一輪花

 自転車を漕ぐ足に力が入った。

 今日は早めに仕事を終えることが出来たので、いつもより早い時間に母がいるグループホーム『微笑みの郷』に向かうことが出来る。


 長野に引っ越してきて半年。

 新しい職場はグループホーム『微笑みの郷』の所長・落合が地域課に話をつけてくれたおかげで、地元の小さいな建設会社の事務員の仕事に就くことが出来た。

 美奈子にとっては久しぶりの昼職ということもあり、慣れるまで時間がかかってしまったが、上司や先輩たちのフォローのおかげもあり、何とかやっていけている。何より職場の人たちは、美奈子の母・恵子が認知症があり、高齢のため『微笑みの郷』に入居していることを理解してくれているので、仕事が終わった美奈子に「お母さんによろしくね」と声をかけてくれるので、美奈子にとっては温かい職場だ。


 美奈子の職場から『微笑みの郷』まで自転車で20分程度。最近発見した川沿いの道を走るのがとても気持ちがいい。

 桜が見頃を迎えた今、自転車で走っていると心地良い風に乗って桜の花びらが舞っている。仕事でどんなに疲れていても、そんな季節の風と自然の優しい香りに全身が包み込まれ、疲労が一気に吹き飛ぶ。


 長野に来て最初の1週間は引っ越しの片付けや、各種手続き、新しい職場に出勤する為の準備など、怒涛の忙しさでなかなか恵子に逢いに行けるタイミングが作れずにいた。ようやく落ち着いた今はほぼ毎日仕事終わりに『微笑みの郷』を訪れている。そのせいで、入口の警備員や受付スタッフ達とはすっかり顔馴染みになってしまった。


「美奈子さん、こんにちは!今日もお仕事終わりにご苦労様です」


 丁度受付にいた所長の落合が美奈子に気付き挨拶に来てくれた。


「お母様は今スタッフと一緒に庭を散歩していますよ。今庭の桜が見ごろなので、散歩の時は必ず桜を見に行かれています」


 母がこの『微笑みの郷』に入居して、かれこれ半年近くになる。

 東京にいた時、美奈子が見ていた母はただ無表情で、無気力な姿…まるで生きることを諦めているように美奈子には映っていた。

 徘徊や妄言があった時はそれはそれで大変だったが、無表情、無気力の状態でただ死を待っているような姿の母を見ているのはそれ以上の辛さがあった。何より、美奈子が一日にあった出来事を話しても無反応で、唯一の親子の時間でさえ虚しく思えていた。

 グループホームに入居して、美奈子以外の人たちとのふれあいがあれば、もしかしたら認知症の完治は無理でも少しは表情が柔らかになってくれるかもしれない…そんな微かな希望もあって、入居を決めた。

 しかし、落合からの電話で入居して最初の数週間は特に変化は無いのと、今までと違う環境の変化に戸惑っているせいか、昼夜問わず小さな子供のように泣いたり、塞ぎ込んだりして、スタッフを困らせていたという。そんな状態を聞く度、落合やお世話をしてくれるスタッフに対し申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 やはり、グループホームへの入居は、単に美奈子自身が介護から解放され楽になりたいという我儘であって、母はそんな美奈子の犠牲になってしまったのではないか…そんな風に自分を責めてしまうが、落合はそんな美奈子の気持ちを察してか、いつも電話の最後には、


「美奈子さん、お母様は今はただ戸惑っているだけかもしれません。焦らず、ゆっくり慣れてもらえるよう、私たちもサポートしますから」


 と声をかてくれた。

 その後少しずつだが、グループホームのスタッフや入居者たちと連日顔を合わせていく内に、母も慣れてきたのか徐々に周囲に笑顔を見せるようになり、身振り手振りでの動作も増えていった。

 美奈子がようやく母の元に通えるようになった最近は、以前とは見違えるくらい表情も穏やかになり、動作はゆっくりだが、レクリエーションでは隣の入居者たちと談笑したりなどしていた。そんな母を見て一番嬉しかったのは美奈子だ。

母が笑っている…ただそれだけで人目も憚らず泣いてしまった。

 落合たちスタッフによると、母は身振り手振りでの意思表示や表情による感情表現はある程度出来るが、落合やその他のスタッフの顔と名前は認識してはおらず、彼女の中での周囲の人たちは「毎日会う人」と思っているらしい、とのことだ。

 久しぶりに母と再会した時、美奈子が「お母さん、久しぶり!元気だった?」と訊いても母はきょとんとした顔で凝視するだけだった。別にショックではない。 自分が娘だと分からなくても、母が笑ってくれるだけで嬉しい…それは事実なのに、心の何処かでやるせない気持ちが邪魔するのだ。


 落合に案内され、敷地内にある広い庭に行ってみると、車椅子に座りながら付き添いの女性スタッフと一緒に桜を見上げながら嬉しそうに笑っている母の姿があった。


「美奈子さん、こんにちは!恵子さん、娘の美奈子さんが来てくれましたよ」


 女性スタッフは車椅子に座って桜を見上げている母に声をかけたが、母は反応すること無く、大きな木に咲き誇る桜を静かに見つめていた。

 女性スタッフは他から連絡があり、「ちょっとだけ失礼します」と言ってその場を離れると、美奈子と母の2人だけになった。

 美奈子は母の横に屈むと、彼女と同じ様に桜の木を見上げた。

 雪の様に舞い散る花弁、そして淡い白とピンクの花が木の枝に咲き誇っている。


「…綺麗」


 こんなにゆっくり桜を見たのはいつ以来だろう。思わず声が出た。

 そんな美奈子の声に反応したのか、母の手がぴくりと動き、ゆっくり美奈子の手に重ねてきた。


「!?」


 白く細くなった母の手が重なり、美奈子は彼女を見た。

 それまで桜を見ていた母の顔が真っ直ぐ美奈子を見ている。ずっと向けられることが無かった、あの優しい笑顔で。 ふともう片方の手に何かが握られているのが見えた。何処からか茎ごと落ちてきた桜の花だ。その花を母はそっと美奈子に差し出してきた。


「これ、私に?お母さん、これ私にくれるの?」


 美奈子の問いに母は答えず、ただ笑顔で花を差し出すだけだ。


「…美…奈ちゃん…」

「え…?」


 桜の花を母の手から受け取った時、聞き覚えのある声が耳に流れてきた。

 空耳?いや確かに聞こえた。

 懐かしいあの優しい声。最後に聞いたのはいつだっただろう。今のは間違いなく母・恵子の声だった。


「お母さん?」

「……」


 美奈子は確かめるように母を見つめるが、母はただ笑っているだけだ。

 やはり空耳だったのか。

 母が自分の名前を呼ばなくなってから、もう随分になる。また名前を読んで欲しい。「娘」だと認識していなくてもいいから。でもそれは美奈子の一方通行な願望だ。変に押しつけて母の負担になりたくない。だから、時間が解決するのを待つことを選んだ。

 しかし、美奈子が落胆に肩を落とした時だった、


「…美奈…ちゃん」


 間違い無い。確かに母の声で「美奈ちゃん」という声が聞こえた。

 美奈子は再び母を見た。あの優しい微笑みが美奈子を見ている。


「お母さん?」

「…美奈…ちゃん、…お帰…えり」


 再び母が美奈子の名前を呼んだだけでなく「お帰り」と言ってくれた。近くにいなければ分からないくらい小さな声だが、美奈子の耳にはしっかり聞こえた。


「お母さん…」

「…美奈…ちゃん、…お帰…えり…」


 母が美奈子の顔を見て名前を呼んでくれた。認識しているかは分からないが、母が確かに美奈子の名前を呼んでくれたことが嬉しくて思わず母の膝に抱きついた。


「お母さん!…お母さん…」


 止めどなく涙が溢れ、流れた。

 今まで美奈子は何度も母の事で涙を流してきた。何があっても母を支え、一緒に生きようと決めた。自らが選んだ道とはいえ、辛い時も多かった。それでも頑張れたのは母がいてくれたから。

 しかし、症状が進行し意思疎通が困難になる場面が多くなると母の中で『娘』の美奈子が消え、『他人』のような関係になってしまってからは頑張る事が辛く、接し方が分からなくなってしまっていた。

 暗くて長いトンネルの中を手探りで彷徨う日々だったが、今ようやく光が差したように思えた。

 母が美奈子の名前を呼んでくれた。それだけで今までの苦労や辛さが報われた気がした。


「…お母さん、ただいま」


 太陽の様に優しい母の笑顔が美奈子を見つめていた。


「…いい…子、いい…子。優しい子」


 優しくもしっかりした声だった。

 夢ではない。その言葉が嬉しくて、美奈子は再び泣いた。

 美奈子の手には母が渡してくれた桜の花があった。

 母の細く白い手が美奈子の髪に触れる。

 幼い頃、母は美奈子が泣いて帰ってきたり、お手伝いが出来たりすると決まって「いい子いい子、優しい子」と言っては美奈子の髪を撫でてくれていた。

 母は美奈子が自分の娘であり、美奈子とは家族だという認識を取り戻したのだろうか。いや、もうそんな事は関係ない。


「お帰り」

「ただいま」


 この会話が美奈子と母の2人にとって全てだ。

 もし母が美奈子を「娘」として「家族」としても認識出来ていないのであれば、それでもいい。それなら、ここから、今から「母と娘」として始めていこう。これから一緒に思い出を作っていこう。母と娘としての時間が許す限り。

 桜の花弁が風に舞っている。この世でたった2人の母と娘を静かに見守る様に。

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