本心
「レナちゃん、お待たせ〜!」
翌日、『珈琲館』に現れたエレナは、店で見慣れているドレスにハイヒールといったゴージャスな姿と違って、スポーティーな格好にスニーカーというラフな服装だ。ソファに腰を下ろすと、モデルのようにスラッと伸びたエレナの脚はデニム姿でも美しさを感じさせる。
「レナちゃんと出勤前にお茶するなんて、凄い久しぶりだよね?なかなかお互いの時間も合わなかったから、LINEくれて嬉しかったよ」
レナより先輩とはいえ、以前なら肩に力を入れず気楽に話が出来たのに、今回は話の内容だけに変に緊張してしまう。そんなレナの気持ちを知ってか知らずか、エレナは最近起こった自身の出来事を無邪気に笑いながら話始めた。
まるで花が咲いたような笑顔で話すエレナの話に相槌を打つ傍で、レナはこれから話す内容を頭の中で整理していた。
素直に思ったままを口にすれば良いだけなのに、今回は母の事とツカサの事を話す手前、特に女風に関してはエレナはその世界を教えてくれた人だ。エレナが女風の話をしてくれなかったら、ツカサと出逢うことも無かった。だから母・恵子の話もツカサの事もエレナに最初に聞いて欲しかったから、いつもより言葉選びが慎重になってしまう。
「…で、レナちゃんの話って何?」
エレナから突然話を振られ、我に帰った。
レナの頭の中はまだ話す順序が整理出来ていないでいる。
「最近はどう?女風というか、ツカサさんとは会ってる?」
エレナの口からいきなりツカサの名前が出た。こうなったら考えるよりまず伝えた方が早い。
「実は、女風は最近利用出来ていなくて、その事も含めてなんですが、、私の母の事もお話ししたくて…」
レナが『エデン』に入店した時からエレナには母が認知症を発症している事は話していて、以来、エレナと話す機会があると決まって母の心配をしてくれた。『エデン』の店長もレナの家庭事情は認識しているが、エレナに伝えているような話しはしていない。だから、今『エデン』の中で母の症状を理解し、話せるのはエレナくらいだ。
最近は話す機会が無くて、症状が以前より進行しる事、徘徊や妄言が多くなり思うように出勤が出来なかった事や今は訪問介護スタッフの木嶋のおかげで状態は安定しており、こうして出勤出来ている事などを細かく話した。
「そうだったんだ。大変だったんだね。レナちゃんの出勤日数が減ってた時、多分お母さんの事で大変なんだろうなって心配だったんだ。やっと出勤日が重なった時、声かけようとしたんだけど、レナちゃん、凄く顔色が悪そうで声をかけ辛くて…」
知らなかった。母・恵子の症状が日々進行していく内、家事と介護に時間を取られ、次第に徘徊や妄言が酷くなってきて睡眠時間も削られていた。何とか出勤しても接客に身が入らなかったり、見送りが終わると倒れそうになったしていたので、あの時は周囲のスタッフや女性キャスト達の表情を見る余裕も無かった。エレナはそんなレナをずっと影から心配していてくれていたのだ。あの時は気付けなかったが、レナはエレナの言葉に嬉しさでいっぱいだった。
「訪問介護スタッフさんのおかげで今は何とか元気なんですが、この前福祉センターのスタッフさんと相談をしまして、母をグループホームに入居させる事にしました」
「そうかぁ。認知症って色々大変だっていうし、肉親と言っても1人で出来る事は限界が出てくるし、グループホームに入居してプロの人たちの手を借りる事は正解だと思うよ。こんな事言ったら失礼だけど、レナちゃん自身の負担も減って肩の荷が降りるんじゃない」
「…仰る通り、気持ちの上ではホッとしています。実は、母が入居予定のグループホームは長野県にあるんです」
「え、長野…?!」
それまで椅子にもたれるように座っていたエレナが身を乗り出してきた。
「長野って…新幹線を使えば行けるけど、レナちゃん、お見舞いに行くのだって大変じゃない?」
「……実は、入居日程が決まり次第、私も…母と一緒に長野に行こうと思っています」
「えっ!?長野に引っ越すの?!お店は?」
「入居日程が決まって、引越しの目処が立ったら辞めます。まだ店長には話していません。エレナさんに初めて話しました」
「……そう」
エレナは小さく肩を落としたものの、レナな迷いの無い言葉とプライベートな事とはいえ、店長に話すより前に自分に話してくれた事がとても嬉しかった。
「それで、ツカサさんには?」
「え?」
「ツカサさんに今話してくれたことは伝えたの?」
ツカサの名前にレナは言葉に迷ってしまった。
ツカサには先日エレナにLINEを送った後、DMでこの事を伝えたが、いつもなら送ったDMに対して時間が空いても返事をくれるのに、未だ何の返信も無い。
ランカーとなり益々多忙を極めている事もあって、返信をする時間が無いのだろか。
「ツカサさんには、先日DMで伝えました。…でも未だ何も返事がなくて」
「DMって、デート予約とかして直接逢って伝えないの?」
「出来るなら直接顔を見て伝えたいです。でもお恥ずかしい話、今予約を入れる時間もお金も厳しくて…」
レナの言葉にエレナは、今自分がとても無神経な発言をしてしまった事に気付いた。
「確かにお母さんの介護をしながらお店に出勤するのだけでも大変なのに、ましてやこれから引っ越すとなると女風どころじゃないよね。無神経な事を言って、ごめんね、レナちゃん」
エレナは女風という世界を教えてくれた。
女風を知らなければツカサと出逢うことも無かったし、あの濃厚で奥深い時間を知る事も無かっただろうし、女性でいることの悦びを感じられる瞬間は恐らく無かったと言ってもいい。
エレナは姉御肌な性格だから、自らが教えた女風の世界に後輩のレナが興味を持ち、ツカサというセラピストと出逢った事を喜んでくれたし、応援もしてくれた。レナもLINE上ではあるが、先輩で見習う事が多いエレナと『女風』という共通の話が出来る事が嬉しかった。
「ツカサさんから返事は無いんでしょ?」
「はい。多分忙しいのかも。ほら、ツカサさん人気でランカーだし…」
「それは向こうの都合でしょ? 女風の主役はあくまでもセラピストじゃなくて女性だよ。DMの返事はちょっと時間作れば出来ると思うし」
「…そうですけど、でも報告、というかお知らせみたいな内容だし、返事は難しいかと…」
何度も考えた内容とはいえ、もう少し返事をし易い内容を考えてDMするべきだったかもしれない。とはいえ、現時点でツカサからは何の返事も無いのはやはり寂しい。でもだからと言って返事を催促するような事はしたくなかった。
「ツカサさんに逢いたい気持ちはあります。でも予約を入れる時間もお金も難しい今、私はこのまま女風を卒業しようかと考えています」
「それは、レナちゃんの本心なの?」
「はい、もしツカサさんに逢ったら…きっと決心が鈍ってしまいそうで…」
レナの言葉にエレナは何も言わなかった。
そこまで決めているなら、自分が口出しをするのは大きなお世話と思ったのかもしれない。自分から呼び出して、エレナに時間を作ってもらっていながら気不味い雰囲気になってしまった。
エレナはしばらく黙ったままだったが、コーヒーを口にしながら盗み見たエレナの表情は不機嫌ではなく、特に気にしていない様子だった。
「そろそろ行こうか」
暫くコーヒーを堪能しながら、他愛の無い話をしていたら時間があっという間に過ぎてしまい、2人の出勤時間が近付いてきた。
ここから吉原の『エデン』までは徒歩で20分くらいだから、ゆっくり歩いても2人の出勤時間には充分間に合う。
「エレナさん、今日は時間を作ってもらったのにごめんなさい」
「え?何で謝るの?」
エレナが細かいことを気にしない性格なのは知っている。でもツカサ、というより女風に関して色々教えてくれた恩人故に、曖昧な結論のままのように思われていないか、そしてしばしの沈黙を作ってしまったのが気掛かりだった。
「何か、ツカサさんの話を聞いてもらったのに、中々気持ちの整理が追いついていなくて」
「私の方こそ!何か色々踏み込み過ぎちゃってごめんね。悪い癖が出ちゃったなぁ」
エレナは姉御肌であると同時に、サバサバしている性格だが、物事をハッキリ言うのと、感情が乗ると口調も強くなってしまうことから、受け取る側から「毒舌」と捉えられてしまう場合があり、女性キャストと口論になった事も多々ある。なのでエレナの性格に対し良く思わない人も少なからずいるのも確かだ。しかし、そんなエレナの裏表が無い発言と口調は、レナにとって建前無しに本音を言えるので、エレナの言葉は嘘が無いので、とても好きだし、気が楽だ。
「私は正直な物言いのエレナさんが好きです。私1人だとずっと悶々としていただろうし。話せてスッキリしました」
「ありがとう。話すと楽になることはあるよね。私はレナちゃんや家庭の事情は察する事しか出来ないけど、今日まで色々悩んできたと思うんだ。そんな中で決めた事を私に話してくれて、嬉しかったよ」
陽が傾きつつある頃、吉原のソープ街では様々な店舗の看板に明かりが灯り、昼間とは違ってより一層の賑わいを演出し始めた。
行き交う男性陣に声をかける店舗のボーイ達、往来が多くなるタクシー、出勤し始める遅番の女性やその入れ替わりで店を後にする早番の女性達。
エレナとレナもそんな人通りを抜けて、在籍店の『エデン』へと向かう。従業員専用の裏口から店内に入ると、スタッフが2人に気付き足早に近付いてきた。
「おはようございます、エレナさん、レナさん。 エレナさんもレナさんも開口1番でお客様がいらっしゃいますので、準備をお願いします。エレナさんは1番のお部屋で。レナさんは5番のお部屋で」
スタッフは2人に用件だけ伝えると足早にフロントに戻っていった。
ロッカールームの入り口を隠すカーテンからフロントをちらりと覗いてみると、フロントでは店長が来店してきた男性客の対応をし、さっきのスタッフは電話対応に追われており、その光景だけでこの時間は来店人数や問い合わせが多いのだと察した。
各々の私物は貴重品以外はロッカーに仕舞い、お仕事道具が入った籠を持ってさっき言われた部屋に向かおうとした。
「レナちゃん」
ロッカールームを出ようとした時、籠の中身を整理しているエレナに呼び止められた。
「今日は色々話してくれて、ありがとう。何も出来ないけど、私はいつでも応援してるから。また何かあったら話して。私もLINEするから」
お礼を言いたいのはレナの方だ。しかし店に一歩入ればお互いプロ同志。レナはお礼を言う代わりに親指でグーを作り、エレナに一礼してロッカールームを後にした。
部屋に入り、私服からドレスに袖を通す。
お風呂に湯を張りながら、ファンデーションを軽く肌に馴染ませ、髪にブラシを通して整え、最後にリップを口唇に塗ると同時にコールが鳴った。
「レナさん、お客様がお着きになりました」
受話器を置いて、もう一度鏡で全身をチェックする。今はツカサの事も母の事も頭には無い。今頭を占めているのは、どうすればお客様に楽しんでもらえるか、それだけだ。
今は吉原『エデン』のレナ、だから。
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