黄昏

 翌日、美奈子はまず福祉センターの川崎に時間を取ってもらい、母を見て貰う時間の変更は可能かを相談した。それにより『エデン』の出勤時間を調整するつもりだ。

 

 レナの常連客の殆どは仕事終わりに来店するサラリーマンが多く、今母を福祉センターで見て貰っている朝から15時の時間帯だと出勤してもフリーの客が殆どで、来店客が少ないと、最悪待機ばかりになってしまうことも多々あった。

 久しぶりに出勤した際、店長から「夕方あたりに出勤出来ないのか?」と訊かれた事があったが、その時は介護疲れと睡眠不足から考える事も苦痛で、川崎に相談する事もせず、ずるずるとそのままにしてしまっていた。

 自らが時間をしっかり調整し、体調を整えながら出勤と介護のバランスを上手く取っていけば何とかなる。その為には川崎や福祉センターのスタッフらの協力が不可欠だ。

 以前、職員不足で今のスタッフの人数では全ての利用者を見るには限度がある事を説明された。川崎達スタッフらに負担をかけて申し訳ない気持ちはあるが、このまま出勤出来ないままだと収入も無く、その内貯金も底をついてしまう。そうなってしまったら生活も成り立たなくなってしまうし、目先の事ではツカサに支払うお金の捻出も難しくなる。だから、川崎には悪いが無理を承知で相談しているのだ。


「お母様を、夕方から夜まで見る…?」

「ずっとではなく、3週間だけでいいんです。ここしばらく母の介護でなかなか出勤出来ていないので…そろそろ出勤しないと…」


 美奈子は今の現状を切実に訴えた。

 川崎は最初難色をしめしたものの、センターで見る事は出来ないが、訪問介護だったら可能だと言ってくれた。

 訪問介護は福祉センターと提携している訪問介護専門会社のスタッフが自宅に来てくれて、介護は勿論、散歩や掃除、食事の用意をしてくれる。

 ソープ嬢として吉原で働いている事は伏せていた。

 川崎や福祉センターのスタッフに嘘をつくのは常に気が引けるが、今ここで介護と出勤のバランスをしっかり調整しないと、母も美奈子も共に最悪な状態になってしまう。


「では訪問介護の方向で話を進めてみます。それと美奈子さん、一つご提案なのですが…」

「何ですか?」

「以前もお話したかと思いますが、お母様を施設に入れる話です」

「……」

「今、都内の施設は空きが無く、あっても入居費等が高額だったりします。なので関東や地方の介護施設も視野に入れてみては如何でしょう?」

「地方?」

「私の繋がりで、地方の施設で介護スタッフをやっている方々が多くいます。そこに聞いてみる事も可能ですが、いかがでしょう?」


 地方の介護施設…今住んでいる所から電車を乗り継いで行ける場所なら良いが、地方となると、母と共に引っ越さなければならない。そうなると、今の仕事 ソープ嬢も続けるのは不可能だ。

 いつかは辞める選択肢はあったが、全く知らない土地だと生活面が心配だし、そこで新しい職に就けるのかの不安もある。しかし、訪問介護もずっとお願いするのは無理もあるし、母の症状もこの先更に悪化すれば施設に入居せざるを得ない状況になるだろう。

 しかしいざ具体的な案として浮上すると、色々な事を考えてしまう。店を辞めるタイミング、引っ越し関係、そして…ツカサのことを。


 川崎から提案された地方の介護施設入居の話は、「取り敢えず入居可能かどうかを含めて聞いてみて欲しい」とだけお願いし、話はそこで終わった。

 その日の午後、川崎から連絡を貰い、訪問介護専門のスタッフ・木嶋を紹介してもらった。

 木嶋は50代半ばで次期所長候補にも挙がっているくらいのベテランスタッフだった。川崎から受けた内容を踏まえて、丁寧に美奈子の要望を聞きながら母の様子を観察して、今の状態に合ったケアプランを作成してくれた。


「では、朝から16:00までは美奈子さんがお母様が見て、16:00以降は私共訪問介護スタッフの方で見させていただきます」

「ありがとうございます。色々と無理を言ってしまい、申し訳ありません」

「あら、無理ではありませんよ。美奈子さん、福祉センターにみて貰っていても、帰宅したら美奈子さんがお母様を見ながら家事をやって、お母様の感情も行動も予測不可能な中でも貴女はずっと色々な事を我慢しながら頑張ってこられたんでしょ。偉いわ。でも頑張り過ぎないで。これからは気兼ねなく私達に頼って下さって構わないから。」


 木嶋の言葉を聞いて美奈子は涙が出そうだった。そして今まで張り詰めていたものが少しずつ剥がれ落ちるような、開放感に似たものを感じた。

 頑張っているとは思っていなかった。いや、考える余裕も無かった。日々進行していく母の症状に追いつけず、どう対処して良いか分からなくなり、睡眠時間も削られ常に緊張状態に置いていた。出勤したくても疲労に満ちた身体は思うように動かず、出勤を諦めざるを得なくなってしまい、いつの間にか気持ちの余裕も無くなり、認知症のせいだと分かっていても母の言動に怒りしか湧かず、優しくしたいのに出来ない自分に憤りを覚えた。

 「頑張り過ぎないで…」。木嶋の言葉が頭の中を駆け巡り、美奈子をがんじがらめにしていた鎖を取り除いていく。ようやく美奈子の表情に笑顔が溢れた。



『皆さん、お久しぶりです!覚えていますか〜?!(笑)

レナです!

長くご無沙汰してごめんなさい!!そしてご心配をおかけしました。私は元気です。

いよいよ明日から出勤しま〜す!

時間は17:00〜22:00です。今まで時間的に会えなかった皆さん、是非遊びに来てくださいね♡待ってます!

レナ』


『佐野さんお久し振りです!レナです。

ご心配をおかけしてごめんなさい!明日から復活します。お仕事でお忙しいでしょうが、少しでもお会い出来たら嬉しいです。待ってます!』


 久しぶりに写メ日記とTwitterに明日から復帰する事と1週間の出勤日を載せた。そしてLINEを交換している佐野を始めとする常連客達に久々のLINEを送った。

 母の介護に追われている際は何度も当日欠勤をしてしまった。最初はその影響を喰らうかもしれない。しかし、木嶋のおかげで気兼ね無く出勤出来る現実が、不安を掻き消してくれた。明日からは気持ちを切り替えて、また頑張るだけだ。



「う〜ん!美味しい♡」


 レナの復帰初日。 

120分コースで入った佐野は出張先のお土産で持ってきてくれたのは、見た目も可愛いプチケーキセットだった。

 佐野は以前、疲労の色が隠せないレナを心配し「今度一緒にケーキを食べよう」と言ってくれた。口約束だとレナは勝手に思っていたが、まさか復帰初日に持ってきてくれるなんて。

 佐野が持ってきてくれたプチケーキを小さなお皿で分けて、これもまた差し入れの紅茶を飲みながら2人でまったりした時間を過ごした。

 佐野はレナの久しぶりの出勤を心から喜んでくれ、部屋に入ると「今日はプレイはしなくていいから、一緒にケーキを食べよう」と言ってきた。決して安くない金額を払ってくれているというのに、プレイをしないなんて…何だか気が引けてしまうが、佐野の純粋な思いに負け、今こうしてゆったりと肩を並べて一緒にケーキを頬張っている。


「良かった。レナちゃんが笑ってくれて。ずっと心配だったんだ。以前来た時、凄く疲れた顔をしていたし、何か…思い詰めているみたいだったから。もしかしたら、このまま辞めちゃうんじゃないかって、不安にもなったよ。俺はこうして店に来る事しか出来ないし、何も助けてあげられないから…」

「そんな!ずっと心配かけてしまって本当にごめんなさい。こうして来て下さっただけでも感謝なのに、プレイをせずにケーキまでご馳走になって…こんなに良くしていただいたのに、私は佐野さんに何もお返し出来なくて…」

「気にしないで。お母さんの認知症、かなり進んでいるんでしょ?頑張るのは良い事だけど、無理し過ぎないで。俺は元気で素敵な笑顔のレナちゃんに会えるだけで大満足だよ」


 やはり佐野はレナが辞めるかもと危惧していた。

確かに母の介護で思うように出勤出来ない日々が続いていた。このまま出勤せずいっそのこと『エデン』のホームページと店頭写真から消えても良いと思うくらい自暴自棄になっていたのは事実だ。今佐野の言葉を聞いて、一瞬でもそんな事を思ってしまった事を心底後悔し、ずっと待っていてくれた佐野に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「無理はしませんよ。訪問介護のスタッフさんの協力もあって、今日から出勤出来るようになりましたし。佐野さんにも逢えて…嬉しい限りです」


 レナは佐野の肩にもたれた。体格が良く、しっかりした肩を持つ佐野に、レナな不思議と心を許せるような気がした。

 静かに甘えてくるレナに佐野は照れを隠すようにタバコを吸い始めた。


 久し振りのレナの出勤は佐野を始め、新人の頃から応援してくれているお客やTwitterのフォロワーが何人か来店してくれたお陰で『完売』で終えることが出来た。

 1人1人との接客は時間の長さに関係無く、出勤前まで抱いていた不安を払拭し、失いかけていた自信を取り戻す事が出来た。

 来店してくれたお客に出勤が終わるやいなやレナは一人一人にお礼のLINEを送り、Twitterや写メ日記でも今日のお礼を綴った。

 とはいえ、久々の出勤だったので躰はまだリズムを取り戻せておらず、疲れは感じるものの、嫌な疲労ではなく充実感に似ていた。

 今日来店してくれたお客達の大半はレナに会った瞬間「お帰り」と言ってくれた。

 自分がいる事で相手が笑ってくれて、悦んでくれる。レナも接客出来る相手がいるからこそ成り立っているので、そんな彼等に対して出来る事は精一杯もてなすことしかない。それが今のレナに出来る感謝の形だった



 仕事が終わると真っ直ぐ家に帰り、訪問介護スタッフの木嶋から母の様子を聞く。

 美奈子が出かけて以降の言動、食事内容や一緒にいて気付いたことなど。

 木嶋は訪問介護のプロだけあって、美奈子では気付けなかった母の細かな仕草で何を伝えたがっているのか、変化が無いように見えて、実は微妙な表情の変化で様々な事を訴えていたりなどを細かく観察し、美奈子に伝えてくれた。


 木嶋のこれまでの経験上、認知症者の大半はスタッフとはいえ、馴染みの無い人間が自分の家の中にいると落ち着かず、警戒し不機嫌になってしまうケースが多いのだという。しかし、母の場合は元から人懐っこい性格のせいか、特に不機嫌になることも感情が不安定になる様子もなかったという。食欲もあり、木嶋が作った食事をゆっくりだが完食したらしい。


「以前母は…私が作った食事を口にせず暴れ出したんです。毒が入ってるとか、殺されるとか叫んで…それって、母は私を嫌っているって事でしょうか?」


 美奈子は今まで胸の奥で引っかかっていた疑問を口にした。

 美奈子自身、精神的にも体力的にも余裕が無く、認知症の症状によるものだと頭では分かっていても母から食事を拒否された挙句「人殺し」や「毒が入っている」と信じられない言葉を投げつけられたのがショックでならなかった。もしかして、母は症状に関係無く娘である美奈子を本気で嫌っているのでは…そんな考えがあの日以来過ぎっていた。


「認知症介護をされている方で、自分の親から罵られたり、拒否されたりというお話はよく聞きます。自分の時はあんなに暴れたり、拒否していたのに、介護スタッフや他の人にはそんな事無くまるで別人みたいに見える…それで精神的に傷付いて親に手を上げてしまう方も。 でも私が見た限り、お母様は美奈子さんを嫌ったりしていませんよ。むしろ、大好きだと思います」

「本当ですか?!」

「はい。その証拠にお母様と美奈子さんの話をしていたら、何度も柔らかな表情で嬉しそうに笑っていたんです。もし本当に嫌いだったら、あんな表情をしたりしないはずですし」


 木嶋の言葉を聞いて、それまで胸に引っかかっていた痼がようやく取れたような安堵感を覚えた。

 認知症のせいだと分かっていても、もし母の罵っている言葉の中に本心があったら…と常に不安だった。木嶋という第三者が入ることにより、今まで狭かった視野が広がりをみせ、気付かなかった母の仕草を細かく観察してくれて、美奈子の中で蓄積してしまっていた不安や疑念を一気に取り払ってくれた。


「…凄く…安心、しました…」


 小さく言葉を発した美奈子の手を木嶋はそっと握ってくれた。

 かつて美奈子が泣いていた時、母もこうして手を握ってくれた事があった。今の母はもうあの頃のように手を握ってくれる事は無いだろう。 木嶋はかつて母がしてくれたことを自然としてくれる。それが今の美奈子にとってどれほど支えになっているか。

 握られた柔らかいく、しっかりしたぬくもりに、美奈子は改めて自分が出来る限りで母を支えていこうと誓った。

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