ウィズレイン王国物語 ~虐げられた少女は前世、国を守った竜でした~
雨傘ヒョウゴ
第一章
第1話 少女は竜の記憶を思い出す
太いしっぽは、自慢のしっぽだ。たゆん、たゆんと動かして自分に比べてしまえばなんとも小さな人間を尾で囲う。「なんだなんだ。身動きができんぞ」と男は苦笑しながらも彼女のしっぽを撫でた。
これはただの無意識である、と彼女は説明して、男は笑った。
彼女にとってはちっぽけな時間だが、男にとってはそうではない。このちっぽけな男が彼女の背に乗り、広い空を縦横無尽に駆け、数々の悪漢を打倒した様を見て、人々は男を勇者と呼んだが、そんなことは彼女にとってはどうでもいいことだ。
「なあ、エルナルフィア」
そう言って、エルナルフィアのつるりとした鱗を触って静かに声をかけてくれる。しゃらり、しゃらりと鱗は涼やかな音をたてた。
エルナルフィアの背に乗せて空を飛べる人間は、ただの一人きり。生涯に、ただの一度と決めていた。だから、飛んだ。淡く青い空気を翼にまとわせ、地を跳ね、まるで海の中に飛び込むがごとく、それとは反対に、ぐんぐんと空を昇る。とっぷりと、空に潜る。
そして――
たぷんっ。
空の中に、落ちた。
そう思ったときに、エルナは自身の前世の記憶を思い出した。
(人の……からだ)
自身の細い指を見て驚く。ひたひたと頬からしたたる。水がびちゃびちゃと床にこぼれていた。その一つ一つの雫が窓ガラスの光を写し込み、きらきらと輝いて、まるで空の中にいるようだった。
(私、人に生まれ変わったの?)
わずかに記憶が混濁している。エルナは人だ。十六の少女であり、下働きだ。指は真っ赤にひび割れていて、わずかな水でさえもしみてしまう。矮小な身体である。ちょっとぶつけるだけであざができるほどの柔らかい身体で、水たまりにそっと映る自分の身体にはぴかぴかの鱗なんてどこにもない。オレンジとも、茶色とも言い難いような中途半端な髪の色の小柄な少女がいるだけだ。――決して、勇者を背に乗せ空を飛び回るような、立派な身体など持ち合わせてはない。そう、竜<ドラゴン>と呼ばれるような。
「ああ、そうだ。私、人に生まれ変わって、それで、えっとそれで」
「何をぐちゃぐちゃ言っているの!」
と、エルナに叫んだのはそばかすが目立つ金髪の少女だ。彼女、ローラは憎々しげにエルナを見下ろし、あぶくを飛ばすようにきちんと廊下のすべての水を拭き取り、きれいにするように指示をする。
ローラはエルナの義理の姉である。先程エルナは自身を下働きだと考えたが、実際は男爵家であるカルツィード家の次女だ。当主であるカルツィード男爵に妾として買われた母は早くに病で死んでしまった。その連れ子としてやってきたエルナは男爵に憐れまれ、養子としてカルツィード家に入れられた。
けれども、それが悲運の始まりでもあった。
妾を持つばかりか、その子供を養子にするというカルツィードの男爵の愚行は妻の悋気を噴火させた。そしてその娘であるローラが数ヶ月ばかりの年の差とはいえ、義理の妹にきつく当たるのはまた道理で、様々な手でいじめ抜き、妻と子を恐れた男爵は見て見ぬふりをした。
幼いエルナは母に連れられ右も左もわからぬまま生きたが、守ってくれる母はすでに死んでしまっていたし、ローラとその継母の怒りは当然のように感じていた。ただ己の力のなさに嘆いた。下手にカルツィードの名を得てしまったために、逃げることすらできない。そして彼女には
今もエルナの雑巾がけが下手くそであるとの難癖をつけ、ローラはびしゃびしゃとエルナの頭にバケツの水をひっくり返して水をしたたらせた。がらがらとバケツは転がり、その床に飛び散った水がまるで空を写しているようで前世の記憶を思い出しただなんて皮肉もいいところである。
「ぼんやりしないでよ、あんたのせいでまた仕事が増えたじゃない! どうしてくれるの!?」
「あ、ごめんなさい……?」
理不尽なローラの言葉に反射的に謝りつつもエルナの心にはなんの悲しみも、恐怖も感じていない。だって相手人間だし。目覚めたのは広い心のドラゴンマインドである。気をつけなければぷちっと潰せてしまう人間に対して、一体何を恐怖しろというのか。
(びっくりだなぁ)
そうして静かに自分の胸をさする。まず、見ている感覚が違う。具体的に言えば、エルナにとってローラとは恐怖すべき対象であったが、ふん、と鼻から息を膨らませてきびすを返してさっていくローラを見て、(今ものすごくぷくっと鼻が膨れたなぁ) そんなにふんふんしなくても、と思わずぼんやり考えてしまった。けれども、ただ一つ。一つだけ。(あ……) しゃらり、しゃらり。
ローラの胸元に提げられた楕円のガラスの石。それだけはエルナの心をかき乱した。
大切に握りしめていた、エルナの石であったから。
***
エルナの親指ほどの大きさである涼やかな石は、彼女が生まれたときに握りしめていたものだという。小さな赤子の手を開いてみると、ぴかぴかと輝く空を握りしめていた、とエルナの母は教えてくれた。それが一体なんであるのかエルナにはわからなかったけれど、まるで自分の身体の一部のように思えて、紐をつけて首飾りとしていつも持ち歩いていた。それは不思議な石でどこと擦れ合うはずもないのに、耳をすませばしゃらり、しゃらりとまるで海の砂がさらさらと流れる音がする。
だからときどき、そっと瞳を伏せて音を聞いた。海など見たこともないはずで、話にしか聞いたことがないのに、なぜか懐かしいような気持ちになったからだ。
はたから見ればただの平たいガラスである子供のおもちゃを、必死に大切にしているような滑稽な姿に見えただろう。だから、ローラは嫌がらせとしてエルナから首飾りを取り上げ、来ている立派なドレスに不釣り合いにもかかわらずいつもエルナに見せつけている。
そのことに対して以前のエルナは文句よりも、憤りよりも悲しさを感じていた。なぜこんなことをするのだろう、と向けられる悪意に傷ついていた。
言い返すよりも、すんすんと涙を流すよく言えば心優しい、悪く言えばいくじがない少女だったのだが、今となっては、(まあしょうがないわよね、ドラドラ)という気分である。ドラドラというのは蘇った記憶を定着させんがために、なんとなく考えてみたのだが、なんだか語呂が悪くてよくないな、と思ったのですぐにやめた。
こうして記憶を取り戻したエルナは、ローラにバケツの水で水浸しにされたびしゃびしゃの身体のまま屋敷から飛び出した。
はっはと口から息を吐き出して、少しずつ歩みは大きくなる。はやる気持ちを抑えることができずにいつのまにか走り出してしまっていた。そして街の塀を越え、いや、“飛び越え”て、ぽん、ぽん、と踊るように足を踏みしめ、見渡す限りの広い大地を前にして、ぐんっと力いっぱい伸びをした。
ローラに盗られてしまったネックレスのことを考えると腹立たしいが、わざわざ騒ぎを起こしてまでほじくり返すものではない。
そんなことよりも今は眼前に広がるいっぱいの空の方が重要だ。なんだか前世的にとても大切なものだったような気もするけれど、エルナは今を生きているのだから。
エルナは間違いなく人の子で、ただの十六の小娘だ。けれども大きすぎる魂は彼女の皮膜すらも包み込み、あふれるような魔力は人の限界など簡単に超えてしまう。
見渡す限りの地平線をただの二本の足で立って見つめて、エルナはぶるりと唇を噛み締めた。大地が大きい。なんせ、今の自分はちっぽけだから。すごい、とつぶやいてしまったのは呆気にとられて。
そうこうしているうちに、靴にまで染み込んだ水がエレナの頬や髪を滴り、服の袖からスカートの裾から、ぽたぽたと地面を濡らしていることに気がついた。
「うん、ちょっとよくないかな。風邪をひいちゃうもんね。水はあまり好きではないし」
この身体はとにかく貧弱で、ちょっとのことで寝込んでしまう。エルナがふうっと息を吐き出せばびしゃびしゃだったはずの服はあっという間に柔らかく乾き、彼女の周囲をふわりと温かくさせる。長いスカートの裾が風の中でひゅるりと舞う。飛竜は火の竜であり、エルナはその最高峰として勇者を背に乗せ暴れまわった。
大気に満ち溢れた火の精霊達が、エルナの目覚めを喜びころりと笑っていた。「んむふふ」 楽しくて、笑ってしまう。なんせ、人に生まれ変わったのだから。「二本の足で、立っている……」 ちらり、と視線を下げて、ちょこちょこと足を動かす。「んむふふー!」 ちょいと動けば人を踏み潰してしまうような窮屈な身体ではなく、声をあげて恐れられる泣き声でもなく。小さなエルナの手のひらよりも、さらに小さな火の精霊がぽっぽと頭を燃やしてつぶらな瞳をまたたかせた。とても可愛らしい。
「いいね、人間! 十六年間、ずっと人間だったけど、改めて! いいねぇ!」
楽しくって、嬉しくって、両手を広げた。
両足をだしだしと踏みながら、体中で“空気”を味わう。エルナはまるで生まれたばかりの気分で、いっぱいの生を受け止めていた。メイドと同じお仕着せがはたはたと風の中で揺れていて、記憶の中にあるはずのしっぽがないから、ふらついて、また一人で笑ってしまった。だから、そのときはまだ知らなかったし、わからなかった。
――まさかローラに盗られてしまった石が、そんな意味を持つものだなんて。
「これは、間違いなくウィズレイン王国の守護竜とされる火竜、エルナルフィア様の鱗……! な、なぜ、どこでこれを……!」
「まあ……!」
ローラはぱっと頬を赤らめて娘たちの中から躍り出た。まるで彼女が主役の物語を見ているようだ。「この石は、私が生まれたときに握りしめていたもの! 自身でもまさかという思いもございましたから、今日まで誰にも告げることはできませんでしたが、私は竜としてこの空を羽ばたいた記憶がございますの!」
エルナルフィア、と言えばエルナの前世の記憶と同じ竜の名前だ。つまり、エルナルフィアは二匹いたのか、とエルナはぼんやりと考えてしまったが、まさかそんなわけはない。よくもまあ、と驚きつつも、あの平べったいガラスは、まさか自分の鱗だったんだなぁ、とエルナはぼんやりと驚いていた。
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