懺悔
『エデン』に復帰してからは時間の流れが一段と早く感じられ、あっという間に24時間が過ぎた。今まで時間の流れが止まっていた分、そう感じられる事が嬉しくもあり、また生活のペースが掴めてからは疲労のせいもあって睡眠の質にも変化が生じ、よく眠れるようになった。更に木嶋が来て以来、母は暴れる事も、暴言も少なくなり、生活リズムが一定になってきている。そんな日々を過ごしている内にいよいよ明日はツカサと久し振りに会う日だ。
仕事が終わるといつもなら疲労困憊だが、今日は仕事が終わる前から何だかソワソワしてしまっている。
今日最後のお客を無事に見送り、片付けを済ませると休む間もなく、身なりを整え始めた。今までが今までだっただけにしっかり化粧をして街に出掛ける事も殆どなく、会う人と言えばケアセンターのスタッフくらいだったし、出掛けるといえば近所のコンビニか
スーパーくらいだ。そんな日々を思い返し、鏡に映る自分の姿をしっかりチェックした。
やはり疲れた表情はどうしても隠せず、以前より痩せた顔の輪郭がより一層疲労の色を濃くしていた。
以前、『女性向け風俗.com』のサイトの特集記事で見たツカサはモザイクがかかっていても、より洗礼され、落ち着いた大人の雰囲気を漂わせ、他のセラピストと並んでもオーラがあった。
レナが母の介護に追われ、出勤も思うように出来ない中、生活や金銭面などの不安だけが募り、暗くて長いトンネルの中を手探りで彷徨っているような時間を過ごしている間もツカサは指名してくれるお客を精一杯もてなし、着実にセラピストとして成長しながら実績を築いていたのだろう。
同じスピードで走っていると思っていたのに、いつの間にか背中しか見えなくなってしまった。そんな現実がレナの心に影を落とし、独り取り残されたような疎外感さえ感じてしまう。
今のレナを見てツカサはどう思うだろう。
仕事だから手は抜かないにしろ、以前のように同業者として目線を合わせてくれるだろうか。
ツカサと恋人になりたいとか、結婚したいとか、そんな思いは皆無だ。同じ「風俗」という世界で偶然に出逢った、女風セラピストとソープ嬢という職種は違えど、お互い共通しているのは相手を悦ばせ、その分の報酬を手にしていること。どんなにプライドと真心を持って働いていても今だに差別や偏見は根強く残る世界だ。だから本音を出せる相手は少ない。
かつて先輩のエレナが「気楽に悩みや愚痴を言えるから、今は活力の元みたいな存在」だと語っていたように、レナはツカサのお客であるが、ツカサは同業者であり、今のレナにはこの世界で本音が言える数少ない相手だ。
ツカサは逢う度に毎回異なる新鮮な刺激をレナにくれた。それまで何とも無かった日常の景色が彩りに満ちた。この人がいてくれれば、どんな事でも頑張れる…ツカサと逢う事がいつしかレナを演じている美奈子にとって必要不可欠な存在となっていた。
ツカサはどう思っているだろう。同じ様に思ってくれなくてもいい。
ツカサにとって、私は…お客の1人に過ぎないのだから…。
髪型を軽くセットし、レナは急いで鞄を手に取ると、足早に店を後にした。
予約で指定した時間は17:00。
約束の時間より早く池袋に着く事が出来たので、指定した『ホテル アルジオ』にチェックインした。
何度かツカサと一緒に入った事のある見慣れた部屋。
ホテルでの現地待ち合わせを指定しているため、ツカサが来るまでレナは独りで待っていなければならなかった。
いつもなら120分コースで入っていたが、今回木嶋には友人と食事に出掛けると言って母の事を見て貰っている手前、120分コースに入るのは難しく、90分コースにした。今まで120分コースで慣れてしまっているので、90分は今までより短く感じてしまうかもしれない。本音を言えば、ツカサと長い時間一緒にいたい。しかし木嶋に母の世話を任せ、嘘で家を空けているのと、今の金銭状況から90分コースが限界だった。
近くのコンビニで買ってきた飲み物を冷蔵庫に入れ、洗面スペースで鏡を見ながら髪型やメイクを直した。
仕事が終わってシャワーを軽く浴び、髪型は整えたつもりだったが、以前よりパサついた髪質に、ストレスのせいか肌も荒れ気味でファンデーションで隠せるところとそうでないところの差が見て取れる。
何とかメイクを直し、TwitterでツカサにDMを送った。
『ツカサさん。
先ほどホテル アルジオに入りました。部屋は2階の206号室です』
暫くしてツカサから返信が来た。
『レナさん。今日はよろしくお願い致します。
部屋番号ありがとうございます。了解しました。
今向かっていますのでもう少しだけお待ち下さい。
久し振りにお会い出来るのを、楽しみにしています。
ツカサ』
ツカサからの返信に、今日ようやくツカサに逢えるのだと再認識できた。
早く逢いたい。
あの声が聞きたい。
そして…抱きしめてもらいたい。
時計を見ると16:55。
そろそろツカサが来る頃だろうか。服を今一度チェックし、ソファーで座りながらツカサを待った。
しかし、時計の数字が17:00を指しても、ツカサが来る気配は無い。電車が遅れているのだろうか。
17:10。TwitterのDMを見ても、新しい返信は無い。今までツカサが時間に遅れた事など無かったのに…。電車やバスの遅延情報を調べてみたが、全て通常通りで遅れが発生しているような報せは無かった。
何かあったのだろうか。
居た堪れず『Ciel』の事務局にLINE電話を入れた。
『お電話ありがとうございます。『Ciel』事務局です』
「今日17:00からツカサさんに予約を入れているレナといいます。あの…ツカサさんがまだいらっしゃらなくて。そちらに何か連絡が入っていないかと思いましてお電話しました」
『えっ!本当ですか、それは…大変申し訳ございません。こちらにはツカサからは何も連絡は入っておりませんが、こちらからも連絡を入れてみますので、折り返しをさせていただいても宜しいでしょうか?』
「はい、構いません」
『ありがとうございます。申し訳ございませんが少しだけお時間をいただきまして、折り返しさせていただきますので』
一旦電話を切り、電話中にTwitterのDMが来ているかもと、淡い期待を抱いてDMをチェックしてみるが、結局来てはいない。
静寂な室内が不安を更に煽った。
17:30。
事務局からの連絡は無く、ただ時間ばかりが虚しく過ぎていく。
一体ツカサはどうしたのだろう。
道に迷ったとは考え難いし、何か事故にでも巻き込まれたのだろうか。だから連絡が出来ないでいるのではないか…考えたくない想像が次々と頭を過ぎる。もしかしたら予約した日は今日ではなく、別の日だった…という明らかにレナの勘違いであってくれたら、ということも考えてみたが、だとしたらツカサから「今向かっています」なんて返信は来ないだろう。予約を入れたのは今日で間違いないのだ。
『もしかして、ツカサさんは私に会いたくないのかもしれない…』
そんな筈は無い!と必死に消し去ろうとしても一度生まれてしまったマイナスな予想は容易には消えてくれず、不安と共に大きさを増していくばかりだ。
以前、Twitterの女風ユーザーのエピソードで、同じようにセラピストが待ち合わせ場所に現れず、連絡も取れず、事務局に連絡を入れたが埒があかなかったという話を読んだ事があった。 後日談で、その女性は指名したセラピストにかなり入れ込んでおり、ストーカー気質なところがあって、セラピストは最初こそ当たり障りのない対応をしていたが、徐々に女性の干渉が激しくなり、セラピストも精神的に参ってしまった為、予約を飛ばしてしまったという。
女風ユーザーの中にはセラピストに癒しを求め過ぎる余り、セラピストと客という立場を忘れ、いつしかボーダーラインが曖昧になってしまい、思いが暴走してしまう女性も少なからず存在するという。 そんな話を見たり耳にする度、次は我が身と…肝に銘じていたつもりだったが、自分が気付かぬ内にツカサを困らせてしまっていたのではないか…。だからツカサは…
確証の無い考えは止まることを知らず、その一つ一つの破片があちらこちらに散らばって心が潰されそうになる。そんな行き場の無い不安に涙が出そうになった時、来客を知らせるベルが部屋中に響いた。
思わず身を震わせてしまったが、すぐに気を取り直してドアの方に向かい恐る恐るドアスコープを覗いてみてみると、ハンカチで汗を拭うツカサがレナの視界に入ってきた。
勢いよくドアを開けると、そこには紛れも無くツカサが立っていた。走ってきたのだろうか、顔は滝のような汗で濡れ、まだ息は整っておらず肩が上下に激しく揺れていた。
「…レナさん…遅くなって、本当に申し訳ありません!!」
レナに深々と頭を下げるツカサは、今まで見てきたツカサからは想像も出来ない姿だ。
「…ツカサさん…」
レナはようやく言葉を発する事が出来た。
ドアが閉まると同時にツカサに抱きついた。確かにツカサだ。夢でも幻でもない。ずっと逢いたかったツカサが本当にここにいる。
「レ、レナさん…?」
「逢いたかった…!ずっと、ずっと…逢いたかった!!」
言いたいことは山程あるのに、今はただこうして目の前に無事な姿のツカサがいる事が何より嬉しかった。
母の日々変化していく症状と介護の苦労や苦悩。出勤がままならずただ不安だけが募っていた日々の中、逢えない時間だけが長くなってしまった。この瞬間までの出来事やさっきまで心を支配していた不安が安堵に変わり、涙となって溢れ出し、言葉にならない声でただ泣いた。
そんなレナの気持ちを察したのか、ツカサは何も言わずそっとレナの躰を抱きしめ返してくれた。
「レナさん、本当にすみませんでした。連絡無しにこんなに遅れてしまって…」
どれくらい泣いていたのだろう。
泣き止んだレナの前にツカサは氷水を差し出し、改めてレナに遅刻したことを詫びた。
ツカサのスマホには事務局から何度もLINEの通知や電話があった。今までチェックする暇が無いくらい急いで来たのだろうか。
「ツカサさん、今すぐ事務局に連絡を入れてください。ツカサさんが来なくて、私 事務局に電話を入れたんです。事務局の方も驚いていました。だから今連絡をしてください」
事務局に電話をした時、応対した男性はツカサが来ないと告げた瞬間、かなり驚いていた。きっと彼もツカサの遅刻は予想外だったのだろう。 ツカサとしてはレナと別れてから連絡を入れるつもりなのだろうが、事務局だってツカサ以外のセラピストの対応をしながらもツカサの事を心配しているはずだ。不安は早く払拭してあげた方がいい。同時にツカサの遅刻をした理由を聞きたかった。
ツカサは少し迷いながらも、その場で事務局に連絡を入れた。
『ツカサさん?!良かったぁ、連絡がついて。どうしたんですか、連絡無しの遅刻なんて…ツカサさんらしくない』
「すみません。ちょっと…個人的な理由で…」
個人的な理由…ツカサはそれ以上は言い辛いみたいで、言葉を探している様子だった。何かのトラブルだろうか。様子からしてプライベートの仕事上での事ではなさそうだ。
結局、事務局にはハッキリした事は言わず個人的な理由での遅刻止まりになった。
レナに電話を代わり、謝罪の言葉と共に今回はホテル代、本来レナがツカサに払う料金も無料にすると言われたが、流石に申し訳なくて残りの時間は半分だけ支払わせて欲しいとお願いをしたところ事務局は渋々納得してくれた。
「折角レナさんが貴重な時間を作ってくださったのに、僕の遅刻のせいで…本当に申し訳ありません。この後はレナさんの時間が許す限りでサービスさせていただきますので」
ようやく汗が引き、見慣れた清々しい表情のツカサがいた。だがレナには気がかりなことがある。時間に真面目なツカサがどうして今回、連絡無しの遅刻をしたのだろうか。『個人的な理由』とは何なのだろう。プライベートに干渉する気は無いが、今回だけは気になってしまう。
「ではレナさん、すぐにベッドメイクを…」
「ツカサさん、性感のサービスは無しでお願いします」
「え?」
「マッサージ、性感はしなくていいですから、ただ一緒にお話をしたいんです。ダメですか?」
レナの真剣な表情にツカサは静かに「分かりました」と答えた。ツカサは取り敢えず汗まみれなので、シャワーを浴びに浴室へ入っていった。
ツカサがシャワーを浴びている音を壁越しに聞きながら、レナはさっきツカサが入れてくれた氷水のグラスに口をつけた。冷たい喉越しが心地良く、何だかホッとする。いつもなら二口程しか飲まないが、さっき泣いたせいもあって一気に飲み干してしまった。
しばらくするとTシャツに短パン姿のツカサが戻ってきた。
「お待たせしました」
話はソファでしても良いが、ツカサからベッドの方でリラックスしながら…という提案があり、軽くベッドメイクを済ませると、レナの手を引いてベッドの真ん中に座らせると、自らはレナの背後に廻って後ろから抱き締める形で落ち着いた。
ツカサの胸板が丁度後頭部に当たり、程よい筋肉と体温が心地良い。腕に包まれ、髪を軽く撫でられると、以前と全く変わらないツカサの優しさに安心感を覚える。
全てがそうではないが、指名が増え、ナンバー入りをし、手にする金額が増えていくと接し方が変わり、違和感を覚えたりする事がある。見える景色が変わると、人も変わってしまうのだろう。しかしツカサはナンバー入りしても以前と変わらず謙虚で、優しい。レナはそんなツカサの変化の無い優しさが嬉しかった。
「でもいいんですかレナさん。連絡無しで遅れたのに、サービスも何も無しなんて」
「いいんです。今回はこうして話をしたいから。それに…最初から90分でお願いしていたし、あまり長い時間家を空けるのは、ちょっと…」
「お母様の具合、かなり悪いんですか?」
「最初は福祉センターと私で何とか見れていたんですけど、段々認知症の症状が進行していってしまって。今は徘徊や、暴言もあったりと目が離せない状態になって、私だけでは限界があるので思い切ってセンターのスタッフに相談してみたんです。そしたら、訪問介護専門のスタッフさんを紹介してもらえたので、今はその方に母を見てもらっています」
「以前DMでお母様が行方不明になったって言っていましたよね。レナさん、それ以降出勤日数が減っていたし、Twitterも更新していなかったのでずっと心配していました。大変でしたね」
嘘でもレナに寄り添うようなツカサの言葉は嬉しかった。
木嶋から言われた言葉でも救われたが、レナとしての今はツカサの言葉に救われている。髪を撫でられ、ツカサの身体に上半身だけでも預けていると、心が満たされ今までの辛さが全て浄化されるように感じた。
「ツカサさん」
「はい?」
「今度は、ツカサさんの話を聞かせてください」
「僕の話?」
「初めてツカサさんにお会いした時、セラピストになったきっかけを質問しましたけど、その時は、いずれ話すって言ってそれっきりになってしまいました。そろそろ聞かせて欲しいなと思って。もし難しいのなら…」
「……」
「今回の遅刻の理由を聞かせてください。個人的な理由かもしれないけど、その理由が何なのか知りたいんです」
確かにレナの言う事は一理ある。『個人的な理由』と一言で片付けても、受け取る側からしたらボヤけていてハッキリした理由とは言えない。 レナが知りたいと思うのは当然だ。
「分かりました。どちらもお話しします。僕がセラピストを始めた理由と、今回の遅刻の理由を」
レナの予想に反してツカサはあっさり答えてくれた。
ツカサからしたら究極の二択だと思っていた。
初めてツカサに会った時、セラピストになった理由を訊いた時、明らかに答えに迷っていた。きっと触れられたくない過去なのだとレナは瞬時に察した。無理にしつこく訊いてしまったらツカサが傷付き、嫌われてしまう可能性もあったし、レナも踏み込むのは諦め以降 過去を再度訊く事はすっかり忘れてしまっていたが、ここにきて遅刻の理由が気になった。そして同時に忘れていたツカサのセラピストになった理由をまだ聞き出せていない事を思い出した。
ツカサは一度レナから身体を離すと、床に置いていたカバンを開け、小さな袋を取り出した。
その中から取り出したのは、2つのシルバーリング。結婚指輪だ。
「僕、バツイチなんです。今からお話する事は、この結婚指輪にも、今回の遅刻にも関係しています。もし途中で気分を害されたら、そこでお話しをするのは止めますので、遠慮なく言ってください」
結婚指輪を見て、ツカサがバツイチというに些か驚いた。40代なら結婚していてもおかしくはないし、ましてやツカサなら家庭があってもおかしくはないが、それがバツイチとは。
ツカサは一つ一つの物事を思い出すように、自身の過去を語り出した。
幼少期から視線の先には参考書や辞書、教科書やノートといった勉強関係のものしか無かった気がする。いや、田崎俊彦は幼い頃から勉強関係しか無い空間に違和感を抱くことはなく、その空間があってそこに自分が居るのは当たり前だった。
一人息子という事もあり、教育熱心な両親は幼い頃から俊彦に学習塾通いを始め、母親の影響で書道を。父親の影響で剣道を習っていた。文武両道を絵に描いたような人間にしたかったのだろうと、今になって思うが、当時の俊彦にはそんな環境が好きだった。
幼稚園や小学校に入ると周囲の子供たちは思い思いに遊び回り、楽しそうな声が勉強机に向かう俊彦の耳にも届いていたが、それを羨ましいと思う事はなく、ひたすら勉強に時間を費やしていた。そのおかげでトップの中・高一貫教育の学校に進学し、成績は常にトップでいられた。文武両道のバランスを取るのは難しい時期もあったが、俊彦は知識は裏切らない、と いつからか座右の銘にし何とか卒業までトップを走る事が出来、そのまま都内で有名な大学に推薦入学が出来るまでになった。
大学では俊彦と同様、全国から有能な生徒が集まり、追い抜かれぬよう今まで以上の勉強が必要だったが、俊彦はそれなりに大学生活を楽しみながら優等生の位置を保ち、早くから就職も視野に入れてた事もあり、交友関係も広げていった。
同級生と常に情報交換をしては企業が主催するイベントに知り合いのツテを使って参加し、その会社を観察したり、新規の事業に関しての情報を収集したりなどしていた結果、希望していた大手広告代理店『電承堂』の内定を貰う事が出来、強く希望していた『営業企画課』にも配属が決まったのだ。
営業企画課は『電承堂』の中でも中心的な部署であり、他の各業界からヘッドハンティングされた人材も多く集まる、正に電承堂の顔であり、選び抜かれたエリート中のエリートが集まる世界でもあった。
後にライバル的存在となる同期の安島も同じ部署に配属となり、2人はそれぞれの先輩のアシスタントをしながら、様々な企業の営業に同行し、時には大学時代の企業イベントで培った交友関係を生かしながら、幾つかの契約を取り付け、早くから先輩や上司は勿論、他企業からも一目置かれる存在となった。
俊彦も安島も入社4年目になると新規プロジェクトを任されるまでになったが、2人はそれぞれ異なったプロジェクトを任されてはいたものの、上手く仲間達と連携を取りながら成功に導いたのだ。
同期の安島の存在は俊彦にとって良い刺激であり、常に営業成績を争う良きライバルでもあった。だからと言って2人の間に険悪なムードは無く、安島が行き詰れば、俊彦が手を貸し、俊彦がプロジェクトを進める上でどうしてもあと一押し必要な時は安島がそれに見合った知り合いや、飲みの席で思いがけないヒントを与えた事から突破口を見出した事もあったりと、仕事をする上でも互いに必要不可欠な存在であった。
そんな2人の存在に部署内では『田崎派』、『安島派』と名付ける者もいたり、2人は派閥などは設けていないし、むしろ嫌っている方なのに、後輩たちの熱気だけが先走ってしまったようで、自然と『田崎派』と『安島派』という単語が出来てしまった。
『田崎君、そろそろ君も良い歳なんだし、仕事ばかりでなく、プライベートの方にも目を向けるべきしゃないか?』
順調に課長に昇進し、いよいよ部長の席も現実味を帯びてきた。新規プロジェクトの話が出る度にプロジェクトリーダーを任される機会が多くなった頃、長年の取引先の社長から大澤一恵という女性を紹介され、交際をスタートさせた俊彦だったが、互いに忙しくデートをする時間も満足に作れずにいた。しかし、長年の取引先である社長からの紹介の手前、ギクシャクする訳にもいかず、ましてや仕事ばかりで女性との浮いた話が出ていない俊彦を心配して社長は大澤一恵を紹介してくれたのだ。
大事な取引先の顔を潰す訳にもいかず、特に恋人らしい時間も過ごさないまま、俊彦は一恵と流されるように結婚をした。
俊彦は安島と共に新入社員時代から女性社員の視線を集めており、実際猛アタックされた事もあったが、安島は好意を持ってくれた女性と飲みに行ったり、食事に行ったりしていたらしいが、俊彦は根っからの仕事人間のせいで女性社員側からアタックしても良い返事どころか、打ち合わせや接待のスケジュールが埋まっているせいで仕事以外での食事などに時間を割く事は一切無かった。それ故に、俊彦は女性社員の視線は集めるものの、アタックを仕掛ける者は自然といなくなってしまった。
「いいなぁ〜、田崎さんは。出世コース真っしぐらで、しかも取引先公認の結婚なんて。正に順風満帆じゃないですか!」
社内から聞こえて来る羨望の声や視線を浴びる事は俊彦のプライドを大いに高ぶらせたが、裏を返せばプレッシャーとして背中にのしかかっていた。
取引先と上司公認だからこそ、結婚生活は上手くいってなければいけないし、不仲になる事は勿論、別居や離婚などもっての外だ。
俊彦からすれば、仕事と結婚をしたような感覚で、よく耳にする『温かい家庭を2人で築いていく』という理想は殆どなかった。
妻となった一恵は結婚後も仕事を続けたが、家事等を手を抜く事は一切せず、仕事ばかりの俊彦の体を気遣ってお弁当を持たせてくれたり、仕事終わりに一緒に外食をしたりしたが、話が弾む内容といえばお互いの仕事に関する事が主で、将来の具体的なビジョンのような事が会話に出る事は無く、俊彦も仕事以外に思考を割く余裕さ無かった。
「おい、次の人事はどっちが部長になると思う?」
「やっぱり安島さんじゃないか?」
「いやいや、田崎さんだろう」
新人事の時期が近くなると、企画営業課内では次期部長の席に座るのは、安島か、俊彦かの話題が連日囁かれるようになった。2人とも意識しないようにしてはいるものの、俊彦の中では気になるところだ。
安島も部長になるには申し分ない人間だ。しかし、自分だって入社してから今日まで会社に利益を齎らす契約を結び、発展と業績に貢献してきた。だから、ここで部長のポストというご褒美を望んでも良いはずだし、むしろ自分こそ選ばれるべきではないのか。
そんな中、当時の部長から社運をかけたプロジェクトの話が持ち上がった。しかも今回は安島チームと田崎チームとでそれぞれプレゼンを行い、その内の一社と大口契約を取るという。部長は深い発言は避けたものの、部署内ではこのプレゼン内容によって次期部長の査定に影響があるのは間違いないと、誰もが口にしておりましてやそうでなければわざわざ安島チームと田崎チームの2組を指名したりしないだろう。
部長からの発表からすぐ、それぞれのチームは忙しく走り回り、俊彦もクライアントのリサーチを急がせた。恐らく安島も俊彦と同じ様なクライアントをリサーチし、またその中から会社にとって有利な企業をさらに細かくピックアックするだろう。スタートは同じでもゴールは安島よりも大口で、意表を突くようなものでなければならない。
時に徹夜をしながら、部下達と意見交換をし、リサーチ結果を分析し、安島より一歩でも先を越せる材料を揃えた。
『このプロジェクトで勝てば、部長の席が手に入る。そして、今まで同等だった安島を部下に出来る。初めて安島に勝てる!』
作業を進めながら、そんな野望が俊彦を突き動かしていた。
「毎日遅くまで大変ね」
帰宅すると珍しく一恵が出迎えてくれた。いつもなら俊彦が帰る深夜には寝ているというのに。
「起きてたのか」
「何か食べる?お茶漬けくらいならあるわよ」
「じゃあ、お願いしようかな」
シャワーを浴び終えリビングにやってきた俊彦に一恵はお茶漬けと漬物を出してくれた。
今までコンビニ弁当や外食ばっかりだったので、こうして自宅で自分の茶碗と箸を使って食べるのはかなり久しぶりだ。
「ねえ、俊彦さん、ちょっと話があるんだけど」
温かい緑茶を俊彦の前に置いた一恵が、俊彦の前に座りながら言葉を発した。
「話?」
「いつも仕事が忙しいのは承知してるし、私も仕事をしてるから、お互いに時間が取れないのもあるけど、私、そろそろ仕事をセーブしていこうかなと思って」
「え?セーブって…」
「…そろそろ、子供も欲しいなって思ってるの。俊彦さんはどう思う?」
結婚し、夫婦となれば子供の事は遅かれ早かれ考えたいとは思っていた。互いに仕事をしている身ではタイミングも合わせなくてはいけないし、ずっと先延ばしには出来ないことだとは思っていたが、今は正直、安島よりも大口のクライアントを見つけ、契約を取り付け、部長の椅子を確実なものにしなければならない。
正直、今の自分に子供を持つことに関しての気持ちの余裕は…
「いや、あの…子供は、欲しいとは思うよ。でも…」
「でも…?」
「今、新規のプロジェクトでどうしても時間を取るのが難しくて、しかも今回のは次の人事で部長になれるかがかかってるから…」
一恵の顔をしっかり見れなかった。いや、見れたとしても同じだ。
一恵はどんな表情をしていたのだろう。初めて一恵の顔を見れたのは俊彦が言い終わるか否かと同時に持っていたマグカップを置いた音が響いた時だった。
「そっか…分かった」
仕方がない、という表情で一恵は笑っていた。いや、そう見えていただけだったのか。
今思い返せば、あの時しっかり一恵と向き合って真剣に話をしていれば、どんなに忙しくすれ違いの生活だったとしても心だけは繋がっていられる事はあったかもしれない。
電承堂 企画営業課はその日誰もが朝から落ち着きが無く、部署にいる誰もがソワソワしていた。無理もない。今日は朝一に部長から新規プロジェクトに関しての安島チーム、田崎チームの契約結果が発表されるのだ。それはすなわち、安島と俊彦にとってどちらが部長の椅子に座るのかの結果が発表される事でもあった。
やれるだけはやったのだ。安島もチーム内で連携しながら、自分達が納得するものを出したのだろう。だが、負ける訳にはいかない。
9:00。
電承堂の代表取締役社長と部長が企画営業課に入ってくるなり、フロアの全員の視線が一気に集まった。
「安島君、田崎君、ちょっといいかね?」
部長は自分のデスク近くに社長を案内すると、すぐ俊彦と安島を呼んだ。
いよいよだ。
企画営業課社員全員の視線を背中に感じながら、社長と部長の言葉を待った。ここまで社内が静まり返ったのは初めてだ。
「今回のプロジェクトだが…」
「………」
「………」
「……安島君。君のチームが提案したK.P化粧品 新商品広告の契約でいこうと思う」
「…えっ……?」
俊彦は目の前が真っ暗になり、その後社長は何か言ったみたいだが、何も聞こえない。
後ろを振り返るのが怖い。共に全力を出してくれた部下たちはどんな表情をしているのだろう。安島は笑っているのだろうか。確かめたくても体が硬直し、動けない。
「田崎君」
社長に名前を呼ばれ我に返った。もしさっきの社長の言葉が全て夢であってくれたら、と思ったが残念ながら現実だ。
「君のチームが結んだワールドトラベル社の広告も申し分なかったが、長い将来を見据えて社としては、まだ新設だがK.P化粧品に可能性を見出したんだよ」
「可能性?」
俊彦が提案したのは電承堂とも付き合いが長く、過去にも多くの企画で成功をしている大手旅行会社『ワールドトラベル社』だ。過去に何件も企画を成功している事もあって企画も立てやすく、また長年の信頼もある大手である為、会社としても短期間での利益が望める点を強調した。
K.P化粧品はリサーチの際、リストに入っていた。しかし、まだ化粧品業界に進出したばかりで、電承堂にとって利益に繋がる可能性を考えた時、時間がかかると見て、結果リストから除外してしまった。しかし会社としては『新規参入の会社』に可能性を感じ、長いスパンで見て、上手く手を取り合っていけば利益を得られ、会社としても損は無いと判断したのだ。
「田崎君のチームの提案は確かに短期間で利益を望めるのは良い点と言える。だが、今の時代、思いもよらなぬ事態がいつ起こってもおかしくない時代だ。ワールドトラベル社は確かに信頼が置ける大手ではあるが、今まで旅行関連したやってこなかった。もし仮に世界情勢に大きな影響を及ぼす事態が発生した際、その損害は計り知れない。無論、そんな事態が起こらないという保証もない。 だが、K.P化粧品は化粧品部門だけでなく、美容部門や健康食品部門、そして来年には健康・スポーツ部門も新設するそうで、様々な事業展開が可能だ。ここは一つ、我が社としても新規の会社と今までに無かった事業を企画・提案をしていきたいという思いもあって、今回は安島君のチームの企画にしたのだよ」
反論が出来ないくらい完璧な理由だ。
俊彦は企画が立てやすく、会社が早く利益を得られるようにと、長年の付き合いのある企業ばかりに的を絞り過ぎたために、新規参入企業の長いスパンで考えた場合の無数の可能性という面を見落としてしまったのだ。
『負けだ…完全に、安島に負けた…』
今まで安島に敗北感を覚えたことなどなかった俊彦が初めて安島に敗北感を覚えた。
社長が部署を後にした瞬間、安島チームは歓喜の声を上げて勝利を確かめ合った。その横で田崎チームは肩を落とした俊彦を心配し、部下たちが当たり障りの無い言葉をかけてくれた。
「田崎君、手が空いたら社長が会議室に来る様にと」
席に戻ろうとした俊彦に部長が声をかけてきた。
安島に負けたばかりの自分に一体、何の用があるのだろう。労いの言葉をかけようとしてくれているのだろうか。だったら、それは余計俊彦を惨めにさせるだけだ。出来たらそんな労いの言葉などいらない。ただ…放っておいて欲しかった。
俊彦がいる企画営業課の階には会議室が3部屋ある。用途や人数に合わせたミーティングや会議が可能なそれぞれの空間の中の一室、1番小規模の会議室に社長はいた。
「遅くなりました。申し訳ありません」
俊彦が会議室に入ると、社長は中央にある椅子に座り、俊彦を待っていた。
「さっきの今で申し訳ないね。今回の敗北は君にとってはショックだったろう」
俊彦の顔色を見てか、それとも自らが勝敗を握っている事の陶酔か…どちらにしても今の俊彦にとってはどうでも良かった。ただ、社長が何のために自分を呼んだのかが気になる。
「今回の結果は、君自身が納得していないだろう。違うかね?」
俊彦を試すような社長の言い方に、俊彦は些か苛立ちを覚えた。いつもなら気にならないことだが、プレゼンに負けた直後というのが手伝って、社長の言葉や仕草全てに対して嫌悪感しか湧いてこない。早くこの時間が終わって欲しい。
「社長、確かに今回の結果には納得してはいませんが、負けは負けです」
今の感情を悟られぬよう、一言一言を噛み締めるように言葉を発するのがやっとだ。
一体社長は何の為に呼んだのだろう。
「君は仕事熱心で、今日まで会社の為に色々と結果を出してくれた。だが、君は仕事に熱中するあまり自分自身の事が疎かになっているようだね」
「え?」
「今まで頑張ってきてくれたのは有難いし、今後も期待はしたいが、どうかね?この辺りで一度スピードを緩めて自身と向き合って見る気は無いかね?」
「あ、あの…社長、それはどうゆう意味でしょうか?」
まさかのリストラ?いいや、そんな筈は無い!今まで多くの結果を出してきた。自分はこの会社には必要不可欠な人間な筈だ。
「いやいや、誤解しないでくれ。君にはまだこの会社にいてもらいたいんだ」
俊彦の引きつった表情を見て、社長は俊彦がリストラ対象ではと懸念していると思い、慌てて弁解した。どうやらリストラ等の話ではないらしい。
「誤解を与えてしまってすまなかったね。早い話、部署異動の話だよ」
「異動?」
「今より残業も少なく、時間に余裕のある部署へ異動してはどうかと思ってるんだ」
「社長、それは…この企画営業課を離れるという事ですか?」
「そうだ」
入社して今日まで、企画営業課の人間としてやってきた。この課こそ自分の居場所であり、実力が発揮出来る場所だと。その企画営業課を離れるなんて考えたことも無かった。
「不服かね?これは君の為でもあるんだよ」
それまで椅子に座っていた社長が立ち上がり、俊彦の近くに寄ってきた。
「君、家庭の方はどうなのかね?」
「え、どうと言いますと?」
「君は美人で素晴らしい奥さんを持っているのに、君が仕事ばかりでは夫婦としての時間も取れないだろう。君だってそろそろ「家族」というものを考えても良い頃だと思うがね」
社長は俊彦達夫婦に子供を作り、早く家族になるようにと遠回しに訴えているのだ。
確かに忙しさにかまけて、結婚以来一恵と向き合う事は殆ど無かった。実際、先日一恵から子供が欲しいとい話も出たばかりだ。今部署を異動し、時間が出来れば一恵との時間も増えるかもしれない。しかし、仕事と家庭は別だ。自分達夫婦の事は自分達で解決すべきなのに、何故社長がここまで踏み込むような真似をするのだろう。
「確かに、僕は仕事優先でなかなか妻との時間を持てないでいましたが、それは今後2人で話し合って…」
「分かっていないな、君はっ!」
社長はそれまでの穏やかな口調から少し語気を強め 俊彦の言葉を遮った。
「君が結婚する際には長年我が社の大事な取引先の社長のお力添えがあったんだ。結婚して夫婦の時間を楽しむのも良いが、悠長に構えていたら2人とも年を取るし、子供が難しくなってしまう事だってあるんだ。夫婦から家族になった姿を先方の社長にもお見せするのは早い方がいい。そうすれば君だってまた企画営業課に戻ってきた際、その後の仕事もやり易くなるだろう」
「戻ってきた時?異動してもまた企画営業課に戻ってこれるという事ですか?」
「全ては君次第だよ、田崎君。
実はね、君たちの事を心配しているのは私だけではない。私の家内も君や君の奥さんの事を心配しているんだよ。家内は君の奥さんをとても気にかけていてね。時々お茶を飲みながら話をする…所謂 茶飲み友達みたいな関係でね。女性同士だからこそ話せる事だってあるだろうしな」
知らなかった。一恵が社長の奥さんとお茶を飲みに行く程親しかったなんて。
そもそも結婚して…いや、それ以前から彼女の交友関係もよく知らない。
一恵は社長の奥さんとどんな事を話していたのだろう。自分の前では話せない事を色々と話していたのか…?
会議室を後にし、企画営業課に戻ると、部下や同僚達からの視線が痛かった。
皆、社長からの呼び出し、という点で何かがあったと察するのは当然だがどんな内容だったのか…一同にそれが気になっている様子だが、誰一人として直接俊彦に訊いたりする者はおらず、その後も打ち合わせやミーティングがあっても、いつもとどこか雰囲気が違っていた。 表向きはプレゼンに負けた事を気遣っての事だが、それ以外にも社長に呼び出されていた事が俊彦の部下や同僚にとっては気掛かりでならないのだ。
『社長から違う部署へ異動の話があった…』
一言俊彦の口から言えばいいことなのかもしれないが、まだ何処の部署へ行くかも分からない中、いくらチームとはいえ曖昧な事は言いたくなかった。
家に帰る足取りが重いと感じた事は無かった。
マンションの近くに来て住んでいる部屋を見ると、灯りが着いている。一恵がまだ起きているのだろう。
時計を見ると、いつも帰宅していた時間より少し早い。俊彦が帰宅するのは決まって23時近くか、日付が変わる頃だったし、帰宅しても一恵は既に寝ているから、家の中で顔を合わせるのは朝方くらいだが、朝は朝でお互い慌ただしくしており、会話らしい会話するも殆ど無い有様だ。
一恵が起きている時間に帰るなんて、いつ振りだろう。夫婦とはいえ、お互いを余りよく知らないまま結婚し、思い出らしい思い出が無いまま今に至る。夫婦なのに、何だかルームシェアをしているような気がしてならなかった。
玄関を開けると奥から「お帰りなさい」と一恵の声がし、靴を脱いでいるとリビングにいたのであろう一恵がわざわざ出迎えに来てくれた。
久しぶりにしっかりと見る一恵はTシャツにラフなパンツ姿とはいえ、その雰囲気は相変わらず聡明で、落ち着きに満ちていた。
取引先の社長からの紹介で出逢った時から聡明な印象は変わらないが、こうしてしっかり顔を合わせるのが久し振りなせいか、妻とはいえ俊彦は変な違和感を覚えてしまう。
「今日は早いのね」
物静かな中でもしっかりした一恵の声が俊彦の鼓膜を揺らす。
「うん。今日はちょっと…色々あって」
どんな言葉を返して良いか分からず、当たり障りの無い返事をした。
リビングのテーブルは一恵が夕食を終えたばかりだったのか、片付けの途中の食器がいくつかあり、飲みかけのコーヒーが入ったマグカップが置かれていた。
「ごめんなさい、散らかしてて。新規プロジェクトの関係で遅くなると思って」
俊彦の帰りが早いのが予想外だったのか、一恵は申し訳なさそうにテーブルに残っていた食器類を片付けた。
「連絡しなくてごめん。実は、新規プロジェクトのプレゼン、僕のチームは落ちたんだ」
俊彦の言葉に一恵が小さく「え?」と口にしたのが聞こえた。
一恵にとっても俊彦がプレゼンに落ちるという結果は予想外だったのか。
シャワーを浴び終えた俊彦に一恵はお茶漬けを用意してくれた。
早く帰ってきたものの、こうして向かい合って座るのも久し振りで、話したい事は沢山あるのに何から話していいのか分からず、お茶漬けを啜る音だけが室内に響いた。
『私の家内も君や君の奥さんの事を心配しているんだよ』
不意に今日の社長の言葉が頭を過った。
「ちょっと、訊きたい事があるんだけど…」
「何?」
「うちの社長の奥さんとは、よく会ったりしているの?」
「誰から聞いたの?」
「いいや、今日社長が…その…僕らの事を心配しているみたいでさ。社長の奥さんと君がよくお茶を飲む仲だと聞いて」
「奥様の方からよく電話やLINEがくるのよ。私も仕事をしているし、しょっちゅうは無理だけど、たまにお茶や食事をご一緒するの」
「どんな話をしているの?」…単刀直入に問いただしたいが、唐突過ぎる訊き方は良くないので、一恵の話を聞きながら少しずつタイミングを伺うことにした。
「でもこんな事を言ったら失礼だけど、私…あの奥様は最近苦手になってきて…」
意外な言葉だった。
俊彦の勝手な想像では一恵は社長の奥さんとはざっくばらんに話が出来る仲だと思っていたのに、しかも最近苦手になってきた、とはどういう事なのか。
「多趣味な方だから最初は私の知らない世界の話を沢山してくださって会うのが楽しかったわ。でもここ最近「子供はまだなの」とか「あなた達夫婦はうまくいってるの」とか。私や俊彦さんのご両親でさえ干渉してこないのに、何だか親以上に色々訊かれる事が多くなってきて。正直疲れるのよ。
この前、俊彦さんに仕事をセーブしようかと思ってるって話をしたでしょ? ずっと奥様から何度も電話で仕事をセーブして子供の事を考えたら?って言われ続けてたのよ。だから新規プロジェクトのプレゼンで大変なあなたに話を…。
電話やLINEに返答すれば二言目には「子供、子供」…正直、こうも干渉されると何か疲れちゃって…」
そうだったのか。
新規プロジェクトのプレゼンを控えていた時、子供の事も考えたい、と一恵から言われた時、正直そこまでは考えられずつい言い訳をしてしまった。
自分が仕事に忙殺されている間、一恵は社長の奥さんからプレッシャーを与えられていたなんて。
しかし、一恵の気持ちも理解出来るが…
『全ては君次第だよ、田崎君』
またしても社長の声が過った。
社長から部署異動の話があったと、一恵に言うべきか。この状況では話しにくい。でも言わなければ…
「実は…今日新規プロジェクトのプレゼンの結果発表の後、社長から呼び出されたんだ。それで、違う部署へ異動の話があったんだ」
「え?」
「まだ、どの部署に行くのかは分からない。ただ、今より残業も少なく、時間に余裕のある部署へ異動、と言っていた」
「それって、営業から外れるってこと?」
一恵の口調が先程と違って強くなっているのが分かった。
「そうなるね」
「俊彦さん、それでいいの?!」
初めて一恵が声を荒げた。
「俊彦さん、私の話聞いてた?ただでさえ社長の奥様の言葉が今の私にはプレッシャーなのに、異動を言われて大人しく従えるの?!」
「社長命令だし、従うしかないよ。今月中には内示が出るだろうから…」
「だからって…俊彦さんはそれでいいの?!」
いいはずがない。本心は異動なんてしたくない。だが、逆らってしまったらそれこそ企画営業課に戻る可能性さえ途絶えとしまう。悔しいし、一恵の気持ちも分かるが、今は社長の決定に従わざるを得ないのだ。
「社長が言うには、異動先は残業も無くて今より時間的に自由になる部署らしい。一恵がプレッシャーなのは分かるけど、僕の立場もあるし、理解して欲しいんだ。それに、僕らも夫婦としてこれから向き合っていったほうが良いし、丁度良い機会じゃな…」
俊彦が言葉を言い終わる前に、右の頬に痛みが走り、同時に視界が揺れた。 俊彦は何が起こったのか分からず、呆然としてしまった。右の頬の痛みでようやく一恵が俊彦を平手打ちしたのだと理解した。一恵は今に泣き出しそうな瞳で俊彦を見つめていた。
「俊彦さんが、仕事中心なのはよく分かってるわ。だから…私がこんな事を話しても…俊彦さんは理解してくれるかどうかって思ってた。でも何処かで夫婦だし、話せば少しは分かってくれるかもって、思ってたけど…俊彦さんはやっぱり私より、仕事が大事なのよ!」
大声で俊彦に叫ぶと、一恵は踵を返し寝室のドアを勢いよく閉めた。
取り残された俊彦は、閉められた寝室のドアをただ見つめる事しか出来ず、その場から動けずにいた。
一恵があんな大声で怒鳴るなんて…俊彦は一恵が感情的になった場面に遭遇した事が無く…いや、そもそも今まで一恵の表情の変化に気付いたことなどあっただろうか。
仕事を理由に一恵と向き合うことを避け、目を逸らしていた。だから一恵が社長の奥さんからの言葉がプレッシャーだと言われても、俊彦の頭の中にあるのは「どうしたら社長の機嫌を損ねず、うまく渡っていけるか」しかなかった。
『社長や社長の奥さんは、自分たちの事を心配してくれている。今ここで異動に異議を唱えたりしたら、それこそ先の見通しが不透明になってしまう。今は社長の言う事に従っていた方がいいんだ』
勢いよく閉められた寝室のドアの向こうにいる一恵は今どんな表情をしているのか、俊彦には想像が及ばず、ただ一人リビングで座り込むしか出来なかった。
明日、一恵にどんな顔で接すれば良いのだろう…
翌朝、俊彦はいつもと変わらない朝を迎えた。ただいつもと違うのは、目を覚ました場所が寝室のベッドではなく、リビングのソファだったことと、いつもなら先に起きて朝食を作る一恵の姿が今日はキッチンに無い事だ。
昨夜と変わらず寝室のドアは閉められたままで、一恵が先に起きて出かけ形跡は無い。とはいえ、会社に遅れる訳にはいかず、俊彦はパンを一枚頬張りながら家を出た。
異動辞令
営業企画課 田崎俊彦
1日付 メール課への異動を命ずる
「おい、何の冗談だよ?!」
「あの田崎課長がよりにもよって便利屋に異動とはね…」
「メール課って…閑職じゃない…」
朝一に張り出された辞令に男女問わず、営業企画部の社員達それぞれが落胆の声を上げた。その言葉達が俊彦の背中に突き刺さる。
残業が無く、時間に余裕がある部署…俊彦は経理や総務などを想像していたがそれらは呆気なく破られ、予想打にしていなかった『メール課』への異動だなんて。
確かに時間の縛りが殆ど無いが、今まで俊彦がいた営業企画部とは天と地ほどの差がある部署だし、過去に問題があった訳あり社員や、余程の変わり者が配属される…などの噂がある部署だ。
『エリートの転落』
そんな言葉が過り、俊彦は力を落とした。なんでまた自分が閑職に…
「田崎課長、何で便利屋に異動しちゃうのよ〜?」
「社長の陰謀じゃない?」
「陰謀?」
「うちの社長、何かと世話焼き人間じゃない?世話焼きというかお節介っていうのが正解かな。自分達にだって子供いないのに、田崎課長夫婦に子供は早い方がいい、とか言ってたらしいわよ。しかも社長の奥さんもグルになって田崎課長の奥さんにプレッシャー掛けてたらしいし」
「うっわぁ!サイアク! 姑みたいじゃない!てか他人の夫婦関係にそこまで普通入り込むかしら?」
「だって田崎課長の奥さんってうちの大事な取引先の社員さんだし、夫婦円満でこれで子供が出来て家族円満ってなったら会社同士も更に末永くお付き合いが出来て円満になるって筋書きじゃない」
「えー、何か政略結婚みたいで嫌だぁ。てか田崎課長、よくも大人しく従えるよね。何か奥さんが可哀想」
給湯室を通りかかった時、女性社員達の会話が聞こえてきた。
何も言い訳は出来ない。自分は見事社長に歯向かわず異動を受け入れた。
異動に異議を唱える選択肢も無いわけではかったが、もしこのまま営業企画課にいたら、部長となった安島の下に付くことになり、事実上自分は安島の部下という形になる。今までライバル関係だった。いつか自分が安島を部下に…というシナリオを密かに描いていただけに安島の下に付くなど想像していなかったし、したくもなかった。安島の部下になるくらいなら、一層今回の異動を大人しく受け入れ、機会を待った方がましだ。
氷が程良く解けた水がはいったグラスを持ち、レナは一口飲んだ。
その横でツカサは呼吸を一息吐いた。
これまで自身の過去の出来事を語るなど無かったし、まさかレナに以前訊かれたからと言って、こうして語る日がくるなど想像していなかった。
「異動して、すぐツカサさんは部署に馴染めたんですか?」
「馴染んだ…というより馴染まざるを得なかったのが事実です。でも最初は戸惑う事ばかりで。だってそれまでは打ち合わせやスケジュールや納期調整、外回りで忙しない部署にいましたから、180度異なる環境ですしね」
「それで、異動して奥さんとは?」
「妻…いや、元妻とは異動してからもギクシャクしたままで、結局修正は不可能なまま一緒にいるのが互いに苦痛になり、離婚しました」
俊彦がようやく一恵と向かいあって食卓のテーブルの席に着いた時が、まさか離婚届を書く瞬間など、想像すらしていなかった。
目の前に置かれた離婚届に一恵は無表情でペンを走らせ、名前を記入してゆく。迷いの無い動きがもはや修正不可能であり、一恵の意思の硬さを表しているように俊彦には映った。
『離婚するだと?!本気なのかね!!何の為に君を残業の無い時間の自由が効く部署に異動させたと思っている?!君は一体何を考えているんだ!馬鹿にするのもいい加減にしたまえ!』
『ねぇ、俊彦さん、一恵さん、お互い冷静になって、ちゃんとお話し合いをした方が
いいわ。せめて離婚ではなく、別居という形にならないかしら?2人は一度距離を置く必要があると思うし…』
社長と社長の奥さんの表情や向けられた言葉の数々が脳裏を過ぎるが、もう言い返すのも面倒になった。離婚に至ったのは2人の問題なのに、何故社長夫婦からあれこれと言われなければならないのか。
社長の怒りを買ってしまった以上、営業企画課に戻るの可能性は絶望的だろう。
もうどうでもいい。社長夫婦は所詮、俊彦達の事ではなく、自分達の立場が大事なだけだ。
『全ては君次第だよ、田崎君』
仮に子供が出来たとしても、社長は俊彦を営業企画課に戻す事なんて考えてはいないだろう。だからあんな言い方をしたのだ。
今まで会社の為に、利益になるよう動いてきたのに…
結果だってだしてきたのに…
それなのに、部長の席がライバルの安島に取られた。
今までと違う部署と環境…
修復不可能な夫婦仲。
離婚という結果になるまで何故か2人の間で時間はかからず、抵抗も無かった。だから俊彦も一恵も互いの名前を書き、捺印する瞬間も何の感情も湧かなかった。
一恵が捺印を終えると、すぅと一息ついた。その表情はホッとしたように見えるが、何処か曇っているように俊彦には映った。
「一恵、こういう結果になって…ごめん…」
初めて一恵に頭を下げた。
今更なのは良く分かっていたが、今一恵にかける言葉が見当たらず、俊彦にはこうするのが精一杯だ。
「謝らないでよ。お互い同意しての離婚だし、私は後悔はしていない。ただ…」
「ただ…?」
「私は最後まで俊彦さんが分からなかった。どんな食べ物が好きで、何を考えて、私の事をどう思っているのか…分かったのは仕事一筋だってことだけ。今日までそれしか知らないって、私達って夫婦でいる意味なんてあったのかなって思っちゃう」
喧嘩をした事も無い、一緒に手を繋いで買い物したり、何処かへ行ったりも。
一恵の言う通り、感情をぶつけ合わないなら自分達が夫婦でいる意味など何もなかったのかもしれない。いや、そんな思いにさせてしまったのも元を辿れば自分が仕事ばかりで、一恵の事を考えてこなかった結果だ。
「俊彦さん、私ね…献身的に尽くしていれば、その内自然と夫婦らしい夫婦になれるって思ってたの。だから、仕事と家事の両立はそんなに大変とは思わなかったわ。自分なりに頑張ってきたつもりだった。でもある時から、頑張る度に虚しくなってきて…」
一恵の言葉に返す言葉が見た当たらず、下を向くことしか出来なかった。
記入が終わった離婚届の上には外したばかりの一恵の指輪が静かに置かれていた。
「指輪の処分は俊彦さんにお任せします」
そう言うと一恵は席を立ち、玄関に向かった。
靴を履く僅かな時間、俊彦はただその動作を後ろから見つめるしか出来ずにいた。何か言わなければ。でも、何を。
「短い間でしたが、ありがとう」
丁寧に頭を下げる一恵に、俊彦はただ「あぁ」と返すのが精一杯だった。言いたいことは沢山あるはずなのに、今更なのと、どの言葉から伝えてよいかが分からず、簡単な返事しか返せない。それが俊彦にとってもどかしかった。
「俊彦さん、最後に一つだけ言わせて」
ドアノブに手をかける瞬間、一恵が背を向けながら言った。
ゆっくり俊彦の方に向き直ると、今まで見た事もない鋭い視線が俊彦を捕らえる。
「あなたは、女心が分かってない。あなたは…冷たい人よ!」
一恵の言葉に縛られたように俊彦は動けなくなった。気付けばドアが閉まる音が玄関に響き、一恵の姿は無かった。
この家のドアはこんなに重たい音だったのだろうか。もはやよく分からない。分かるのは、この瞬間、俊彦と一恵の夫婦の時間が終わり、2人が過ごした空間に俊彦だけが残された…それだけだった。
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