念ながら魔術の才には恵まれませなんだが、炎の魔術を持つものは、熱く、一途な者が多い。エルナルフィア様。どうぞあなたの熱き魂で、クロス様をお支えください」
たしかに、その言葉はエルナに向けて話されたものだった。
ハルバーン公爵から自然に差し出された手のひらを、エルナはゆっくりと握った。やっぱり彼の手のひらは大きくて、エルナの手と比べると赤子のようだ。獅子のような外見に反して、穏やかな体温は、ことりとエルナの胸を熱くした。はい、と気づいたら声を呟いていて、そのことに驚いて思わず口元を引き結んだ。ハルバーン公爵が年相応のエルナの顔を見て、くっくと笑みを落としたから、エルナは顔を真っ赤にした。
「さて、陛下。実は私は死ぬほど耳がよく、よく野生の動物か何かかと驚かれるのですが」
「公爵家の頭目から出るセリフとは到底思えないが、大丈夫だ、知っている」
「んほっほほほほ。この分厚い扉越しにエルナ様の悩ましげな声が耳に届きましてな……」
ハルバーン公爵はふぁあっと両手で耳をすますようなファンシーなポーズをしているが、していることはまったくファンシーではない。しかし問題はそれではなく、(えっ、お、思い悩んでいたって……!?) エルナは先程の会話を思い出した。
(ええっと、そのたしか、クロスに改めて、その、それを、ぷ、プロポーズなようなことを、言われて)
ぐるぐると目の前が回る。自分だけでも恥ずかしいのに、聞かれていたとなればさらに辛い。しかもハルバーン公爵は、どこか訳知り顔だ。
「陛下、エルナ様は思い悩んでいらっしゃいます」
「あ、あの、ちが、待っ……!」
「やることがなさすぎて、困っていらっしゃるとのことで!!」
「あっ、そっち……!?」
――どうだ、城での生活は。何か不便はないか?
――不便は……ないけど。うん。ないというか、やることがなさすぎるというか……。
本当に、最初の最初の会話である。
随分さかのぼったなぁ、と思わなくもない。
***
「案外、いいかもね、これ」
ハルバーン公爵の思いつきは実にエルナにとってしっくりくるものだったらしい。
「もともと、お母様の骨も王宮にあるもの。近くにいさせてもらえばありがたいし。ううん、いなきゃだめだものね」
そう言ってひらひらさせる服は彼女にとってはとても慣れた様子だ。もちろん、王宮で渡された服の方が、素材もしっかりしていればサイズだって抜群にぴったりなのだろうが。
なんと、エルナが着ているものは、王宮のメイド服である。
「やっぱり着慣れたものだと落ち着くよね、うん。すっかり盲点だった。ハルバーン公爵の話がなかったら思いつかなかったかも」
「俺は逆に見慣れん姿だがなあ」
手配したクロスからすると妙にむず痒い気持ちになるが、エルナが嬉しげな様子を見ていると、どうにもつられて微笑んでしまう。
執務室の窓からは静かな風が入り込み、エルナのスカートを柔らかく膨らませる。と、思ったら、「わぎゃっ、おわっ、うわっ」とエルナがぺしゃんこになっていた。「こらやめんか、やめなさいってば!」と見えもしない何かにぷんすこ怒っている。嬉しそうなエルナを見て、精霊達がやってきたのだろう。
ふと、クロスは瞳を眇めた。
竜として生きたエルナと比べると、クロスはただの人間だ。精霊の姿は見ることはできないし、記憶にある過去の生はまるで御伽話の中にいるようだ。けれども、飛び込んできた赤髪の少女はたしかにクロスにとっての現実である。
思わず目を細めてエルナを見つめた。すると、わあわあ自分の頭の上を叩いたり、身体をくるくる回したりと忙しいエルナの足元から避難するように、ちょこちょこと短い手足でハムスターがやってきた。
「……しかしなぜだかお前だけは俺にも見ることができる。お前、果たして一体、何者だ?」
ちょん、と口元をつつくと、ふくふくの口がもぞもぞ、鼻はぴくぴくと動いている。
そのとき、さらに楽しげなエルナの声が響いた。スカートの裾をぴん、と指先で持って、くるくるとつま先で回り、倒れそうになったかと思えば器用に反対の足でバランスをとり、さらに逆回転だ。
ぽつり、と。
雨が降り注いだようだと驚き瞬くと、それは窓の格子の隙間からこぼれる光の粒だ。はたはた、ぽろぽろと光の雨が降り注いだ。くるり、くるりとゆっくりとエルナは柔らかいスカートの布を揺らして精霊達と遊んでいる。
「あっはっはっは!」
まるでどこか遠い、何かを見つめていたかのようだ。くすぐったくて、思わず上げてしまったみたいな声を聞いてクロスはぱちりと瞬いた。ふと、息を呑み込み居住まいを正した。
「エルナ、中身が見えるぞ」
そして苦笑しつつも苦言を呈した。瞬間、エルナは勢いよくスカートを押さえ込み、真っ赤な顔で唇を噛み締めている。多分、ぽろぽろと精霊たちは落っこちた。ハム精霊が短いお手々をはわわと口に向けて心配そうに鼻をふくふくしている。
穏やかな昼下がりだ。
「……おっ、お見苦しい、ものを……」
「冗談だ。ギリギリ見えてはいない。ギリギリな。それに俺は中身しか興味はない」
「堂々と真顔で言っちゃったよ!」
「白い布を見せられてもなぁ。もうちょっと色気をくれ」
「ギリギリどころかあまりにもどストレートだ!」
エルナはまだ、生き方を決めていない。
竜と人の間を曖昧に生きている。少女がどのように生きるのか。何を選択するのか。それはクロスにもわからないが、できることなら、手を差し伸べたいと願う。――たとえ、自分自身が持つ力が、とてもちっぽけなものだとしても。
「エルナ、お前がいるとまるで雨の中にでもいるみたいだな、本当に。騒がしいからかね?」
「随分昔にも同じようなことを言われたような気がするけど、騒がしくしていたのはそっちだからね!? 昔の私はとてもお淑やかだったよ!」
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