決断

 新幹線に乗って遠出するなんて、いつ以来だろう。

美奈子は窓の外を流れる都会独特のビル群の景色が徐々に長閑な風景に変わっていく様子を見つめながら、心の中に渦巻いている様々な気持ちを見つめ、整理していた。

 前日から母は木嶋が事前に調べてくれた自宅近くにあるショートステイ可能な施設にいて、明日まで気兼ねなく外出する事が出来る。そんな自由な時間を得て、こうして遠出が出来るのも木嶋のスムーズな手配と助言のおかげだ。


 長野は天気が良くグループホーム『微笑みの郷』の最寄駅であるT駅は改札を出ると、人通りの少ない静かな街並みが広がり、長年都会の喧騒の中で生きてきた美奈子にとっては別世界のような景色だ。

 『微笑みの郷』までは1時間ごとに巡回バスが走っており、そのバスに揺られながらようやく美奈子は窓の外に広がる景色をゆっくり眺める事が出来た。

都会と違って車の往来の少なさ、緑豊かな山々を包むような澄んだ青空。

 バスの車内の少しだけ開けられた窓から、風に乗って聞こえてくるのは聞いたことも鳴い鳥達の鳴き声だ。流れていく景色を見つめていると、それまで迷いだらけだった心が解され、口元に微かな笑みが浮かんだ。


 バスに揺られていたのは15分くらいだっただろうか。のどかな小道を進むと、その先に周囲の緑豊かな景色とは不釣り合いだが品のある建物が現れた。

 バスに乗っていた入居者達が順番に降り、それを追うように美奈子もバスを降りると、建物の入口に一人の女性が立っていた。


「川原さんですね。川崎さんからお話しは伺っています。改めまして『微笑みの郷』の介護スタッフの落合です。遠いところをようこそおいでいただきました」


 落合と名乗ったその女性は見た感じ美奈子より年上で、落ち着きがありケアセンターの川崎や訪問介護スタッフの木嶋と同じくらいか それ以上にベテランの雰囲気が漂っていて、まだ会ったばかりだというのに、美奈子には落合の存在そのものが頼もしく映った。

 受付を済ませると落合の案内でホーム内を見て回れることになった。

 建物は事務や医療スタッフらがいて医療施設がある別館と入居者達が生活する本館の二棟で成り立っており、受付のすぐ横に長い廊下があって、そこが本館と別館を行き来する唯一の通路だ。 車椅子は勿論、緊急時でも担架や医療器具が余裕で移動出来るよう広々と設計された廊下は、夜には室内灯が着くが、昼間は殆ど自然光だけで十分だという。

 

 落合から説明を受けながら廊下を歩いていると、本館の方から介護スタッフに車椅子を押されながらやってくる老婦人の姿が目に入った。老婦人は落合と美奈子の存在に気付くと「こんにちは」と笑顔で挨拶をしてきた。 その笑顔は柔らかく、声はか細いものの芯があるしっかりした声だ。


「あの方はここの入居者さんで、吉川さんという方です。2年前にこちらに入居されましてね。当時は徘徊や痴呆、暴言もあったりでご家族も手を焼いていましたが、ここに入居されてからはすっかり穏やかになったんです。徘徊も少なくなりましたし、今日はご家族と面会だそうで」


 すれ違い様に見た吉川の表情は穏やかで、とても暴言を発するようには見えないが、落合の言葉に美奈子は今一度 すれ違った老婦人 吉川を見たが、車椅子を押す介護スタッフの背中しか見えなかった。


 落合に案内された入居者が暮らす本館は優しい木目調の壁と、柔らかな色合いの床造りが特徴的で、介護施設と言うより宿泊施設のように思える。

 丁度レクリエーションルームでは入居者達が集って折り紙を折ったり、将棋を指したり、編み物をしたりなど、各々の楽しみ方をしていた。その誰もが皆笑顔で、介護スタッフが通りかかると積極的に挨拶する者もいた。きっと母と年齢はそんなに変わらないか、少しだけ上だろう。


 母が笑った顔を思い出そうとした。母の笑顔を最後に見たのはいつだっただろう。以前なら母の様々な表情を瞬時に思い浮かべる事が出来た。しかし、認知症が進行していく中で無表情の時間が多くなり、パニックに陥れば、眉間に皺を寄せた怒りや苛立ちの表情しかない。


 レクリエーションルームのすぐ横には広々としたリハビリスペースがあり、介護士が付き添ってリハビリを行う者や、同じ入居者と思われる人達に見守られながら歩行訓練やボール遊びを兼ねたリハビリを行う人たちもいて、リハビリとはいっても辛そうな表情をしている人は一人もおらず、皆和気藹々として見ているこちらも自然と心が和んでくるようで、美奈子はそんな入居者達 一人一人の仕草や表情を母に置き換えるように見つめた。


『もし、お母さんがここに入居したら…ここいる人達と楽しそうに笑い合って過ごせるだろうか…』


「皆さん、いい表情されていますでしょ?」


 落合の問いかけで一気に現実に引き戻された。


「ええ…皆さん、生き生きとされていて笑顔が素敵ですね」


 咄嗟の問いかけだったが、見たままの事がそのまま言葉として出た。


「でもここいる入居者さん達のほと殆どが最初は徘徊や痴呆といった重度の要介護者さん達だったんです」

「…えっ?」


 意外な落合の言葉に絶句してしまった。

 今こうして目の前でボール遊びをしたり、リハビリをしたり、はたまた折り紙を折って隣の人達と笑い合っている、この人達の殆どが重度の要介護者だったなんて。


「川原さん、人が年老いていくのは宿命のようなもので止める事は出来ませんよね。ご家族にとっても共に長い時間を過ごしてきた身内が、ただ健やかに年老いていくならまだしも当たり前の事が出来なくなったり、それまで口にしなかった暴力的な言葉を発したり、行動が読めなかったりと…ご家族の戸惑いや苦労も一入でしょう。でも私の勝手な想像ですが、戸惑うご家族と同様に辛いのは、もしかしたらご本人なのではないかと思うんです」

「……」

「ずっと健やかでいたいと思って、どんなに食事や身体に気を付けていても、年を重ねれば身体も弱ってくるし、昨日まで出来ていた事が急に出来なくなったり、無理にやろうとして怪我をしたら更に出来ない事が増えてしまう。そうなると出来ない事に苛立ったり、無意識に周りにいる人や物に当たり散らしてしまったり…。

私はここに来て6年になりますが、最初の一年だけでも様々なご家族と入居者さんを見たり、相談を受けたりしてきました。入居者さんのご家族の悲痛な訴えや、戸惑いの声…。どんなに介護に対しての知識があっても、ご家族の辛さや悲しみ、戸惑いを全て取り除くのは難しいですし、未だに相談内容やお話しによって答えに迷う事は多々あります。ご家族だって入居させる事については相当悩まれたでしょうし」

「あの……親が要介護者になった時、家族として、ずっとそばに居て面倒をみるべきなのでしょうか?」


 質問を口にしてすぐ、自らが口にした事の愚問さに呆れ果てた。一体何を訊いているのだろう。


 お腹を痛めて産み、ましてや父親を早くに亡くしてから女手一つで苦労して育ててくれた。そんな母がある時 突然認認知症を発症し、自分自身を含め、世話になっている福祉センターの人たちは勿論、娘である美奈子の存在まで分からない状態になってしまった。 もう会話さえままならないが、母と娘である事に変わりはない。だから、自分の時間や生活を犠牲にしてでも恵子の面倒をみようと決め、今日まできた。そうする事が子供として当然だと思い続けてきたが、美奈子の心にはいつからか言い表し難い疑問符が存在するようになった。


 今の生活が本当に幸せと言えるのか。

 母にとって常に自分がいる事が最良なのか。


「ずっと側に居て、最後まで親を見送る…以前ならそれが理想的で当然だったでしょう」


 耳に心地良い落合の声がゆっくりと美奈子に語り始めた。


「でも残酷な言い方かもしれませんが、家族とはいえ、それぞれの生き方がありますし。今は昔と違って選択肢が沢山あります。だから、こうでなきゃとか、こうであるべき…という形や考えに縛られる必要は無いかと」

「ホームに入れるのも選択肢の一つですか?」

「ええ。私個人の考えですが…介護となると、四六時中 側にいて、その人中心に考えてしまいがちになります。自分の親だから、子供だから、面倒を見るのは当たり前…そんなご家族の声をよく耳にしてきました。でもだからと言って、無理をしてまで自分達だけで介護を続けるのはどうかと…。

それは、金銭面での経済的なことや環境的なこともあるでしょう。介護は長い時間と体力気力が必要ですし、私達はご家族の決めた事に余計な口出しをする事は出来ません。しかし、長い介護生活の中で知らない内に背負い過ぎてしまった荷物を、少しだけお持ちするお手伝いは出来るかもしれないし、望んで下されはそうさせていただきたいと切に思っています」


 落合の言葉を聞いて、かつて福祉センターの川崎から言われた言葉を思い出した。


『美奈子さんはお母様をとても大事にされていらっしゃいますね。日々お母様の事を優先的に考えていらっしゃるのがよく分かります。でもたまには美奈子さん自身の事も大事になさってください。 出来るだけ私達を頼りながら自身の事も考えてあげてください。美奈子さんが元気でいないと、お母様も辛いと思いますし』


 川崎が言っていた、「自分のことも大事にして」、そして最近木嶋が言ってくれた「頑張り過ぎないで…」という言葉が頭の中で響いた。

 それらの言葉は、美奈子が知らない内に一人で抱え込んでしまっていた現実の壁に少しずつ風穴を開け、それまで閉ざされていた窓を開け放つように心の風通しを良くしてくれた。そこに落合の言葉が加わわり、より一層心が軽くなっていくような気がした。

 

 ふと美奈子は緑に囲まれた中庭に視線を移してみた。

 そこにはさっき長い廊下ですれ違った老婆が面会に来た家族らと談笑をし、その孫らしき小さな女の子は老婆の車椅子の周りを走り回ったり、疲れると老婆の膝にもたれたりして気ままに過ごしていた。


 このまま、川崎や木嶋の協力を得ながら東京で母と2人で生活するのも、それはそれで有りだ。しかし、今や表情を含めた感情表現も出来ない母は果たしてそれで良いのだろうか。 

 もしこのホームに母が入居したら。 会話は成り立たないかもしれないが、笑顔が戻る可能性はあるかもしれない。 現にここにいる殆どの入居者が重度の要介護者だったが、今ここでは信じられないくらい笑顔で生活をしている。

 自分にとって一番大切な存在は母だ。母と一緒にいられる時間は限られている。だからこそ母にはストレスが無く、最後まで笑って、穏やかに暮らして欲しい。今美奈子が心から望むことはそれしか無い。



 昼が過ぎた辺りから太陽は傾きを加速させ、日差しが柔らかくなったように感じるころ、美奈子は一通りホーム内の見学を終え、落合から入居についての今後の進め方等について詳しい説明を受けた。

 和気藹々とした表情の入居者達に面会に来ていた家族の楽しそうな会話。解放的で清潔感のある各階の入居者が暮らす部屋と充実した医療体制と環境。見れば見る程、落合や他のスタッフから話を聞けば聞くほど、申し分無い事ばかりだ。


「東京に戻られたら、一度ケアセンターの川崎さんともまたご相談ください。こちらは今はキャンセル待ちはありませんし、即入居も受け付けていますから ゆっくり検討してみてくださいね」


 ホームを出発する時、落合から渡された『微笑みの郷』に関しての詳しい資料が入った封筒を手に、来た時と同じ巡回バスに乗った。

 この時間になると街へ外出する入居者はいないようで、バスは美奈子の貸切状態だ。

 バスが発車する際、落合は入口でバスが見えなくなるまで手を振ってくれていた。

 バスに揺られる事15分。駅に着いてバスを降りる時、運転手の男性が声を掛けてきた。


「東京からの方ですか?」

「え?はい、そうです」

「良い場所でしょ。ここは」


 運転手は見た感じ、50代後半か60代前半くらいだろうか。所々に白髪はあるものの、物腰が柔らかく、常に笑顔でいることを心掛けているのか目尻には沢山の笑い皺が目立っていた。

 運転手はエンジンを止めると運転席側の窓を全開にした。山と空、二つからの風が優しく車内に舞い込んでくる。


「ワタシも以前は埼玉に住んでいましてね。過労で倒れて、早期退職をして女房と息子と共にこっちへ引っ越して来たんです。いやぁ、ここは快適でいい。何て言うか…当時 都会では朝から晩まで必死で働いて、自分の事は勿論、家族の事を考える余裕なんてありませんでしたからね。そんな中、過労で倒れた時は自分に対しても、周りにも絶望してしまって自棄になってしまいました。でも、こっちへ来てからようやく自分と向き合えましたし、それまで必死になってしがみついていた物より大事な存在に気付かされました」

「大事な存在?」

「一緒にいてくれる家族です。ワタシが過労で倒れた時、悲しいかな病院には会社の人間は誰一人として見舞いにも来なかったんです。でも女房だけは毎日欠かさず来てくれましてね。しかしワタシは退院すると自暴自棄になり、女房には罵声を浴びせたり、酒の勢いを借りて暴力を振るったりもしてしまって…正直離婚されてもおかしくありませんでした。でも女房はワタシを見捨てず、ワタシや当時難しい年齢だった息子の為に一生懸命になってくれましてね。早期退職を渋っていたワタシを説得してくれ、こっちへの引っ越しを提案してくれたのも女房でした。沢山迷惑をかけてしまいましたし、残り少ない人生は、せめて穏やかに、健康でいなければと思っているんですよ」


 美奈子が吉原で働く前。OLをやっていた時もただただ必死になって働いている男性社員が殆どだった。

生活の為、養う家族の為…理由は人それぞれだろう。だから何が正しいかなんて分からないし、正解なんて無いのだと思う。

 この運転手の男性も最初は「家族のため」という理由を前提に、ひたすら仕事としていた事だろう。まさか過労で倒れるなんて夢にも思わずに。

 知らない内に構築した人間関係、仕事優先の日々、健康よりまず仕事…それがこの男性の日常であり、当たり前だったのだろう。しかし当たり前の終わりは突然やって来る。過労でようやく男性には立ち止まる時間が与えられ、そこでようやく理解する現実…会社はいつだって代わりの人間がいる。しかし、家族の代わりなどいないという事。そして健康でいられる事の有り難さ。それまで信じて必死になって会社組織に尽くしていたのに、仕事も人間関係もすんなりその手からこぼれ落ちてしまった。その時の彼の失望感はどれ程のものだっただろう。そんな中、手を差し伸べてくれた家族の存在に彼はどれだけ救われたことか。

 会社人間だった時の彼の姿は想像する事しか出来ない。でも話を聞いていると、自然に彼のこれまでの人生が見えた。


「すみませんね、こんな運転手個人の話に付き合わせてしまって。何せ都内からの方は久しぶりなものでして、つい。ところで、ご家族の誰かのご入居をお考えでいらっしゃったんですか?」

「ええ、母です。認知症なので介護士の方々に助けて貰いながら何とかやってるんですが。私は母と2人暮らしなので、最初は東京から離れている見知らぬ土地に母を移動させるのはどうかと迷っていましたが、今日スタッフさんのお話しを聞いて、ホーム内を見ていたら、色々決心がつきました」

「…そうですか。大変でしょうが、お母様を大事にしてあげてください」


 バスを降りて、改札口に向かおうとしていた時 再びあの運転手に呼び止められ、美奈子にペットボトルのお茶を差し出した。「長々と昔話に付き合わせてしまったお詫びです」とのことだが、美奈子に向けられたその表情は、魅力的で人としての優しさに満ちているように思えた。


「どうぞお気をつけて。また来てくださいね。待ってますよ」



 あっという間の長野滞在だったが、濃厚な時間を過ごせた。

 帰りの新幹線の車内では今日の出来事がフィルム映画のように脳内で流れた。

 『微笑みの郷』の落合。長廊下ですれ違った老婆やそこで暮らす入居者達。面会に来ていた家族らの楽しそうな表情、整えられた設備の数々…。そして、あのバスの運転手の男性。思い返してみると、たった1日の出来事には思えず何日間かの出来事だった様に思える。

 母・恵子のことは大事だ。もはや会話は成り立たないが自分を生み育ててくれた母親であることに変わりはない。 母も高齢だし、残された時間はきっとそんなに長くないだろう。だから一分一秒でも多く『親子』としての時間を作りたいし、過ごしたい。そして今は無表情になってしまった母だが、又以前みたく向日葵の様な笑顔をもう一度見たい。

 美奈子は鞄からスマホを取り出し、LINEのページを開くと、少しスクロールした所にあった名前をタップし、メッセージを打ち始めた。


『エレナさん、お疲れ様です。実はご相談というか、聞いていただきたい話がありまして。

近日中でお時間を取って貰えないでしょうか? お忙しいところごめんなさい』


 レナとしては休みだが、今頃出勤して接客中であろう先輩のエレナにLINEを送った。真っ先にエレナに話を聞いて欲しかった。



 慌ただしい1日だったその翌日。

 母・恵子がショートスティをしている施設には夕方に迎えに行く約束で、その後は訪問介護の木嶋に母の世話をお願いし、美奈子は吉原に出勤する。昨夜エレナに送ったLINEに返信は無かったが、出勤すれば店でエレナに会えるので気にはしなかった。

 夕方まで時間があるので、掃除や洗濯を済ませると福祉センターの川崎に「急ぎでお伝えしたいことがあります」と電話を入れた。

 レナとしてはエレナに。美奈子としては川崎に早く自身の決断を伝えたい。そうしないと決心が鈍ってしまいそうだ。


 美奈子からの「急ぎで伝えたいことがある」という言葉に驚いたのか、福祉センターに着くと川崎が血相を変えた表情で美奈子を迎えた。


「急に連絡をいただいたので、何かあったのかと思いました。お母様の件でしょうか?」

「驚かせてしまってすみません。母は今木嶋さんが紹介してくださったショートスティの施設に居まして、認知症は相変わらずですが最近は落ち着いています。色々ありがとうございます」

「そういえば、長野のグループホームを見学されたんですよね?いかがでしたか?」

「スタッフの落合さんに色々お話しをさせていただきながら、ホーム内を案内していただきました。それで…今回紹介していただいた『微笑みの郷』に母を入居させたいと思っています」


 一点の迷いも無い美奈子の言葉に、川崎は反応に迷った様子だ。


「そうですか。そうなると美奈子さんはお仕事もありますし、月一くらいしかお母様にお会い出来ないですよね?」

「……私も、母と一緒に長野に行きます」

「えっ!?」


 川崎が驚きの声を上げた。

 美奈子もこうして口にしてはみたものの、正直心のどこかでまだ迷いがあった。しかし迷ったままでは時間は無情に過ぎていくばかりだし、声に出して揺るぎない決心に近付けていかないと、ずっと曖昧なままだ。それは美奈子だけでなく、今この瞬間も認知症が進行さている母・恵子にとっても出口の見えない時間を強要してしまう事やななる。


「…そうですか。正直、美奈子さんがそこまで決心をされるのは意外でした。私はてっきりお母様だけ入居してもらって、美奈子さんは東京に残りながら時々会いに行かれたりするのかと」

「それも考えました。私が母と一緒に長野に行くということは今の仕事も、生活も変えなければならないし。出来る事なら、今の仕事や生活を変えたくはないと。そう思っいました。つい先日までは」

「先日までは?何かあったんですか?」

「娘のくせに酷い人間だと思われるかもしれませんが、母の認知症が悪化して以来、私は母の笑顔を見た事がありません。いつからか私の事も認識出来なくなって、徘徊や暴言、物忘れも酷くなってしまって。 木嶋さんに来てもらってからはだいぶ落ち着いていますが、今でも時々、木嶋さんが帰った後が怖いんです。母と2人だけになるのが。 もし又徘徊が始まったら、上手く止められるのか。もし又暴言を浴びせられたら、私は冷静に受け流せるのか。 

認知症のせいなのも、本心から言っていないのも良く分かっています。でも暴言を浴びせられる度に殺意を覚えてしまいましたし、母さえいなければ…って恨めしく思った事も。

グループホームの話があった時、ホッとしている自分がいたんです。場所は何処だって構わない、もし入所が決まれば、母から解放される……悩まなくてすむ……って」


 話しながら、美奈子は知らない内に蓄積してしまった自身の醜い心の部分を思い知った。いくら綺麗事を並べても母の症状が進行し、あの優しかった面影が少しずつ消えていくたび、まるで別人と接しているようで。更に暴言を浴びせられる度、徘徊が酷くなり手がつけられなくなる度、そして何より美奈子のレナとしての時間が取れず出勤出来ない日々が続いた時、何度恨めしく思ったことか。

 母の力になりたくて会社勤めを辞め、時間と日程の自由が効いて尚且つ努力次第で高収入が得られる吉原でソープ嬢となった。人に言えない仕事だけど親子2人で生きていく為と割り切り、ただただ必死だった。母の為なら辛い事でも耐えられた。

 専門的な知識は無くても、母の側にいて世話をしていれば、例え症状が進行しても何とかなる。認知症と上手く付き合っていけばいい…美奈子はそう思っていた。しかし現実は違った。

 症状が悪化していく内、娘の美奈子の存在を認識出来なくなり、今までとは違う言動を目の当たりにする度、母親とも思えなくなった瞬間が何度もあった。それは同時に美奈子の認識の甘さを思い知るものとなった。想像してはいたけれど、こんなに酷くなるなんて。

 想像していた事とかけ離れた現実に行き場の無い怒りやマイナスの感情の矛先を母に向けでしまいそうになる。

 そんな現実の中、心を救われたのが女風でありセラピスト・ツカサの存在だ。ギスギスした日々の中、美奈子は女風に、ツカサに救いを求めていた部分があり、それは母の症状が悪化する度色濃く存在を増したのだ。

 もしツカサがいてくれなかったら、美奈子の心はもっと醜く歪んでいただろうし、最悪恵子に暴力を振るっていたかもしれない。

 いつか母に付きっきりになってしまったら、月一とはいえツカサに逢うのは難しくなる…という事も予想はしていた。しかし、何の前触れも無く突然その時がやってくると、母の介護は美奈子の予想を遥かに超える重労働で。 

 ツカサの事も考える隙もない日々の中、ふと気を抜いた瞬間に湧き上がる虚無感と母に対するぶつけようの無いマイナスの感情。 必死だったこともあり、今日まで一度も母に手を上げた事は無かった。もし一度でも母に手を上げたりしてしまったら、きっと自分の中にいる『鬼』が目覚め、いずれは取り返しのつかない結果が待っているかもしれない。今日までは何とか堪えられているが、これから先は分からない。きっかけなんて、いつも何処かしらに潜んでいる。ほんの些細な事がきっかけで、それまで蓋をしていた感情がいつ爆発してもおかしくはない。

 当然と思い尽くしていた事、一緒にいる事が今の美奈子にとっては苦痛だ。それは母の症状が悪化する度に増していくようで。だから福祉センターや訪問介護スタッフにある一定の時間だけだ母を任せられる事は、そんな美奈子の気持ちを少しだけ軽くさせたてくれた。しかし、任せられる時間ぎ終わり、夜母と2人っきりになると又様々な不安が付き纏う。だから本格的な専門スタッフがいるグループホームに入居したら、美奈子の不安も払拭され、以前のように笑顔で母に接する事が出来るかもしれない…そんな淡い期待を抱いた。例えそれが東京から離れた場所にあるとしても。


 ふと美奈子の拳にポツリと一粒の水雫が落ちた。

 美奈子は一瞬何が起きたのか理解出来なかったが、すぐに自分の涙だというのが分かった。泣いていた。自然と涙が溢れ出し、どんなに指で拭っても止まらなかった。


「ごめん…なさい…」


 話を聞いてくれている川崎の顔が見れず、必死に涙を隠そうと俯いてしまった。


「…美奈子さん…」


 川崎の声がした。

 涙でぐしゃぐしゃになっている顔を見られたくなくて、顔を上げられずにいたが、川崎の両手が美奈子の手をそっと包んだ。


「もう…独りで抱え込まないで…」


 川崎の声が震えていた。


「美奈子さん、覚えていますか?…以前私が過去に担当した方で、同じ様にお母様が認知症になり、娘さんが献身的に介護をされていた方の話」


 美奈子はすぐに思い出せなかったが、ゆっくり思い出していくと、以前川崎からそんな話を聞いたような気がした。

 川崎が美奈子と出会う前に担当していた女性で、その人も認知症の母をずっと1人で介護していたが症状が進むにつれ、睡眠も少なくなり、憔悴し、挙げ句の果てに女性ははうつ病を発症してしまった。その時、見かねた川崎や他のスタッフが施設への入所も提案しましたらしいが、女性は頑なに自分が面倒を見る。の一点張りで。その内違う街へ引っ越してしまったという。 

 川崎はあの時、余計なお世話であっても、もっと踏み込んで力になってあげるべきたったのでは…と後悔することがあると言っていた。だから、今の美奈子の状態が、その当時の女性とシンクロして見えたのだろう。


「美奈子さんも、あの方と同じで。1人で頑張ってらして。

確かに介護は私達プロが介入出来る部分とできない部分があります。でも美奈子さんは十分過ぎるくらい大変な思いをされました。だから…だから、ご自身のことを酷い人間とか思わないでください。家族だから、自分の母親だから、娘だからとか、関係ありません。美奈子さんはご自身を大切に、優先していいんです。ご自身の時間を生きて良いと思います」


 力強い川崎の言葉にいつの間にか涙も止まっていた。


「…川崎さん、ありがとうございます。正直、今日お話をしに来たものの、ずっと気持ちが揺らいでいて。一緒に長野に行くとはいえ母をグループホームに入居させるのは、ただ自分が楽になりたいからで、母を捨てるようで…話しながら罪悪感でいっぱいだったんです。でも、川崎さんの言葉でようやく決心がつきました」

「ついつい生意気な事を言ってしまいました。…でも、もし美奈子さんを悪く言う人が仮にいたら、勝手に言わせておきましょう!美奈子さんが今日まで自分を犠牲にして頑張ってきたのは事実だし、それは私を含めたここのスタッフや西本カウンセラー、訪問介護スタッフの木嶋さんだって皆知っていますよ。美奈子さんは堂々と胸を張っていてください!」


 川崎はそう言うと、美奈子の手を今度はしっかり握って満面の笑みを向けてくれた。

 そうだった。ずっと川崎を含めケアセンターのスタッフの人たちは親身になって美奈子な話を聞き、母を、美奈子を支えてくれた。 

 母が美奈子を娘として認識出来なくなって、辛い日々だったが、そんな中で訪問介護の木嶋を紹介してもらえ、その木嶋が来てくれたおかげで美奈子は吉原に出勤しながら介護をするバランスを上手く取る事が出来た。木嶋がいなかったら、出勤は出来ないし、何とか出勤しても常に母の事が頭を過ってしまっていたが、今では目の前のお客の事だけに集中する事が出来る。そして何より母と2人でいる時には気付かなかった彼女のふとした仕草や癖、美奈子が留守の間の行動や表情などを木嶋から聞くことにより、いつの間にか生まれてしまった母と自分の溝が少しずつ埋まっていったのも事実だ。


 改めて母を長野のグループホームに入居させ、美奈子も長野に引越すという話が纏まると川崎は再度美奈子に意思の確認を取り、改めて入居手続きの書類を差し出した。

 必要部分を記入し、担当介護スタッフ、訪問介護スタッフの必要記入欄がそれぞれ書き終わり次第、この書類は長野のグループホーム『微笑みの郷』に郵送され、入居時期に関しての詳しい案内が送られてくる。

 必要事項を記入していく内、川崎の言葉のおかげもありさっきまでの迷いが嘘の様に消え、美奈子は冷静にペンを走らせていた。

 あっという間に時間が経ってしまい、書き終えた書類を川崎に渡すと美奈子はセンターを後にした。

 来た時とは違って何だか清々しい風を感じる。空がいつもより蒼く見える。

 引っかかっていた何かが通る様になると、ここまで解放感を覚えるものだろうか。とはいえ、こんなに気持ちが軽く感じるのはかなり久しぶりだ。

 夕方には母をショートステイ先の施設へ迎えに行くのだが、まだ時間はある。久しぶりに上野まで足を伸ばしてみようか。お昼もまだ食べていないことだし。


 吉原に出勤する際、上野は乗換で毎日通るが改札を出てゆっくり歩いた事は殆ど無い。平日でも人通りと車の往来は多く、飲食店やデパート、家電製品店等が軒を連ね見ているだけでワクワクする。

 美奈子が向かったのは、以前常連客から教えてもらった老舗純喫茶の『王城』だ。

 土日祝祭日は長蛇の列が出来る人気店で、Twitterでもサンドイッチや店自慢のコーヒーの写真やレポを見かける度に興味をそそられたが時間が無くてなかなか行く事が出来なかった。 今日は平日にもかかわらず店内の席は殆ど埋まっていたが、美奈子と入れ替わりでカップルと思われる二人組が店を出たので、特に待つことなく店内に案内された。

 席に着くと、早速クリームソーダとナポリタンを注文した。レトロな内装の店内にマッチしたソファとテーブル。座っているだけで落ち着く。

 こうして1人でゆっくり座って食事をしたのは久し振りだ。


『こんな素敵な喫茶店、ツカサさんと来たら楽しいだろうなぁ。

ツカサさんだったら、どんなメニューを頼むんだろう…』


 ふとツカサの事を思った。あれから全く予約を入れていないが写メ日記やツイートは毎回見て『いいね』を押し、気になった食事やスイーツがあればDMで何処の店舗なのかを訊いたりしていて、優しいツカサは美奈子が送った他愛も無いDMに毎回返事をくれた。それだけで無く、ツカサはDMでも母と自分の身体を気遣ってくれた。ただでさえ本業とセラピスト業の両立で忙しいだろうに。DMを送ってくるのは美奈子だけではないはずだ。しかし、いくらツカサがDMで優しく寄り添ってくれていても、今は予約を入れる余裕も時間も美奈子には無かった。それがもどかしいのに、ついついツカサとのDMのやり取りが楽しく、心が安らぐ瞬間になっていた。

 今はTwitterで『いいね』を押す事で唯一ツカサとの繋がりを感じられていた。本当は逢いたいし、長野の事を話したい。しっかり状況が固まったら、ツカサにDMで知らせようか。

 ふと鞄に入れていたスマホが振動し、現実に引き戻された。スマホを取り出して見ると『エデン』のエレナからLINEが入っていた。


『レナちゃん、LINEの返事が出来なくてごめんね!!急ぎの話かな?と思ってTEL入れたけど、出なかったから…』


 電話?メッセージの前をよく見たら、エレナから着信があった。着信をくれたこの時間だと、丁度福祉センターで川崎と話をしていた時だ。


『お母さんの事で大変なのかなと思って…

今日はラストまでだけど、今週は明日と明後日が午後から出勤だから出勤前でよかったら時間作るよ!もし良かったら一緒にご飯食べよ』


 わざわざ電話をくれたのに、川崎と話していたとはいえ、出れずに失礼をしてしまった。エレナは今日はラスト(23:00)までという事は、今折り返しても長く話せるか分かりないし、接客中の可能性だってある。


『エレナさん

お返事ありがとうございます!電話に出れなくてごめんなさい。

早速ですが、もし大丈夫でしたら、明日の出勤前にお時間を作っていただけないでしょうか?時間はエレナさんに合わせます。私も明日は午後からなので、食事奢らせてください』


 エレナへのLINEの返事を送り終わるのと同時に、注文したクリームソーダとナポリタンが運ばれて来た。

 ナポリタンから漂う出来たの湯気が空腹に拍車をかけ、食欲が一気に湧いてくる。横に並べられたクリームソーダはバニラアイスとメロンソーダのコントラストが美しく、今まで食べてきたクリームソーダの中で1番美味しそうな印象を受けた。

 いつも自分の食事はコンビニ弁当や冷蔵庫の有り物を調理して簡単に済ませていた。母の食事も兼ね合いもあり、自分で凝ったものは作れないし、コンビニ弁当でもなかなか多くの量が食べれないし、母の様子を見ながらだと落ち着いて食事というのがどうしても難しくなってしまう。

 ナポリタンを半分食べた時、スマホが震えた。画面を見てみると、エレナからLINEの返信だ。


『レナちゃん!返信ありがとう!!明日なら私も大丈夫だよ。

14時に三ノ輪橋にある『珈琲館』でもいい?落ち着いて話も出来る場所だとここかなって思って』


 エレナとは以前、仕事終わりに焼肉を食べに行ったり、居酒屋で接客に関してのアドバイスを貰ったり、愚痴を聞いてもらったりしていたが、美奈子として母の症状が悪化して以降。エレナはランカー入りが囁かれ始めてから指名が増えお互いの時間がなかなか合わず、こうしてお茶の約束をするのはかなり久しぶりだ。

 明日、エレナに会って長野のグループホームに母を入居させ、自分も長野の行くことを伝えよう。

 本当はエレナに話す前に、ツカサに伝えたいのが本音だ。DMではなく直接逢って、しっかり目を見て話をしたい。しかしツカサはセラピストで、美奈子ことレナはそのお客である事はどうあっても変わらない事実で。その関係性に変化や発展が生じることなど後にも先にも恐らくない。

 レナはツカサの本名も、LINE IDなどの連絡先、勤め先も知らない。ずっとお店を通して予約を入れていたし、TwitterのDMが唯一の連絡手段だ。 声が聞きたいと思う夜も、普通の恋人のように気楽に電話をしたりなんて出来ないし、何度ツカサと濃厚な時間を過ごし、セラピストとユーザーの境界線が曖昧になりそうになっても、お店を通さずに逢うなどしたくなかった。 

 タダ会いのメリットとデメリットをレナとして理解しているし、経験があるから。

 レナも常連客やまだ来店回数がそんなに無いお客から、


「食事でもどう?」

「今度の休みに、一緒に旅行に行こうよ」

「お店じゃなくて、外で会いたい」


 などという言葉を何度言われたことか。そんな言葉を言われる度、最初は笑顔で誤魔化していても、何度も言われた際には心が疲弊してしまう。

 在籍女性の中にはそんな男性の心理を巧みに利用し裏引きをしている者もいるらしいが、どんな理由があるにせよレナにとってタダ会いや裏引きは何のメリットも感じないどころか、お店でしか存在しない『レナ』を店外で演じなければならないなんて、苦痛にしか思えなかった。

 その反面、遊び方を弁えたお客は、


『今度貸切で予約するから、食事に行こうよ』

『まだ時間があるから、ちょっと外でお茶でもしようか。この後大丈夫ならダブルに延長するよ』


 と割り切った接し方でしっかり遊ぶ。そんな慣れた綺麗な遊び方をする人達を『お客様』と呼べるし、そんな人達を大事にしたいから、タダ会いや裏引き等、綺麗に遊んでくれるお客様への裏切り行為はしたくない。

 そんなタダ会い等を要求してくる客に対しての経験と思いがあるから、女風ユーザーとしてツカサとの時間はルールを守りながら利用したい。ルールを守っていれば、上質な夢を見せて貰えるのだから。

 

 ツカサにはDMで知らせよう。

 迷った末に、美奈子の指は何度も液晶画面の文字盤の欄を彷徨った。

 時々、過去に交わしたDMのやり取りを読み返して見ると、その時の光景や気持ちが鮮明に蘇ってくる。


『ツカサさん

DMではお久しぶりです。お元気ですか?

なかなかDMが出来ず、予約も出来なくてごめんなさい。


母の認知症が進行し、今は福祉センターと訪問介護の方の力を借りて何とかなっていますが、色々と限界がきてしまっています。


福祉センターのスタッフさんから施設入居の話を貰い、その中で長野県のグループホームが気になったので見学に行ってきました。想像以上に良い環境でスタッフさんの話も伺ってみましたが、文句なしで母に合っているように思えたので、入居の手続きをしてきました。

最初は母だけ長野のホームに入居し、私は時々会いに行く、という事も考えましたが、母も年齢が年齢なので、いつ何が起きてもおかしくない状況です。

私にとって母は唯一の家族です。なので母の入居を機に、私も長野に引っ越すことにしました。詳しい日程はまだ決まっていませんが…


本当は直接逢って伝えたかったのですが、正直今の私にはツカサさんを予約する余裕が無くて…。

DMでのお知らせでごめんなさい。


レナ』


 何度も消しては新しい言葉を打つことを繰り返し、ようやく打ち終えた。

 今の美奈子ことレナがツカサに伝えられるのはこれが限界だ。二、三度見返して、後は送信ボタンを押すだけだが、押すのを躊躇してしまう。

 これを読んだツカサはどう思うだろうか。

女風卒業…そんな言葉をTwitterで何度か見かけた。今回、美奈子が違う土地へ引っ越すという事はツカサに会う機会が無くなること。それは女風卒業を意味する。

 落ち着いたらまた東京に……そんな考えも過ったが、美奈子は仮に母の最期を見届けたとしても、母が残りの人生を過ごした場所で美奈子もその先の人生を送りたい、そう思ったのだ。

 ツカサで女風デビューをし、ずっとツカサしか指名してこなかった。

 沢山の店舗、セラピストはいるが、美奈子にとってツカサはずっと心の支えであり、同業者として愚痴やアドバイスをしあったり、一緒にいて心も躰も解放させてくれる大事な存在だ。 きっと他の店舗にはツカサを上回るテクニックやエスコートの魅力に満ちたセラピストがいるだろう。しかし、これだけ店舗やセラピストが居ると、プロフィールに記載されているようなテクニックがあってもユーザー側が100%満足するかは分からない。


 再びスマホ画面に視線を戻し、DMの文章を見返した。

 送信ボタンを押す事を未だ躊躇してしまっている。このまま消去し、ツカサに何も伝えずに、ただ静かに去る…それも一つの方法だ。しかし、今日までのツカサとの日々やツカサから貰ったかけがえのない時間…それらの事を思い返すと、何も言わずに消えるなんて失礼だし、そんな去り方なんてしたくない。

 

 ゆっくり深呼吸をし、迷いを振り切るように送信ボタンを押した。

 送信完了のマークが小さく表示される。


『…送っちゃった…』


 果たしてツカサはどう思うだろうか。そしてどんな返事をくれるのだろう。いや、そもそも、この内容に対して返事をくれるだろうか。様々な思いが頭を駆け巡るが、DMを送信した事に不思議と後悔は無く、むしろ気にしていた事が一つ解決し安堵さえ覚えた。

 ふとテーブルを見ると、食べかけだったクリームソーダはすっかりアイスの部分が溶けてしまっていた。

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