第23話 馬車の中にて
***
一応、今回もエルナルフィア絡みの事件だったといえなくもない、と馬車の中で揺られながらぼんやりと考えたときに、エルナははたと思い出した。
――そういえば、私、怒っていたんだった。
いや、怒ることが理不尽だと理解して、なんとか気持ちを呑み込もうとしたのにうまくいっていない。そんな最中だった。ついでにいうと、八つ当たり半分でクロスの執務室から飛び出していた……と、がらがらと揺れる馬車の窓から外の景色を見て考えた。
どうしよう。
小さな個室のような扉付きの豪勢な馬車は本来なら王族専用だ。お気に入りのメイドであるエルナは今回特別に使用して城に戻ることとなり、もちろん隣にはクロスがいる。互いに無言のまま、馬車は走り続けていた。
ちなみに空気を読めるハムスター精霊はすでにエルナの服のポケットの奥底に避難している。
「……なぜ、俺を呼ばなかった?」
「ん。えっ。え?」
そういえば気まずい状況だったことを思い出した直後だったので、一瞬頭の中で言葉の処理ができずに慌ててしまった。いきなりだったのでクロスに顔を向けてしまったが、失敗したかもしれない。クロスは想像よりもずっと難しい顔をしてエルナを見下ろしていて、今更顔をそむけるわけにもいかない。「えっと、その……」と、エルナは言葉を探して、視線もうろつかせた。
「ごめん、なんのこと?」
でも結局ごまかすこともできずに、またクロスと向かい合った。
「竜の鱗で、俺を呼ばなかった理由を聞いている」
「えっ、そんなこと?」
ぴくりとクロスの眉が動いた。美形が不機嫌な顔をすると迫力があるのだな、とエルナは見当違いのことを少しだけ考えてしまった。
――竜の鱗とはその名の通りの存在であり、ガラスのような透明な色をしていて、エルナが生まれた際に握りしめていたものだ。クロスに持っていてほしいとエルナが願ったから、今はクロスの首元にネックレスとして下げられている。
クロスの前世であるヴァイドがエルナルフィアの鱗を美しいと何度も褒めてくれたから、どうしても彼に届けたくて、エルナは鱗を握りしめてこの世に生まれたような気もした。
その竜の鱗とエルナは不思議な縁で結びついている。
「えっと……」
「馬車の中は防音魔術が施されている。何を話しても御者には聞こえん」
「ならよかった。だって、呼ぶ必要なんてないと思ったから。理由を言うならそれだけだよ」
人を殺すことができないという制約があり体力はただの小娘並みではあるが、エルナの純粋な腕力、また魔術の腕前はこの国一番だ。自信過剰ではなく、人相手ならば誰にも負けない。そうじゃなければのこのこ攫われはしない。叩きのめす自信があったから、自分自身を囮にしただけだ。
とはいえ、痛い目を見たことも忘れてはいない。自然とエルナは眉間にしわを作り、唸るような声を出す。
「もう同じ轍は踏まない。クロスの足手まといにはならない。私はあなたの剣にもなるし、盾にもなってみせる」
「待て。俺はお前が矢面に立つことは望んでいないし、足手まといだと思ったことはない」
「クロスが、そう思わなくても! 私がもう嫌なの! どんな形でもあなたを支えると決めた。だから……」
だから。勢いづいて声を出そうとして、どうしても絞り出すように小さな声になってしまう。
「正妃じゃなくても、側妃でも……いい」
違う。伝えたい言葉はこれじゃない。もっとはっきりと、一緒に国を守りたいと、そう言うはずだったのに。恥ずかしくて口元が奇妙な形でひくついてしまう。そんな自分を見せたくないと思ったときにはとっくの昔に顔を伏せてしまっていた。
だからといって出した言葉がもとに戻ってくることもなく、エルナはただ気まずい思いのままでじっと自身の膝を見下ろした。心臓が痛いくらいなのに、馬車の中はただ静かでときおりがらがらと車輪が回る音が響く程度だ。防音魔術が施されているとクロスは言っていたが、内の音は漏れなくても、外の音は入る仕組みになっているのだろうと関係のないことまで考えてしまう。
一体、いつまでこうしていればいいんだろう?
エルナはとうとう覚悟を決めて顔を上げた。それはもう決死の表情であったのだが、すぐにきょとりと不思議そうに瞬いてしまう。なぜなら顔を上げた先には、クロスが真っ赤な顔をして大きな手のひらで自身の顔を覆っていた。指の隙間から見えたクロスの眉間には深すぎるしわが刻まれている。
「……あの、クロス? どうしたの」
「謝罪する。いや、待て。これは俺が悪い。きちんと謝る。申し訳なかった」
「え……?」
「説明させてくれ」
そう言って、唇を噛みながら自身の眉間を何度も指で揉み、次に懐から取り出したのはことの発端である一枚の手紙だ。見たのは一回きりだが見間違えるわけがない。
もう見たくもないという気持ちでエルナはすぐさま眉をひそめ、視線を逃したのだが。
「違う。このまま見ていてくれ」
クロスが手紙の上でするりと手のひらを滑らせると、みるみるうちに文字が消え、一部のみが残る。そうして出てきた文面はもととはまったくの別物になっていた。
声こそは上げることはなかったが、エルナはぱちりと瞬いて手紙を見た。
「これは恋文などではない。他国からの書簡――ええい、つまりだ。ミュベルタ国に嫁いだ俺の姉が、公的には表に出せない情報をこうして定期的に送ってきてくれる。ミュベルタ国で収集した噂を伝えてくれることに感謝はしているが、中身におふざけがすぎるところが玉に瑕だが」
――ガラスの竜が空を飛び、ウィズレインの地に降り立つ。
正しく手紙に記載されていた文面はこうだ。
「お前の噂は、この国の中だけではなくミュベルタ国にまで流れている、ということだ。別の、例えば東のアルバルル帝国や西の聖王国にまで及んでいる可能性もある。心当たりがあるのなら気をつけろ、と言いたいらしい」
「ミュベルタ国って……」
「マールズ地域、いや、今はマールズ国だな。その隣に位置する小国だ」
「それは、わかっているんだけど」
ウィズレイン王国の南東に位置するマールズ国とは、もとはウィズレイン王国の領土だったのだが長い時間の中で帝国に吸収され、さらにそこから独立した国だ。
その隣、つまりはウィズレイン王国から見て南西の場所には、ミュベルタという国が存在する。竜として生きた時代には存在しなかった国だが、以前同僚であるノマに地理を教えてもらった際に過去からの変異に驚き、再度自身でも確認した情報であるため記憶としては新しい。
「クロスの、お、お姉さん? ううん、お姉様が?」
「そうだ、姉だ」
「恋文を!?」
「それは違う」
きっちりと否定された。
何がどうなっているのかとあわあわと頭を抱えていると、「エルナ」「うぶっ」思いっきりクロスに顎を掴まれ、顔を移動させられた。金色の瞳が驚くほど近くにあって、慌てて顔をそむけたくなったのだが、がっしりと片手で固定されてしまう。
もちろん、クロスが馬鹿力だといってもエルナの方がずっと力がある。なのでその気を出したらいくらでも逃げることができるのだが、このときばかりは動揺して逃げることを忘れてしまった。
じっと見下される瞳に緊張して、エルナは力いっぱい目をつむった。ぎゅむり、と音が聞こえるほどだ。
「エルナ、お前――あのとき、安堵していただろう」
けれどクロスの声を聞いて、ぱちりと目を開いた。それから数秒ののち、エルナは耳の端まで顔を真っ赤にさせた。あのときと言われて思い出すことはただ一つ。
クロスにキスされそうになったときに決まっている。
手紙が届いたとき、話がそれたことにとてもほっとしていたのがバレてしまっていたとわかったのだ。すでにエルナの顎を固定していたクロスの手はなくなっていたが、今度は顔をそむけることが恥ずかしくて、情けない顔のままじっとクロスと見つめ合った。
クロスは真面目な顔をしていて、はくりと一つ口を動かしたが、声にならなかったらしく、こほんと咳払いをした。次に見た彼の表情は、なんとも不思議なものだった。エルナが知っている言葉を当てはめるのならば、拗ねている、といえばいいのか――。「あのときは、無性に……なんと言えばいいか俺にもわからん。うん。少しつまらなく感じた。だからまあ、からかってやろう、と思った。が」 今はもっとつまらん気持ちだ、と小さな声が聞こえた。
「お前の口から、そんな言葉を聞きたいわけではなかった。辛い思いをさせて本当にすまない」
また、ぎゅうっと心臓が痛くなった。もちろん、悪い意味ではなく。あっけない。あんまりにも自分の気持ちが呆気なくて、『側妃でもいい』と絞り出すような声を出したのが、もうずっと前のことのような気にさえなってしまう。
「さ、最後まで話を聞かなかった私も悪いと思う。だから、お、怒ってないし、本当に、別に、クロスを支えることができるのなら、私はどんな形でも」
「それ以上言うな」
そんな自分を知られないようにごまかそうとすると、妙な早口になってしまった。でも最後まで言うことなくクロスに止められた。
「俺が擦れる」
それはどういう意味だろう。
いつの間にかクロスは窓の外を見つめていた。エルナはどうすることもできずにちらりとクロスの横顔を見た後、ちょこんと座ったまま自分の膝を見た。いつまでもそうしている訳にもいかないから、自然と前を向く。隙間から、御者の背中が見えた。がらがらと車輪が回る音と、わずかな振動のみを感じた。
「だいたいだな」と、ぽつりとこぼれるようにクロスが話す。相変わらず視線は窓の外に向いている。
「嫁も取らずに早々に隠居しようとしていた人間だぞ、俺は。一人ならまだしも二人三人と増えてたまるか。嫁はいらんと言い続けていた俺だぞ。ハルバーン公爵や他の城の重鎮たちも、下手にへそを曲げられてはかなわんと強くは言ってこないはずだ」
返事を求められているのか、そうではないのかよくわからないので、エルナはただぼんやりとクロスの横顔を見つめた。眉間には、やっぱり深いしわが刻まれている。
「だから、そうだ。そういうことは、考えるな。……俺が言いたいことはわかっているか? わかっているな? いや、わかっていないだろう。つまりだ、俺はお前以外に嫁は取らん」
「ん、ん、ん……」
「まあ、逆にだ。お前が夫を俺以外にも求めるというのなら止める権利はないが」
「いやあるよ! 止めてよ! いらないよ!」
「いらないか」
「クロス以外は不要だよ!」
クロスが楽しそうに笑うと、エルナも嬉しくなってくる。重たい空気はするりと呆気なく消えていった。互いに隣に座ったまま、軽口のような口調でおしゃべりをした。
「だからな。俺はただお前が心配だ。助けが必要ならば、いつでも呼んでほしいと願っている」
「必要ならね。でも今回は本当に違うと思った」
「そうか。なら俺は信じるしかないな」
「うん、ありがとう。……でもねぇ、そう、今回のことはクロスにも問題があるんだから」
「なんだと」
「私が攫われた理由は、クロスのお気に入りのメイドだって思われたから。エルナルフィアの生誕祭のとき、一緒にいるのを見られてたの!」
くわっ、とクロスは目を見開いた。もちろん衣装は変え、顔を隠すフードをかぶっていたが絶対ではない。王族がふらふらと出歩いて大丈夫なのかと不安めいていたエルナに対して、問題ないと強行したのはクロスである。
「そうだったか……しかし俺一人のときは、気づかれることはないのだが……」
薄々気づいてはいたが、大問題な一言である。王族が街をふらつくんじゃない。
クロスは納得のいかない様子で口元をさすりながら、何やら考え込んでいる様子だ。同じくエルナも眉をひそめて思案する。街の人たちに気づかれていないと言っているのはあくまでも本人の主張であり、本当はそんなことはなかったのでは、と可能性としてありえそうな気がしてきた。だって。
「やっぱり……」と、結論づけたエルナの次に二人が呟いたのはほとんど同時だった。「かっこいいから……?」「愛らしいからか」
互いに独り言だったはずが、重なってしまったためにむしろ大きく響いてしまった。「えっ」「む?」と顔を合わせて、「いやだから」とまずはエルナが解説する。
「自分では気づかれていないと思っていても、クロスって男前だと思うし、目立つし、それで実は他の人たちにバレバレだったんじゃないの?」
「待て。そもそもの問題は俺ではなくエルナ、お前じゃないか。これだけ愛らしい姿をしているんだ。エルナが隣にいるからこそ、俺がいつも以上に周囲の注目を集めてしまったというのが一番自然な結論だ」
いや真面目に語り合っているこの状況こそが一番不自然だった。一拍、二拍と間を置いたのち、エルナたちは互いに頭を抱えて羞恥のあまりに悶絶した。
「ちょっと待って、今のはすごくおかしいわ」
「そうだな、どうやら俺たちはおかしいな……」
今度は大きなため息が二つ同時に重なった。それから赤面した顔のまま互いにちらりと目線を合わせると、吹き出すように笑ってしまった。エルナは目の端にまで涙を浮かべてさらにお腹を抱えて肩を揺らしてしまう。ところが唐突に片手を引っ張られて、ついでにぐんと姿勢を変えられる。具体的にいうと、クロスと向かい合う形に。
大きな手が、ぎゅっとエルナの手を掴んだ。それからクロスがエルナに覆いかぶさるように近づく。「まっ……」 はくりと、エルナの小さな口が動いた。「ん?」とクロスがかすれるくらいに小さな声で返事をする。ちょっとだけ、耳が痺れる。
「あ、あの、なんというか、前に一回しちゃったことはたしかにあるんだけど、あの、こういうなし崩し的なのは、やっぱり少し……」
「なし崩しで何が悪い」
まさかの堂々とされてしまった。
「えっ……」 瞠目して、考えみる。「別に、悪く、は、ないのかな……?」
「嫁にキスするだけだ。悪いわけがないだろう」
「よ、嫁にはなるけど、まだ嫁には」
もちろん最後まで言えなかった。知らぬうちに背中には手が回されている。痛くはないけれど、次第にクロスの手に力が入って、細いエルナの体は固定される。繰り返されるそれに、エルナは段々息ができなくなってきた。足の先までぎゅうっと体が硬くなってしまう。
やっと終わったときには、エルナは涙目のまま口で息を繰り返した。へとへとだった。ふうふうと息を落ち着かせながら、ずずっと鼻をすする。
「……嫌だったか?」
「違うけど。違うけど……びっくりしているだけというか。ねぇ、まだお城にはつかないの?」
「まあ、もう少しだろう。なのでもう一度」
「もう一度!? 一度どころか何度もしたのに!?」
「せっかくだ。びっくりしなくなる程度には繰り返しておいた方がいいだろう」
「いいだろうじゃないよ!?」
馬車が城に着いた頃。エルナは恨みがましげな声を出しながら、「ゆっくりペースって言ってたのに……」とクロスを睨めつけたが、当の本人はどこ吹く風のまま「ゆっくりに決まっているだろう」と至極真面目な顔で返答した。
御者が馬車の扉を開けたとき、妙に殺気溢れるエルナの視線に、「ひえ」と小さな声を出して、すぐさま首を振りそそくさと端に移動していた。その様子を見ていけないいけない、となんとか表情を取り繕ったまま地面に降り、クロスにだけ聞こえるようにぽそりと呟く。
「今度は絶対に、私があなたを慄かせてやるから」
「期待しているぞ」
エルナのポケットから、やれやれとばかりにハムスター精霊が顔を出している。
エルナとクロスはばちりと視線を合わせて、クロスが楽しげに、エルナがひきつるような笑みを浮かべる。そのときだった。
「ヴァイド様……! お帰りになりましたか……!」
声を上げ慌ただしく駆け寄ってくるのは、コモンワルド――執事長である老年の男と、幾人かの兵士だ。そのただならぬ様子を目にして、クロスはすぐさま表情を引き締めた。
「どうした。何かあったのか」
「はい。先程マールズ国からの使者が、王に謁見を求めに来城なさいまして……」
「マールズ国の使者が……?」
クロスは形のいい眉をぴくりと動かす。
エルナには細かな事情はわからないが、彼らの口ぶりから事前の通達があったわけではないようだ。
――ガラスの竜が、空を飛びウィズレインの地に降り立つ。
なぜだろうか。このときエルナは手紙の言葉を思い出していた。
これは、エルナがエルナルフィアの記憶を持ち生まれ変わったことによる、一つの波乱の幕開けでもあった。
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