焦燥
帰り道、いつもの様に母に電話を入れた。少しばかり気分が滅入っているようだ。
帰宅して母と軽く一緒に食事を取った。確か今日はカウンセリングを受ける日。母の担当カウンセラーである西本はいつも親身になって話を聞いてくれて、カウンセラーというより親しい友人と話しているようで、西本とのカウンセリングの日は決まって機嫌が良く、自ら率先して準備をし楽しそうにカウンセリングへ向かうくらいだ。正直、カウンセリングの日は美奈子にとっても気持ちが楽で、母の心配をする事がないので接客に集中出来る。どんな事でも良いから日常の中で母に楽しみがあって、笑ってくれているのが何より心の支えだ。
そんな楽しみにしているカウンセリングの日はいつもなら笑って西本との会話の内容を話してくれるのに、今日は顔色が悪い。
「お母さん、具合でも悪いの?」
「……」
「何かあった?」
「…今日、誰かと会ったかしら?」
母の言葉が大きな声ではないのに無音のリビングに反響したように感じられ、美奈子はそれまでの動きを止めた。
「お母さん?何言ってるの?」
今は軽度で物忘れの症状は無いはず。担当医師の診察で重症でない事に安堵していた。
それは症状が軽いだけで、今後場合によっては進行し重症化も有り得るという意味だ。
そして今は感情の起伏が激しいが、いつかはそこに物忘れの回数も増えてくる。それは美奈子も理解しているつもりだった。しかし、今こうして母の口から今日会った人の名前、しかも何度も顔を合わせている西本カウンセラーの事が思い出せないなんて。冗談であって欲しかった。
「お母さん、今日はカウンセラーの西本さんに会ったでしょ?」
美奈子は冷静さを保ちながらも、内面は動揺していたが悟られないように訊いてみる。
「西本…さん?カウンセラー?それって…何?」
絶句した。視線はどこか遠く、とても冗談を言っていると思えない。
「西本さんだよ。カウンセラーをやっている西本さん。何度も会ってるでしょ?」
自然に語気が強くなってしまう。
少しずつ母の頭の中で小さな消しゴムが彼女の日常を消していく。それは分かっていた事だが、今すぐなんて思いもしなかった。徐々に身近な人や物から忘れていき、いずれ娘である美奈子の名前や存在にまで及ぶだろう。もし西本カウンセラーがその最初なら、美奈子の存在を認識出来なくなる日は直ぐそこまで来ているのだろうか。
美奈子はそれ以上何も言えなかった。いや、何か言ったかもしれないが覚えていない。
気が付いた時、美奈子は自室のベッドにいた。顔や瞳は涙で濡れている。泣いていたのだ。
覚悟していてもショックで。そのショックから仕事の疲れも眠気も冷めてしまった。
相当泣いただろ。本来なら明日の準備をするところだが、出勤の気持ちにはなれない。
『急だけど、明日は休みを貰ってお母さんを病院へ連れて行こう…』
真っ白な天井を見上げながら美奈子は母が無邪気に笑っていた頃の事を思い出していた。あの大好きな笑顔を…。
翌日、美奈子はあまり眠れなかったのと、母が夜中に突然泣き出した事も重なって十分な睡眠が取れず、朝になる頃には昨晩よりも酷い顔になっており、朝一に店長に急遽休む旨を伝え、今日は母の通院に同行することにした。昨日の事もあって彼女1人で病院に行かせるのは気が引けるし、何より担当医が今の母を診てどう思うかを聞きたかった。
自分の判断では感情が入ってしまうし、医師の診断でもしも認知所が進行していると言われれば、何とか受け入れられるし相談も出来る。
「お母様の認知症は確かに進行していますが、今すぐに娘さんの事を忘れたり、症状が酷くなる可能性は低いと思われます。お話を伺う限りで言うと昼間の出来事が思い出せなかったのは一時的なもので、夜中に突然泣き出したのは思い出せなかった事への不安や焦りからでしょう」
担当医師は以前のカルテや昨晩の美奈子の話を聞きながら丁寧に語ってくれた。
「今お母様は新しい事を覚えにくくなっていますので、もしまた今までの事を忘れてしまった場合は、その都度教えてあげてください。娘さんにとって色々と大変かと思いますが、そうする事で会話が生まれるので、会話をしていく事で進行は遅く出来ますし、今通われている『認知症サークル』でも会話を多くしたり、手芸など手を動かすような事をして脳に刺激を与える事を意識してみてください」
担当医師の言葉は不安だらけだった美奈子の心を少しだけ軽くしてくれた。
診察が終わり、抑制薬を処方してもらい病院を後にした。
帰り道、いつもなら手など繋がないが、今日は母と手を繋ぎたかった。母の手は白くか細く、ひんやり冷たい。こんなか細い手をしていただろうか。
母の手を取りながら『認知症サークル』やカウンセリングでも通い慣れている医療介護福祉センターに立ち寄った。担当医師の診断結果をいつも世話をしてくれているスタッフに話しておきたかった。
運良く世話になっている女性スタッフ・川崎が事務にいてくれたので、少し時間を貰い医師の診断を話した。
「そうですか。いきなり顔見知りの人の名前を思い出せないお母様を目の当たりにしたら、それはビックリしますよね」
川崎は美奈子より若いが、相手の言葉に耳を傾けながら自身の意見もしっかり持っており、周囲のスタッフは勿論、ケアセンターの利用者やその親族達からも厚い信頼を寄せられている。
「もし可能であればお母様に手芸教室を受講されてはいかがでしょう?今までのサークルの活動と並行して、手を動かす事を目的にした教室です。認知症は人との会話が無かったり、日常生活の中で料理をしたり掃除をしたり、編み物などの手芸をしたりなど手や頭を使っていけば、進行を遅らせる事が可能だと思います。今お母様はサークルの仲間やスタッフ、あとカウンセラーと会話を交わしていますので、今度は手先を動かして脳に刺激を与えていく方が良いかと」
川崎の提案は美奈子にとっても有り難かった。母も川崎の提案を喜んでくれたし、元々母は編み物などの手芸が得意で、美奈子が小さい頃 よくマフラーや手袋を編んでいくれた。手芸教室なら恵子も無理なく出来るし、また仲間や会話も増えることだろう。
「また美奈ちゃんにマフラー編んであげるわね」
母がいつもの笑顔で楽しそうにはしゃいでいた。
「美奈子さんはお母様をとても大事にされていらっしゃいますね。日々お母様の事を最優優先に考えていらっしゃるのがよく分かります。でもたまには美奈子さん自身の事も大事になさってください」
川崎の言葉の意味が分からず、キョトンとしてしまった。
「過去に私が担当した方で、同じ様にお母様が認知症になり、娘さんが献身的に介護をされていたんです。でも認知症の症状が進むにつれ、徘徊が増えると睡眠も少なくなり、憔悴し、挙げ句の果てに娘さんはうつ病を発症されてしまったんです。私や他のスタッフも心配になって施設への入所も提案しましたが、娘さんは頑なに自分が面倒を見る。の一点張りで。その内違う街へ引っ越してしまったのですが、今でも心配なんです。その娘さんのことが」
真剣に話す川崎の視線は後悔を帯びたように遠くを見つめていた。
「ごめんなさい!こんな事をお話しして。ただ、余計なお世話でしょうが美奈子さんには、無理をして欲しくないんです。私や他のスタッフも可能な限りサポートしますし、出来るだけ私達を頼りながら自身の事も考えてあげてください。美奈子さんが元気でいないと、お母様も辛いと思いますし」
美奈子は返す言葉がみつからなかった。親が…自分を産んでくれた母親が、それまで普通に過ごしていたのに、ある日小さな「物忘れ」から始まり、その些細な事がやがて「認知症」という名前に変わった。
その診断が下ってから、母はいつか娘である美奈子の名前を忘れ『他人』のようになってしまう日が来るだろう。美奈子は覚悟しているつもりだったが、それが前触れも無く突然やって来たら冷静に受けて入れられるだろうか。恐らく時間がかかってしまう。昨日の自分がそうだったように。 だから可能な限り母の面倒をみるため時間に自由も効いて、頑張ればOLの時以上に稼げる今の仕事を選んだ。母のためなら、そんな現実を辛いと思った事は無かった。
しかし、さっきの川崎が経験した話や言葉の数々が妙に心を騒つかせる。
帰宅して母のお風呂と食事を済ませて後片付けを終えると、ようやく自室で自分の時間が出来た。それにしても今日は色々な事があり過ぎた。その中で川崎の言葉は何度も頭の中を駆け巡っている。
考えていても答えは出ず、ベッドで横になりながらお店用のスマホを取り出した。今朝店長に休みのLINEを入れた以外、鞄に仕舞いっぱなしにしていたのでLINEチェックも出来ていないし、写メ日記も更新出来ていない。
写メ日記はノルマは無いが、休みの日でもネタがあれば出勤日程と併せて更新している。しかし、今日に限っては流石にレナのモードになるのは難しく、上手くまとめられない。
写真無しでも日記として成り立つが、何だか味気なくて、過去に撮り溜めていた写真の中から花の写真があったので、それを添付し、急に体調不良で休んでしまった事への謝罪と今後の出勤スケジュールを載せた。
写メ日記更新をTwitterでも呟やき、LINEを開くと佐野からLINEが入っていた。
『レナちゃん、今日お店に予約入れようとしたら急に休みになったみたいだね。大丈夫?あまり無理しないでね。日記チェックしてまた予約入れるよ』
佐野は写真指名で入って以来、月に2〜3回の頻度で来店してくれる。最初は緊張していたが、今では職場での愚痴やお勧めの定食屋を教えてくれたり、またレナの写メ日記を楽しみにしているらしく、時々写メ日記に載せた話題を振ってくれたりと、すっかり打ち解けている。
来店を考えてくれた佐野に謝罪のLINEを入れた。
『佐野さん、返事が遅くなってごめんなさい!体調はだいぶ良くなりました。明日からはまた出勤するので、時間が合うようでしたら遊びに来てくださいね。待っていま〜す』
レナのモードになれない美奈子が書けるのはこれが精一杯だ。
佐野の返事を待たず、お風呂に入り洗面器の前で化粧水と乳液、美容液をこまめに塗る。
ソープは風俗とはいえ接客業だ。そのため最低限の手入れはしておかなくては。ただでさえ一日に何度もお風呂に入り、時にはマットプレイもこなすので体力もいる上、肌荒れもするから、普段のケアは大切だ。とはいえ、今の美奈子にはエステに行ったり、化粧品に拘る余裕は無く、今ある日常化粧品で肌質のケアをしなければならないし、今以上のケアをする気は持てない。それでもいいと思った。
ふと鏡を見ると、今朝と比べてだいぶ顔色は良くなっているが、どこか疲労の色が見え隠れしていた。どんなに手入れをしてもやはり歳は重なるものだ。
自室でボディクリームを満遍なく塗る。
佐野をはじめ、レナに入る客は大半レナの肌が綺麗だと褒めてくれる。肌質の良さは今のレナにとってセールスポイントだ。だからこそ手入れを怠るわけにはいかない。この肌が今のレナの価値を作ってくれるなら出来る限り伸ばさなければ。とはいえ、一体いつまでこの状態を保てるだろう。先の不安は常に付き纏う。それは出来る限り考えないようにしていたが、今日の川崎の言葉を思い出し、ボディクリームを塗る手が止まる。
『ご自身の事も考えてあげてください。美奈子さんが元気でいないと、お母様も辛いと思いますし』
自分の事…考えもしなかった。いや、考えたくても気持ちにそんな余裕がなかったのかもしれない。
母の面倒を診るのが自身の幸せであり、それが人生だと。そう納得していた。結婚も望んではいない。今は結婚より母との時間が大事だ。それに、ソープ嬢の道を選んだ時から結婚という未来は遥か遠くの幻想みたいに思え、叶わぬ夢…そう思っていたが…しかし、本当にそれで良いのだろうか。このまま女性としての選択肢を削り、それで後悔はしないだろうか…。
一度生まれた疑念は思考を支配し、終わりの無いループを繰り返す。それは美奈子に虚しさのような空洞を心に作った。ネガティブにならないようにしても、一度生まれてしまった疑念と空洞はなかなかポジティブに変わる事はなくどんどん広がっていき、涙腺が崩れそうになる。
突然、スマホの通知が鳴った。Twitterで「いいね」が付いた通知だ。
Twitterを開くと、写メ日記更新の呟きに「いいね」が付いた。
「いいね」を付けてくれたのはあの女性用風俗店『Ciel』のセラピスト『ツカサ』だった。
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