つづれ織り

 月末。ついにレナが吉原『エデン』を退店する日がやってきた。

 退店告知をしてから今日までレナが出勤する日は完売御礼となり、その殆どを埋めてけれたのはレナの馴染み客だった。

退店日の今日は出勤するとすぐに着替え、スタッフが事前にセットしておいてくれた部屋に入ってすぐのスタートとなり、途中1時間の昼休憩、その後は受付終了時間まで目の回るような忙しさだった。 

レナとしての最後の日に来てくれたお客一人一人に感謝を込めて接客し、濃厚な時間を過ごしていると、いつもなら長い時間もあっという間に過ぎてしまった。


「レナちゃん、お店を辞めても俺のこと忘れないでね!」

「レナさんのおかげで仕事頑張れました。本当にありがとうございます!今日までお疲れ様でした!!」

「レナ様、ここを辞められてもレナ様は拙者の心にいつまでも居るであります!レナ様に幸あれ!」


 今日来てくれたお客からは思い出話の他、沢山の御礼の言葉を貰った。

あの常連の佐野も何とか予約を取ることが出来たので、今日までの感謝を込めいつも以上に丁寧に、濃厚に、佐野を含め今日来てくれたそお客との時間を過ごした。



 受付終了時間。最後のお客の見送りを終えてロッカールームに戻ってきたレナを店長、スタッフ、先輩のエレナや同僚たちが拍手で迎えてくれた。

 まさかのサプライズに、レナは状況が飲み込めず言葉に迷ってしまったが、エレナから「ここにいる皆から」と花束を手渡された時、頬を涙が伝った。


「今日まで、本当にお世話になりました。ありがとうございました!!」


 何を言えばいいかまとまらなかったが、やはりここにいる店長やスタッフ、キャストの皆んなには感謝の言葉しか思いつかなかった。


「レナさん、お疲れ様でした!」

「レナさん、今日まで本当にお疲れ様!どうかお元気で」

「レナちゃん、明日から寂しくなるよぉ〜。元気でね!」


 店長をはじめ、スタッフ、キャストから言葉をかけられ、レナは一人一人に丁寧に頭を下げながら、精一杯の御礼の言葉をかけた。

 お客から貰ったプレゼント、お店から貰った花束…両手で抱えるのが大変なので流石に今日はタクシーで帰ることにした。


「レナちゃん、長野に行っても元気でね。たまにはLINEしてね」


 タクシーに乗る間際、エレナが店の外まで見送りに出てきてくれた。


「エレナさん、本当にお世話になりました。色々話を聞いてくれて、女風を教えてくれて…感謝しています。エレナさんもどうぞお元気で」


タクシーは見慣れた吉原の街をゆっくり走り出した。

OLを辞め、ほぼ毎日歩いていた道。

電飾が眩しい店舗もあれば、反対に派手な電飾はせず看板だけはっきりさせ、ボーイが一生懸命呼び込みをしている店舗。ついこの間までキャストやスタッフ、お客の出入りがあったのに、経営難なのか突然シャッターが閉められ、閉店となってしまった店舗…車から見る景色を流れ見ながら、レナは今日までの日々を思い返しながら、長いため息をついた。


『終わったんだ…今日でレナとしての時間が…』


 今まで何度もため息をついてきたが、今日ようやく安渡のため息をつくことが出来た。

 それと同時に、レナの思考から、美奈子の思考に切り替わり、真っ直ぐ思い浮かぶのは母・恵子の姿だった。


 今朝の出勤連絡とおはようツイートをして以来、ずっと弄れずにいたスマホをやっと弄れた。

 予想していた通り、『エデン』のスタッフやキャストからのお疲れ様LINEを始め、お客からのLINE、Twitterの DMが何件も入っており、その中にはツカサからのDMもあった。


『レナさん、今日が吉原でのお仕事が最後でしたよね。今日まで大変お疲れ様でした。東京を離れても、笑顔が素敵なレナさんでいて下さい』


 エレナの計らいで女風バーで久しぶりにツカサと逢え、僅かな時間でも話すことが出来たがそれだけでなく、帰り道の新宿駅までひ肩を並べて歩くことが出来た。レナにとって十分過ぎるくらい幸せな時間だった。

 特にお別れの言葉を言わず、いつもと変わらず改札口で別れた。ただレナはそれで満足だった。東京を離れるとはいえ、今日が最後と湿っぽくなるより、いつも変わらない形で別れた方が気持ちも引きづらず、心地良くツカサに手を振れるから。

 もしレナが別れ際にまた泣いてしまったら、きっとツカサは困惑し迷惑をかけてしまうだろう。迷惑をかけて印象に残るより、心地よい形でツカサの記憶に残る存在になりたかった。

ツカサからのDMにどう返事をしようか…考えている内、久しぶりにツカサの在籍店『Ciel』のホームページを覗いてみた。

 店内ランキングではツカサが一位を飾り、二位がこの前の女風バーで初めて実物を見たエレナの推し、シンだ。


『そうかぁ。ツカサさん、一位になったんだ…』


 初めて逢った時、レナの前に現れた大人の色気を纏い、ミステリアスな雰囲気が漂うセラピスト・ツカサがランカーどころか一位になるなんて誰が予想しただろう。レナでさえ最初は想像出来なかったが、月一程度ではあったがツカサは逢う度に色気が増し、言葉では言い表せないくらいのオーラが少しずつ滲み出ていた。きっとそれはツカサ自身がセラピストとして意識しているのもあるだろうが、指名しているレナやその他の女性客たちとの関わり合いの中で育まれたものも多くあるに違いない。

 もし、母の介護も無く、長野に引っ越す必要もない状況だったら、今頃自分とツカサの関係性はどうなっていたのだろう。セラピストとユーザー…その関係性は変わらないものの、お互いの気持ちが少しずつ歩み寄り、良き友であり、ライバルのような存在になれていただろうか。単なる想像でしかないのに、何故か真剣に考えてしまった。

 ふとホームページ画面に視線を戻すと、【新規キャンペーン】の欄に【セラピスト通話コース開設のお知らせ】と書いてある。


『以前よりお客様からご要望を多くいただいていました【通話コース】がついにスタートいたします!

記念すべき第一弾目の通話コース可能なセラピストは以下の3名。


○シン

○ツカサ

○ユメ


セラピストといきなり会うのは…と思われている方、是非一度通話コースでセラピストと会話しながら雰囲気を感じ取ってみてはいかがでしょう?

通話コースは30分コース、60分コースがございます。

Skype、LINEのどちらかをお選びください。

ご予約は24時間受付中!』


と書いてあった。

 通話コース…一覧にツカサの名前があった。もし予約出来たら、ツカサと通話が出来る。冷静になっていたレナの心臓がドクンと跳ねた。

 明日には長野に出発する。ツカサとはもう逢えないかもしれない。もう悔いは無い。ツカサには十分過ぎるくらい幸せをもらった。でも、最後に…ほんの僅かな時間でいい。ツカサの声を聞きながら、東京を去りたい。

 頭の中での言い分と同時に、スマホをいじる指は【予約フォーム】をタップし、以前月一でツカサを予約していた時に見慣れた画面に必要な情報を入力していく。


ご予約日:○月○日(月)

ご希望のセラピスト:ツカサ

ご希望の時刻 12:30

ご希望コース:通話コース30分

お名前:レナ

メールアドレス:△△△@×××.jp

電話番号:090-○○○○-××××

備考:LINE電話希望


 女風デビューする際、送信のボタンをタップするかを迷ったのが今は懐かしい。だが、今は何の迷いも無く送信ボタンを押せる。

 今回指定した時間は12:30から30分。丁度長野行きの新幹線が出発する時間だ。東京を離れるまでの僅かな時間、ツカサと電話で話ながら、寂しさを紛らわせたかった。




 鞄と上着を無造作に置き、ソファに身を投げ出すとツカサは天井を見つめながら長い溜息をついた。

 今日一日の疲れが一気に襲ってきたものの、ツカサには心地良い疲労感だ。

 ゆっくりシャワーを浴びようかと身体を起こした時、『ツカサ用』のスマホの通知音が鳴った。事務局の松田からLINEだ。


『ツカサさん、お疲れ様です。夜分遅くに申し訳ありません。

本日事務局の予約フォームに以下の予約が入りましたが、時間的に受付可能でしょうか?

確認しましたら、受付の可否の連絡をお願いします。


ご予約日:○月○日(月)

ご希望のセラピスト:ツカサ

ご希望の時刻 12:30

ご希望コース:通話コース30分

お名前:レナ

メールアドレス:△△△@×××.jp

電話番号:090-○○○○-××××

備考:LINE電話希望』


「…レナさん。これって、明日…」




 お客から貰ったいくつかのプレゼントを一つにまとめると、トランクに入れてもまだ余裕があった。

 余分なもの、不要なものを一気に整理し、多数の段ボールだらけの部屋は、これでも少数に纏められた方だ。

 明日の朝一には引越し業者が来て、新居に持って行く家具や部屋にある段ボールを一斉に運搬してもらう。だから明日、美奈子は私物と今日お客や『エデン』のスタッフやキャストがくれたプレゼントを入れたトランクだけで長野に向かえる。

 かつて母が使っていた部屋は物が無くなり、だだっ広い空間だけがそこにあった。

 大の字になって天井を見つめてみる。今まで気付かなかったが、母の部屋の天井はこんなに広かったなんて。

 独りで無意識の中を泳いでいる時、美奈子のスマホの通知音が鳴った。

 画面を見ると、ツカサからのDMだ。


「…ツカサさん…」


 さっき事務局の予約フォームに送った『通話コース』に関してのことだろうか。

 今回希望した時間は平日の昼間…本来ならツカサの稼働時間は夕方くらいからだから、いくら以前月一で指名していた客でも、イレギュラーな予約だし、ツカサは断るかもしれなかった。


『レナさん、事務局に問い合わせ・ご予約ありがとうございます。明日の通話コース、お受けします。明日は長野に出発される日ですよね? もしかしてお電話する時間は既に長野に着いているのでしょうか。

とはいえ、レナさんと電話で話すのは初めてなので、変に緊張してしまいますが、どうぞよろしくお願いします。

ツカサ』


 驚いた。イレギュラーな予約時間なのに、受けて貰えるだなんて。

 しばらくして、事務局から通話コースに関する案内と料金についての詳細、そして今回LINE通話を希望したので、ツカサのLINEのQRコードが送られてきた。

 改めて届いたQRコードからLINEページを開いてみると『Ciel ツカサ』と表示され、『友だち追加』を押すと『トーク』の欄が表示された。

 事務局が管理しているLINEアカウントだろうか。それともツカサ本人のだろうか。

 とりあえず、スタンプだけ送ってみようかと思ったが、いきなりスタンプだけというのは失礼な気がして、「ツカサさん、レナです。よろしくお願いします」とだけ打って送ってみた。

 事務局が管理しているアカウントなら、返事も簡易的だろうと思ったら、すぐに既読が付き、しばらくして返事が送られてきた。


『レナさん。ツカサです。LINEありがとうございます!

明日の通話が今から楽しみです。ちなみに、TwitterのDMでも送りましたが、明日の通話コースの時間は長野にいるのでしょうか?』


 事務局の人間が代理で送っているのではなく、ツカサ本人だ。

 今までTwitterのDMでやり取りをし、それはそれで不自由は無かったが、LINEは既読も分かるし、やり取りもスムーズだ。そして何よりツカサの存在がより近くになったように感じる。


『ツカサさん、返事ありがとうございます。 急な予約だったのに受けていただきありがとうございます!

明日私は13:05東京駅発の新幹線で長野に出発します。

東京にいられる僅かな時間、ツカサさんと話せたら、と思いまして』


 こうしてLINEを送っていると、セラピストとユーザーなのに、そんな関係性を忘れてしまいそうだ。

既読が着くということはツカサはリアルタイムでこのメッセージを読んでいて、返事をくれる。そんな現実に美奈子の胸は高鳴った。


『分かりました。新幹線が出るまでの間、お話しが出来ますね』


 顔が見えないから想像することしか出来ないが、文章からしてツカサは嬉しそうだ。

 イレギュラーな予約だから、困らせてしまったのではと心配になったが。どうやらそうではないらしい。

 ツカサの返事に仔犬のスタンプを送ってスマホから視線を離すと、急に眠気に襲われ瞼が重い。

 それまで忘れていた疲労感が一気に押し寄せ、動く気力も無く、美奈子は意識を手放すとそのまま睡眠を貪った。



 久し振りにぐっすり眠れたせいか、朝の目覚めは快適でとても清々しい気分だ。

 引越し屋のトラックが来るのは10時。それまで時間があるものの、段ボールの整理や部屋の掃除も全て終わってしまっていて家でやる事はもう無かった。

 ずっと家にいるのも億劫なので、散歩でもしてみようかと外に出た。


「あら美奈子ちゃん!」


 丁度ゴミ出しをしていた近所の主婦3人から声をかけられた。

 今長野のグループホーム『微笑みの郷』に居る母は、かつて近所の主婦3人らと毎日顔を合わせては彼女たちと話に花を咲かせていた姿が今は懐かしい。

認知症の症状が徐々に進行し、ちょっと目を離すと徘徊を始めてしまった時、近所の主婦3人は徘徊する母を見つけると、帰るよう促したり、不機嫌な時は宥めたり、気分が落ち着くまで保護してくれた。


「お母さんはその後元気?」

「今日から美奈子ちゃんも長野に行くんでしょ?寂しくなるわぁ〜」

「向こうに行っても、時々は東京に遊びに来てね」


 自分の親が認知症になり、周りに迷惑をかけるのではと最初は心配だった。しかし彼女たちは自分達の両親や親族の介護をそれぞれ経験していて「困った時はお互い様よ」と言ってくれた。

 長野で母に再会したら、彼女たちの話をしよう。

 

 引越しのトラックは時間通りに来てくれた。

 母の物はグループホーム入居のタイミングに合わせて殆ど送っており、あと持って行く物といえば美奈子の私物や僅かな家具くらいだ。

 トラックに積む作業はほぼ1時間くらいで終わった。

 それまで慣れ親しんだ母と自分の家をいざ離れると一気に寂しさが込み上げてくる。

 しかし、泣いても何も変わらない。新しい土地で又新しい思い出を作っていくたのめ通過点…そう思えば前を向ける。

 物が無くなり広くなった部屋を一通り見て回り、玄関でもう一度家の中を見つめた。


『今日まで、ありがとう』


 心の中で呟き、意を決して外に出た。どこまでも澄んだ青空が広がり、美奈子は深呼吸をすると、家のドアを閉め、ゆっくりと歩き出した。



 平日とはいえ、東京駅は行き交う人々が多く、トランクと一緒に動くのは注意が必要で、油断したらぶつかってしまいそうになる。

 ツカサとの通話コース開始までまだ1時間はあり、予想していたより早めに東京駅に着けたから、まずグループホーム『微笑みの郷』に電話を入れた。


「川原恵子がお世話になっています。娘の川原美奈子です」

『美奈子さん、所長の落合です。今日から長野にいらっしゃるんですよね?』

「はい、引越し作業も家の最終チェックも終わって、今東京駅にいます」

『お疲れ様でした。お一人で色々大変でしたね。 お母様は今日お天気が凄く良いので職員と一緒にお散歩に出ていますよ。帰ってきたら美奈子さんからお電話があった事を伝えておきますね』


 落合の柔らかく、優しい声に美奈子はこの上無い安心感を覚えたと同時に、母が元気でいることが嬉しかった。

 母と離れてから美奈子は1日1回『微笑みの郷』に電話をし、電話口の職員や落合に母の様子を訊ねている。

 入居した当初は突然の環境の変化からか不機嫌になったり、泣きじゃくったりしていたらしいが、最近ではレクリエーションに参加すると両隣りの入居者に対しても穏やかに接したり、手芸やおりがみ等の手先を動かすレクリエーションには積極的に参加しているという。

 美奈子といた時は表情が乏しく、言葉を発することも殆ど無くなっていたから、落合や職員の話を最初は半信半疑で聞いていたが、職員や様々な入居者と接することで少しずつ表情に変化が起きたのかもしれない。 母の変化を聞く度、逢いたい気持ちが募っていった。

 落合との電話を終えると同時に、LINEの通知がきた。


『レナさん、この後の通話よろしくお願いします。今日はいよいよ長野に出発ですね。

忘れ物は無いですか?(笑) 電話出来るタイミングになったら又LINEします』


 ツカサからのLINEだ。

 長野行きの新幹線に乗る直前までツカサの声を聞いていたくて、ツカサの声で見送って欲しくて、イレギュラーな時間ではあったが、ツカサは受けてくれた。

 確か以前、ツカサは兼業セラピストで平日の昼間は会社員だと言っていたが、通話コースの30分だけ仕事を抜けるのだろうか。 とはいえ、自分も通話が出来そうな場所を探さなければ。

 少し早めに新幹線の改札口を通り、すぐ近くの待合室を覗いてみたが、出張や旅行客なのか人が多くて、電源付きのカウンターで通話したり、リモートワークをしている人はいるものの、この場所での電話をするのは気が引けてしまう。

 カフェラウンジやその他の待合室に行ってみたが、何処も人の目があり落ち着かない。

 仕方なく新幹線ホームに行くと、案外空いていて ここなら通話出来そうだ。

 時間は通話コース開始の30分前だ。


『ツカサさん。

レナです。今東京駅にいます。ようやく通話出来る場所を見つけました。中々見つけられませんでしたが、駅のホームの待合室は余り人がいないので、正に穴場です!今からドキドキです』


 ツカサにLINEを送り、少しすると既読が付いた。

 TwitterのDMと違って、既読が付くとその場で繋がっているような、それまであった距離感が一気に縮まったような気になる、


『レナさん、東京駅に着いたんですね。お疲れ様です。僕ももうすぐ落ち着きまので、時間通りに電話が出来ると思います』


 ツカサから返事を貰い、美奈子はマイク付きイヤホンを取り出すと通話に必要な準備をした。

 約束の時間まであと10分程。ようやく落ち着ける場所を見つけたが、今度は楽しみのせいか、気分がソワソワしてしまう。

 美奈子が乗る予定の新幹線が滑るようにホームに入ってきた。

 長野方面から乗ってきた乗客達が次々と車輌を降り一通り降り終わると、車内清掃の人達が次々と車内に入っていき、慣れた手つきで座席の向きを変え、カバーを変え、床に落ちたゴミを拾いながら手際よく掃除機をかけている。

 以前テレビで特集されていたのを見たことはあったが、実際にこんなにゆっくり見たのは初めてで、ついつい見入ってしまった。

 車内清掃が終わると同時のタイミングでLINEの通知が来た。


『レナさん、僕の方はそろそろスタンバイOKです。時間になりましたら僕の方から電話しますが、レナさんは大丈夫ですか?』


 ツカサからだ。

 まだ時間があると思っていたが意外に時間が過ぎるのが早く、気付いたらあと少しで通話開始時刻だ。


『ツカサさん、まだ時間があると思っていましたが、あっという間に時間が経ってしまいました!私の方はいつでも大丈夫です』


 スマホのディスプレイを見ると、あと数分で時間だ。

 もうすぐツカサから電話がかかってくる…そう思うと美奈子の心臓はトクトクと早鐘を打ち始める。

 1分、また1分が過ぎて、いよいよ約束の時間である。


 12:30となった。

 LINE電話の着信が入り、ディスプレイに『ツカサ』の名前が表示される。


「…も、もしもし」

『もしもし、レナさん。ツカサです』


 耳にツカサの優しく落ち着いた声が流れてくる。


「ツカサさん。今回はありがとうございます」

『いいえ、僕の方こそ出発前のお忙しい時に通話コースの予約を入れていただいて、嬉しかったです。

女風バーで久しぶりにお会いした時、ちゃんと見送りのような言葉をかけたかったのですが、何か、しんみりしてしまうので、どんな言葉をかけていいか分からなくて…』

「そんな、あの時は…私が泣いてしまって、迷惑をかけてしまって…本当にすみませんでした」


 何を話そうか考えてはいたが、ツカサの声を聞いた途端、話す内容を忘れてしまったが、一つだけ思い出した。


「そういえばツカサさん、今日は大丈夫だったんですか? 以前ツカサさんは平日は会社勤めをされている兼業セラピストだって言っていたから、平日の昼間は仕事じゃないんですか?」

『あぁ〜。はい、確かに僕は平日の夕方までは会社員ですが、実は今日は仮病を使って休みました』

「け、仮病?!大丈夫なんですか?そんな嘘をついて」

『ご心配ありがとうございます。大丈夫ですよ。僕、会社では信頼されていますし、欠員が出ても心配無い部署ですから』


 電話越しだが、ツカサのおどけた口調を聞くと、電話の向こうでドヤ顔をしているであろう表情を想像すると、思わず笑みが溢れた。


『レナさん、お母様はその後いかがですか?』


 月一の頻度で逢っていた時から、ツカサは逢う度に母・恵子の心配をしてくれていた。

 美奈子は毎回気にかけてくれるのが嬉しくて、嘘偽りなく母の様子を話していた。なので、先ほど長野のグループホーム『微笑みの郷』の所長 落合に電話した時に聞いた母の状況を話した。


『お母様としばらくの間とはいえ、離れるのはレナさんにとっては心苦しいと思います。でもお母様が以前より表情や何らかの良い変化がある報告は嬉しいですよね』

「はい、母はこっちにいる時は殆ど無表情で、会話もない状態でした。

私は…以前は母と会話するのが当たり前で…認知症が進行するまで、仕事以外の色々なことを話していました。でもそれがある日突然当たり前じゃなくなって…。

ツカサさん、実は私、あれだけ見慣れていたはずの母の笑顔が思い出せないんです。母は優しくて、笑顔が素敵な人なのに、ずっと一緒にいて、忘れるはずがないのに…母の笑顔が最近思い出せなくて。最悪、声も忘れそうなんです」


 言葉に出している内、美奈子の感情が込み上げ、涙混じりの声になってしまった。

 ただ母の状況を訊かれただけなのに、何故こんなことまで話してしまっているのだろう。ツカサと言葉を交わすのは、今日で最後かもしれないのに。


『僕はレナさんと出逢って、いつもお母様の話を聞く度、最初はこういう事情の人もいるんだと、どこか他人事でした。でも人間は平等に歳を取り、老いていく生き物です。自分の親に置き換えた時、いくら健康に気を付けていても、健康はいつか突然崩れてしまう時がある…そう思ったらレナさんのこと、他人事に思えなくなってきて。だから毎回逢う度にお母様の様子を訊いていたんです。同時に、何か出来ないかと、考えていました。

でも、僕はセラピストです。レナさんのお母様の面倒を診たり、認知症を治すことも出来ません』


 一言一言にツカサは噛み締めるように話していた。

 美奈子はツカサの言葉を聞きながら、いつも心配し、想像以上に思っていてくれたことを知った。


『僕がセラピストとして、今レナさんに出来ることがあるとすれば…』

「…えっ?」


 言葉が詰まってしまい、美奈子は自分の目を疑った。

 まさか、そんなはずは…


「…出来る限り、レナさんに寄り添うこと」


 夢でも見ているのだろうか。

 今までLINE電話で通話していたはずの相手、ツカサが目の前にいる。

 ツカサはLINE電話を切り、美奈子にいつもと変わらないあの優しい笑顔を向けてきた。


「…う…そ…」

「驚かしてしまってすみません。サプライズで見送りに来ちゃいました」


 美奈子は突然のことで思考が追いつず、それまで両耳にしていた通話用イヤホンを外すのが精一杯だった。 

 そんな美奈子の心情を知ってか知らずか、ツカサは「お隣り失礼します」といいながら美奈子の横に座ってきた。

 美奈子はさっきまでツカサに話していたことで目に溜まった涙を急いで拭った。


「ビックリしました。まさか見送りに来るなんて」

「すみません。どうしてもレナさんを見送りたくて。あと伝えたいこともあったから」

「伝えたいこと?」


 それにしても意外だった。ツカサは真面目な性格だから、セラピストとしてもしっかりルールを守り、そこから外れる事は絶対しない、むしろ嫌悪する人だと思っていた。でも今こうしてサプライズとはいえ、すぐ横にいるなんて。何だか不思議な気分だ。


「…ツカサさん、あの、さっきは何か愚痴というか泣き言みたいなことを言ってしまってごめんなさい。ちゃんと今までの感謝とか、ポジティブな事を伝えた方がいいって分かっているのに、ツカサさんの言葉で色々思っていたことが溢れてきて…」

「謝ることなんてないですよ。レナさんはずっとお母様の介護に、お仕事に一生懸命向き合ってきたじゃないですか。直接見てきた訳ではないですが、お逢いする度に話を聞いていて、レナさんがどれだけ大変なのかは良くわかります。さっきもお伝えしたように、僕はセラピストです。レナさんが今抱えているものを背負う事は難しいですが、レナさんの気持ちが少しでも軽くなるよう、理解して寄り添う事が出来る存在でありたいと、勝手ながら思っています」

「……」

「僕は突然雨が降ってきたら傘を差してあげられるような…レナさんが辛い時、泣きたい時にはいつでも頼ってもらえるようなセラピストでありたいと思っています」

「…ツカサさん」


 ふと手を見ると、いつの間にかツカサの手が美奈子のそれをそっと握っていた。

 真っ直ぐな視線で美奈子だけを見つめているツカサは、かつてこの業界の右も左も分からない新人だった頃、全てが手探りで、時折不器用な場面がある男性だったのに、いつの間にこんなに素敵なセラピストになったのか。

 こんな言葉を真っ直ぐ見つめられながら言われると、美奈子でなくても頼り、甘えたくなってしまう。きっと今のツカサなら、どんな女性の辛さや悲しみも受け止めてくれるだろう。


「とは言っても、僕は完璧じゃありません。レナさんから見てまだまだ不十分なところだってあると思います。だから…」


 ツカサの真剣な視線が美奈子に向けられ、心臓の鼓動が早くなると共に、頬が熱くなってくる。


「僕は東京でセラピストであり続けます。もし、レナさんの心が疲れてしまった時、いつでも頼って貰えるように」

「どうしてそこまで…」

「それは…」


 ツカサが言いかけた時、ホームに美奈子が乗る長野行き新幹線が車内清掃と点検を終え、乗車可能のアナウンスが流れた。

 新幹線の各乗車口が開くと美奈子と同じくらいのトランクや旅行用のボストンバッグ、サラリーマン風な人たちが次々に車内へと入って行く。

 待合室からその様子を見ていた美奈子は発車時刻が迫っていることを実感しつつ、再びツカサに視線を戻した。


「…あ、途中になってしまってすみません。色々話しちゃいましたが、僕はレナさんに感謝しているんです。それを伝えたくて」

「感謝?」

「覚えていますか? 僕たちが初めて逢った日」


 忘れるわけなどない。ツカサと初めて逢った日は今でもよく覚えている。

 池袋駅のいけふくろう像前で現れたツカサは落ち着いた雰囲気の中に大人の色気が漂っていた。 新人ということもあり、ぎこちない場面はあったものの、今の変わらない丁寧な口調と細やかな気遣い、そして一生懸命な姿勢にどこか惹かれるものがあった。


「よく覚えていますよ」

「この業界に入って右も左も分からなくて、自分の宣伝となる写メ日記やTwitterもどんな事を書いていいか分からないし、正直やっていけるか不安でした。でもレナさんと出逢って、月一で呼んでもらえて、自信に繋がりました。レナさんと出逢わかったら、きっとセラピストを辞めて、サラリーマンとして過去や自分の未熟さに蓋をしながらただ過ごしていたかもしれません」

「そんな…」


 再びホームに発車時刻を報せるアナウンスが流れ、ツカサは「荷物、車内の席までお持ちします」と言って席を立ち、美奈子のトランクを持った。


「ちょっと、ツカサさん、いいですよ」

「いいんです。見送りに来たんですから、これくらいさせてください」


 そう言いながらツカサは当然のように美奈子のトランクを席まで運んでくれた。

 もうすぐこの新幹線は長野に向け発車する。本当に東京を離れるのだと改めて実感が湧いてきた。

 そんな美奈子の気持ちを他所に、ツカサはトランクを美奈子が座る際邪魔にならない場所に置いてくれた。

 車内はそんなに人はいないが、発車時刻が迫ると行き交う人が多く、美奈子とツカサは通路からデッキの方へ移動した。

 ようやく落ち着く場所で、改めてツカサを見ると名残惜しい気持ちが押し寄せてくる。気持に気付かれないよう美奈子は目を逸らした。しかし次の瞬間、美奈子の躰はそっとツカサに引き寄せられたかと思うと、その腕と躰にしっかり抱き締められた。


「…?!」


 突然の事で状況が把握出来ずに戸惑う美奈子だったが、ツカサは気にすることなく、ゆっくり腕に力を入れ、美奈子の存在を確かめるようにしっかりその躰を抱き締めてきた。


「レナさん、ありがとう。僕がセラピストとしていられるのはレナさんのおかげです」

「…美奈子です」

「え?」

「私の本名は、川原美奈子です」

「ずっとお礼を言いたかった。でもなかなかタイミングが無くて、今になってしまいました。ありがとう、美奈子さん」


 服越しに伝わるツカサの体温、心臓の鼓動…それらを肌で感じ取ると、心が落ち着いてくる。

 思い返せば、ツカサと逢っている時、いつも仕事で大変な事や、母の症状が進行していくことを目の当たりにした辛い時など、決まってツカサは「僕にはこうすることしか出来ないけど…」と言ってそっと抱きしめてくれた。その何気なさが美奈子にとってどれほど励みになったことか。それはしばらく離れていた今でも変わっていない。

 ツカサの想いに応えるように美奈子はツカサの背中に腕を回した。

 互いの存在を確かめ合い、ずっとこうしていたいと思っていた時、ツカサの手が美奈子の顔にそっと添えられ、ツカサと目が合ったと思った次の瞬間、柔らかく優しい感触が美奈子の口唇に触れた。それがツカサの口唇だと気付くのに時間はかからず、美奈子はツカサの口唇に酔いしれながら、ツカサの背中に回した手に力を入れた。

 このまま時間が止まれば…

 しかし無情にも発車時刻を報せるアナウンスと共に発車ベルが鳴り出すとツカサの口唇がそっと美奈子のそれから離れた。


「美奈子さん、どうぞお元気で。幸せでいてください」


 美奈子から躰を離すと、ツカサは車内からホームに下がった。


「ありがとう!…ツカサさんも、お元気で」


 美奈子が言い終わると同時に発車ベルが止み、新幹線のドアが閉まった。

 ゆっくりと走り出す新幹線の外で、ツカサは笑顔で手を振っている。美奈子もツカサに精一杯の笑顔で手を振った。

 新幹線はあっという間に東京駅のホームを離れ、外には高層ビル群が広がる。

 美奈子は席に座ると、さっきツカサが置いてくれたトランクが静かにそこにあった。

 新幹線は上野駅に停車し、次の大宮駅に向けてスピードを上げていく。途中で吉原がある方向に視線を向けた。美奈子にとって『レナ』としての時間を過ごした場所。

 レナとしてひたすら走り続けた日々。

 優しい先輩達や同期の子達、スタッフ。女風を教えてくれたエレナ。 レナを指名し、逢いに来てくれた沢山のお客様…。辛いことも楽しいことも今では良い思い出だ。


『…ありがとう。ありがとう』


 『レナ』の時間の中で出会った人たちに向けて、美奈子は心で御礼を言った。 勿論、ツカサにも。

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