予兆
帝国ホテルでのディナーを終え、滝野川 早苗が運転するベントレーは横浜に向かって走っていた。
「最近順調そうね、ツカサ」
ハンドルを操作しながら早苗は言った。
助手席に座っているツカサは落ち着かない状態を悟られないよう車窓に流れる景色に目をやったり、運転する早苗の姿を時折り盗み見ていた。
早苗が所有するベントレーは彼女のお気に入りで、秘書の椎名でさえ運転を許さないのだという。
「早苗さんのおかげです。感謝しています」
早苗はあの箱根以来ツカサを指名し、時にゴルフや温泉旅行を共にする。毎回ゴルフやお酒の相手、荷物持ち、仕事での愚痴を聞きいたら、早苗の経営する会社のリゾートホテルに泊まっては個室露天風呂に入ったりするが、早苗がツカサの身体を求めてくることは一切無い。それどころか、早苗は自分の人脈の中から女風に興味が有りそうな女性にツカサを紹介し、予約に繋げてくれている。ツカサにとっては有難い存在だ。
「今日は横浜のホテルで一泊とのことですが、またワインを飲みますか?」
「今夜はワインは結構よ。貴方にお願いがあるの」
早苗の意味深な言葉がツカサは気になったが、横浜のホテルに着けば早苗が話してくれるだろうし、焦らずその時を待つことにした。
ベイエリアを望む最上階のスイートルームは入り口から広々としていて、まるで豪邸のような造りだ。
普段なら荷物の整理が終わるとワインを開けて寛ぐ早苗だが、車中でワインはいらないと言っていたので、ツカサは氷が少なめのペリエを作って早苗に渡した。
「…早苗さん、さっき言っていたことですが」
「この女性と会って欲しいの」
早苗はツカサの言葉を遮る様に言うと、自分のスマホを渡してきた。
スマホ画面には30代後半だろうか、ストライプのスーツを着こなし、見るからに聡明なキャリアウーマンのような女性が写っていた。アングルからして隠し撮りしたものだろう。
「この女性は?」
「うちグループの子会社…というより私の下で雇っている子で、とても優秀な子なの」
早苗はツカサにこの女性の写真を見せて、どうしたいのだろう。ツカサは早苗の言葉を待った。
「4、5年前くらいだったかしら。私は彼女を拾ったの」
「拾った?」
「雨の中、この世の全てに絶望したような姿で歩いていた彼女は、何か引きつけられるようなものを感じて私の所で面倒を見て、今や私の下でしっかり結果を出している子よ。ツカサ、貴方に頼みたい事というのはね、その子を救って欲しいの」
「救う?」
早苗が認め、育てた女性なのは話から見えた。しかし、「救って欲しい」とはどういうことなのか。
「彼女を救って欲しいの。底無しの、復讐から…」
「復讐?」
スマホの画面に映る女性とは縁遠い言葉を聞き、ツカサはもう一度スマホ画面を見た。
底無しの復讐?一体どういうことなのか。
「近いうち、彼女と会う席を設けるわ。貴方に救って欲しいのは、その子の心よ」
早苗はそう言うと氷で冷えたペリエを一口飲み、窓の外に広がる横浜の夜景を今夜はどことなく複雑そうな表情で見つめ、そんな彼女にツカサはスマホ画面に映る女性について訊きたいことが沢山あるが、何も言えずただ早苗の横で同じ夜景を見ることしか出来なかった。
【完】
夜汽車の行方 橘花あざみ @ray-777
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