余花

「以前 美奈子さんのお話をうかがいまして、色々探してみたんです」


 福祉センターの川崎から連絡を貰って数日後。美奈子は母を訪問介護スタッフの木嶋に早い時間からお願いし、川崎のところへやってきた。

 川崎は分厚いファイルを手にしながら、美奈子の前に入居可能な施設の資料をいくつか置いた。

 簡単に目を通して見ると、入居だけでなく、ショートステイやロングステイといった様々なプランがあったり、まるでホテルを思わせるような内装の写真が載っていたりと、どれも見ているだけで魅力を感じてしまう。


「関東や東京都内ですと、値段的に良い場所は空きが無かったり、空きがあっても場所が遠かったりと、なかなか希望に添える施設が見つからなくて…」

「そうですか」


 簡単に見つかるとは思っていなかったものの、やはり難しい。

 母の認知症の進行を考えたら、今すぐ入居が望ましいが都内でも空きがある所はそれなりの値段で、なかなか即決がしにくく、逆に都内から離れた関東や東京23区外だと往復だけで一苦労しそうだ。 場所と金額、更には空き状況…悩みは尽きそうにない。


「美奈子さん、今見せた資料とは別に、検討の参考になればと思っている良い所があるんですが…」

「え!本当ですか」

「はい。ただ…」

「ただ?」


 川崎はそれまでとは違って言葉を選びながら、美奈子の前に一冊のパンフレットを出してきた。


グループホーム『微笑みの郷』

 入居費 0円

 月額費用 5万〜30万円

 今すぐ入居可。


 写真にはレクリエーション風景の他、隣りには医療体制が整った施設があり、部屋も広くて綺麗だ。


「この施設は私の友人がスタッフをやっている所なんですが、場所が長野なんです」

「長野?」


 川崎が言葉を選んでいた理由は、今すぐ入居出来て、環境も申し分無いが、施設の所在地が長野なので、簡単に勧めづらいというのがあってのことだった。

 確かに改めて所在地欄を見てみると長野県安曇野市とある。東京や関東圏なら何とか往復の方法を考える余地はあるが長野だと美奈子共々引越しをしなければならない。


「勿論、こちらのはあくまで参考の一つにしてください。まだこちらの方でも引き続き空き状況や金額等を考慮して入居可能な施設を探してみますから」


 川崎から今日まで収集して貰った入居可能な資料を封筒に入れてもらい、福祉センターを後にした。


「長野…かぁ…」


 川崎が遠慮気味にだしてくれた長野のグループホームの資料も持ち帰ってみることにした。

帰り道、美奈子はずっとあの長野にある施設を思い返していた。

 自然に囲まれた緑豊かな施設。写真に写っていた生き生きとした表情の入居者たち。整った医療体制…。

他に貰った資料の中にも都内や関東で魅力的な施設はあるのに、何故か妙に惹かれるものがあった。



「川崎さんとのお話はどうでしたか?」


 一通りの片付けを終えた訪問介護スタッフの木嶋が、わざわざ美奈子に紅茶を淹れてくれた。


「色々施設を探して下さって、今日だけじゃ分からないから取り敢えず資料を持って帰ってきました」

「グループホームってだけでも多種多様な施設があるでしょ?この中からお母様に合いそうなのを選ぶのも大変な作業ですから、分からない事があったら何でも訊いてくださいね」


 木嶋は美奈子の肩に軽く手を置きながら話してくれた。美奈子は木嶋のどんな時でも寄り添ってくれようとする姿勢に毎回救われていた。 それは母も同じなのか、木嶋が来てくれるようになってから以前のように徘徊やパニックからの妄想や暴言の症状が少なくなった。木嶋が帰宅し、美奈子と2人だけの時はたまに出たりするが毎日ではなくなった。その現実は美奈子のそれまで張り詰めていた緊張の糸を解し、安眠という平穏をもたらしてくれている。 

 美奈子が吉原で以前のように『レナ』でいられるのも木嶋のサポートがあるおかげだ。


「実は、ちょっと気になる施設があって…」


 美奈子は長野のグループホーム『微笑みの郷』のパンフレットを木嶋に差し出し、場所がどうあれずっとこの施設が気になっている事を話した。


「良さそうな場所ですね。でも場所が長野ですか」


 一通りパンフレットに目を通した木嶋は、いつも通りの落ち着いた表情で美奈子に視線を戻した。


「今東京都内や関東だとお部屋の空きが無かったり、あっても料金が高かったりで…かと言って長野は簡単に往復出来る場所じゃないけど、何だか妙にここに引かれるんです」

「ホームには色々なタイプがありますし、パンフレットだけでは分からない部分もありますよね。最終的にはお母様に合うか否かですが。美奈子さん、これは提案ですが、お仕事や諸々の日程もあるでしょうが、一度この施設を実際に見てみてはいかがでしょう?実際見てみなければ分からない雰囲気とか、内勤スタッフの様子とかも見れて、疑問点があればその時に現地のスタッフに訊くことも出来るし」


 木嶋に言われ、初めて気付いた。そうか、実際その施設を見に行けばいいのだ。

 細かな場所は後で調べるとして、長野であれば朝方に新幹線で向かえば夕方、もしくは夜には戻って来れる。


「川崎さんにお話ししてみたら、向こうと調整してくれるかもしれませんよ。こういう事は資料だけで決めず、実際見てみるのが大事ですし」



 

 翌日、午前中に来店した客を見送った後、昼休憩の時間に福祉センターの川崎に電話をいれ、長野にあるグループホーム『微笑みの郷』を見学したい旨を伝えた。川崎は勧めたとはいえ、東京から離れている長野のホームに興味を持ったのが意外だったようで、最初は驚いていたが、現地のスタッフに伝えてくれるとのことだった。


 吉原『エデン』のレナとしての仕事の方は、いつもその月の前半と後半に分けて出勤日を公表しているので、まだホームページやTwitterに載せていない月後半の出勤日程であれば早い内に変更が可能だし、今のところLINE交換をしている常連客からの先行予約も入っていない。 なので、長野に行く日にちは来週の木曜日にした。

 日程が決まれば次は母の件で、木嶋に電話を入れた。

 長野には朝方の新幹線で向かうとなると、木嶋が訪問する時間を早めたりするのは難しいとのこと。なので前日から母にはショートステイをしてもらうのはどうか、という提案が出された。もしそれが可能ならと、木嶋に返答したところ、すぐさま美奈子たちの自宅から程近い場所にあって、ショートステイが可能な施設を探してくれた。

 平日で二日間だけなら入所可能とのこと。 何とか全てが順調に整ってくれて、美奈子はホッと胸を撫で下ろした。


 その夜、木嶋が帰った後 美奈子はテーブルを挟む形ではあるが久しぶりに母と2人っきりになった。

 いつもなら美奈子が帰宅する時間、母は食事も入浴も終えていて既に就寝していることが多く、美奈子はここ最近 母の寝顔しか見ていなかった。

 椅子に座った恵子は何をするでもなく、テーブルの中心部分をただ無意味にジッと見つめていた。美奈子は温かいお茶を口にしながら、そっと母の様子を伺う。

 思い返せば認知症がいよいよ深刻化してきた時、2人でいる時は決まって母はパニックを起こし、美奈子に暴言を発したり食器を壊したりしていた。 最近はそんなことは無く落ち着いてはいるが、以前が以前だっただけに2人っきりになると変に緊張してしまう。

マグカップに口を付けながら母を見た。

以前より白さとシワが増した肌。白髪もだいぶ増えてきたが、木嶋が来てからは髪型を整えてくれるおかげでスッキリとしたショートヘアになっている。

 しかし母と美奈子の視線が重なる事は無い。以前は視線が合わなくてもどちらかが笑ったりしただけで自然と会話が始まっていたのに。


「お母さん…」


 沈黙に耐えかねて、美奈子は無駄なのも承知で呼びかけた。しかし母が美奈子の声に反応することは無く、再び沈黙が2人の空間にやってくる。


「今度の木曜日、長野に行ってくる。お母さんに合いそうなグループホームがあってね。どんな所なのか見てくる。本当は…お母さんも一緒に行けたらいいけど、距離もあるし。疲れちゃうと思って…」


 俯きながら話す美奈子の指先にふと微かな温もりを感じた。


「!?」


 驚いて顔を上げると、無表情ではあるが母が美奈子の手を握りろうとしているのか、手を伸ばしていた。

 表情から気持ちを察する事は出来ないが、何かを伝えようとしているのは確かだ。


『…美奈ちゃん…』 


 懐かしい声が聞こたような気がした。もう聞く事が無くなってしまった、でももう一度聞きたかった母の優しい声が。無表情だが、手の温もりを通じて語りかけているように思えた。

 現実ではないのは分かっている。例え記憶の中にある母との思い出が美奈子に都合の良い幻聴を聞かせているのだとしても、あの優しかった母の声が聞けるのだから。


『美奈ちゃん…ごめんね…苦労ばかり…かけて』


 力無く美奈子に伸ばされた母の手は、以前より白さを増していて血管も浮き出ていた。弱々しいが、その温もりは変わっていない。


「お母さん、謝らないで。私、まだまだ頑張るから」

『…いい子、…いい子…優しい子…』


 母の手がそっと美奈子の髪に触れ、まるで頭を撫でられているような気がした。

 目を閉じた。

 何故か分からないが、泣いているまだ幼い美奈子。その手を引いているのはまだ若く、認知症とは程遠い健康体の母だ。美奈子が泣いている時、辛い時、母は決まって『いい子、いい子、優しい子』と おまじない のように語りかけてくれ、その言葉は自然とそれまで涙に濡れていた美奈子を笑顔に変えた。

 幼い美奈子にとって母は何があっても味方であり、頼れる存在だった。この人の手に引かれていれば安心だ。

 時は流れ…美奈子は大人になり、いつの間にか母の背丈を美奈子は越えてしまった。そして今では自分が母の手を引く番になった。それでも母の手は柔らかく、温もりも変わらない。 意思疎通が難しくなってしまったが、手の温もりや記憶の中にある母の笑顔と優しさは色褪せる事はなかった。


 ふと目を開けた。

 いつの間に眠ってしまっていたのだろう。気が付けば母の寝室で彼女に寄り添いながらうたた寝をしてしまっていたようだ。

 窓の外はまだ夜が深く、音も無く静かだ。

 認知症状が進行する母に暴言を浴びせられ、徘徊の心配もあった。そんな不安な日々を過ごしていた事を思い出すと、こんなに静かで安堵に満ちた夜を過ごせているのが夢のようだ。

 規則正しい寝息を立てている母を起こさない様に、そっと顔に掛かっていた髪を優しく整えてあげた。

 あれは…母が言葉をかけてくれたのは夢だったのか。夢にしては母の声は妙にリアルだった。

 もう会話さえままならないが、あれは確かに母の声はだった。

 一時期、悪化していく母の姿が哀しくて、意思が通じない事がただ辛くて母の存在を憐れんだりもした。しかしたとえ夢でもあの瞬間、母の優しさを感じられた。辛さも哀しさも忘れられた。

 美奈子は再び母の隣りに寄り添う様な形で横になり、再び目を閉じた。





 朝は決まった時間に出社し、まず各々のパソコン内に各階の部署から必要な備品や事務用品の依頼メールに目を通す。 依頼の品が届いたら、社内便やその他の郵便物と一緒に台車に乗せ、各部署まで運ぶ。それが田崎俊彦がいるメール課の主な業務だ。

 ここに配属された当初は長年この部署にいる井上課長を始め、他の社員達と馴染める自信が無く不安な日々だった。そもそも自分はこの部署の存在は知っていても関わることの無い人間だと思っていた。仕方が無い異動とはいえ、本心は不服だった。だからと言って仕事の質も量も違えど、手を抜くことはしたくなかったし、周囲からどんな視線を向けられようが仕事は仕事だ。

 小さい頃からの真面目さで乗り切れた部分はあるが、セラピストを始めたことで今は仕事の合間に写メ日記を書いたり、DMを送ってくれた客への返信をしたり、次週のスケジュールを考えたりと、この時間と個々の自由の中で充実した日々を送れている。もしセラピストをやっていなかったら…きっと元妻の一恵に指摘された以上の冷たい人間に成り果てていただろう。


「田崎君、営業企画課の安島部長が先ほどからお待ちだよ」


 一通りの作業を終え、部署に戻ってきた俊彦に井上課長が話しかけてきた。

 言われて、奥のソファに座っているかつて俊彦と同期であり、ライバル的存在で今では営業企画課を率いる部長の肩書きを手にしている安島が、俊彦の姿を見るや否や「よっ!」と手を挙げた。


「久しぶりだな田崎」

「安島、ここに来るなんて珍しいな」


 同じ営業企画課だった時は毎日のように顔を合わせていたが、俊彦が異動してからは顔を合わせる機会が全くと言っていい程無くなってしまっていた。こうして顔を合わせるのもどれくらい振りだろう。


「田崎、この後時間あるか?もし時間が大丈夫なら一緒に飯でもどうだ?」

「午前中の仕事は全部片付いたから僕は大丈夫だけど、お前はいいのか?」


 営業企画課の部長と言えば、普通の社員より常に多忙な印象で、様々な案件に関しての最終決定を下したり、次回企画の打ち合わせを早い内からスケジュールを押さえたりと…常に時間に追われているイメージがあった。 

 そんな部長に昇進した安島が会食以外で、ましてや時間の流れも真逆な自分と悠長に食事なんて。聞けば安島はこの後のミーティングや外回りを信頼出来る部下に任せてきたので時間は大丈夫だという。そんな2人のやり取りを密かに聞いていた井上課長が俊彦の肩を軽く叩いてきた。


「田崎君、こっちの仕事は気にせずに。午後は特に忙しくはないし、久しぶりに安島部長とゆっくりランチをしてきたらいいよ」


 井上課長の言葉に安島に軽く会釈をし、俊彦も井上課長なりの気遣いに今回は甘えることにした。


 異動になってから、注文資材や社内便、郵便物を届けに営業企画課のある階に行った事は何度もあったが、実際 安島やかつての同僚や部下達がいるフロアに行く事はどうしても必要な場合を除いては避けていたし、あの様な形での異動だったから、今更どの面を下げて行けば良いのか…という俊彦の中での葛藤もあった。

 安島はそんな俊彦の気持ちを知ってか、こうしてわざわざ俊彦のいる部署に足を運んでくれた事が、俊彦にとってどこか嬉しかった。



「懐かしいな、この定食屋でお前と食事するのなんて」


 安島は以前より質の良いスーツを着ており、そこに居るだけで貫禄が滲み出ていた。そんな安島が今俊彦といるのは、接待でよく行く高級レストランでも料亭でもない。会社から少し離れた裏路地にひっそりと店を構えている昔ながらの定食屋だ。

 会社近くの大きな通りに面しているレストラン等は常に会社の人間が出入りしており、必ず同じ部署の社員や取引先の人間と会ってしまう。そんな周りの視線も気にせず食事に集中出来る場所となれば、同僚時代に良く一緒に来てメインの定食を頬張りながら、ひたすら仕事の話をしていたこの定食屋しか無かった。


「ここでよく食事して、終わったら外回りに出ていたな」


 遠くを見つめるような、そして何処か寂しそうな安島の表情が俊彦は気になった。


「最近はどうだ?」

「どうって?」

「仕事…って言っても今のお前に仕事の話をするのは酷だよな」


 以前の俊彦なら安島の悪気が無い皮肉に感情の細波を立て内心怒りを覚えていただろう。しかし今は全くそんな気持ちは起こらず、むしろ冷静に受け止められる。

 ふと安島を盗み見てみた。

 以前は体育会系のイメージで、こうと決めたら即行動に移し、結果を出すタイプだったのに、今は以前と異なる上質なスーツを着ているせいか、前とは打って変わって慎重に物事を考えて行動する人間のように俊彦には見えた。それに、仕事で生き生きしていた顔色も今は余り良さそうに見えない。


「…スマン、皮肉だよな。正直、今回田崎に会いに来たのは…ちょっと頼みというか、相談があって」

「相談?」


 同じ部署だった頃、安島は仕事で行き詰まったりすると決まって俊彦に相談を持ちかけてきた。

 当時の俊彦は自分や自分のチームが抱えている案件に関しての情報を探られたくなくて、安島を警戒することもあり、最初はなかなか本音を言う事はしなかった。

 しかし仕事は単独で取れる営業もあれば、チームで動かなければならない案件もある。チームでとなれば独りで抱え込む事は出来ないし、独りだと考えも狭まってしまう。そんな時安島が俊彦と。俊彦が安島と話をしてみると、それぞれには無かった発想や打開策を持ち合わせていたりして、いつしかお互いにメリットがあるというより、仕事上では必要不可欠な存在となっていた。

 何十年も前の事ではないのに、今は遠い過去の出来事のように思えてしまう。


「田崎…営業企画へ戻ってこないか?」

「…えっ?!」


 意外な言葉に耳を疑った。まさか安島からかつて自分がいた営業企画課へ戻って来ないかという言葉が出てくるなんて。


「いきなりで驚くよな。以前お前の部下だった奴らや新入社員達もお前の評判を聞いて一緒に仕事してみたかったって言ってくる奴もいて……ってこんな事はかっこつけだな…」


 それまで勢い良く話していた安島が溜息をつき、次の瞬間俯いてしまった。


「確かに、以前お前の部下だった社員や新入社員達から戻ってくるのを望む声があるのは事実だ。でも、それを強く望んでいるのは、他でもない俺なんだ」

「……」

「正直に話すよ。俺、部長になるのはお前だと思ってた。お前は全てが完璧だし、俺以上に仕事熱心だし。だから、あの時社長の口から俺の名前が出た時、信じられなかった。

今まで俺はお前に勝ったなんて一度も思った事が無かったから。 お前より良い案件を取ってきても、どんな大きなイベントを成功させても、その次にはいつだってお前は俺を追い越してくる。だから部長の肩書きを手に出来た時、お前が今の部署に異動が決まった時、初めてお前に勝ったと思えたんだ」

「……」

「…でも、そう感じられたのはほんの一瞬で。部長っていうポジションは課長の時と違って責任も倍で。最終確認や認証的な…デスクワーク中心で、以前のように外回りに出向くのが少なくなってしまったんだ。ようやく出向くといえば、接待が殆どで。

同僚だった連中は「部長」ってだけで何かと気を遣ってくるし、何て言うか…今までに無い距離感みたいなのを覚えてるんだ」


 もしあの時、自分が部長の肩書を手にしていたら、今の安島みたいに周囲の以前とは違う接し方に違和感と距離感を覚えていただろうか。

 恐らく周囲の人間は今まで通りに接しているつもりだろう。しかし昇格により得た肩書が周囲に少なからず変化を与えている事は間違いない。

 安島は先輩や後輩の上下など関係なく和気藹々とした中で結果を出していきたいという性格だ。例え昇格をしたとしても今までとは変わらない雰囲気で仕事をしていきたいと考えていたのだろう。しかしながら「部長」という肩書が良くも悪くも周囲との距離を自然に生み出してしまっていた。


「お前と一緒に仕事をしていた時が一番楽しかったよ…。お前という、競い合える相手もいて、皆でゴールを目指してさ…」


 力無い声で安島が呟いた。

 互いに性格も思考も異なっていたが、常に「結果」を出す事には2人ともこだわっていた。 会社の業績を上げるというのもあったが、それ以上にゴールに向かって皆で知恵を絞り、思い付く限りの手段を使って得られた「結果」は何よりも最高の瞬間だった。特に先輩も後輩も関係ない一つのチームとなって向かったゴールで得られた達成感は今でも何とも言い表し難い時間だ。


「田崎、上の方には俺から話をつける。だから…営業企画課に戻ってこないか?」


 もし安島がセラピスト・ツカサをやる前に声をかけてくれたら、即快諾した事だろう。しかし今は、田崎俊彦の考えの前にセラピスト・ツカサとしての思考が頭を占めた。

 脳裏に浮かぶのは、レナを始め今日までツカサを指名してくれた女性達の表情だ。


 触れた肌の温もり。様々な事情を抱えた女性の瞳。何人もいるセラピストの中からツカサを選び、他では語らなかった心の本音の数々。

 一つ一つがツカサにとって愛しい瞬間だ。

 互いに見つめ合い、手を握り、温もりを交換する。全てが終わる頃 憑き物が取れたようにツカサに向けられた満面の笑み。そして別れ際に言われた「ありがとう」の言葉。

 曖昧な理由で飛び込んだ女風セラピストの世界。

 自信など無かった。でも中途半端で終わりたくなくて、そんな姿を見せぬように精一杯出来る限りの技量で何人もいる女風セラピストの中から自分を選んでくれた女性をもてなした。

 様々な理由で女風を利用する女性達が自分だけ見せてくれた真の姿。そこにある奥深さ…。もし今、安島の話を快諾して、元いた営業企画課に戻ったら…忙殺される日々を過ごし、きっとセラピスト業との平行は難しくなるだろう。営業企画の仕事は好きだし、何より安島というライバルがいれば、また結果を出す為に奮闘する事でやり甲斐も出てくる。以前は戻りたいと思っていた。でも今は…


「安島の誘いは嬉しいよ」

「っ!じゃあ!」

「…でも、今回の申し出は受けられない」

「えっ!何でだよっ?!」

「本当にごめん。安島からの誘いは嬉しいよ。以前ならすぐOKしただろうけど。今は戻れない」

「何を迷ってるんだよ?」

「迷っているんじゃない。今は、戻れない理由があるんだ」

「理由?なんだよ、その戻れない理由って?」

「ごめん、今は言えない」


 動揺している安島の表情には戸惑いと同時に怒りに似た感情が見え隠れしていた。

 女風セラピストをしていることを、安島に打ち明けたら、どんな反応するだろう。安島には嘘はつきたくないし、本当の事を言いたい。しかし打ち明けたとしても安島が女風セラピストを理解してくれるかは分からない。


「俺は、どんな事でも驚きはしないと思うけど、その理由っていうのは、いつかは話してくれるような事か?」

「いつかは話せると思う。でもいつかは分からない」

「それは…今の仕事よりも大事な事か?」

「今の仕事と同じくらい大事だと思ってる」


 俊彦が安島に話せるのはここまでが限界だ。

 安島は再び俯くと、深い溜息をついた。


「…凄いよな、お前は」

「え?」

「正直、仕事以外の事になんて興味を持たない奴だと思ってた。嫌な奴だと思うかもしれないけど、今までのエリートの路線から外れたら、お前はどうなるんだろうって内心考えていて、きっと腐っているんだろうって勝手に思っていたんだ」


 腐っていた。いや腐りかけていた。

 それまで当然のように歩んでいたエリート街道。しかし突然生じた路線変更。 更に離婚。

 もし女風という世界を知らなかったら、きっと今こうして冷静でいる自分は居なかっただろう。自暴自棄になり、以前より増して周囲に心を閉ざしていたかもしれない。

 セラピストを始めて、女性達の様々な考えや性の奥深さを知った。肌の温もりを知った。心を通わせる事の悦びを知った。 最近よくお客さんから「心を救われた」という言葉を貰う。しかしセラピストという立場でも女風によって本当に救われていたのは俊彦自身だ。


「でも、今日久しぶりに顔を見て、何だか生き生きしているなって思っていたが、そうか。仕事以外で大事に思える事が見つかったのか。羨ましいな…お前は」


 安島は口元は笑っているが、落胆したような表情だ。


「理由は今は言えないだな?」

「うん、ごめん」

「だったらまた声をかけるよ。今はダメでもいつかは承諾してくるかもしれないだろう」


 そう言うと、すんなり会計札を持って席を立った。不意をつかれたとはいえ俊彦も立ちあがろうとした時、安島に止められた。


「今回は俺が連れ出した。だから俺が払う。でもこれはいずれ倍にして返して貰うからな。つまり、お前が戻ってきたら以前以上の仕事をして結果を出せって事だ」


 意地悪く笑う安島を見て、彼らしいなと軽く笑ってしまった。

 安島は一足先に店を出て会社に戻って行った。残された俊彦は脱力のように店内の内装を眺めていた。 安島にセラピストの事は話せないが、ずっと気にかけてくれてくれた事、今回限りではなくまた声かける、と言ってくれた事。

 安島も部長に昇格し、自分のことなど気にも留めてないと思っていたが、その逆だった現実に微かに笑みが漏れた。

 今はセラピストの事を話せないが、いつかは安島にちゃんと話そう。


 ふとポケットに入れていたセラピスト用のスマホに通知が来た。事務局からのLINEだ。

 予約の内容を確認し、確認が終わったら事務局へ了解の返信をするのだが、スマホのディスプレイに表示された予約の名前で動作が止まった。


『ツカサさん、お疲れ様です。 

新規のご予約が入りました。

希望日:○月○日

時間20:00〜 デートコース120分

名前:大澤一恵

場所:六本木』


一通り内容を確認し終えた瞬間、口元が笑みに変わった。


『ツカサです。

お疲れ様です。 予約内容確認しました。よろしくお願い致します』



「…一恵」


 予約者の名前 大澤一恵は俊彦の元妻 一恵の旧姓だ。

 以前レナが「もし、元奥さんがユーザーとして予約を入れたらどうしますか?」と訊いてきたことがあった。その時はもしもそんな奇跡が起きてくれたら嬉しいという気持ちと、まさかそんな事なんて…という両方の想いが交錯していた。しかし、奇跡は実在するのか、こうして一恵の名前で予約がくるなんて。 いや、一恵では無く同姓同名の別人かもしれない。

 了解した旨を事務局にLINEすると、今度は詳しい今後のやり取りの方法、連絡先と備考欄に記載された予約者からの要望が送られてきた。


『ツカサさん、お疲れ様です。

ご予約の大澤様からはショートメールでのやり取りをご希望です。

080-○○○○-○○○○


ご要望は以下の通りです。

普通の食事デートをしたいです。


ご確認の上 やり取りをお願い致します。

ご利用料金についてはご案内済みで、了承もいただいています』

事務局には簡易的に『諸々了解しました』とだけ送った。


 記載されていた電話番号は、間違いなく元妻 一恵のものだった。そして現実味が増した。まさかこうして一恵から予約が入るなんて。尚且つ要望が『普通の食事デート』ときた。

デートコースは食事も含めて今まで何度もやってきたが、『普通の食事デート』とはどういう意味なのだろう。

 なかなか答えが出ないが、予約当日まで一恵とメッセージのやりとりは自然と毎日続いた。

 一恵が今ガーデニングに凝っている事、最近見た映画の話や仕事の愚痴まで。

 夫婦でいた時の連絡といえば、帰宅時間や夕飯の有無くらいで、殆ど俊彦が一方的に送り、終わらせてしまっていた。事務的な内容しかない連絡に一恵は毎回どう思っていたのだろう。 そして事務的な内容とは180度違うツカサからのメッセージに、一恵はどんな表情で返信をしているのだろう。

 想像しただけで、自然とメッセージの文章を打っている俊彦の方がワクワクしていた。


 以前、他店舗のセラピストが『DMはいわゆる前戯』と語っていた事を思い出した。

初めて女風を利用する女性にとって、セラピストとのやり取りは女性がセラピストを、セラピストが女性を知る大切なやり取りだ。

 ツカサが新人だった頃、店舗数はそれ程多くなかったが、この数ヶ月近くで爆発的に新店舗が増えた。店舗が増えれば当然セラピストも増える。それはすなわち、ユーザーにとっても選択肢が増えたわけで。 セラピスト自身も個々のキャラクターを出し、どうユーザーにうったえかけ、強いては予約に繋げられるか。日々試行錯誤は続いている。それはツカサとて同じだ。

 ツカサも最初はDMでの営業は極力しないようにしていたが、今は自分のTwitterをフォローしてくれたユーザーに対し、積極的に挨拶や雑談などのDMを送っており、ユーザーも予約に誘導せず、ただ雑談や悩み事を聞いてくれるツカサとのやり取りに心を許し、有難いことに予約に繋がることが今は多い。

 たった数ヶ月や1年の事なのに、ツカサにとっては5年か10年くらい経ってしまった様な錯覚に陥りそうになる。

 会社員である田崎俊彦としての時間。セラピスト・ツカサとしての時間。平等に時は流れているとはいえ、それぞれの実感はまるっきり違う。



 元妻・一恵の予約当日。

 あれから何度かメッセージのやり取りをしたが、あくまで田崎俊彦ではなく、セラピスト・ツカサとしてだ。


『ツカサさん、今日はよろしくお願い致します。

 本日ですが、六本木のレストラン『Ocean』を『大澤』の名前で予約しましたので、直接席での待ち合わせでお願い致します。 そしてその席で私からもう一つの要望を直接お伝え致します。どうぞお気を付けて向かわれてください。  大澤一恵』


 六本木ヒルズから近い場所に一恵が指定したレストラン『Ocean』はあった。

 その名の通り、『海』をテーマにしているレストランで地下一階には水族館のような水槽に色とりどりの魚達が泳いでいる。

 時間丁度にレストランに到着し、受付で『大澤』の名前を伝えると、ウェイターが「こちらへ」と言って案内してくれた。

 地下一階に通じる階段を着いて行くと、地下一階は先程の六本木の喧騒とは程遠いくらい静かで視界に広がる水槽の世界が神秘的な空間を演出しており、その一番大きな水槽の前の席に一恵がいた。


「大澤一恵さんですか。ツカサです」

「大澤です。今日はありがとうございます。ツカサさん」


 離婚して赤の他人とってしまったが、こうして女風セラピストとお客さんとして会うのは何だか変な感じだが、今はツカサとしてお客様である大澤一恵に楽しんで貰える時間を作ることが大事だ。


「ツカサさん、一つお願いがありまして」


 一恵が改まった姿勢で口を開いた。


「何でしょう?」

「少し長くなりますが…私、以前結婚していて…でもお互い嫌いになって離婚したんじゃないんです。色々なすれ違いがあって…」

「……」

「結婚する前から仕事一筋で、デートというより外食を何回かしましたが、そこでの会話も仕事の事中心で。元々お互いの取引先同士の結婚でしたし、仕事熱心なのは知ってました。結婚しても仕事中心の生活は変わりませんでした。でも忙しいから身体の事が心配で、出来る限り食事管理をしたりしていました。そうしていると、『夫婦だな』って思えて。でも当時のあの人は結局仕事を選んだ形で。それが何だか辛くて、虚しくて。だから最後に言ったんです。「あなたは冷たい人だ」って。

…でも先日、元夫に再会したんです。以前と比べて、何だか明るくなったというか、垢抜けたというか。

少し長くなってしまいましたが、お願いというのは…ツカサさん、元夫に良く似ているんです。だから、元夫の名前で呼んでもいいですか? 俊彦さんっていうんですが」


 偶然だったとはいえ、一恵と再会した時、またやり直せるとは思ってはいないが、何らかの形で過去を修正出来たら、と思っていた。

 女風セラピストとお客という立場ではあるが、ほんの少しでもあの過去が未来の笑顔に変わるなら…。


「ええ。いいですよ。僕をその『俊彦』と呼んでください。その代わりと言ってはなんですが、僕も大澤さんのことを『一恵』って呼んでいいですか?」


 一恵の表情が一瞬緊張から解放され、和らいだのをツカサは見逃さなかった。

 一恵と仕事を通して出会い、お互いの会社の社長同士の手前もあり結婚した。恋人達なら誰もが経験するデートをする時間など、全くしてこなかった。

 だから一恵は女風のデートコースを利用し、食事をしながらデートをしたいと要望してきたのだ。 かつて夫婦だった、田崎俊彦と大澤一恵として。


「はい、嬉しいです。俊彦さん」


 オーダーしたワインが運ばれ、2人は静かにグラスを交わした。こうして2人で食事をするなんて久しぶりだ。

 食事を味わいながら、時折水槽に泳ぐ魚達を見ては何でもない会話をしたり、一恵が最近凝っているというガーデニングの話、俊彦が仕事の疲れから帰りの電車で熟睡してしまい、山手線を一周してしまった失敗談…不思議と会話は途切れず、2人は今までに無いくらい笑い合い、時間はあっという間に過ぎてしまった。


 ただ仕事だけの日々。会社の言う通りにして、結果を出していれば間違いないと思い続けていたあの頃。そんな中で一恵と出会い、結婚したものの自分は仕事の事だけを考え、一恵と正面から向き合うことをしてこなかった。離婚されて当然だ。一恵が2人が暮らした部屋を出る際に俊彦に言い放った「あなたは冷たい人よ!」の瞬間は今でもよく覚えている。

 あの言葉が無ければ、女風セラピストという異なる業種に飛び込む事も無かったし、セラピスト・ツカサはいなかっただろう。ましてや女性を深く知る事も。



 食事が終わり、まだ時間があったので六本木ヒルズまで行ってみる事にした。人が忙しなく行き交う道のりを一恵と手を繋ぎながらゆっくりと肩を並べて歩いた。


「…一恵、ありがとう」


 不意にツカサの口をついた言葉。


「え?」

「…今日、こうしてデートをしてくれて」


 言いたいことは沢山ある。でもどんな言葉より「ありがとう」に勝る言葉が見つからず、素直に一恵に言った。


「私の方こそ。こんなに楽しい時間になるなんて、予想外でした。ありがとう、俊彦さん」


 もし、仕事を通してでなく普通に出逢っていたら、もっと一恵を向き合っていたら、こんな恋人のような時間があっただろうか。そしたら、2人の過去はもう少しだけ変わっていただろうか。考えても答えなど出ないし、時間は巻き戻らない。でも、横にいる一恵は今しっかりと手を繋ぎ、柔らかな笑顔を向けてくれている。

 女風セラピストとお客という関係であっても、その現実にツカサは俊彦として一恵の手をしっかり握りながら歩みを進めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る