秘め事返し (女風ユーザー・滝野川 早苗)

 珍しく『Ciel』事務局の松田から着信があった。

 予約やシフトに関してのやり取りはLINEが主で、着信がくるということは何か急ぎの用件か、はたまた何かトラブルの可能性もあるので、俊彦は昼休みに会社から出たタイミングで折り返しの電話を入れた。


『ツカサさん、お忙しいところ折り返し、ありがとうございます』

「折り返しが遅くなって申し訳ありません。何かあったんですか?」

『確認ですか、ツカサさんってトラベルコースは可能でしたっけ?』

「トラベルコース、ということは泊まりですよね?」

『はい。今問い合わせで、セラピストのタイプは拘らないけど、トラベルコース可能なセラピストさんで、日程は今週の金曜日の夜から翌日土曜日の夜までだそうです。こちらで調べたところ、今週はトラベル可能なセラピストが他にいなくて…それで、もしツカサさんが受付可能だったら、このまま受けようと思っているんですけど、どうですかね?』


 ツカサは毎回のシフトでほぼ一定の時間にしてあるが、プロフィールのトラベルコースについては『要問い合わせ』とだけ記載していた。その内トラベルコースについては詳しく

記載しようと思っていたが、トラベルについては店舗内は勿論、kaikanランキングに載らない限り問い合わせは無いと思っていたが、まさかこうして問い合わせがくるなんて。


「分かりました、受けます」

『ありがとうございます!詳細は後ほどLINEで送りますので』


 今日のお昼を何処にするか歩いている時、事務局からさっきのトラベルについての詳細が記載されたLINEがきた。


『ツカサさん、お疲れ様です。

トラベルコースについての詳細です。


今回、新規のお客様になります。

希望日:○月○日 〜○月○日

時間 トラベル24時間コース

名前:早苗 様

連絡:090-○○○○-○○○○

待ち合わせ場所:パークハイアット東京41階ピークラウンジ入口 16:30。

備考:ラウンジに到着したら090-○○○○-○○○○に電話をお願いします。


以上です。

ご確認をお願いします』


 初めてのトラベル。しかも待ち合わせ場所が高級ホテルのラウンジ。

 新規ではあるが、この女性は女性用風俗をよく利用しているのだろうか。いきなり初めて会うセラピストとトラベルなんて。 色々な疑問符は浮かぶが、何人もいる中から選んでくれたのだ。今は余計な事は考えず、当日は素敵な思い出になるよう心からもてなそう。



 早苗というお客に会う当日。

 待ち合わせ場所であるパークハイアット東京は、建物の前を通ったことはあっても中に入ったことは無かったので、いつも以上に挙動不審になってしまうが、こういう場所でこそ堂々としなければ。折角指名してくれた早苗をがっかりさせたくなかった。


 ツカサは待ち合わせ時間の30分前に着くと、トイレで身なりを整えながら何度も腕時計で時間をチェックする。

 いつものツカサならネクタイを外すしているが、流石にこの様な高級ホテルでネクタイ無しは良くないと思い、会社で使っていたネクタイとは別のネクタイを結んだ。

  打ち合わせで何度か都内の高級ホテルを訪れた事はあったが、会社員とは異なるセラピストとして来てみると、変な違和感を覚えてしまう。


 待ち合わせ時間5分前。

 早苗を待たせてはいけないと、ラウンジの入口にやって来た。

 早苗には予め予約のお礼をショートメッセージで入れたが、返事は無く特にやり取りも無いまま当日を迎えた。

 備考欄には『ラウンジに到着したら090-○○○○-○○○○に電話をお願いします』とあったので、少し早いが相手を待たせるより良いと思い、指定された番号に電話をかけてみる。

コールは鳴るが、早苗はまだ着いていないのだろうか、出る気配が無い。


「Cielのツカサ様でしょうか?」


 突然、背後から声を掛けられ振り向くと、細身で濃紺のスーツを着た男性が立っていた。


「は、はい…そうですが…」


 男性が何故自分を、在籍店『Ciel』の名前を知っているのだろう。


「突然申し訳ありません、わたくし今回予約しました早苗様の秘書をしています、椎名といいます。ご案内しますので、こちらへ」


 椎名という秘書はラウンジへと入って行った。

 ツカサはよく分からないまま、椎名の後について行くしかなかった。

 椎名が案内したのは、東京の街が一望出来るテラス席で、周囲から隠れるような造りになっている奥席だった。そこにはサングラスを掛け、紅茶を飲みながら広いソファで寛いでいる女性がいた。


「早苗様、Cielのツカサ様です」


 椎名に促され、早苗の近くへと行く。

 早苗という女性は紅茶を置くと、サングラス越しにツカサを見つめ「いらっしゃい」と微笑んだ。 

 海外ブランドのスーツに、シンプルなネックレスに左手には結婚指輪と派手過ぎないネイル…年齢は50代後半だろうか。

「椎名、ご苦労様。会社に戻って週明けの会議資料を揃えておいて」

「はい、畏まりました。社長」


 そう言うと、椎名は深々と一礼しその場を去ってしまいツカサとソファに座る早苗だけが残された。

 社長?…確かに椎名は去り際『早苗様』ではなく『社長』と呼んだ。この早苗という女性は会社の社長なのか。しかし、ツカサはこの女性に見覚えがあった。お客でないが、何処かで見た様な。


「突っ立ってないでお座りなさい」


 早苗が突っ立ったままのツカサを見かねて声をかけた。


「は、はい、失礼します」


 ツカサは早苗と対面する形でソファに座る。


「改めまして、Cielから来ましたツカサです」


 まるで新社会人の面接みたいだ。そんな司を尻目に、早苗は表情一つ変えず再び紅茶を口にした。

 早苗が今飲んでいるのは高級茶葉で淹れたものだろうか、紅茶に詳しいわけではないが、ツカサがいる距離でも仄かに優しげで華やかな香りがした。


「あなた、こういう場所はあまり来ないのかしら」


 突然早苗が訊いてきた。


「どうしてです?」

「慣れているようには見えなかったから」


 からかうように笑う早苗だが、悪意は感じられない。それより、少しでも笑った顔を見れたのがツカサの緊張を解した。


「はい、僕はこう言った場所には普段縁がなくて…」

「いいのよ。変に慣れている人が来てもつまらないわ」


 早苗は言い終わると、サングラスを外した。

 その顔を見て、ツカサは声をあげそうになった。何処かで見たことのある女性だと思っていたが、サングラスを外したその顔を見てハッキリと思い出した。

 早苗と名乗っているこの女性は、間違いなく大手ホテルグループ『グリーンリーフ』の代表取締役社長 滝野川早苗だ。

以前、全国の有名ホテルを特集した雑誌で彼女のインタビューが載っていた。確か業績不審だった子会社を二年でV字回復させ、今やリゾートホテル事業でご主人である滝野川 幸太郎氏が社長を務める本社『滝野川リゾート』と知名度、業績共々引けを取らない大手ホテルグループとなっている。

ツカサは田崎俊彦としての仕事で『グリーンリーフ』グループとのコラボ企画を提案する為、何度かアポを試みたが他社も同様にコラボやキャンペーンを企画していて、広報部とコンタクトを取るまで時間がかかったのを思い出した。


「そろそろ行きましょうか」


 カップに残っていた紅茶を最後まで綺麗に飲み終え、鞄を手に持つとツカサもその後に続いた。



 地下駐車には流石有名ホテルだけあっ国内外の高級車がズラリと駐車している。

 早苗は慣れた足取りで自分の所有車である黒のベントレーに乗り込み、エンジンをかけた。

 こういった場合、エスコートする意味でもツカサが運転すべきなのか。しかし、普通の車やレンタカーと違って早苗が乗っているのは高級車ベントレーだ。運転には自信があるが万が一ぶつけたり、事故など起こしたりしたら…


「ツカサの荷物はそれだけ?」


 早苗が車のトランク開け、鞄を置く様に促してくれた。

 トラベルコースとはいえ、ツカサには初めてなので何を持って行っていいか分からず、かつての出張のようなボストンバック一つに納まるシンプルな荷造りになってしまった。


「早苗さん、あの運転は…」

「私がするわ。私、運転が好きなの。仕事では椎名が運転する車で移動するから、プライベートでは自分がハンドルを握りたいのよ」


 異論は無い。運転は早苗に任せ、ツカサは助手席に乗った。


 車は街を抜け、高速に入る。

 早苗の運転は丁寧で、高速に入ってもスピードを加速をするのはほんの数キロで、周囲を走る車のスピードとバランスを合わせながら走行していた。


「これから、何処に行くんですか?」

「箱根湯本よ」

「箱根湯本ですか!温泉旅館が有名ですよね」

「ええ、そこに隠れ家的宿があるの。『白郷』というところよ。今夜はそこに泊まるわ」


 その宿なら聞いたことがある。三年先まで予約が取れないことで有名で、隠れ家的なコンセプトから政治家や芸能人も御用達の宿だ。


「あなたはお客さんと旅行するのは初めて?」

「はい、初めてです。初めての旅行で箱根に行けるなんて、嬉しいです」


 本心だった。実際セラピストでなくても旅行なんてもう随分行っていない。こうして都会を出て遠出が出来ることにツカサの心は踊っていた。


「あなた素直ね。言葉も丁寧だし、しかも真面目でしょ」

「まぁ、不真面目ではないかと」

「それでいて余計な事は喋らない。気に入ったわ。こういう時って沈黙を気にしてベラベラ喋ったり、白々しい言葉を並べるセラピストがいっぱいいるけど、私はそういうの苦手なの。

喋りたい時に喋って、本心から出る言葉を聞きたいわ」

「…良かった。僕はあまり喋る方ではないので、喋りたい方や賑やかな方が好きな方には物足りないと思います。自分でも何とかしないと、とは思っているんですけど、なかなか」

「いいじゃない、そのままで」


 ハンドルを握りながら、早苗はあっさりと答えた。


「無理に治して喋っても最初はいいけれど、いずれ綻びが生じて自分が辛くなってしまうわ。だったら無理せず、上手く取り繕えるところはそうして、あとは自然体が良いと思うわ。確かにツカサの性格やキャラクターに物足りないってお客様もいるかもしれないけど、その落ち着いていて、寡黙だから安心するってお客様は絶対いるはずよ。現に私にとってツカサは当たりよ」

「ありがとうございます」


 ここまで言われたのは初めてで、ずっと仕事以外だと口下手なのがコンプレックスだった。セラピストをやる以上、会話は必要不可欠だし、上手く話せるようにならなければと思っていたが、大手ホテルグループの社長でもある早苗から言われると、励みになる。


「そういえば、『白郷』って確か旦那さんのグループが経営している宿ですよね…」


 思わず口に出した瞬間、ツカサは余計な事を言ってしまったと思い、慌てて口元を押さえた。

 しかし、早苗はハンドルを握りながら顔色一つ変えずにいる。


「あなた、私のことに気付いていたわね。ラウンジでサングラスを外した時、一瞬あなたの表情が驚いている様に見えたわ」

「すみません。秘書の椎名さんが去り際に『社長』と言っていたので、もしかしたらそれなりの大企業の社長さんかと思っていました。お顔を見た瞬間、まさかあの『グリーンリーフ』の滝野川社長だとは…」

「別にバレたらバレたで隠す気は無いわ。それより、あなた『白郷』が夫の経営している宿って知っているのね」

「はい、経済誌のインタビューで紹介されていたのを思い出したんです」

「確かあなたは兼業セラピストよね。お仕事は観光業か何か?」


 早苗が興味を持って会話が弾むのは嬉しいが、流石に仕事内容までは答えにくい。


「ごめんなさいね。立ち入ったことを訊いてしまったわ」


 早苗は答えに迷っているツカサの様子を察して、それ以上は訊かなかった。

 


 車で1時間半ほど走っただろうか。車内で早苗が話していた今回の宿『白郷』に着いた。

 箱根湯本の山間にあり、車でしか来れないこの宿は各部屋が個別別荘タイプになっていて部屋の前に駐車場があり、敷地内を車で移動することも可能だ。

 敷地内を少し走ると、フロント棟である建物が見えてきた。

 早苗はフロント棟の近くで一旦車を停めた。

 

「ツカサ、私の代わりにチェックインしてきて。秘書の椎名の名前にしてあるわ」

「分かりました」


 そう言うと早苗はサングラスをかけ、持ってきてあった帽子を被った。変装だろうか。

 フロント棟の前でツカサは降り、建物内に入ると広いロビーは書斎をイメージしているのか、沢山の本が並んだ棚と広々としたソファがあり、その先にフロントがあった。

 早苗に言われた通り、秘書・椎名の名前を告げるとスタッフはスムーズに手続きをし、ツカサは部屋の鍵を受け取れた。


「お待たせしました。部屋はこの少し行った所の…」

「『清流』でしょ。分かってるわ。あえてそこにしてもらったのよ」


 ツカサの言葉を遮るように言う早苗はサングラスと帽子で目つきを隠してはいるが、何かさっきまで話していた表情と違う、冷たいものを感じた。



 今夜宿泊する部屋の『清流』は川の近くにある静かなロッジ風の造りで、駐車スペースもガレージになっていて雨風の心配は無い。宿というより一軒家の様だ。

 ガレージに駐車し、ツカサがシートベルトを外して運転席を見ると早苗は何故か微動だにせずただ一点を睨んでいた。 ツカサがその視線の先を見てみると、向かい側に『清流』と同じ建て方の『深林』という部屋だ。


「早苗さん、あの部屋がどうかしましたか?」


 ツカサの問いには答えず早苗はただ『深林』を睨んでいるままだった。

 同じ建て方なので、ガレージの位置も一緒だ。そこに停まっているのは、高級車のジャガーだ。


「夫よ」

「え?」

「あの部屋は『深林』って言うんだけど、あそこに宿泊しているのは、私の夫よ」


 早苗の言葉にツカサは言葉を失った。

 早苗の声はここへ向かう車中での明るい声ではなく、怒りを感じるくらい低い声だ。


「ご主人…滝野川幸太郎社長が?!」

「ええ。浮気相手と一緒にね」


 怒りを含みつつ、皮肉を込めたように言い放った。


「浮気相手って!あ、あの早苗さん」

「心配しないで。私は冷静よ。あそこに夫が浮気相手と宿泊するのを知ってたから、この部屋にしてもらったの」

「え?!」


 ツカサは早苗の言葉を受け止めようにも上手く処理出来ずにいる。

 

 

 車から降りてリビングに行き、取り敢えずそれぞれの鞄を置いた。

 早苗はこの宿に何度か来ているのか、慣れた足取りで明かりを着け、カーテンを開けた。

 カーテンを開けると向かい側の部屋『深林』がよく見える。同じ造りなので向こうも広いリビングがあり、明かりが着いていて中の様子は薄いカーテンを引いているとはいえ、何となく見える。

 若い女性とソファに座り、談笑しているのは早苗とそんなに歳が変わらない滝野川幸太郎だ。


「夫の浮気は何も今に始まったことじゃないの。結婚して私が滝野川の家に入った頃から既に何人もの愛人がいたわ」


 早苗の言葉は諦めたような口調ではあるが、言葉の隅々に寂しさが漂っているようにツカサには感じられた。


「息子と娘が生まれても、あの人が浮気をやめる気配は無くて。子供達も小さい頃は「パパはいつ帰って来るの?」、「またパパはいないの?」とか言って寂しがっていたけど、成長するにつれ、父親が居ないのは当たり前と思うようになったのか、それとも諦めたのか、何も言わなくなって。子供たちが巣立った今でも何も変わらないまま」


 ツカサは淡々と話す早苗の背中を見つめ返す言葉が見当たらず、ただ聞いていることしか出来ない。


「最初はね、滝野川の両親にも相談したの。お義母さんなら分かってくれりかもと思ったけど、「夫が外に愛人を持つのは当たり前だ」、「あなたの妻としての努力が足りない」って逆に怒られたわ」

「そんな…」

「言うだけ無駄って分かって、以来ずっと何も言わずに今日まできているのよ」

「どうして、そうまでして夫婦を続けているんです?離婚とか考えなかったんですか?」

「考えたわ。でも子供たちに支えられたの。「黙って従ってないで、静かに反抗しよう」って。どんなに惨めでも子供たちが私を支えてくれた。子供たちが成人して、初めて夫に事業をやりたいって言ったの。任せられたのが業績不振だった子会社だった」


 ツカサはそれを聞いて子会社を二年でV字回復させたというインタビュー記事を思い出した。


「以前雑誌のインタビューで読んだことがあります」

「色々なインタビューで当時の事を訊かれたわ。夫は元々業績不振だった子会社を潰すつもりで、何とかしようなんて全く思ってなかった。どうせ潰すのなら、私に全責任を押し付けたかったのよ」

「…そんな」

「私は社員の士気を高めながら色々模索したわ。でも社会人になった子供たちが影で私に知恵を貸してくれて、それで少しずだけど業績も回復していき、今のグループになったのよ。私にとっては仕事で、実力で夫を見返してやりたかった。でも夫はそんな事を気にする素振りも無くいまだに浮気を続けている」


 ふと早苗の手を見ると、拳が握られ震えている。


「夫は私が浮気に気付いているんて思っていないでしょうね。ましてやこうして向かい側の部屋に泊まっているなんて…」


 ツカサはそっと早苗の隣りに来た。

 窓の先にある向かいの部屋『深林』を見てみると、夫である滝野川 幸太郎は妻である早苗がすぐ向かいの部屋から見ているなど夢にも思っていないだろう。その証拠に窓際で大胆にも浮気相手である若い女性とイチャついている。


「浮気を止めてと言っても所詮止めない。あっちが秘め事を楽しむなら、こっちも秘め事をしてやろうと思ったの」


 そうだったのか。ツカサはようやく早苗の思惑を理解した。

 インタビューでは語らなかった自ら過去を話す早苗の声は時に怒りを漂わせながら拳を震わせてもいたが、その背中は何処か果てしない寂しさを物語っていた。

 結婚の経緯は分からないが、妻として必死に夫を支えていたのに、夫は振り向きもせず彼女の努力を踏み躙り、義父母からは責めたられ、失意の中でも母として2人の子供を立派に育て上げた。その子供たちは母の寂しい背中を見てきたからか、母の早苗を支え、その結果会社も、その社長を務める早苗も今では知らない者などいないくらいカリスマ的存在となった。


「…秘め事返し…」


 ツカサがポツリと呟いた。


「え?」

「ちょっと面白い言葉を思い付きました。秘め事返し。 向こうが浮気という秘め事をするなら、こっちも秘め事を仕返す…という意味を込めて」

「まぁ、面白いわね!」


 ようやく早苗の表情に笑顔が戻った。



 『清流』は部屋が洋室と和室の2タイプあり、建物の裏には個室露天風呂もある。

 早苗はツカサにトラベルコースで予約したものの、キスや性感は一切しなくていいと言ってきた。


「『秘め事返し』をしてやりたかったの。だから明日まで一緒にいてくれるだけでいいわ。今夜は温泉に入ってゆっくりお休みなさい」


 早苗がそう望むなら…ツカサは早苗に勧められるまま、1人露天風呂に浸かっていた。

 同時に早苗の言葉たちがぐるぐる頭の中を駆け巡る。夫婦って一体なんだろ…。

 考えても答えは出ない。それもそうだ。自分だって浮気こそしていないが、仕事にかまけて、大切な人を失ったではないか。ツカサはやりきれない思いを無理矢理断ち切るように頭からお湯をかぶった。



 翌日。

 早苗とツカサはフロント棟にあるレストランで朝食を食べることにした。

 流石隠れ家的宿とあって、朝から静かでレストラン内も落ち着いている。

 昨晩は色々考えさせられる時間だった。いや、むしろ考える貴重な時間だったかもしれない。

 和と洋の朝食をしっかり食べ、紅茶を飲んでいた時、ツカサの表情が凍りついた。


「どうしたの、ツカサ?」


 早苗がツカサの見つめる方に目をやると、早苗の夫 滝野川 幸太郎とその浮気相手がレストランにやって来た。2人は相変わらずこちらには気付いていない様子で、朝から腕を組み、幸太郎の方はみっともないくらい顔が緩んでいる。


「行きましょう」


 そう言うと早苗は勢いよく席を立った。

 今朝も帽子とサングラスをかけてレストランにやって来た。しかし、席を立った早苗は帽子もサングラスもかけず、むしろわざと自らの存在をアピールする様に堂々と歩いてみせた。その姿にレストランスタッフは勿論、たまたま様子を見にきていたホテルスタッフ、その場に居合わせた宿泊客も驚きでざわついた。


「おい、あの女性、もしかしてグリーンリーフグループの滝野川 早苗社長じゃないか?!」

「嘘っ!本物?!」

「おいおい、あそこにいる旦那の滝野川 幸太郎、一緒にいるのは愛人か?!」

「わぁ!修羅場!」


 周囲のざわつきにようやく夫の幸太郎が早苗の存在に気付き、席から立ち上がった。

 早苗はレストラン入口ではなく、幸太郎とその浮気相手が座る席に向かって歩いている。


『まずい!このままでは本当に修羅場だ』


 ツカサは早苗を止めようと手を伸ばしたが、時すでに遅し。早苗は幸太郎の席前に立ち、幸太郎を凝視していた。


「お、お前?!ど、どうして…」

「あら、あなた。おはよう。私も昨日からここに泊まっているの。『清流』にね」

「『清流』?!向かいの部屋かっ?!」

「ええ、そうよ。あなたの浮気もしっかり部屋から見えていたわよ。まぁ、あなたの

浮気なんて今に始まったことじゃないですし。本当あなたはおめでたい人ね。私が何も出来ない、何も言わない弱い女だと思った? 残念。私にだって出来るのよ。秘め事返し」


 そう言うと早苗は鋭い眼光で幸太郎を睨んだ。


「ツカサ、行きましょう」


 ツカサを呼ぶと、早苗はツカサの腕に自らのそれを組ませた。


「お、お前、そいつは誰だ?!」

「今言ったでしょ?秘め事返しよ。あなたもどうぞお好きに。私も好きしますから。でも仕事では容赦しませんよ」


 去り際、浮気相手である若い女性も早苗を見たが、早苗は彼女の存在などどこ吹く風のように、目もくれずツカサと共にレストランを後にした。




「意外だった?私があんなことをするなんて」

「いいえ」


 宿を出て東京に向かう車の中、早苗は上機嫌だった。

 ようやく夫に面と向かって、強く言えたのだ。


「秘め事返し。ツカサの造語のおかげで元気が出たし、色々話したら吹っ切れたわ。ありがとう」


 御礼を言われると何だか照れ臭い。

 でも、以前の大川みつき同様に早苗も笑顔になってくれた。


「今回の御礼と言っては何だけど、私の友人たちも何人か女性用風俗のユーザーがいるのよ。その人たちにツカサの事を話しておくから、しっかりお客さんにしなさいね」

「え、あ、ありがとうございます」


まさかまさかの展開だった。

 昨晩といい、今朝といい、全てが衝撃で車の中とはいえ、フワフワと浮いているような感覚だ。


 都内は交通量も人の流れも多い。自然に囲まれた『白郷』にいたから、余計そう感じるのかもしれない。


「あと少しだけ時間があるわね。ツカサ、ちょっと付き合ってちょうだい」


 そう言うと早苗は銀座方面へと車を走らせた。


 早苗が向かったのは銀座の有名百貨店。

 早苗は常連なのか、駐車場に入る間際、警備員が早苗の車に気付くと何処かに連絡をし、恭しくお辞儀をしてきた。


「滝野川社長、ようこそいらっしゃいました!今専用スペースを開けますので」


 専用スペース?初めて聞くツカサには全く意味は分からないが、早苗は慣れていることもあり、案内してくれた警備員に「ありがとう」とお礼を言った。

 百貨店の特別駐車スペースは、普通の駐車スペースより広めでトラック一台分くらいはあるだろうか。早苗のベントレーの他に、ベンツやポルシェ等が両隣りに駐車していて、まるで高級車の博物館みたいだ。

 店内に入ると、1人の男性が早苗の元にやってきて早苗に挨拶をしてきた。この百貨店の副支配人だ。


「社長、本日はようこそ。事前にご連絡いただけたら支配人もご挨拶いたしましたのに…」

「ありがとう。でも今日は急だったから。後でこちらを支配人さんにお渡しください。旅行先からのお土産です」


 そう言うとツカサに持たせていたお土産袋を副支配人に手渡した。


「お気遣いありがとうございます!今日はどのような商品をご希望でしょうか?」

「今日は私のではなく、彼にスーツをお願いしたいの。それとシャツにネクタイ、靴も一式で二着程いただきたいの」

「え、僕の?」

 何も聞かされていないツカサは、早苗個人の買い物で自分はただに後ろをついて歩くだけで、時に荷物を持つだけだと勝手に思っていた。それがまさかツカサのスーツを購入するなんて!


「ではこちらへどうぞ」

「あ、あの…さな、社長…」

「遠慮しないで、プロに見繕ってもらいなさい」


 早苗はそう言うとポンっとツカサの肩を叩き、副支配人と一緒に紳士服売場へと向かう。

 リクルートスーツからブランドスーツまで。

 マネキンが着ていても上質だと分かるスーツが売場に並ぶ。

 ツカサはスーツ売場に行くと行っても特に拘りはなく、自分に合ったのを着ているだけ

だったから、百貨店の紳士服コーナーをこんなにゆっくり見て回るのは初めてだった。


「お客様ですと、濃紺タイプ、あとレセプション等でも着用可能なグレーのもの。靴は黒と茶色…この様な感じでいかがでしょう?シャツは白だけではなく、黒や紺もあれば場面によって色々変えられますよ」


 紳士服売場でコーディネートを担当してくれる男性はツカサに似合いそうなスーツやシャツ、靴、小物を何着か用意し、鏡の前に立つツカサにあれこれと当てがいながら色々とアドバイスをくれた。


「どれも中々似合っているわね、ツカサ。だいたい二着ずつ持っていた方がいいわよ」


 横で椅子に座りながらツカサのファッションショーを楽しんでいる早苗はツカサが着替える度に賞賛してくれた。褒められるのは嬉しいし、今着ているスーツ以外にもセラピストで着る用のスーツが欲しかったので、有難いが、ふと値段を見ると目が回りそうな金額だ。

 時間内の支払いは女性…分かっているが、このスーツ一着だけでもかなりの値段なのに、更にもう一着とその他に靴や小物となるとツカサには想像が出来ない金額だ。それを払ってもらうなんて…ご厚意は有り難く、といきたいが、申し訳なさばかりか込み上げてくる。


「…何か、すみません。こんなに買っていただいて」


 百貨店を後にした車中でツカサは早苗に言った。


「あら、何で謝るの?私が買いたくて買ったものよ。それに、秘め事返しの御礼の意味も込めてあるから」

「はぁ…ありがとうございます。嬉しいですけど、何か慣れなくて」

「それがいいわよ」

「え?」

「今のその気持ちを忘れないでいて欲しいわ。セラピストでも売れて人気者になっていけば、見える景色も変わる。あるセラピストは高いプレゼントをいただくのが当たり前と思ってしまう。お客様を仕分けする…そんなセラピストを今まで何人か見てきたわ。ツカサ、あなたはその素朴で真面目なままでいて欲しいの。それが、あなたの良さだから。そんなあなただから、私は今回のプレゼントしたのよ」

「ありがとうございます」

「ツカサ、これから忙しくなるか否かはあなた次第よ。しっかりやりなさい」

「…はい!」


 早苗の車は新宿のアルタ近くで停まり、ツカサはそこで降りた。


「じゃあまたね」

「本当にありがとうございました」


 去っていく早苗のベントレーに向かってツカサは深々と頭を下げた。

 手には旅行用のボストンバッグと早苗が買ってくれたスーツ類。

 改めて持ってみると、両手が重い。

 しかし、早苗がくれたこの重みに報いらなければ。ツカサは一呼吸すると『Ciel』の事務局があるビルに向かって歩き出した。

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