在籍店『Ciel』事務局内の更衣室でセラピスト用のスーツに着替え、ロッカーに昼間着ていたスーツや私物を一旦仕舞うと、トイレの鏡の前で髪型を整え、昼間掛けていたメガネを外してコンタクトを慣れた手つきで着ける。全身を今一度チェックすると、腕時計に視線を落とした。

 今夜のツカサは3時間デートコースの予約が入っており、これから待ち合わせ場所である六本木へ向かうので手荷物は出来るだけ少なめにする必要があった。約束の時間まではまだ充分あるが、ツカサはいつも万が一に備え、余裕をみて現地に着いていたかった。


「ツカサさーん!ちょっといいですか?」


 全ての支度を終え、これから出ようとした時、事務局の松田に呼び止められた。


「急いでるところをすみません。以前お話しした件、考えてくれました?」

「…?以前話した件?」

「やっぱり忘れてる!ほら、新宿にある女風バーへの出勤、考えておいて下さいって言ったじゃないですかぁ〜」


 呆れ顔で言う松田だったが、ツカサは咄嗟の事で最初は思い出せないでいたが、そういえば以前、松田が女風バーがどうとか言っていたような。ただその時は電車が遅延しているという情報があり、待ち合わせの時間に間に合うか微妙だった為、いつもなら真剣に聞くはずの松田の言葉を軽く流してしまっていた。


「すみません、すっかり忘れていました…」

「仕方ないなぁ〜。女風バーの店長さんからも是非って打診されていましてね。前向きに考えてみてもらえませんか? バーのシステムとかの詳細はLINEで送っておきますんで」


 予約が入っているツカサの様子を察してか松田は特に長話をする事も無く、送り出してくれた。


 移動中の電車内で予約をしてくれた尾崎夏菜子(オザキ カナコ)という女性へDMを送る。


『夏菜子さん。今夜お会い出来るのが凄く嬉しいですし、楽しみです。紺色のストライプスーツに、カバンを持っています。念の為画像を送っておきますね。どうぞ気をつけて向かってください』


『ツカサさん、今夜ようやくお会い出来るのが楽しみです。今からドキドキしています』


 ツカサのTwitterをずっと見ていて、興味はあったものの中々タイミングが合わず、今夜ようやく予約出来たとの事で、過去DMのやり取りの文面から初対面の緊張とようやく予約が取れた喜びが交差しているのが伝わってきた。

 今夜は六本木ヒルズで食事をし、一緒にイルミネーションをたい、というのが夏菜子からの要望だ。

 夏菜子からのDMを読み終え、Twitterを更新しようとした時、数あるDMのやり取りをしている一覧の中に『レナ』の名前が視界に止まった。


「…レナさん」


 思わず声に出てしまった。

 普段、待ち合わせ場所に向かっている時はその相手とのやり取り以外はしないし、他のDMも見ないツカサだが、レナの名前に目が止まり、迷いながらもレナとのやり取りのDMページをタップした。


『ツカサさん

DMではお久しぶりです。お元気ですか?

なかなかDMが出来ず、予約も出来なくてごめんなさい。


母の認知症が進行し、今はケアセンターと訪問介護の方の力を借りて何とかなっていますが、色々と限界がきてしまっています。


ケアセンターのスタッフさんから施設入居の話を貰い、その中で長野県のグループホームが気になったので見学に行ってきました。想像以上に良い環境でスタッフさんの話も伺ってみましたが、文句なしの母に合っているように思えたので、入居の手続きをしてきました。

最初は母だけ長野のホームに入居し、私は時々会いに行く、という事も考えましたが、母も年齢が年齢なので、いつ何が起きてもおかしくない状況です、私にとって母は唯一の家族です。なので母の入居を機に、私も長野に引っ越すことにしました。詳しい日程はまだ決まっていませんが…


本当は直接逢って伝えたかったのですが、正直今の私にはツカサさんを予約する余裕が無くて…。

DMでのお知らせでごめんなさい。


レナ』


 そう言えば、レナからこの内容を貰ってはいたものの、返事が出来ていなかった。どう返事をしよう。今レナに何を言えるだろう。内容が内容なだけに、簡単な返事はしたくない。だがどんなふうに返せば良いのだろう…。

 文面から察するに、レナは母親の介護が相当大変な状況にあるのは間違いない。

 最後に会った時…ツカサが遅刻してしまった時だった。レナは以前より痩せて顔色もあまり良さそうではなかった。

 今までレナから母親の症状については話があったが母親の介護に吉原での仕事に…心身共に疲弊しているレナに踏み込んだ事を訊くのは無神経だと思い遠慮してしまっていた。今思えばもっと踏み込んで話を聞くべきだったかもしれない。

 レナの気持ちを完璧に理解するのは難しい。ツカサに出来るのはレナの思いを、抱える現実を想像をするだけだ。きっと自分に会えない時間の中でレナは苦しみ、葛藤し、そして決断をしたのだろう。それはツカサの想像が及ばないくらい辛い時間の中で。だから、今のツカサにレナにかける言葉が見当たらないのだ。

 考えている内に、車内のアナウンスが間もなく六本木に着くことを知らせ、ツカサは思考を戻した。


『いけない、いけない!!これからデートなのに…』


 デートや性感でも、ロングやショートコースでも大勢のセラピストの中で自分を指名してくれた女性と一緒にいる時に、他の女性の事を考えしまっていては相手に失礼だし、ましてやふとした仕草で相手女性に勘付かれてしまうことだってある。相手との時間、一瞬一瞬を大切したいのに、そんな事になったら女性の落胆は計り知れないだろう。

 頭を振り、セラピスト・ツカサとしてのモードに完全に切り替えた。

 六本木駅に着き、電車のドアが開くと同時にツカサは勢いよく飛び出し、階段を駆け登っていった。まるでさっきまで頭を占めていたレナへの思考を振り払うように。




 連日 母・恵子の介護をし、訪問介護スタッフの木嶋が来たら吉原に出勤する…そんな毎日を繰り返していると24時間、1週間や1ヶ月があっという間に過ぎてしまい、時間の流れを早く感じる。

 訪問介護の木嶋や福祉センタースタッフのサポートのおかげで以前より比較的穏やかに過ごせてはいるものの、母の白く血管が目立ち始めた痩せ細った手首や脚、皺が目立ってきた顔面、自分より低くなった身長…元気だった母の姿に戻ることは無いのは理解しているのに、物忘れで会話が成り立たなくなった時、下の世話をしている時、腕力が無くなった手を握っている時…その日常は日を追うごとに少しずつ美奈子に『親が老いていく』現実を突き付けた。理解しているのに、認知症とは無縁の様に思えた母の姿と比較してしまい、気持ちが追いつがず涙がとめどなく流れることがある。

 当の母はどんな気持ちでいるのだろう。症状が進むにつれ会話が減り、徐々に口数も減り、最近は表情も乏しくなっている。母は自分が自分で無くなっている現実を理解し受け止めているのだろうか。

 他愛のない日常の会話も、些細な喧嘩も今の親子には遠くて叶わない日常となってしまった。こんな気持ちになるのなら、もっと母としつこいくらい話をすればよかった。 後悔しても仕方ないのは良く分かっている。

 気持ちを立ち止まらせてしまったら心が壊れてしまいそうで…美奈子は母の介護をしつつひたすら掃除や洗濯等の家事をし、終わればいつ引っ越しになってもいいように家にある物を整理し始めた。

 母は元気だった頃から整理整頓が上手で、押し入れにあった箱詰めされた古い物でも何が入っていて、何処に何があるかを明確に記入したりしていたから、母の身の回りの物に関しては整理が楽だ。もしかしたら、母は美奈子が知らないところで、いつかくる自身の老いを予感し、美奈子に迷惑がかからないようにこうして準備をしていたのだろうか。



「美奈子さん!長野のグループホーム『微笑みの郷』から連絡がきまして、お母様の入居が認められましたよ!」


 福祉センターの川崎から明るい声で電話があり、曇りがかっていた美奈子の気持ちに歯止めが掛かった。

 母の入居が決まると様々な手続きが必要となり、市役所に必要な書類を取りに行くだけで午前中が終わり、あっという間に吉原に出勤する時間になってしまう。

 帰宅すれば、母の様子を見つつ買ってきたコンビニ弁当を食べ、お風呂に入ってようやく静かな時間の中に身を置ける。


 訪問介護の木嶋は夕飯前に母を近くの公園まで散歩に連れて行ってくれていて、主に車椅子を使用する事が多いが身体の調子が良い時は杖を使って歩いて行くのだが、僅かな距離でも母には結構な運動量で、帰宅すると入浴と食事を済ませたら美奈子の帰りを待つ事なく眠ってしまう。寝付きが良い母は徘徊する事も無く、そのまま朝まで起きない事が殆どで、吉原が終わって心身共に疲弊している美奈子にとっては、自分の時間を持つ事が出来てとても助かっている。


「美奈子さん、お忙しい中、色々書類を揃えていただきありがとうございます。これで入居手続きが出来ます。…それで、美奈子さん、美奈子さんもお母様とご一緒に長野に移住するという事ですけど、引っ越し先とかお仕事とか決めていますか?」


 福祉センターの中で川崎は長いこと、母や美奈子のことを見てきてくれた。だからここで働くスタッフの中で2人の事を1番気にかけてくれ、話を聞いてくれている。


「引っ越し先は何とか見つかりました。ただ向こうでの仕事先が、まだ…」


 恵子が入居するグループホーム『微笑みの郷』への必要書類を市役所等に取りに行くのと同時に少しでも時間があれば、長野の求人サイトを覗いたり、ハローワークで求人関係の情報を集めていたし、『微笑みの郷』に近い場所、もしくは出来るだけ徒歩圏内で美奈子が住む物件を探していた。

 馴染みの無い土地なだけに、住所を見ても詳しい場所が分からず、物件探しは難航していたが、問い合わせをした不動産屋スタッフが、美奈子の今の状況や母が『微笑みの郷』に入居する事を包み隠さず話したら、親身になって詳しく探してくれたのだ。

 そんなスタッフから紹介されたのは駅近くにある1Kのアパートだった。美奈子1人が住むには十分な空間だが、土地勘が無い美奈子はすぐ行けるようにと『微笑みの郷』の近場にこだわっていた。しかし不動産屋のスタッフ曰く、車や自転車があれば行ける距離で、駅前からは『微笑みの郷』行きの往復バスも出ているから、何をするのも駅近くのほうが便利だという。

 なるほど、と納得し詳しく物件の写真等を見せてもらい、後日にはリモートで内観が出来た。

 広々としたキッチンとリビングは陽当たり良好で今使っているベッドを置いても余裕のある広さだし、風呂場とトイレは一緒の空間だが、美奈子1人での暮らしでは不自由が無いし、もし母を泊めることになっても全ての物が目につくので、今の家より母の行動や様子がよく見えるし分かりやすい。


「では、住居に関しては解決ですね!残るは向こうでの仕事先ですね」

「はい。最初は出来るだけ時間に融通が効く職場を希望でしたが、中々難しいので正社員じゃなくても、とにかく働き口があれば…」

「…美奈子さん、『微笑みの郷』の落合さんにも話をしてみましょうか?」

「え?落合さんにですか?」

「落合さんは周辺地域との繋がりが沢山あって、恐らく求人サイト等に載っていないけど、働き手を募集している所をご存知かもしれません。もし美奈子さんが良ければ私から訊いてみますが」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 つくづく人と人との繋がりや縁は大切なのだと痛感した。川崎も木嶋も美奈子が吉原で働いている事は知らない。しかし、母だけでなく美奈子のことも親身になって気にかけてくれるだけでなく、この先の心配まで。

 木嶋も長野のグループホームを見つけた時は一度見に行ってみては、と背中を押してくれた。もし川崎や木嶋と出逢っていなければ、きっと全ての物事を一人で抱え込まなければならず自暴自棄になっていたに違いない。



 母のグループホーム入居日が正式に決まると、彼女の身の回りの整理はいよいよ本格的になってきた。入居手続きをした当初は、入居日に併せて美奈子も一緒に長野に移住する予定でいたが、家事や母の介護、吉原への出勤をしながらの荷物整理や引っ越しの荷物まとめは思いの外難航し、とても2人揃って長野に移住するのは難しい状況だった。なので、母が先にグループホームに入居の為に長野に行き、美奈子が完全に引っ越すのは来月になった。

 朝方 片付けをしつつ母の荷造りをしていたら、おぼつかない足取りではあったが、母がリビングにやってきて、美奈子が荷造りをする様子をじっと見ていた。どうやら母なりに、いつもとは明らかに違うことがこれから起こるのだと認識したのかもしれない。一体何をしているのかという表情で母は美奈子の隣りにそっと座ってきた。


「お母さん、どうしたの?」

「………」


 美奈子の問いかけには答えず、母はじっとある物を見つめている。視線の先にはまだ蓋が空いたままで無造作に何冊かの本が入った箱だ。


「お母さん、もしかしてこの箱が気になるの?」


 やはり美奈子の問いかけには無言のままだが、母はその箱が気になっているようだ。

 今箱詰めしている洋服を一旦横に置いて、母が視線を向けている箱を近くまで持って行くと、彼女は身を乗り出し、覚束無い手付きで箱に入った赤色の本を取り出そうとしていた。

 母が取りたがっている物が分かると、美奈子もその赤色の本を出すのを手伝った。出てきたのは赤い表紙が印象的なアルバムだった。『○○年○月〜○月』と書いてあり、それは母の字だ。

 ページを開くと、生まれたての赤ん坊や小さい女の子が着物を着ている写真、公園で遊ぶ姿…それらは全て小さい頃の美奈子だ。几帳面な母はきっちり写真を整理し、余白部分に日付と場所、状況を短くメモのように書いていたのだ。

 しばらく見ていなかったアルバムにかつての子供時代の美奈子、そして若かりし日の

母の姿があって、写真は古びているがこうして過去を見つめる時間がなかったせいか、こうして改めて見ると新鮮に映る。

 アルバムの終わりのページに、ふと見慣れない男性が写る写真を見つけた。

 写真はまだ小さい美奈子が子供用の滑り台に登ろうとしているのを白い帽子を被った男性がその小さな体を落ちないようにと支えている瞬間で、帽子で顔が隠れてはいるものの、その表情は柔らかく、優しさが滲み出ていた。この男性は…


「……さん」

「え…?」


 弱々しい声で、母は必死に何か言葉を発しようとしている。


「…お…と…さん」


 『お父さん』。母はお父さん、と言いたいに違いない。虚だが、母は写真に写る男性をしっかり見つめて、『お父さん』と言っている。間違いない。この写真に写っている男性は、今は亡き美奈子の父親だ。

 美奈子がまだ幼い頃、父は交通事故で突然この世を去った。父親との記憶は無いに等しいが、このたった一枚の姿を見る限り、優しい父親だったのだろう。

 アルバムに納められている写真は幼い美奈子を始め、若かりし日の母と幼い美奈子が無邪気に笑っている日常を切り取ったものが殆どで、母と美奈子が2人で写る写真を撮ったのは恐らく父だ。

 写真の中の父は仏壇に飾られている遺影のと違い、目元は分からずとも柔らかな表情でどこか懐かしさのある姿に美奈子は視線を奪われる。

 ふと我にかえって横にいる母を見ると、それまで無表情だった母がぎこちないながらも口元に柔らかな笑みを浮かべて父が写る写真を見つめていた。暫く見ることが無かった母の笑顔がそこにあることに美奈子は込み上げてくるものを感じた。

 そういえば訪問介護の木嶋が以前、母に美奈子の話をすると嬉しそうに笑うと言っていたことがあった。そんな場面に遭遇したことがない美奈子にとっては俄に信じられないでいたが、こうして写真に写る美奈子の父であり、自分の夫を見つめ微笑んでいるのを見ると、木嶋の話は本当だったのだと改めて思う。

 もしかしたら、今の母にとって笑顔の源は、「家族」と紡いだ思い出の数々なのかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る