第6話 ならやっぱり結婚するか
***
きらきらと輝く水面を見ると、ふと、息を止めてしまう。赤とも茶ともいえぬ髪色を持つ少女は、ぱちりと瞳を瞬いた。空を写し込んだような真っ青な瞳は、星々が散ったようにきらめいている。
冬の最中のひんやりとした空気が水辺のゆらめきとともにやってくる。
火の竜である前世を持つエルナにとって水は天敵だ。しとしとと降るほんの少しの雨だってすぐに風邪をひいてしまうくらいなのに、たっぷりと太陽の光を吸い取った水面は、まるで空の中のようで手を伸ばしてしまいたくなる。たまらなくなって、エルナはつい、と指を向けた。窓枠から小さな身体を乗り出し、右手を差し出す。もちろん、そんなものが池に届くわけがない。そう気づくと、今度はゆっくりと空を見上げて伸ばした。
太陽があんまりにも眩しい。そのまま手のひらで隠すと、影になった指先に赤い線が透けていた。「あ」 エルナはハッとしてふらつき、ぽすんと尻もちをついてしまう。
「そうだ、私、人間だった……」
エルナが、エルナルフィアとしての記憶を思い出して、はやひと月。
クロスと出会い、城に滞在するようになってとなると、まだ一週間と少しの時間しか、たってはいない。
***
「どうだ、城での生活は。何か不便はないか?」
「不便は……ないけど。うん。ないというか、やることがなさすぎるというか……」
王宮の執務室に呼び出されエルナと机を挟んで向かい合うのは金髪白皙の美青年、でも実は馬鹿力なヴァイドカルダドラガフェルクロスガルド――ないしクロスと、少女、エルナの二人には前世の記憶がある。
クロスはこの国の礎を作った男、ヴァイドとしての。エルナはガラスの鱗に空の色を映した火竜、エルナルフィアとしての。カルツィード男爵家にて血の繋がらない義姉や義母に虐げられ、今生では家族に恵まれなかったエルナだがなんの運命のいたずらか、こうしてまた前世の縁を紡いでいる。
(……なんというか)
現状、エルナは宙ぶらりんな状態だった。毎日毎日義姉の無茶振りにため息をついていたというのに、今度は城の中で自由にしていいと言われたところで逆に困ってしまう。
エルナの心情を表そうとしているのか、頭の上に乗るハムスターはハムハムと短い両手を激しく振り上げながらハム踊りをしていた。このハムスターはただのハムではなく、どこか遠いところからやってきた精霊のようだが、いつの間にかなんとなくいつもエルナと一緒にいる。
それはさておき。
エルナは今はただの小娘だが、気が遠くなるほどの過去の世界で、火竜であり飛竜としてヴァイドと共に国々を駆け回った。だからこそウィズレイン王国では竜は守り神のような存在であり、初代国王、ヴァイドの遺言としていつか生まれ変わるであろうエルナルフィアを人々は待ち望んだ。でもヴァイドの遺言というと聞こえはいいが、実際は絶対適当なことを言っただけで、まさかこんな後の世にまで自分自身のセリフが残るとは思ってなかっただけだろ絶対、とエルナは考えている。ヴァイドは実にちゃらんぽらんな男であった。
(……そのくせ人たらしで、顔と中身が合わないような脳みそが筋肉気味だったからよりたちが悪かったのよね)
過去の相棒を悪し様に罵りながら、現在の男を見比べた。ヴァイド、もといクロスは机の上に両の手を組み合わせてしごく真面目な顔つきで、「不便がなさすぎるか……ううむ。難しいことを言うな」と考え込んでいる。
ちなみに自身こそが竜であると詐称したエルナの義理の姉であるローラの処遇については、まだ公にできるものではないため伏せられている現状、エルナがエルナルフィアである、という事実を知るものは一部の者だけである。
「……一応、周囲の人達からすれば私はエルナルフィア……様、の義理の妹ということになるけど、ローラが城にいないのに、私だけ残っているのはメイドの人たちも奇妙に思っているだろうし、手持ち無沙汰だし」
「ならやっぱり結婚するか」
「今日の晩ごはんを告げるかのように軽やかにプロポーズしないで!?」
こうして事あるごとに婚姻を求めるクロスに、エルナの頭は常に大混乱をしていた。
「あの、よ、嫁になるというのは、その……ちゃんとわかってるの?」
「うむ。もちろんだとも」
真っ赤な顔をしてうろたえているエルナと相反して、クロスはどうにも平常心で、自信満々に頷いている。
――クロスがエルナに結婚を申し込んだのは、三日前のことだ。
この言葉だけ捉えるとひどく甘い物語のようにも聞こえるが、残念ながら実際にはそんなものはまったくなく、クロスのあっけらかんとした顔を見る度に、エルナは自分だけがこうしてあわあわと慌てていることになんだか悔しくなってしまう。
「あのね、ヴァイド……ううん、クロス。結婚するってことはよ」と、神妙な声を作って尋ねた。いいや、尋ねようとした。「結婚、するってことは」 ごくん、と自分で唾を呑む。それからもう一度口を開いて、「けけけけ、結婚、するって、ことは!」 そしてそれ以上うまく声が出ない。心臓がどくどくと音を立てて、頭の中が真っ白になっていく。そしてエルナの頭の上で踊るハムスターの動きも、さらに勢いを増していく。
「だから、結婚するってことは、その……」
「大丈夫だ。責任を持って幸せにすると誓おう。挙式は王城になるが問題ないか?」
「問題しかない……!」
(く、クロスと結婚って……)
正直、嫌じゃない。嫌では、ないけれど。
(結婚というからには、好きとか、嫌いとか、そういうのもあるんじゃないの……?)
多分、自分が言いたかった言葉は多分これだ。こんなの恥ずかしくて、口になんて出せるわけがない。考えるだけでも、きゅーっと胸が苦しくなった。
「大丈夫か? 腹でも痛いか?」
「そんなわけあるか……!」
「それはさておき。エルナ、お前を呼んだのは決してこの本題だけではなくてだな」
「結局本題だった!?」
結局騒いでいるのはエルナ一人きりだ。貴族や王族の婚姻とは、決して感情だけがものを言わないことをエルナだって理解している。でも、それでもと思ってしまう自分が悔しくて、そして嫌になって、なんとか我慢しようとした。エルナは真っ赤な顔でぱんぱんに頬に空気を溜め込み、頭の上のハムも真似をしている。
頬袋の中身を詰め込んだような顔が二つ並んでいるのを見て思わずクロス自身も口の端を持ち上げてしまったが、なんとか片手で表情を隠しつつ反対の手で机の置かれたベルを持ち上げると、ちりんと涼し気な音がする。
すると重たいドアを打ち鳴らすようなノックが三回。入室の合図だ。「構わん。入れ」 クロスの許可とともにやってきたのは、それは大きな男だった。「陛下、失礼致すぞ」 ドアをくぐる際に窮屈そうにしていた身体は背を伸ばすと、ぐんと天井近くまである。顎はこんもりと髭で覆われていているから、赤髪の獅子とエルナは想像した。でかい。上から下までを何度見てもでっかい。
思わず目をこぼれんばかりに大きくするエルナを見て、その大男は、「ほほう!」と面白げに顎をさすって、わっしわっしと自分の髭を太い指でさすっている。
「あなた様が、かの英雄の相棒、エルナルフィア様でいらっしゃいますか! お目にかかれて、恐悦至極にございますなぁ!」
声もでっかい。
吹き飛ばされそうな衝撃だったが、エルナは冷静に両足にぐっと力を入れて押さえ込んだ。こちらは小娘。けれども、相手はたかが人間である。「……ええっと、あの」 しかし困って、クロスに視線を向けると、「うん、まずは自己紹介からだろう」とクロスはそのでっかい男を片手で静止させ、エルナをちらりと見やった。
「エルナ。こちらはライオネル・ハルバーン公爵だ。城の治安の一部を担ってもらっている」
「不詳ながら、陛下のお力添えをさせていただいておりますとも!」
うほっほっほ! と腹式呼吸で笑う男を前にして、「はあ……」とエルナは気のない返事をすることしかできなかった。
***
執務室にやってきた大男、もといハルバーン公爵はどうやらエルナの前世を知っている。そしてそれどころか、カルツィード家のあれこれまで把握している様子だ。自分が把握できないところで自分のことを知っている人間がいる、というのはなんだかむず痒い気分である。
「数日前、謀反が起こったと一芝居してみせただろう。私用で城の兵を無断で動かすことはできんからな。その際、公爵の兵を借り受けたのだ」
エルナは猫のように大きな瞳をクロスの説明を聞いて、さらにきゅっと大きくさせた。
クロスからすれば、ローラという小娘一人に少々の痛い目を見せるため芝居のつもりで、まさかエルナルフィアの力を暴いてしまうような大事になるとは思ってもいなかったのだ。
それなら公爵がすべてを知る理由も理解できる……わけだが、どうしよう、とエルナは公爵を見上げ考えていた。
公爵の兵達を素っ裸にしたことを怒られたらどうしよう。
(いや、正確には武器と鎧を溶かしただけで裸にしていないけども)
自分自身で言い訳を考えつつも、心の中は正直焦ってはいた。一方的な気まずさもなんのその。『ばっくれるでごんす』と、堂々と提案するハムを手の中でこねくり回しつつエルナはハルバーン公爵の言葉を待った。けれども別に公爵は怒っているわけでもなんでもなく、「エルナルフィア様」 そう言って、エルナに向かって静かに跪いた。
「生きているうちに……あなた様にお会いできるとは。本来なら陛下からの知らせを聞き、一番に駆けつけたく存じましたが、エルナルフィア様の現在のお姿についての箝口を敷くため、時間が必要でしてな」
大きい人間というのは座っても大きいのだな、とエルナは場違いに思案した。効果音で言うならずんぐりずんぐり。
でもそういうことを考えている場合ではなく、怒られる話ではなさそうだが、なんだか奇妙な流れになってきてしまった。「人の口に戸を立てることはできんだろうが、少々の時間稼ぎも必要であろう」 クロスはすっかり王様口調になっていてむずむずするし。
「あの……とりあえず、なぜ跪いていらっしゃるので……」
「エルナ。公爵は敬虔なエルナルフィア教の信者でもある」
「えるなるふぃあ教……ああ、あー……」
それはもちろん、エルナだって知っているウィズレイン王国の中で随一の宗教だ。当時のエルナルフィアが許容した記憶はないが、寄ってくる人間たちにときどきしっぽを振って反応してやっているうちに、いつのまにか熱狂的な信者<ファン>が増えてしまったのだ。
エルナルフィアからしてみれば、ただのファンサービスのつもりだったのだが、いつの間にか世代を超え、時間を旅し、今の今までそんなこんな。まさかそんな、と正直言いたい。
というか重たい。
「お気持ちは伝わりましたし、わかりました。なのでとりあえず、立ってください……立ってほしいです……」
「おっほ。ありがたい。老体にこのポーズは辛いものがありますのでなぁ!」
「ただのめちゃくちゃ正直」
動きがとても素早い。敬虔じゃなかったのか。
「いやいや、我がハルバーン家は代々炎を紋章としておりましてなぁ。竜は、王族のみ許される印ですからな。それならばどうエルナルフィア様に近づくかと祖先がない知恵を絞りまして! 雇い入れる者も、炎の魔術を扱える者に優遇をしておるのですよ!」
さあ見てください! と赤髪の獅子はマントに縫われた刺繍をエルナに見せる。ちょっと反応に困ったので、曖昧に笑った。なんというか、ぐいぐいと全体的に近い。
「……ハルバーン公爵。ここに来た目的がずれて来ているのではないか?」
「ハッ……そうでございましたな!」
「相変わらず体全体で元気な反応をするな……。エルナ、俺は、お前にもっと多くの可能性があってもいいと思っている。お前が選ぶことのできる選択肢を増やしたい」
「選択肢……?」
話が見えない。エルナが眉をひそめると、ばしん、とハルバーンは大きな手のひらで自身の胸元を叩いた。
「エルナルフィア様、もしよければ私の娘になってはいかがでしょうか?」
「…………む?」
むすめ。
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