距離

 グラスの水を全て飲み干したレナは、話し終えたツカサの肩にそっともたれた。

 ツカサの肩は筋肉質ではなく、かといってひ弱ではない。もたれるには丁度良い形をしている。レナが肩にもたれるとツカサは自然とレナの髪に手を回し、そっと髪を撫でてくれる。それは初めて会った時から変わっていない自然な仕草だった。


「辛い事を聞いてしまって、ごめんなさい」


 自分からお願いしたとはいえ、想像していた以上のツカサの過去にレナはどう言葉をかけて良いか分からなかった。


「いいえ、お恥ずかしい限りです」

「ツカサさんがセラピストになったのは、離婚がきっかけだったんですか?」

「それもありますが、離婚して以降、元妻が別れ際に口にした『あなたは冷たい人だ』って言葉がずっと引っかかっていたんです。確かに僕自身、彼女を知ろうとしなかったのもあるけど、あの時の僕は正直、何故彼女があんな言葉を言ったのか分からなかった。もしかしたら女性を深く知れば、彼女のあの言葉の意味だったり、当時の僕が知らなかった女性の心を少しでも知る事が出来るかも…そう考えていた矢先に『Ciel』のセラピスト募集の広告を目にしたんです」

「今は分かりますか?女性の心」

「…まだハッキリとは。女性によって様々な嗜好や性癖があるように、きっと一概にこう、とは言えないんだと思います」


 レナの問いに一言一言丁寧に答えるツカサの横顔は、初めての時に見た迷いがあるものではなく、嘘偽りなくしっかりと言葉を噛み締め、レナが知りたいと思っていた過去を語りながらも、後悔するのではなく現実(いま)をしっかりと見つめているようだった。

 ツカサはきっと過去の自分を見つめるまで時間がかかっただろう。

 エリート街道真っしぐらだった事を考えたら、女性を理解する為とはいえ、セラピストとして女風という名の風俗業界に足を踏み入れるまで相当考えたはずだ。しかしそんな様子は微塵も感じられない。いや、悟られない様に振る舞っているのだろう。レナのすぐ横にいて、髪を撫でている男性は紛れもなくプロのセラピストとしてのツカサだ。


「レナさん、実は、遅刻した理由なんですが…」


 レナはツカサの過去の話にすっかり聞き入ってしまい、正直ツカサが遅刻した事をすっかり忘れてしまっていた。


「お時間って、もう少しだけ大丈夫ですか?」


 心配そうな表情でツカサはベッドサイドにあるデジタル時計に目やった。 ホテルに入ってから早くも2時間が経過していた。正直時間的に厳しいが、ここにきて別れるのは後味が悪いだけでなく、今のレナには以前のように月一でツカサと逢える時間と金銭的な余裕が無い。だから次はいつ逢えるか分からないから、ツカサの話を最後まで聞きたかった。恵子を見てくれている木嶋には後で連絡を入れよう。


「大丈夫です。聞かせてください。今回のツカサが遅刻した理由」

「実は…、こちらに向かっている途中に偶然、元妻に会ったんです」

「え…」




 レナからホテルに入ったと連絡を貰い、返事を返して暫くすると電車は池袋に着いた。

 今日は運良く会社も早めに退社する事が出来た。久しぶりの再会とあって出来るだけレナを待たせたくなくて、退社後足早に事務局へ行き、備品類が入った鞄を持って池袋に向かった。

 何とか池袋に着けたものの、相変わらず人が多い。今からレナが待つホテルに向かえばかなり余裕で17:00からスタート出来る。レナだけでなく、自分を指名してくれたお客を待たせるのは好きではないツカサはこのままホテルに向かおうとした。


「俊彦さん…!」


 北口に向かおうとしたツカサの背後から聞き覚えのある声がツカサの本名である田崎俊彦の名前を呼んだ。

 声のした方に振り向くと、久しぶりに見る女性が立っていた。田崎俊彦の元妻の一恵だ。


「…一恵?」


 久しぶりに見た一恵はダークスーツ姿をしっかり着こなし、キャリアウーマンのオーラを放っていた。

取引先の社長から一恵を初めて紹介された時もスーツ姿で、その姿がとても凛々しくもあり、頼もしく見えたのを思い出す。

 

「お久しぶり」


 変わらない落ち着いた口調が離婚したとはいえ、かつて夫婦であった瞬間に心が戻っていく。


「久しぶり。今日は…仕事?」

「ええ。取引先と会食の約束なんだけど、待ち合わせ時間までまだ時間があって。良かったらコーヒーでも飲まない?」


 一恵からの誘いは思いもよらないもので嬉しかった。こうして偶然逢えたのだし、コーヒー一杯だけでも一緒に飲みたいが、今はセラピスト・ツカサとして先約がある。予約を入れてくれたレナがホテルで自分の到着を待っているのだ。


「一恵、ごめん。今はちょっと…」

「やっぱりお店を通さないとダメかしら?…ツカサさん」

「…!?」


 一瞬耳を疑った。聞き間違いか?いや、確かに一恵は目の前にいる自分を『ツカサ』と呼んだ。セラピストをしている事を一恵が知っているはずがない。それなのに、何故。

 何とか誤魔化そうとしたが、言葉が見つからず戸惑っているツカサ、もとい俊彦を後目に一恵は俊彦の手を引いて歩き出した。


 反論の余地も無く、結局俊彦は一恵に手を引かれるまま芸術劇場近くの公園広場にあるベンチで一緒にコーヒーを飲むことになった。 とはいえ、レナが予約してくれた時間までまだ少し余裕がある。レナを待たせる事になるが仕方がない。

 それより何より、何故一恵は俊彦のセラピスト名である『ツカサ』の名前を知っているのか。それだけが気掛かりだった。

 不意に一恵がスマホ画面を俊彦に見せた。


「これ、俊彦さんでしょ?」


 一恵が俊彦に差し出したスマホの画面にはツカサが在籍している『Ciel』のHPに載っているツカサの写真だ。

 ツカサは今日まで宣材写真はもちろん、Twitterや写メ日記、女性用風俗関連の取材でも

載せている写真では一切顔出しをしてこなかった。実際一恵が見せてきた写真もモザイクがかかっているし、そう簡単に『セラピスト・ツカサ=田崎俊彦』だとバレる事はないはずなのに。


「どうして、この写真が僕だと?そもそもどうして一恵がこの写真…というか、こういうお店を知ってるの?」


 何とか笑顔を作って話すものの、一恵は揺るぎない確信を得ているのか、その瞳は全く笑ってなどいない。


「私の同僚で、女性用風俗を利用している人がいて、一緒に飲んだ時にこのお店のサイトと写真を見せてくれたの。最初はまさか、と思ったけど映っている、この時計…」


 一恵はスマホの画面に映るツカサの腕時計の部分を拡大させて見せた。


「この時計、今も俊彦さんがしているのと同じものでしょ?」

「……!!」


 この時計は就職祝いに両親から貰ったもので、俊彦の中ではもはや肌の一部のように大事なものだ。ずっと身に着けているせいで他の時計を着ける気も無かった。それがまさかこうして一恵の目に止まりセラピストをしている事がバレる事…身バレに繋がるなんて。

 夫婦として生活していた時期は短く、お互い顔を見合わせる事も殆ど無かったのに、一恵は俊彦が身に着けている物を知っていてくれた。セラピストをやっている事がバレたのは気まずいものの、その事実を見抜かれたのが一恵だったことに変な安堵感を覚えてしまった。


「俊彦さんは、女性用風俗のセラピスト・ツカサさんでしょ?」

「…あぁ。その通りだよ」


 一恵の真っ直ぐな視線。そして紛れも無いいつも身に着けている時計。誤魔化すのは不可能だった。いや、この事実を見抜いたのが一恵だったからこそ嘘はつきたくなった。

 夫婦でいた時はお互いすれ違いばかりで面と向かって向き合う事をしてこなかった。今回偶然再会出来たこと。そして一恵がツカサの正体を俊彦だと突き付けたこと…もしこれらが一恵と向き合ってこなかった自分への戒めというなら、逃げてはいけない。もしも背を向けてしまったら、きっと一恵だけでなく自らが知りたいと思っていた女性の『心』からも背を向けることになる。だから、一恵が今自分に突きつけている事実を否定はしない。

 一恵は俊彦がすんなり事実を認めたのが意外だったのか、少し驚いた様子でスマホを下げた。


「否定するかと思ったのに…」

「否定はしないよ。本当のことだから」

「……セラピストって、これは風俗よね?俊彦さんは風俗で働いているってこと?」

「そうだよ。仕事終わりにね」


 嘘偽りなく答える俊彦に対し冷静さを装っているように見えるが、一恵は明らかに動揺している様子だった。

 その証拠に一恵の表情は視線が落ち着き無く彷徨い動いていて、手にしているコーヒーを3度も口に運んでいる。


『そうか…一恵は落ち着かない時、こんな表情をするのか』


 動揺している一恵を尻目に、俊彦は呑気に一恵の表情の変化に見入っていた。

 こうして一恵の表情の変化を目で追うなど、夫婦の時は全く無かった事だ。俊彦の中での一恵は常に沈着冷静で何事にも動じない肝の座った女性…という印象だっただけに今目の前で動揺し、視線を泳がせている一恵の姿が新鮮でたまらなかった。


「何の為に、セラピストをやってるの?お金のため?」

「いいや、違うよ」

「じゃあ、何故?」

「女性の『心』を知りたくて」

「……え?」

「君と離婚した時、君が部屋を出て行く時に僕に言った言葉がずっと引っかかっていたんだ」

「……?」

「あなたは、女性の心が分かっていない。あなたは冷たい人だ。最初は何を言われているのか分からなくて、返す言葉が見つからないままだった。仕事でもそれまでの環境と180度違う仕事内容で戸惑うばかりで。あの時の僕は何だか心にぽっかり穴が開いたような感覚だったんだ。そんな時に今所属している店舗のセラピスト募集の広告を見つけて」

「セラピストって…要はお金を貰って…女性と…セックスするって事でしょ?!」


 一恵の言葉が戸惑いを帯びながら語尾が強くなってきた。


「一恵、誤解だよ。確かにセラピストはお客さんである女性からお金を貰うけど、セックスはしない。本番行為は違反なんだ。だから…」

「言い訳しないで!!」


 一恵は何かがはち切れたように声を上げた。その声に近くを歩いていた人達は驚いたように一恵と俊彦の方に視線を向けてきた。

 周囲が好奇の視線を向けてこようが構わなかった。見たければ見ればいい。今の一恵にはそれまで知っている俊彦が彼自身の口から言葉が返される度、まるで別人と話をしているような違和感しか無く、それは徐々に嫌悪感に変わりつつあった。

 目の前にいる男性は確かに元夫であり、かつて尊敬もしていた田崎俊彦のはずなのに。彼から返される言葉が信じられなかった。

 田崎俊彦は仕事一筋の真面目な人間で、風俗の世界とは無縁だと思っていた。それが離婚や空虚感から風俗の一種であるセラピストという自分には理解不能な世界に足を踏み入れ、女性からお金を貰っている現実があるにも関わらず「女性の『心』を知りたい」などと綺麗事を並べたてているのが許せなかった。そんな一恵とは正反対に、俊彦は自分でも恐ろしいと感じるくらい冷静な姿勢で一恵を見ていた。

 かつて一恵が初めて俊彦に怒りをぶつけた時はお互いの気持ちの相違からだった。しかし今の一恵は違う。今の一恵は明らかに嫉妬からくる怒りと嫌悪で俊彦に感情をぶつけている。証拠は無いが、今までセラピストとして数多くの女性と接して、多くの女性達の感情や表情の変化を目の当たりにしてきた経験から、一恵の表情や声色などで今の感情が手に取る様に分かった。

 一恵は感情で物を語る女性ではないが、それはあくまでこちら側から見える表向きのもので本性は一恵本人にしか分からない。少なくとも以前と違い、女性から多くの仕草や感情を教わった俊彦が見るに、今の一恵の瞳には嫌悪感と同時に女性としての嫉妬心が宿っているのは間違いなかった。


「綺麗事並べたって所詮は風俗でしょ!それって結局女性からお金で買われているってことよね?!お金で買われて、セックスしてるって事でしょ!私が言った言葉がきっかけ?何で私を理由にしてるのよ!夫婦でいた時、私に触れようとしなかったくせに!」

「誤解を与えてしまったみたいだけど、僕は君にセラピスト業を理解して貰おうとは思っていないし、君を理由付けにしている訳じゃないんだ」


 風俗や性的関係に関して保守的な一恵には俊彦のどんな言葉も言い訳にしか聞こえないだろう。当然だ。


「理由にしてるじゃない!都合の良い言い訳をして、涼しい顔をして…俊彦さんって何を考えているかさっぱり理解出来ないわ!」


 確かにそうだ。もし自分が一恵の立場だったら、同じ事を言うだろう。しかし、今この状況で一恵へに言える言葉は限られてしまう。どう言っても今怒りと嫉妬心が露わになっている一恵にはどんな言葉も逆効果だ。

 俊彦に今出来るのはあれこれと言葉を返すのではなく、ただ目の前にいる一恵をしっかり見つめ、その言葉の数々を受け止め、そして…


「……っ?!」


 一恵の言葉が止まった。正確には塞がれたのだ。俊彦の、口唇に。

 俊彦の顔がこんなに近くにある。それだけでも驚きなのに、一恵は息をすることを忘れたように全身が動けなくなった。 俊彦の口唇の感触が伝わり、両手は一恵の顔を包み込むようにそっと添えられている。

 結婚式でもキスをしたことはあった。しかしそれは簡易的なもでしかなく、それ以降、一恵が俊彦の口唇に触れることも、その逆も無かった。

 ゆっくりと口唇が開放され、熱を帯びた表情の一恵を俊彦は視線を逸らすことなく真っ直ぐに見つめている。

 夫婦でいた時でさえ俊彦がこんなに真っ直ぐに一恵を見つめたことなどなかった。

 一恵の口唇にはまだ俊彦のそれの感触が残っていて、一恵の頬には赤みがさし俊彦と視線を合わせることに恥じらいを覚えたのか、目を逸らすのに必死だったが、軽く添えられている俊彦の両手がそれを許してはくれない。


「は、離して…!」

「ごめん。いきなりこんなことをして。でも僕が君を想っていたのは嘘じゃないんだ。ずっと一恵に、謝りたかったんだ」


 一恵の顔から両手を離した俊彦は後悔を含んだ瞳で一恵を見つめた。


「仕事を言い訳にする訳じゃないけど、一恵にどう接したらいいか分からなくて…。不器用だったんだ。

今こうしてセラピストをやってみて、色々な女性と接してみると、様々な事情を抱えている女性が多くいて家庭を持っている女性も多くいたんだ。

旦那さんと関係が上手くいかない人や、家庭内ではただの家政婦のような存在にしか思われていないという人もいたり…。

一恵も僕と同じように仕事をしているのに、僕のために弁当や夜食を作ってくれたり、家のことをしっかりやっててくれて…でもそれが僕には当たり前にしか思えていなかった。今更遅いけど、一恵がしてきてくれた事の有り難みを痛感したよ。それなのに、ずっと「ありがとう」って伝えられなくて、本当にごめん…!」


 本心だった。

 「あなたは冷たい人よ!」と言葉を投げられ、何も言い返せなかった。

 女性を深く知りたくてセラピストという今まで無縁だった世界に飛び込んだ。そしてそれまで知らなかった多くの女性達の心を見た。

 彼女達の心を知る度、一恵との日々を振り返るようになった。そして、自分がどれだけ一恵に対して無関心で、無神経だったかを思い知らされた。

 もし、いつか一恵に逢えることがあったら、一恵に心から感謝し、無神経だった事を謝りたいとずっと思っていた。

 深く頭を下げる俊彦を前に、一恵は言葉が出ないでいた。


「一恵、今更遅いけど、こんな僕を支えてくれて、一緒にいてくれて、本当にありがとう。愛していたよ」


 そう言うと、俊彦は動けないでいる一恵の躰をそっと抱き寄せた。

 人目も憚らず、こうして俊彦に抱き締められたのは初めてだ。

 服越しに俊彦の体温と鼓動を感じる。

 

『…温かい…』


 優しく抱き締められ、同時に片方の手が一恵の髪をそっと撫でた。


『これが…俊彦さんの…温もり…』


 俊彦の存在をこんなに感じることは無かった。同時にそれまでギスギスしていた気持ちが涙となって流れ、そっと俊彦を抱きしめ返した。






『美奈子です。すみません、ちょっと友人と話が盛り上がってしまって…帰りが遅くなりそうなんです』

『分かりました。お母様の事はご心配なく。先ほど夕食を残さず全部食べて、今はお休みになっていますよ』


 ツカサに断りを入れ、ホテルのトイレで訪問介護スタッフの木嶋に連絡を入れた。

 木嶋には仕事終わりに友人と食事に行くと伝えていて、木嶋も「時間を気にせず楽しんできてください」と言ってくれたが、嘘偽りで固めていることや木嶋の優しさに甘えてしまっている罪悪感もあり連絡を入れたかった。

 ツカサは「気にしないのでここで電話してもいいですよ」と言ってくれたが、ツカサの前で美奈子としての電話をしたくなかったのと、ツカサにはプライベートな会話を聞かれたくなかったので、気遣いに感謝しながらも、トイレで電話をかけることにした。


「そうだ。福祉センターの川崎さんから連絡がありまして、お話ししたいことがあるので近日中に時間を作って欲しいそうです。何でもお母様が入所可能な施設の件で」


 以前、川崎に母の介護について相談した時、介護施設への入所も視野に入れて考えてみては…という提案があった。もし入所出来る所があるならと思っているが、施設によってはそれ相応の金額が必要になる。多くは望まないが、出来れば今の状況でも入所可能な所があれば…。

 そんな話をして以来、川崎は空きがある施設や自身の知人友人が勤務する施設にも問い合わせてみると言ってくれた。

 川崎から会いたいと言うことは入所出来そうな施設が見つかったのだろうか。


「分かりました。明日川崎さんに連絡を入れてみます」


 電話を終え、ベッドがある部屋に戻ると、シャツを着たツカサが心配そうな表情でレナを待っていた。


「おうちの事、大丈夫ですか?すみません…僕のせいで…」

「気にしないでください。念の為連絡を入れただけですし。ツカサさんはご自身の事を話してくださって、そのお話に聞き入っていたし。今回、ツカサさんがご自身の過去を話してくれて嬉しかった。あれだけ月一で逢っていても、私はツカサさんの事余り良く知らなかったから、今回色々知れて良かったです」


 プライベートに立ち入る気なんて無い。だが最初にツカサと逢った時、ツカサは自身のことを話す事を迷っていた。何か理由があるのだろうと思っていたが、こうして本人の口から聞くと、想像していた以上の背景があり、セラピスト・ツカサが今日に至るまでは決して順風満帆とは言えない道のりがあった。


「あの…変な質問、してもいいですか?」

「何でしょう?」

「…もし、元奥様が…お客さんとしてツカサさんを指名したら、どうします?」

「…もし相手の方が、元妻でも、僕にとっては大事なお客様です。だから誰であろうと心から満足してもらえるようサービスをするだけです」


 ツカサは最初答えに迷ったようだったが、レナを真っ直ぐに見つめながら答えた。


「レナさんは?」

「え?」

「もし好きな人がお客さんとしてお店に来たら、レナさんはどうしますか?」


 自らした質問を今度はツカサから質問し返された。 改めて質問されると、レナも答えに迷ってしまう。


『好きな…人…』


 思わずツカサから視線を逸らしてしまった。

 好きな人…

 ツカサが…もしお客さんとしてレナが働く吉原の『エデン』に来たら…一瞬心の奥底で望んでいる小さな願い。だが、直ぐに振り払った。そんな事、現実に起こるはずはない。ツカサがお客として来店するなんて…

 だがもしそんな事が現実になったら…他のお客と分け隔て無く接せられる自信はある。お客に本心を見せねよう、悟られないよう、お見送りの瞬間まで『レナ』を演じるだろう。


「私も、同じです。相手が誰であってもお客さんである事に変わりはないので。私はその方が望む事をする…それが私の仕事ですから」


 レナの答えにツカサがクスッと笑った。


「!?」


 変な事を言ってしまったのだろうか。


「ごめんなさい。レナさんなら、きっと同じことを言うんじゃないかって思ってたんです。まさかの当たりだったので笑ってしまいました」

「もう!イジワル〜!」


 いつもは癒やしであったツカサの微笑みが、今回は妙に憎たらしく見えて軽く肩を叩いた。


「すみません。でも僕はそんなプロ意識を持っているレナさんが好きなんです」


 『好きなんです』ツカサのその言葉が思考を止めた。

 今までツカサから甘い言葉を言われた事は殆どない。根が真面目だから、相手を夢見心地にさせる事より、回りくどい言い方や計算したような言い方はせずに自分の本心から話をする正直者タイプだ。だから『好きなんです』という言葉が耳に入ってきた瞬間、心臓が跳ねるような衝撃を感じた。

 「告白」でないのは十分分かっている。しかし妙にときめいてしまったのを悟られたくなくてレナはそっと俯いた。



 池袋駅は時間帯に限らず、いつ来ても人の往来が激しい。

 ホテルを出てツカサと肩を並べて歩きながら駅に向かった。改札口が近づくにつれ、現実に引き戻されるようで、気持ちが重たくなるのと、言い表しようのない寂しさが募ってきた。

 ツカサと別れるの寂しい。でもこのまま別れない訳にもいかない。

 ツカサは人の往来の波からレナを護るように、しっかり体を密着させて歩いてくれていた。服越しにツカサの体温と鼓動を感じた。


 今回はツカサと肌を重ね合う事は無かったが、頭の片隅で気になっていた、ツカサがセラピストになったきっかけ、そしてそれ以前の過去を知る機会に恵まれた。それはレナにとって貴重な時間だったが、ツカサのレナの予約した時間に被るまで元妻と再会していた…普通なら許し難い事態だ。ましてやホテルで独りでツカサを待ち、連絡の無い状態で不安ばかりが積み重なる一方だったのだから。

 しかしレナはツカサが無事な姿で自分の所に向かい、嘘偽り無く遅刻の理由、自らの過去の話をしてくれた。その誠実さが何より嬉しかった。

 元妻がツカサと再会した事で、寄りを戻したりするだろうか…もしそうなったとしても、ならなかったとしても、ツカサには幸せでいて欲しい。 今まで数え切れない程の幸せな時間をツカサからもらった。だからその分…いやそれ以上にツカサにはこの先幸せになって欲しいとレナは心から願わずにはいられなかった。



「レナさん、今日は本当にすみませんでした」


 改札口に着くとツカサはレナを手を握りながら謝った。

 ツカサからすれば何度謝っても許される事ではないだろう。


「もう謝らないでください。確かにツカサさんにとっては謝罪しなければいけない事でしょうけど、私は今回の事でツカサさんの過去を知る機会に恵まれて嬉しかったんですから」

「…ありがとうございます」


 正直、次はいつツカサと逢えるか分からない。だからレナとしてはお互いギクシャクした感じで別れたくなかった。もしまた逢える日があったら、また笑顔で逢いたいから。だからツカサには笑顔で自分を見送って欲しい。

 ツカサの手を離すのが辛かった。でも時間は残酷に過ぎてゆき、離れなければならない現実を突きつけてくる。


「レナさん、どうぞお気を付けて」


 ツカサの手が離れる事を惜しんでくれているのか、まるでレナの微かな温もりを確かめるようにゆっくりとレナの手を滑り流れた。

 レナはPASMOをカバンから取り出す為、ツカサから視線を逸らした。

 PASMOを探しながら、次はいつツカサに逢えるだろう…と途方の無い問いが頭を掠めた。

 福祉センターの川崎からの話によっては、母の介護、吉原での仕事といった様々な現状に何らかの変化を加えなければならなくなるかもしれない。内容によって今の物事がが好転するか否か…その時になってみなければ分からない事だからけだ。

 願わくば、ほんの少しでいいから好転して欲しい。更に欲を言えば、以前の様にでなくてもツカサと逢える時間がほんの僅かでいいからあって欲しい。

 ようやくPASMOを見つけ再び視線をツカサに戻すと、さっきと変わらない優しい眼差しのツカサがそこにいた。言葉に迷う。


「…それじゃあ…」

「気を付けて」


 これ以上一緒にいたらきっと離れなくなってしまう。想いを振り切るようにツカサに背を向け、改札口を通った。

 足早にホームに続く階段に足をかけた時、ふと振り返ってみると、さっきの改札口の所でツカサが笑顔で手を振ってくれていた。


 ホームで電車を待ちながら、さっきまでツカサの手に握られていた手を見つめた。

 ツカサの手はしっかりしているわりに柔らかくて、レナの手がすっぽり収まってしまう大きさだ。そんなツカサの手の大きさ、温もり、感触を思い返しているとまだ別れて間もないというのに、再び逢いたいという気持ちが募ってきた。

 以前のように月一でツカサと逢えていた時とは明らかに違うこの気持ち…。

 逢えない時間が長かったせいもあって、今までに無かったツカサへの想いが芽生えていた。恋に似ているのだろうか…それだけ今のレナにとってツカサは心のバランスを保つのに必要な存在になっていた。

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