新宿 女風バー

『皆さんへ大切なお知らせです。


 いつも『エデン』のレナを応援していただき、ありがとうございます。

 今日は皆さんに大切なお知らせがあります。


 私、レナは

 来月末日をもって『エデン』を退店します。

 理由は、仲良し様でご存じの方も多いと思いますが、同居している母がこの度地方の施設に入居が決まり、私も東京から施設近くの土地へ引っ越す事になりました。 出来るなら、続けていけないかと、悩みましたが、高齢の母の側にいたいという思いが強く 今回の決断に至りました。


右も左も分からないまま吉原に飛び込んだ私ですが、色々な事を教え育ててくれた先輩方、スタッフの皆さん。何より沢山のお客様に支えられて、ここまでやってこれました。

退店の日まで出来るだけ出勤しますので、今まで支えて下さった皆さん。まだお会いしていない方々とお会いして感謝の気持ち、そして最高のおもてなしをさせてください。


『エデン』でお待ちしています!


レナより』


 長野に向かう新幹線の車内で隣りの席で車窓の景色を見ている母を気に留めつつ写メ日記を更新すると、美奈子は一つ安堵の溜息をついた。


 いよいよ母が長野にあるグループホーム『微笑みの郷』へ入居する日。

 母は現地に着くまで相変わらず無表情で車窓に広がる景色を見つめていたが、現地で出迎えてくれた落合を始めとした数人の介護スタッフが優しく接してくれた事もあり、母の表情は微かだが和らいでいるように見えた。

 今日から母が入居する部屋と、一通りの説明を受けながら施設内を母の車椅子を押しながら見て回る。 それらが終わると、美奈子は心苦しいが母を残して一旦東京に戻らなければならない。

 来月には美奈子も長野で新生活が始まる。

 当初心配していて仕事先についても、『微笑みの郷』の落合が役所の地域課に話をしてくれたおかげで、市内にある小さな建設会社の事務員の仕事が決まった。あとは母の身の回りの整理で中々美奈子自身の荷造りが進まずにいたが、これでようやく自分の荷造りとその他の整理に時間が使える。

 帰り際、母が何かを察したのか、部屋を出ようとした美奈子に袖を軽く引っ張った。


「お母さん、大丈夫だよ。私は今から東京に戻って少しの間会えないけど、来月からはこっちで暮らすから、毎日会いに来るからね。それまで待ってて」


 母の手を軽く握り、美奈子は部屋を後にした。


 東京に戻る新幹線で車内販売のコーヒーを飲み、ようやく落ち着く事が出来た。

 今朝の長野行きの時、母は車窓の景色を見ていたが、意思表示をあまりしないこともあり、トイレを始め、気分が悪くてなっていないか等、常に気を配る必要があった。

 グループホーム『微笑みの郷』に入居し、ようやく緊張していた気持ちの糸が緩んだように感じだ。同時に思いの外、身体は疲労を訴え、軽い眠気に襲われ始めた時、美奈子のスマホが鳴った。LINEの通知だ。

 そういえば、朝長野に向かう新幹線で写メ日記を書いて以来、スタッフの落合や他のスタッフ達と話していて、スマホを見る時間が無かった。

 改めてスマホを見ると、『エデン』のスタッフからの予約状況を知らせるLINEの他、今朝更新した写メ日記を見てくれたお客さん達から沢山のLINEが来ている。


『レナちゃん、日記見て驚いたよ!来週の火曜日予約取れたから行くね。ラストの日まで出来る限り会いに行くからね』


『レナさんお久しぶりです。

 いつかは退店する日がくると理解していましたが、まさかこんなに早いとは!!来週と再来週のどこかで予約を入れて行きますので宜しくお願い致します』


『レナ様

 ああー!!ついに退店発表!!!

 悲しい極みでありますが、レナ様を最後まで応援します!!来週予約を確保致しましたのでよろしくお願いしますであります!』


 退店発表の反響は想像以上で、スマホのLINEには佐野を含めた常連客の他、久しぶりのお客達まで、今日一日で返しきれるか分からないくらいLINEが届いている。同時に『エデン』のスタッフから現時点での週明け月曜日の予約状況についてのLINEを見ると、平日にも関わらず夕方の受付終了間際までほぼ満枠に近い状態となっていた。

 その殆どを埋めてくれたのが、有難いことにレナの常連客達でいつもなら50分か80分コースで入るが、この時ばかりは120分や180分といったロングで予約をしてくれている。

 

 何も分からず、勢いだけで飛び込んだ吉原。

 最初は不安ばかりで、手探り状態の接客の中でたまに心無い客から暴言を浴びせられたことや、AVの内容を鵜呑みにしている客に下半身を荒々しく傷つけられたことも何度かあった。そんな辛い時、誰もいない待機室の隅っこで泣いては何度辞めたい、逃げたいと思ったことか。何が正解かも解らない毎日だったが、とにかくフリーだろうと来店してくれたお客さんを一生懸命もてなし、どうしたら満足してもらえるかをひたすら考えてきた。

 未だに正解なんて見つかっていないが、お客さんから「ありがとう」「楽しかった」の言葉が嬉しくて、辛いけどまた頑張ろうと思えた。

 テクニックを学ぶ場に参加したり、特殊な性癖のイベントに足を運んだり…そんな日々の中、少しずつリピートしてくれるリピーターが増え、本指名も返せるようになり、今に至る。

 思い返せば、今日まで短くも長い道のりだったが、退くことを惜しんでくれる人たちがいることが、何より嬉しく、込み上げてくるものを感じた。



 週明け。

 月曜日の開口一番に来店したのは、今やすっかり常連となった佐野だった。

 部屋に入るやいなや、服を脱ぐことも忘れ、レナに抱きつき泣き始めた。


「あ、あのぉー、佐野さん…」

「ごめんね、レナちゃん!!今日は楽しく過ごそうと思ってたんだけど、レナちゃんがもうすぐいなくなっちゃうと思うと寂しくてぇ〜!!」


 そういえば、佐野が初めて来店した時もこうして部屋に入ってすぐ抱き着いてきた。

 一見仕事に一直線で真面目なイメージがある佐野だが、真面目過ぎるが故に女性に慣れていなくて、どうすればいいか分からないでいる姿が何だか愛らしくレナには映った。

 以来、佐野は時間があれば来店し、レナを指名してくれている。出張から帰るとお土産を買ってきてくれたり、介護でボロボロだったレナを励まそうと可愛いケーキを買ってきて一緒に食べたりした。

 プレイは勿論するものの、2人でいる時間を楽しんでいる佐野にレナは何度救われたことか。佐野だけではなく、こうして貴重な時間とお金を使って自分に逢いにきてくれる常連客たちにはただただ感謝しかなかった。


 夕方になり、受付終了となると流石に身体はクタクタだが今までと違って達成感と多幸感に満ちていた。今日一日、何回「ありがとう」の言葉を聞いただろう。

 開口一番から佐野を始め、受付終了まで常連客は勿論、ネットで見てずっと気になっていたという新規のお客まで昼休憩時間を除いて途切れる事が無く、常連客とは殆ど思い出話に花が咲き、いつも以上に濃厚な時間を過ごせた。


「レナちゃんと会うと元気が貰えるよ」

「レナさん、体に気を付けてね」

「レナさんと初めて会った時、色々酷いこと言っちゃったよね。ずっと謝りたかったんだ。こんなタイミングになっちゃったけど、あの時はごめん」


 今日一日で色々な会話をした。そのどれもが思い出深くて。もうすぐ『エデン』と、そしてこの吉原という街とお別れになってしまうことが、何だか寂しく感じられた。



 地元の駅に着くと、いつもの癖で母の携帯に連絡を入れてしまいそうになるが、今母は長野のグループホームにいる。

 もし何かあればグループホームのスタッフから連絡が入るが、スマホには着信が無いので、母は元気でいるのだろう。しかし、心配になりグループホーム『微笑みの郷』に電話を入れた。


「落合です。美奈子さん、お母様は今日早速リハビリとレクリエーションに参加されましたよ。レクリエーションは折り紙でしたが、凄く真剣に鶴を作っていましたし。食事も全部食べて元気にされていますよ」


 スタッフの落合の言葉に美奈子はホッとした。

 グループホーム『微笑みの郷』では母の体調に異変があれば、医療スタッフが対応してくれるし、美奈子にもすぐ連絡が入る手筈になっているから安心だ。


 以前だったら、帰宅すると母や訪問介護の木嶋がいたので部屋の電気は点いたままだったが今は母も、木嶋もいない。帰宅して自分で電気を点けたのなんていつ振りだろう。

 母がいない家の中はこんなに静かなのか。

 つい先日まで母が寝ていた介護用ベッドはシーツが剥がされ、マットレスだけが残されていた。


『来月にはまたお母さんに会えるのに、何か寂しいなぁ…』


 今まで感じたことの無い虚無感が美奈子を包んだ。

 もし…母の介護が全て終わったら、今以上の静けさがやってきて、更なる虚無感に襲われるのでは…。

 縁起でもない想像が思考を占め、ふと我にかえって頭を振った。


『いけない!いけない!!何を考えているのよ、私は!!』


 独り何もしない時間が久し振り過ぎたせいなのか、油断したらマイナスな事を考えてしまいそうになる。そうなりたくなくて、美奈子は掃除機を取り出すと、母の部屋からキッチン、自分の部屋を掃除し始め、それらが終わると洗濯機を回し、キッチンテーブルの上にあった食器類の洗い物を始めた。 一通り家事が終わったら、自分の引っ越しの荷造りと部屋の整理だ。

 じっとしていたくなくて、ひたすら動いた。仕事終わりで疲れているのも原因かもしれないが、何もしないでいると又マイナスな思考に脳内が支配されそうで怖い。だから出来るだけ考えないよう、今はとにかく動いていたかった。

 


 独りの時間が増えた事で、それまで止まっていた自分の引っ越し作業が思っていた以上に捗った事が驚きだった。

 決まった時間に起床し、朝食を食べ、後片付けをして早番の時は出勤するが、今日は遅番だから家を出るのは午後になる。

 家事をしてから荷造りをしているが、思っていた以上に殆ど片付いてしまい、終わりも見えてきた。だからずっと出来ずにいた公園を散歩をしたり、紅茶を飲みながら読書をしたりと、自分の時間を楽しめる余裕も出てきた。


 14:00。

 そろそろ出勤の用意をしようと思った時、スマホのLINE通知が鳴った。


『レナちゃん忙しくてLINE送れなくてゴメン!!

今月末で辞めるんだって!?

もービックリだし、寂しいよぉ〜!!


あのさ、来週の水曜か木曜の夜って時間ある?

もし空いてたら一緒に食事に行かない?レナちゃんの送別会をやろう!』


 『エデン』の先輩エレナからのLINEだ。

 退店を発表してからレナの出勤日の予約枠は満枠の表示が続き、出勤したら直ぐ部屋に入って準備をし、お客の出迎えと見送り、トイレ以外 受付終了時間まで部屋を出ることは無く、先輩後輩とも挨拶する以外話せてはいなかった。

 本当は一番お世話になっているエレナに以前から退店の事などを話していた手前、発表直後、連絡をしたかった。だが、ちょうど母のグループホーム入居と重なってしまい、バタバタしていてタイミングを逃してしまっていて、心苦しかった。だから、こうしてエレナからLINEを貰えて、しかも食事の誘いまで。 これ以上に嬉しいことは無く、美奈子はエレナに早々とOKの返事を送った。



「カンパ〜イ!!」


 エレナが待ち合わせ場所に指定したのは新宿 歌舞伎町のワインが飲めるイタリアンレストランだった。


「レナちゃんがいなくなるのって正直寂しいけど、お母さんとこの先一緒にいたいって気持ちは分かる気がするし…何だか、羨ましいな」

「羨ましい?」

「…誰にも話していなかったけど、私…ずっと両親と不仲でね。高校卒業して逃げるように東京に出てきて、食べていくのに必死だったから、最初はキャバ嬢をしてそれからしばらくして吉原に来たの。最初は親の愛情とかくだらないって思ってんだけど、レナちゃんからお母さんの介護や思いを聞いている内に、私なりに親の事を考えるようになってね。それで思い切って実家に久しぶりに連絡してみたら、両親が泣きながら謝ってきて。…あの時は色々厳しいことを言って悪かったって。意外だったな」

「意外って?」

「ずっと両親は私を嫌っていて、出て行った私のコトなんてもう何とも思っていないって思っていたからさ。ましてや私に謝るなんて。 久しぶりに電話で話したけど、無性に会いたくなってね」

「会うんですか?」

「…うん。来週、かなり久しぶりに里帰りしてくる」


 エレナは私生活の事を余り口にしないし、ましてや過去の事はあまり話さないから聞く人間もいなかった。そんなエレナが両親の話を、ましてやずっと不仲だったなんて。


「私の話はもういいから、レナちゃんはその後何かあった?」

「何かあったって、何がです?」

「ツカサさんからあの後DMとか来た?」


 ツカサの名前を聞き、思わず思考が停止してしまった。

 母の入居の手続きや、引っ越しの準備、そして退店の事でずっとバタバタしていて、ツカサDMの事もすっかり忘れてしまっていた…いや、正確には考えないようにしていたのだと思う。母の事同様、考えてしまったら一つの小さな不安が何倍にも膨らみ徐々に心が病んでしまう事をレナは知っている。だからツカサの事もずっと思考回路から外していた。


「DMは、あれから全く無いです」

「レナちゃんも結局あれから全く連絡していないの?退店の事も?」


 レナが長野に移住する旨を記載したDMをツカサに送ってから もう随分になる。

 どうせツカサからは何の返事も来ていないことは分かっていても、念のためエレナに許可を取り、久しぶりにツカサのDM欄を開いて更新をしてみた。が、やはりツカサからは何も来ていない。

自然にため息が出てしまった。そんなレナを見ていたエレナも落胆を隠せなかった。


「…そうか。…レナちゃん、ちょっと待っててくれる?」


 そう言うとエレナは席を立ち、何やら店の外へ行くと何処かへ電話をし始めた。お客への連絡だろうか。

 エレナがいない間、久しぶりに女性用風俗サイト『kaikan』を開いてみた。

 登録セラピストを見れる『セラピスト一覧』のページには約4000人近くのセラピストの写真がズラリと並び、多種多様なセラピストに見ているだけで目移りしてしまう。

 次に見たのは第1位から100位までのセラピストがランキングで掲載されている『セラピストランキング』だ。

 1位から3位の次にツカサが4位にランクインしていた。いつの間にかパネル写真も一新されていて、顔にモザイクはかけられているのは相変わらずだが写真から放たれる大人の色気とオーラは以前にも増しているように感じた。

 ツカサの口コミのページに飛んでみると、50件近い口コミが投稿されていて、そのどれもがツカサを称賛する内容だった。レナもかつてツカサの口コミを書いたことはあったが、だいぶ前だし、もはやかなり下の位置になっていることだろう。

 

 レナが母の介護と仕事の両立に追われている日々でもツカサは求めてくれる女性たちの為、徹底したサービスをし、着々と評判を得てゆき4000人近くいるセラピストの中でも上位の位置にまでたどり着いていた。

 分かったいた事とはいえ、改めてツカサというセラピストを見ると、もはや自分など忘れ去られて当然の位置にいるのだと痛感してしまう。

 レナの中でツカサは今でも大切な存在であり、同業者としても尊敬出来るセラピストだし、目標でもあり、同志とも思っていた。

 でも今のツカサはレナと出逢った時の影があり、自信が無さそうな新人ではなく、1人のセラピストとして、大人の色気と絶対的な自信に満ちていて…そんな姿にレナは独り取り残されてしまったような虚しい気持ちになった。


「レナちゃん、ゴメンね!席を外しちゃって」


 電話を終えたエレナが席に戻ってきたので、レナは視線をスマホからエレナに戻した。


「お帰りなさい。お客さんへの電話ですか?」

「う〜ん…まぁ、ちょっとね。ねぇ、レナちゃん。この後ってまだ時間ある?」

「ありますけど」

「ちょっとこの後、案内したい場所があるんだけど」

「何処ですか?」

「女風バー」

「女風バー?!」



 食事を終えたエレナとレナは歌舞伎町の夜風を浴びながら、エレナが言う『女風バー I AM THAT I AM』に向かって歩いた。


「あのぉ、エレナさん、女風バーってどんな所なんですか?」


 丁度バッティングセンターに通りかかった所でレナは訊いた。


「現役セラピストのジョニー岡田さんが代表をやっていてね…簡単に言えばセラピストに会えるバーなの」

「セラピストに会えるバー…」


 口に出してみたが、レナにはイマイチ想像が追いつかない。そんなレナのことを知ってか知らずか、エレナは説明を続けた。


「セラピストってさ、お店のパネル写真だとモザイクがかかっている人が殆どじゃない?それだと、どんな雰囲気なのか、性格はどうなのかは分からないでしょ?女風バーには色々な女風店のセラピが毎日出勤していて、接客してくれる所なの」

「…もしかして、ホストクラブみたいな?」


 馴染みが無いレナがエレナの説明を聞いただけで思い描くのはどうしても『ホストクラブ』的なものだ。豪華な内装、シャンパンタワー、派手なホスト(セラピスト)たち…。


「違う、違う!ホストクラブとはまた別だよ。バーだし、接客してくれるスタッフは殆どセラピストだし、シャンパンや高いお酒はあっても、入れたりしなきゃとか無いし、女風ユーザーの間では今人気な場所なんだよねぇ〜」

「…そうなんですか。でも、どうしてそこに私を連れて行ってくれるんですか?」


 レナの質問にエレナは歩く足を止めた。


「余計なお世話だと思ったんだけど…」


 そう言うと自身のスマホ画面をレナに見せた。

見せてくれたのは女風バーのTwitterページで、そこには、


【女風バーイベントのお知らせ】

 本日Cielday開催!

 Cielのセラピストが多数出勤!!


 Ciel…ツカサが在籍する店舗だ。

 もしやと思い、レナはエレナのスマホを借りて『出勤セラピスト一覧』を見てみた。


【出勤セラピスト一覧】

雅斗@店長

隼斗@副店長

初)カイト@Ciel

初)シン@ Ciel

初)ツカサ@ Ciel

代表ジョニー岡田

九十九@santuario大阪

みや@スタッフ


 ツカサの名前があった。ツカサは今日女風バーに出勤する。 エレナが言っていた「お節介」の意味が理解できた。

 エレナはツカサと逢うタイミングが無いレナを気遣い、確実にツカサと逢って話が出来る女風バーに出勤のタイミングを見て、声をかけてくれたのだ。


「実はね、さっきの食事の席で私、席を外したじゃない?女風バーの店長に電話してたの。今日ツカサさんは確実に出勤するのかを確かめるのと、席を確保してもらうために。レナちゃんはツカサさん指名だから、行ったらツカサさんを付けて欲しいって店長に伝えておいたの。じゃないと、ツカサさん人気だし、他の被り客がいたら話せないと思ったから」

「…エレナさん、そこまでしてくれたんですね」

「まぁ、レナちゃんのためでもあるし、私のためでもあるかな。以前話した仲良しのセラピのシン君も今日出勤だから、それぞれ指名のセラピで飲みたいなって思って」


 女風バーは初めてだし、エレナにも目的のセラピストがいるとはいえ、一緒に行けるのは嬉しかった。そこにツカサがいるなら、久しぶりに逢いたい。顔を見てしっかり話したい。


「…ありがとう、エレナさん…」

「レナちゃん!そんな顔しないで。推しは推せる時に推そう!」


 涙を堪えるレナの手を引いて、エレナは再び歩き出した。



 女風バーは雑居ビルの6Fにあり、女風バーが入っているビルには他にハプバーや普通の飲み屋が入っているが、一階にある看板からして女風バーは異色を放っているように見えた。

 エレベーターは途中の階で止まる事なく、6階へ一直線だった。

 6階に着き、ドアが開くと、飾り電球に照らされた『女風Bar I AM THAT I AM』と書かれた看板がまず視界に入ってきた。その先に店内へ続く白い扉がある。


「さ、行こうか!」


 エレナはまるで小さな子供が夢の国に来てはしゃぐ様な笑顔でレナの手を引き、白い扉を開けた。


「いらっしゃいませ〜!エレナさん、お待ちしていましたぁ!」


 扉を開けたエレナとレナを出迎えてくれたのは、女風バーの店長の雅斗だった。


「店長―!!今晩ワンダ〜!」

 

 エレナは既に店長とは顔見知りらしく、顔を合わせるなりまるで仲の良い友達同士のようなテンションだ。

 店内はピンクと紫系の照明でアダルティーな雰囲気を醸し出しているが、派手過ぎず、落ち着いた大人の空間といった感じだ。


「初めまして、店長の雅斗です」

「店長はね、代表のジョニー岡田さんも所属しているアーメン東京のセラピさんでもあるの。んで、ここのバーではマスコット兼癒し系の存在よ。ちなみに、あの奥にいるのが、代表のジョニー岡田さん」


 エレナはそう言うと、店内の奥のカウンター席で接客中の男性に視線を向けた。

 エレナが教えてくれたカウンターに目をやると、女性にグラスワインを慣れた手付きで差し出すキリっとした顔立ちの男性がいた。

 店長は2人を様々なボトルが並ぶ壁側のカウンター席に案内してくれた。


「エレナさん、実はね…」


 席に着くなり店長がエレナに意味深な面持ちで近づいて来た。


「シンさんは直ぐ接客可能なんですが、レナさんがご指名のツカサさん、出勤はするんですけど、さっき連絡が入って、同伴出勤するみたいなんです。そうなると、レナさんのお席で接客出来るのが、その同伴されるお客様がお帰りになってからになってしまうので、もしかしたら時間が遅くなってしまうかもしれなくて」


 申し訳なさそうに伝えてくれた店長にエレナは文句を言うこともなく冷静に答えた。


「そうですか。じゃあ、ツカサさんが接客可能になったらすぐレナちゃんの席に付けてください。あと、今回の会計は全部私でお願いします」

「えっ!?ちょっとエレナさん、それはっ!」

「レナちゃん、今日は私が誘ったんだからそうさせて。その代わり、ちゃんとツカサさんと話すんだよ」


 いくら後輩で女風繋がりとはいえ、ここまでしてくれるなんて。 レナはエレナの心遣いに感謝しつつ、エレナの言う通り ツカサとしっかり話さなければと改めて思った。


「分かりました。ではツカサさんが来るまでエレナさんにはシンさんを。レナさんにはこちらがオススメのセラピさんを誰が付けますね」




「エレナさん、いらっしゃい! レナさん、初めまして。 Cielのシンです」

「santuario(サントゥアリオ)大阪の九十九(つくも)です」


 以前エレナが話してくれたツカサと同じ Ciel在籍のセラピスト・シンは写真で見るより幼い感じがあるものの、口調がしっかりしていて真面目さが伝わってくる好青年だ。


「シン、久しぶりだねぇ〜!何か忙しそうじゃない?」

「エレナさんこそ。お忙しそうじゃないですか。身体には気をつけてくださいよぉ」

「おぉ〜!気遣いが上手くなったじゃない〜」


 エレナとの会話はセラピストと女風ユーザーというより、しっかり者の姉とヤンチャな弟みたいで。見ているだけで和んだ。


「レナさん、何飲まれます?」


 シンの横にいるパーマに丸眼鏡をかけた関西弁を喋るsantuario大阪のセラピスト・九十九がレナに訊いてきた。


「私は、ジンジャエールで。…九十九さんは、大阪のセラピストさんなんですか?」

「はい、大阪です。月に何度か東京と大阪を行き来している自称・フッ軽セラピです!」

「フッ軽?」

「フットワークが軽いって意味です」

「そうそう!後ででもいいんで、九十九さんのTwitter見てみてくださいよ。瞬間移動しているんじゃないかってくらい、1週間に色々な場所に行ってるんで」


 エレナのドリンクを用意しながら、シンが面白がって会話に入ってきた。


「瞬間移動なんてしてへんてっ!夜バス使ったり、新幹線使ったりして移動してるんやから〜」


 九十九というセラピストは初めて会ったが、彼の関西弁は柔らかい口調で、すんなり耳に馴染む優しいものだった。

 レナの常連客で月一で大阪から出張し、その合間に来店してくれる客がいる。そのお客も関西弁を喋るが、関西弁でも土地によってイントネーションが異なるみたいで、そのお客の口調は語尾がキツく、一つ間違えればヤクザのように聞こえてしまうものだった。


「いらっしゃいませ〜!」


 扉が開くと店長の声に続いて、他のセラピストも同じ台詞を響かせた。

 エレナとレナも飲む手を止め、入口の方に視線を向ける。


「わぁ〜!ここが女風バー!?初めてきたぁ!」

 

 店内に入って来たのは金髪にミニスカート、手にはブランドバッグにラメの入った高いヒール姿の派手なキャバ嬢と思われる女性だった。

 女風と謳っていてもバーだし、やはり夜系の女性客だって多少なりともいるだろう。気にせずシンと九十九の会話に戻ろうとしたレナはその女性に続いて入ってきた人物を見て視線が止まった。ダークスーツ姿のツカサだ。

 店長はツカサと同伴者である派手な女性をパーテーション越しの席に案内した。丁度シンと九十九の真後ろにある席で、確かそこはソファ席だったはず。

 あのパーテーションの向こうにツカサがいる…それだけでレナな神経はパーテーションの向こう側に集中してしまいがちで、すぐ目の前にいるシンと九十九の会話が遠く聞こえた。


「ツカサっちは何飲む?アヤは強めのお酒がいいなぁ〜!」

「ええっ〜!何で飲まないの?アヤばっか飲んでるじゃん!」

「シャンパン入れるから飲もうよ〜」


 パーテーションの向こうから甘ったるく、甲高いアヤという客の声だけが聞こえてきた。ツカサはアヤの言葉に何か答えているかもしれかいが、ツカサは声が大きい方ではないから、ましてやパーテーション越しだとツカサの声は全く聞こえない。

 アヤの喋り声や笑い声が響くたび、関係無いはずなのに、耳障りなことも手伝って鼓膜が震え、居た堪れない気持ちが込み上げてくる。


「―ってか、九十九さんにとってはそれも『壮大な前戯』でしょ?!ズルいですよ!あの一言で全部持って行ってぇ〜!」


 シンの明るい笑い声で我に帰った。

 シンはアヤの耳障りな声に負けないくらい…というより気にする様子も見せず、エレナが注文した追加ドリンクを作りながら九十九に突っ込みを入れ、エレナはそんな2人の会話を楽しんでいて。レナは思考が追いつかず3人の様子を見ているしかなかった。


「…あの、ちょっとお手洗いに行ってきます」


 誰に伝えるわけでもなく、レナは席を立ちトイレに入って行った。

 ドアを閉めると、肩の力が抜けた。

 ようやくツカサが出勤してきたというのに。同伴しているだけなのに。しかも同伴しているのがあんな品の無さそうな女性だなんて…考えるほど気持ちが複雑になっていく。

 分かっている。ツカサは指名を受けて仕事をしているだけ。分かっているはずなのに…。

 こんな感情が湧いてくるなんて。これは嫉妬なのだろうか。

 折角エレナが連れて来てくれたのに。シンや九十九が楽しませてくれているのに。

 マイナスな感情に飲み込まれそうで、気持ちの整理がつかない。笑顔が作れない。いつの間にこんなに器の小さい人間になってしまったのだろう。

 深い溜息をついた時、誰かがドアをノックしてきた。


「レナちゃん?」


 エレナだ。


「大丈夫?!」

「…大丈夫です。すぐ出ますから」


 今の気持ちをエレナに気付かれないよう、明るい声で答えた。


「エレナさんごめんなさい。ちょっと気持ち悪くなっちゃって…お酒が合わなかったかな」


 ドアを開けると心配そうな面持ちのエレナが壁にもたれていた。


「レナちゃんてさ、嘘つくの下手だよね?」

「嘘って…」

「レナちゃん、お酒一杯も飲んでないじゃない?食当たりって感じでもないし。あの被り客の事でしょ?」


 図星だ。やはりエレナに誤魔化しは通用しない。

 トイレから出ると、あのアヤという客は相変わらず甲高い声で笑いながら酒を流し込むように飲んでいる様子がチラりと見えた。ツカサはそんなアヤを止めるような仕草をしている様に見えた。

 エレナは席に戻らず「ちょっとタバコタイム〜」とシンと九十九に伝え、レナを手を引いて入口を出たすぐ横にある小さな喫煙所にやって来た。


「分かるよ。あの客さっきからうるさいし、ウザいよね。私もさ…被り客と鉢合わせじゃないけど、シンの口コミを見てモヤモヤした事があったんだ」

「口コミで?」

「そう。シンが人気のセラピなのは分かってるし、彼ならランカーになって当然だと思う。シンはセラピストであって恋人ではない。そして私は、シンの客…それはしかっかりと弁えているつもりなんだけど、口コミで高級レストランに行ったとか、旅行に行ってきたぁ〜っていうのを見ると、ちゃんと弁えている筈の気持ちが油断するとゴチャゴチャになっちゃったりしてさ。数時間のデートしか入れられない自分は細客なんだって思い知らされるの」

「細客だなんて…」

「シンにも以前言われた。俺は細客とか太客とか、そんなくだらない物差しでお客さんを選んだりしていない!って。

勿論シンの事は信じているし、シンと私の間にはしっかりとした信頼関係があるって思ってるから線引きだって出来る。でも…自分の今の経済力じゃどうにも出来ない事をやっている被りの口コミを見たりすると居た堪れない気持ちになるのよ」

「エレナさんは、そんな時どうやって気持ちを保っていたんですか?」

「口コミを気にしない!あと忘れる! それも出来なければ、とことん働いてエステに行ったり、旅行に出たり…とにかく自分の時間を満喫する。それが私なりの気持ちのコントロール法。

女風は楽しむ為に利用しているんだから。嫌な思いをしないためには、いかに自分をしっかり持つ…まぁ、自分軸が大事だね」


 エレナは話終えると吸っていたタバコを消し、新たなタバコに火を付けた。

 エレナの聞いている内、レナは何だかさっきまでささくれ立っていた気持ちが落ち着いていくのを感じた。そしてエレナは何て大人で器が大きいのだろうと感心してしまう。…とはいえ、エレナも気持ちの面で今のレナと同じかそれ以上に不安定な時があっただろうし、話してくれた内容がこうして冷静に話せるようになるまで様々な思いに悩み葛藤してきたに違いない。



「もぉー!!マジムカつく!何で延長出来ないの?!アヤ同伴してるんだよ!ツカサっちを予約してるんだよっ!!」


 店内からアヤの叫びにも似た怒鳴り声が喫煙所まで聞こえてきた。

 表情は見えないが、声色から察してかなり酔っている様子だ。

 エレナは吸っていたタバコを消すと、レナと共に恐る恐る店内を覗き見た。

店内は数人のセラピストとお客の女性たちが、怒鳴り声のするアヤの方を気にしつつもお酒の手を止めずに耳と神経をアヤに向けているようだ。

 アヤの声と怒りの感情の矛先は店長に向けられており、どうやら延長したいアヤの希望が叶えられず激怒し、店長はひたすらアヤに頭を下げながら宥めようと必死な様子だった。


「誠に申し訳ありません。他にツカサさんご指名のお客様もいらっしゃるので、ツカサさんの延長は無理でして。他のセラピストを付ける形でしたら延長は可能ですが…」

「はぁ?!他の指名客なんか知らないし!アヤはツカサっち以外は興味ないし!」

「…アヤさん。アヤさんのお気持ちは嬉しいのですが、他の方の迷惑にもなるので、これ以上は」

「だったら今ここで、ツカサっちの予約を改めて入れるよ!ツカサっち、今から運営に延長するって伝えてよ!それなら文句ないでしょ。金ならあるし!」


 そう言い放つと、アヤはブランドバッグの中から財布を取り出し、数枚の一万円札をツカサに差し出した。


「受け取ってよ、ツカサっち」

「出来ません」

「受け取ってよ!」

「アヤさんっ!!」


 それまで冷静だったツカサが初めて声を荒げ、店内が凍りついたように静まり返った。


「このお金は貴女ご自身の為に使って下さい」

「は?何言ってんの?!」

「アヤさん、最近しっかり眠れていないでしょう。このところ連勤していると言っていましたよね? 

大変だと思います。自分じゃない自分を演じて、勤務時間中、飲みたくないお酒を笑顔で我慢して飲んで、酔っ払いの相手もして…お金のために仕方ないとはいえ、ボロボロな状態なのに、こうして予約を頂くのは本来なら感謝すべきでしょうが正直僕は複雑です。

僕はアヤさんには元気でいて欲しいし、笑顔と元気に溢れたアヤさんに逢いたい」


 ツカサの嘘偽りない言葉に、それまでアヤに漂っていたピリピリした空気が薄らいでいくのを感じた。

 ツカサは俯くアヤの手に無造作に握られた数万円札をアヤの手から離し、お札を軽く揃え、改めてアヤの手の平に乗せた。


「このお金は貴女が頑張った証拠です。使い道は貴女の自由だと思います。でも、このお金は今ここで使うのではなく、まず、貴女が元気になる為に使ってください。僕からのお願いです」


 ツカサはお札が乗ったアヤの手の平を包む様に自らの手を添え、真っ直ぐアヤだけを見ていた。

 アヤはゆっくり頷くと咳を切ったようにか涙が溢れ、ツカサの肩に倒れるように顔を埋め泣き出してしまった。ツカサはに人目も憚らず泣くアヤの身体をそっと抱き締め、ゆっくり席に座らせた。


「エレナさん、おタバコタイム終わりました?シン君が待ちくたびれてはるんで、そろそろ帰ってあげてくださいよぉ〜」


 入り口のドアを開けると九十九が待ちかねたようにエレナとレナの前にやってきた。

 店内は先程の空気など無かったようにセラピストやお客たちが各々の会話を楽しみ、グラスを交えている。

 席に戻る途中、チラッとツカサの席に目をやった。

 席には店長と代表のジョニー岡田がやって来ていて、ツカサと何やら相談をしている様子だ。


「ジョニーさん、雅斗店長、お騒がせしました。お詫びと言ってはなんですが、シャンパンを一本お願いします。僕から皆さんへプレゼントさせて下さい」

「ツカサっち…そんな事…」


 アヤが泣き腫らした顔でツカサを見た。


「いいんだよ。アヤさんは自分の分を会計して。ジョニーさんがアナウンスするタイミングで店を出ましょう。下までお見送りしますから」


「今夜女風バーに初登場!Cielのレジェンド・ツカサさんから皆さんにビッグなプレゼントシャンパンをいただきましたぁ〜!!」


 店内に派手なミュージックが流され、ツカサからのサプライズプレゼントシャンパンというだけでもバー内はテンションが一気に上がった。


「それでは皆さんご一緒に〜!3・2・1! ヨイショ〜!!」


 ジョニー岡田の声に合わせて、バーにいるセラピストとお客たちが声を合わせカウントをし、シャンパンが抜栓されると、拍手と歓声が飛び交った。


「へぇ〜!これがシャンパン!!俺初めて飲みますよっ!ラッキー!」


 興奮状態のシンが声を上げた。


「もぉ〜、悪かったわね!シャンパンやドンペリのあるお店でデート出来なくて」


 エレナが頬をわざと膨らませてシンを睨んだ。


「ち、違いますよ!僕はここでエレナさんとシャンパンを飲めるのが嬉しいっていう意味でラッキーって言っただけで…」

「シン君、下手な言い訳せんでええから、みんなで乾杯しましょ!」


 タジタジなシンにツッコミを入れ、九十九はエレナとレナの笑いを取るとグラスを交え、乾杯をした。


「乾杯〜!!」



「レナさん、お待たせしました。ツカサさんが戻ったらそのままレナさんの席に来ますんで」


 丁度シャンパンを飲み終える頃、店長が足早にやってきた。


「戻ったら?」

「はい、今ツカサさん、先程のお客さんを見送りに行っているんです」


 そういえば、シャンパンと会話に夢中で気付かなかったが、いつの間にかツカサは同伴してきたアヤを連れ、バーを出ていた。


「じゃあ、店長、折角なんでレナちゃんとツカサさん2人だけの席を用意してもらう事って出来ます?」


 エレナがいきなり店長に提案した。


「はい、出来ますよ」

「え?!いいですよ。私はここで…」

「レナちゃん、折角だしゆっくり2人で話しなよ」

「は、はい…」


 半ば強引にエレナに説得され、レナは店の奥にある広めのソファ席に案内され、ツカサが戻ってくるのを待つ形になった。 エレナはというと、シンと九十九の3人で引き続き話に花が咲いている様子だ。


『ツカサさんと、話す…』


 頭の中で同じ言葉が繰り返された。

 話したい事は沢山ある。

 ずっと気がかりだった、DMの返事のこと。レナは何よりもその事が聞きたかった。


「レナさん、大変お待たせしました」


 先ほどのお客の見送りから戻ってきたツカサがレナの前にやって来た。

 久しぶりに見るツカサの姿は落ち着いた雰囲気は相変わらずで、独特の色気が漂い、つい視線が奪われてしまう。


「ご無沙汰しています」

「お隣り、いいですか?」

「は、はい。どうぞ」


 言葉を交わすのが久しぶり過ぎて、変に緊張してしまう。

 思い返してみたら、ツカサと最後に話したのは、前回の予約した時以来だ。

 久しぶりにツカサに逢える事が嬉しくて、先入りしたホテルの部屋でドキドキしながらツカサを待っていたが、時間を過ぎてもツカサは現れず、DMにも遅刻の連絡は入っておらず、時間だけが虚しく過ぎていった。居た堪れず、『Ciel』の事務局に連絡を入れ、それから暫くしてようやくツカサがホテルへ到着した。 その時のツカサは走ってきたせいか汗だくで、レナに遅刻してしまった事をひたすら謝ってきた。

 その時は事務局が便宜をはかってくれたが、レナは訪問介護の木嶋に母・恵子のことを任せていることもあり、性感などはせず以前から気になっていたツカサの過去の話をツカサ自身から聞かせてもらい、レナにとっては知らないツカサの一面を知ることが出来、貴重な時間となった。


「こうして一緒に座って話すのも、何だか久しぶりですね」


 ふとツカサが口を開いた。

 こうして隣りにツカサがいて、ただ隣りに座っているだけなのに、何だか懐かしく安心感を覚える。以前月一で逢っていた時は隣りにツカサがいることが嬉しかった。そして隣りにいられるだけで幸せを感じられた。だからこうして座る形とはいえ、また肩を並べられる。それが何より嬉しいはずだが、レナには気がかりな事があった。


「レナさん」


 不意にツカサがレナの名前を呼んだ。


「DMをいただいていたのに、返せなくてすみませんでした」


 まるでレナの心情を見抜いていたかのように、ツカサの口からDMの事が出た。


「…いいえ、ツカサさん、お忙しいみたいだから」

「言い訳になってしまいますが、返事を書きたいとずっと思ってはいたんです。でも、僕はレナさんからずっとお母さんの状態を聞いていたので、今回レナさんが決心された事に対して、どう言葉をかけて良いのか分からなくて…考えている内に時間だけが過ぎてしまいました」

「そうだったんですね」


 嬉しかった。ランカーになったら指名客も増え、同時にDMのやり取りだって多くなる。だから、自分が送ったDMは返事を貰いたいから書いた訳ではなく、考えに考え抜いて出した結論を伝えたかっただけだ。

 いつもなら送ったDMに時間はかかっても何かしら返事をくれるツカサだから、今回も期待してしまっていた。信じてはいたのに、返事が無いというだけで心の中にぽっかりと穴が空いたような空虚感に苛まれ、卑屈になってしまっていた。


「…でも、考えてくれていただけ嬉しいです。私は母の介護が本格化してからなかなかツカサさんに予約を入れられないし、女風を利用する前に生活するのに精一杯だったから。だから、ツカサさんの中で私の存在は忘れられているんじゃないかって、不安になったこともあったんです。だから、返事を貰えないのは、当然だと自分を納得させていました」

「レナさん、僕はいただいたDMに関しては、例え内容が予約打診だろうと雑談だろうと、ずっと逢えていない方であっても、必ず返すようにしています。

送って下さった方の中には、まだ女風デビューをしていなくて、右も左も分からないまま、僕にDMを送ってくきてくれた方や、以前入ったセラピストが最悪で、酷いことをされたという内容だったりと様々です。まだ顔も分からない方からのDMでも、僕に向けて発してくれた言葉に出来る限り寄り添いたいと思っています」


 相変わらずツカサは真面目だ。

 言葉の一言一言にしても、しっかり重みを噛み締めているようで。グラスを持ちながらも時折レナに視線を向け、片方の空いた手はレナの肩に添えられている。近過ぎず、遠過ぎない、心地良い距離感をツカサは作ってくれていた。


「レナさん、お母さんの認知症はかなり進んでしまっているんですか?」

「はい。最近は会話も無くて、高齢も手伝ってか以前のように徘徊や暴言は無くなりましたが、あれだけ艶があった肌や手首が白く、細くなっていくのを日々目の当たりにすると辛いと思う時もあります。老いていかない人間なんていないのは分かってるのに…」


 話しながら泣きそうになった。

 ずっと泣かないようにしてきたが、隣りにいるのがツカサだからか、気持ちが安堵し、涙腺が緩くなってしまった。泣かないように、泣きそうなのを悟られないように、無駄に鞄の中を漁る仕草をした。その時、ツカサの手がそっとレナの頭部を包み、それまでグラスを持っていたもう片方の手をレナの上半身部分に腕ごと回し、レナの上体をしっかりと抱きしめてきた。 

 服越しに伝わるツカサの温もりに混じって、以前から着けている香水が鼻腔をくすぐり、やがてレナの全身を包むように香りが躍る。

 ゆっくりとレナの髪を撫でるツカサの手が心地よくて、堪えていた涙が自然に溢れ、頬を伝えった。そんなレナをツカサは何も言わずただ抱き締め、周りの視界から守るようなか、かといって不自然ではない体制をとってくれた。

 声を殺して泣いた。泣くまいとしていたが、堰を切った様に涙が次から次へと流れ出し、レナの頬を、ツカサの袖を濡らしていく。

 パーティション越しにエレナ、シン、九十九の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

 エレナは、今レナがこうしてツカサに身体を預け泣いているなんて想像しているだろうか。エレナ達の笑い声が遠くに聞こえる。

 ツカサは何も言わず、ただ黙ってレナの髪を撫でながら片方の手をしっかり握り、時折視線を向けてくれた。

 話したい事は山ほどあったはずなのに、今は言葉なんていらない。こうして隣りにツカサがいて、レナの言葉にならない感情を、想いを全身で受け止めてくれる事が何より嬉しかった。



「レナさん失礼します。ラストオーダーのお時間ですが、追加のお飲み物はいかがでしょう?」


 思わずツカサの前で泣いてしまったがツカサは迷惑な表情一つ見せず、ただレナの涙が止まるまで温もりをくれた。 ようやく涙が乾き、心から安堵している時、店長の雅斗がレナの席にやって来て、閉店時間が近いことを告げた。


「私は、今ある分で大丈夫です。ツカサさんは?」

「僕も大丈夫です」


 レナのグラスには飲みかけのジンジャエール。ツカサのグラスにはノンアルコールの緑茶がそれぞれ残っていた。

 閉店時間間際の時間になっていたなんて。エレナはどうしているだろうか。

 レナはツカサに許可を取り、トイレに行くがてらエレナが座っているカウンター席を覗き見てみたが、そこにいるはずのエレナがいない。


「あれ?エレナさんは?」

「エレナさんなら、少し前にシンさんと出て行きましたよ。ちなみにレナさんの分のお支払いもエレナさんから頂いていますので」


 雅斗店長の言葉に最初 エレナが女風バーに来た時に言っていた言葉を思い出した。


『今回の会計は全部私でお願いします』


 エレナの冗談だと思っていたのに。まさか本当にレナの分まで。

 席に戻り、鞄の中に仕舞いっぱなしだったスマホを見てみるとエレナからLINEが入っていた。


『レナちゃんへ

 今日は女風バーに付き合ってくれてありがとう!

 急遽シン君と『お泊まりコース』(とはいえ、ホテル飲みコースだけどね(笑))の予約を入れたので、お先に失礼しま〜す! 


ツカサさんとは話せたかな?

後日報告すること!!


じゃ!お疲れ〜!』


 エレナらしい文面にレナは笑ってしまった。



「レナさん、良かったら、新宿駅まで送りますよ」

「え?いいんですか?」

「ええ。今日はこの後は無いので、レナさんさえ良ければ送らせて下さい」


 予定外のプチデートをする事になってしまったが、ツカサと夜の街を歩けるのは何だか新鮮な気持ちだ。

 新宿の夜は様々な人が行き交っていて、この時間 女風バーがあるビルの周辺には飲食店の他、キャバクラやホストクラブなど様々なジャンルの店舗が軒を連ねているだけあり、その類の客やキャスト、酔っぱらいが多い。

ツカサはレナを気遣ってか、人通りの多い道を避けながら裏通りの道を選んで歩いてくれた。


「駅まで少し遠回りになってしまいますが…」


 申し訳なさそうに口にするツカサだが、人混みがあまり得意で無いレナにとっては有り難い気遣いだ。

 肩を並べて歩いている時、ツカサは当然の様にレナの手を握り、指を絡ませてきた。そんな動作を自然としてくれることにレナはこの上無い幸せを感じていた。


「レナさんは今月末にはお店を退店されるんですよね?」

「はい、そうです」

「長野かぁ…またこちらに戻ってくる予定はありますか?」


 また東京へ。

 何度か考えていた。

 母状態が安定、もしくは介護の全てが終わった時…また東京へ戻ってくるという選択肢はある。しかし、レナ…美奈子は『微笑みの郷』に母を入居させ、向こうに美奈子の住居、そして仕事も決まっている。 

介護が終わり、いつか母を見送ったら美奈子は独りになるが、自由にはなれる。しかし、だからといって東京に戻りたいという気持ちになるだろうか。

 先のことは美奈子自身にも分からなかった。分かるのは、今の時点では東京に戻るつもりは無いことだけだ。


「まだ、先のことは考えていません。まぁ、落ち着いたら、ちょっとずつ考えていこうかと思っています」


 これが今レナが答えられる精一杯の答えだ。

 ツカサはただ静かに「そうですか」とだけ言葉を発し、会話は途切れた。落胆したのだろうかと思ったが、ツカサの表情はそうには見えず、ただ前を向いて歩いていた。

 言葉の代わりに、レナに絡めたツカサの指が少し強めにレナのそれに絡んできた。レナはツカサの温もりに委ねるように身体を寄せ、もたれるように歩いた。

 今はただ、ツカサの存在を全身で感じながら歩いていたかった。

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