雨音

 一人の空間にいると、季節を問わず降る雨の音が余計に大きく室内に響いて聞こえる。


「ゔううん…んん…!!」


 雨音に混じって、奥の部屋から聞こえてくる呻き声。母の声だ。

 美奈子は特に慌てることもなく、ゆっくり立ち上がり、母のいる奥の部屋に向かった。

 日を追うごとに母の認知症は進行し、徘徊、物忘れ、暴言、奇行などが起こり、福祉センターのスタッフや美奈子の介護無しでは生活が出来ない状態になっていた。

 朝から午後の15時までは福祉センターの方で見てもらえるが、15時以降は美奈子が自宅で介護しなければならなかった。

 母の行動や感情の波は常に予測不可能で、少し目を離すと外へ出ようとしたり、それが叶わないと暴れたりする。更に最近はトイレの場所さえ認識出来なくなり、悩んだ末に紙おむつを着けるようになった。しかし初めては慣れない紙おむつの着け心地が気に入らないのか、何度も外そうと暴れたり、排泄をしていないのに呻き声を上げ訴えてくるのだ。 美奈子は母が呻き声を上げれば最初は家事の手を止め急いでかけつけたりしたが、最近は母の訴え対し、毎回の事と半ば諦めに近い気持ちが芽生えていた。


 母は時間の感覚が無いのか、呻き声や徘徊は昼夜を問わず起こり、美奈子には精神的にも体力的にも休む間が無かった。その為、ここ数ヶ月 レナとしての出勤日数も大幅に減ってしまっていた。

 朝方、母を迎えに来てくれた福祉センターのスタッフと一緒に家を出たと同時に蓄積していた疲労が全身に広がり、半端ない眠気に襲われ とても出勤出来る状態ではなかった。

 ただでさえレナとしての時間も取れない為、写メ日記もTwitterも更新出来ていない。ようやく出勤出来ても、接客に身が入らなかったり、一人の接客が終わった途端、強烈な疲労と眠気に襲われ貧血を起こしてしまう事も何度かあった。体力勝負のソープ嬢としての仕事が終わって帰宅したら今度は母の介護が待っている。出口が見えない日々の中、美奈子は本来の目標自体を見失ってしまいそうになっていた。


『一体私は何の為にソープで働いているんだろう。

生活のため?

そう分かっている。私が頑張って働かないと親子二人の生活が成り立たない』


 頭では答えが出ているのに、身体が言うことを聞いてくれない。


「お母さん、お待たせ。夕飯出来たよ」


 少しでも体力が付くようにと今日はハンバーグとご飯、ワカメの味噌汁にしてみた。

 母の前に夕飯を並べたが、母は食事を見ようとせず、ただ呆然と正面の台所を見つめているだけだった。


「さ、お母さん、食べよう」


 動こうとしない母に、美奈子はスプーンを使ってハンバーグを少量彼女の口に運ぼうとした。しかし次の瞬間、母の手が勢いよく美奈子の手を振り払い、スプーンは宙を舞った後、激しく床に落ちた。


「毒だぁー!!毒が入ってる!!殺されるー!人殺しー!!!」

「お母さん!落ち着いて!」

「ぎゃぁぁぁぁ!!人殺し!殺されるー!!助けてー!!!」


 髪を振り乱しながらテーブルに並べられた夕食の食器を両手で振り落とした。

 食器やそこに盛られた食材は無惨にも床に落ち、お茶碗も割れてしまった。美奈子はそんな状態を目の当たりにして、頭の中で何かがぷつりと音がした。


『せっかく作ったの…

このご飯、タダじゃないんだよ…

このご飯も、お母さんが着ている服や電気水道、ガス代だって私が払ってるんだよ…!!

ねえ、お母さん私がどうやってそのお金を作ってるか知ってるの?!』


「お母さん!私の話を聞いて!!」

「来るなー!人殺しー!!!あっち行けー!!」

「いい加減にしてよ!私はね、ソープやって生活を支えてんのよ!日々沢山の男に抱かれてお金貰ってんのよ!分かる!ねぇ!このお米を買うのだって、食材だってその中からやり繰りしてるだよ!!アンタの面倒を見て出勤が減って思うように稼げないのに、どうしてこんな粗末な事が出来るのよー!!!」


 美奈子は怒りが命じるまま母の細くなった腕を掴むと、掌を顔面目掛けて振り下ろそうとした。…が、すんでのところで手が止まり、母を打たずに済んだが、美奈子は力無くその場に座り込んだ。


『私は…何をしようとしたんだろう…』


 深い後悔の念に襲われた。

 何があっても守ろうと誓った母親に。いくら判断する力が無くなっているとはいえ、食事を無駄にされたとはいえ、怒りを覚え、その怒りが抑えられず手を上げそうになった。

 母はそんな美奈子の衝動を知る由もなく、叫ぶだけ叫ぶと急に静かになり自室へ行ってしまった。


 一人取り残された美奈子は怒りに取り憑かれた事の後悔から身体の震えが止まらなかった。さっきの自分はきっと想像以上に酷い形相だったことだろう。

 母の錯乱や罵倒は今に始まった事では無いものの、今まで怒りが湧かなかったのが不思議なくらいだ。いや、怒りがあっても我慢に我慢を重ねここまで爆発するまで溜め込んでしまったのだろう。


 最近のニュースで親の介護の疲れから、自分の親を手にかけた…という痛ましい事件をテレビで見る度に、美奈子は絶対そうならないように気を張ってきた。意思疎通が取れない母の言動に怒りを覚えないように接してきた。小さな子供に戻ってしまったと思いながら、時には優しく語りかけ、時に語気を強めて注意してきた。そんな毎日を送る内、母が呻き声を上げても、錯乱しても、大声で罵倒してきても慣れてきた…はずだったのに。


…どうしてあそこまで怒りがこみ上げてきてしまったのだろう。


「お母さん……ごめんね……ごめんなさい……!」


 美奈子は自室で無表情のまま座っている母の細い手を取り、ただひたすら謝った。

 届くとは思わない。母が反応してくれるわけではない。それでも謝らないと気が済まなかった。

 腕を見ると、微かに痣が出来ていた。怒りの中、知らない内に凄い力で母の腕を握ったのだろう。時間が経てば消えるかもしれない。しかし、これは紛れも無く美奈子が付けてしまったものだ。あの時、怒りに任せて手を上げようとした確かな証拠なのだ。母は痛みを訴えていないが、その痣が美奈子の心を後悔という形で責めたててくる。


 もし、今奇跡が起きて、母が正気に戻ったら、何と言うだろう。

 『罵倒したのは悪かったわ!でもここまでする事ないじゃない!』と怒鳴ってくるだろうか。

 あるいは、『ごめんね、酷い事を言ってしまったわね。美奈ちゃんも、辛かったのよね…。私のために苦労させて、ごめんね』と頭を撫でながら、あの優しい声で言ってくれるだろうか。

 しかし現実は違う。自分の存在さえ理解出来ない母がそこにいて、美奈子はただ謝りながら泣く事しか出来ずにいた。




 深夜2時。

 夜中何度も徘徊しようとする母に手を焼きながら、やっと寝てくれた事で美奈子はようやくお風呂を済ませ、自室でスマホを弄る事が出来た。ここ暫くは母の介護でなかなかスマホを弄る時間が無く、弄りながら寝落ちしてしまう事も多かった。

 ほんの僅かでも自分の時間が出来て、久しぶりにTwitterを見ると、『女性向け風俗.com』のツイートをツカサがリツイートしていた。リンクを追ってみると、『女性向け風俗.com』での特集記事で、


『今注目の女風セラピスト特集!

若手に負けない!大人の魅力に満ちたセラピスト3人〜夢の対談 第一弾〜』


 とあった。

 30代後半からのそれぞれ違う店舗所属のセラピスト三人が女風に関してや、今まで行ってきた施術等について対談する内容だった。


―対談セラピストー

『Dream』所属 カオルさん(30代後半)

『Ciel』所属 ツカサさん(40代)

『Mr.』所属 タカユキさん(50代)


 ツカサを含めた3人はそれぞれモザイクが掛かっているものの、3人それぞれに似合ったスーツを着こなし、大人の魅力を醸し出しているのが写真から伝わってきた。



―皆さんはどのようなきっかけでセラピストになられたのでしょうか?


カオル「僕は友達から、こんな世界があるよって教えてもらって興味を持ったので応募しました」


タカユキ「私は本業の傍ら、何かやりたいと常に思っていました。それでインターネットで調べていたら、偶然『女風』、『女性向け風俗』という単語に辿り着きまして、検索を進めていく内に今所属している店舗に行き着きセラピストを募集していたので、年齢不問とあったので50代ですが応募し、今に至ります」


ツカサ「僕は…きっかけらしいきっかは特にありませんが強いて言えば、女性を知りたいから…ですね」


―皆さんが思う女風の魅力って何でしょうか?


タカユキ「風俗と一言で言っても職種は様々です。風俗は男性だけのもの、と思う方もいるでしょう。実際私もその一人でした(笑) しかし女性向けの風俗があると知った時、何だか嬉しい気持ちがありましたね。今の時代、男女平等って言われていますがまだまだ追いついていない部分は多々あります。しかし、風俗で女性向けが存在してくれると、男性も女性もそれぞれが性の悦びを追求出来ますし」


カオル「おぉ!何だか博識〜!(笑)」


タカユキ「難しい事を述べてしまいましたが、女性も己の性の悦びを追求する場所がある…それが1番の魅力ですね」


ツカサ「確かにそうですね。それに、男性も様々な性癖や嗜好を持っている人達がいるように、女性の嗜好も性癖もお客様によって様々です。そんな今まで知らなかった女性の一面を目の当たりに出来るのがセラピストをしている僕個人から見た魅力ですかね」


 記事を読み、ツカサの言葉を追っている内、ツカサとの日々を思い出した。

 初めて予約をし、仕事終わりに池袋で待ち合わせその後一緒にお茶をしながら話をした。そしてホテルへ行き、まだ新人期間ではあったがツカサは精一杯の施術でレナの心と躰を満たし、甘くとろけさせた。仕事上男性の欲望を受け止める側だったレナにとって、ツカサの施術は躰を解すだけで無く、欲望を追い求める側の楽しさを教えてくれた。

 職種は違えど、お互いの存在が刺激となった。次に逢う時には少しでも成長してられるようにと、写メ日記にTwitterに、店舗での接客に力を入れた…月一にツカサに逢える事がいつしか気持ちの支えとなり、心に余裕が生まれた。

 逢う度にツカサは色気を増し、新鮮な刺激でレナを満たしてくれた。


 最後にツカサに逢ったのはいつだっただろう…?

 確か母が福祉センターから居なくなって騒動になった時に予約をキャンセルして以来、予約を入れていないから、もう何年も逢っていないように思えてしまう。

 それでいても、レナとして出勤出来ていないし、写メ日記やTwitterも更新出来ていない。何も更新していなければツカサから反応も無い。

 

 母の介護が本格化し出勤出来ず、レナとしての時間も取れない間もツカサは沢山の女性達を癒していたのだろう。あの低い声で、柔らかな手で、指で、口唇で…。

 それこそ、レナの存在を忘れてしまうほどに。

 『Ciel』のホームページを見ると、いつの間にかツカサがナンバー入りを果たし、現在第5位の位置にいる。

 ツカサは対談とはいえ、セラピストとしての実績を積みこうして記事に取り上げられることで更に『セラピスト・ツカサ』を知る女性は増えるだろう。そしてツカサは更に色気を増し、セラピストとして、男性として輝いていくのだろう。


 それに比べて自分はどうだ。

 いつの間にか髪はボサボサ。手入れを忘れた肌も荒れ、瞳も輝きが無く、腕には母に引っ掻かれた痕がいくつも目立っている。

 今の自分を見たら、ツカサはどんな言葉をかけるだろう。いや、その前にレナだと分かってくれるだろうか。

 何だか置いてけぼりを食らった気分だ。

 ツカサが遠く感じる。どんなに手を伸ばしても届かない、背中しか見えない。やがてその背中も見失ってしまいそうだ。


 でも…初めて女風を利用し、ツカサと出逢ったあの日が、レナの心をツカサに引き込んで離さなかった。


「ツカサ…さん…会い…たい…!会いたい…!」


 自然と言葉が口をついて出た。正直な願望だった。

 どんな惨めな姿に映っても構わない。ツカサに逢いたかった。性感など無くていい、ただ抱き締めてもらいたい。

 思いを巡らせている内、美奈子の指は自然と『Ciel』のLINEページにある予約画面に向かい、必要情報を入力していた。


ご予約日:○月○日(金)

ご希望のセラピスト:ツカサ

ご希望の時刻 17:00

ご希望コース:性感コース 90分

お名前:レナ

メールアドレス:△△△@×××.jp

電話番号:090-○○○○-××××

待ち合わせ駅・場所:池袋・ホテルアルジオ


 迷うことなく予約のボタンを押した。

 今回は直接ホテル待ち合わせにした。このホテルは以前ツカサと入った事があり、駅くらは少し歩くが比較的空いていて、部屋も広く、リーズナブルだった。

駅で待ち合わせでも良かったが、きっと今の状態ではツカサに逢えた瞬間、人目も憚らず泣いてしまうだろう。そうなったらツカサにも迷惑をかけてしまう。だからホテルでの直接待ち合わせなら人目を気にせずに済む。


 暫くして、『Ciel』事務局から予約完了のLINEが来た。

 予約した日まであと2週間ある。それまで以前のようにとはいかないまでも、少しでもマシにならなければ。

 美奈子が決心を固めた次の瞬間、TwitterのDMを知らせる通知が届いた。

 開くとツカサからのDMだった。


『レナさん、お久しぶりです!

ずっと心配していましたがお元気でしたか? 


ご予約ありがとうございます!

ホテル アルジオ、以前何回か行ったホテルですね。

了解しました。


久しぶりにお会い出来るのを今から楽しみにしています。


ツカサ』 


 ツカサからの久しぶりのDMを受け取ったものの、返す言葉が見当たらなかった。

 きっとツカサは以前のレナの姿を思い浮かべながらこのDMを送ったのだろう。予約を入れたのがあの時のレナと違って、介護疲れに満ちた女・美奈子と思わずに。しかし、あと2週間ある。それまでに何とかしなければ。いや、何とかしたかった。

 いつの間にか止まってしまっていた時間を動かしたかった。

 動かさなければ、何も変わらないから…。

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