混沌

「レナちゃん、最近楽しそうだけど何か良い事でもあったの?」


 いつもなら80分コースでレナを指名する佐野が、今日は120分のロングコースで入ってくれた。なんでも来週から地方に出張が入っており、次回来店が出来るのは来月になってしまうとの事で、今回120分コースを予約してくれたのだ。

 レナはそんな佐野にいつものサービスに加え、マットプレイを提案した。佐野は今までマットプレイをしてこなかったが、レナからの提案という事も手伝い、良い機会なので初挑戦することにした。

 ローションを使用するため独特の滑りの中、レナはマットにうつ伏せになった佐野の腰から背中をローションを使って巧みにマッサージを施していく。


「え?そう見えます?確かに楽しいですよ。佐野さんがこうして来てくれて、一緒にマットプレイが出来るのが」

「おぉ〜!嬉しいこと言ってくれるね!」


 佐野は満更でもない表情でレナのマッサージを受け、やがて滑りの中で互いの躰をしっかり抱きしめ合い、ベッドの時とは違う感触を楽しんでいた。

 

 佐野の言葉は図星だった。レナはセラピスト・ツカサと出会い、女風デビューをして以降、凄く調子が良い。初めてツカサと逢って以降、約束通り月一のペースでツカサに予約を入れ、気付けばツカサと出逢って早くも半年が過ぎようとしていた。今でもツカサには心と躰を癒してもらっている。


 ツカサは会う度にレナの躰や母の心配をしてくれた。最初は性感コースが続いていたが、今はデートで水族館に行ったり、テレビで取り上げられた有名スイーツ店や、穴場デートスポットへ行ったりと、まるで普通の恋人のような時間を楽しんでいる。

 最近の性感コースの施術では毎回前回と違う触れ方を仕掛けてくれて、普通にマッサージをされ、その心地良さに酔っていると突然タオルで視界を奪われ、しばらく放置されたかと思うと突然ピンクローターを使って乳房から下半身の秘所の周辺にかけて刺激を与えられたり、またある時は珍しくネクタイ姿で現れたかと思うと、施術中にそのネクタイで手首を緊縛をされ、自由を奪われながら卑猥な言葉を耳元で囁かれるというソフトSMチックな事をしてきたりと…毎回異なる時間と刺激をくれるツカサはレナにとって大きな刺激となった。

 施術が終わると優しく抱き締めながらお互いの近況を話す時間がある。レナはこの時間が実は好きだった。お互いの近況を差し支えない程度で話し、互いを刺激し合う時間はレナにとって密かな活力の源になっていたからだ。

 ツカサは写メ日記やTwitterの更新を出来るだけ続け、その甲斐あってか 最近徐々に指名が増え、口コミの数も日に日に増えていた。

 レナは時間が空いたらツカサの口コミを読む。嫉妬とかの感情は無く、ただ自分が毎月指名しているセラピストが1人でも多くの女性から称賛されているのを見ると、自分のことのように嬉しくなる。


「つくづく女風って奥が深くて、一言では言い表せないジャンルだと最近思います。性格が異なる女性がほとんどで、その違う女性達の数と同じかそれ以上に求められる欲望や快楽があるんだなと」


 静かに語るツカサの横顔は、会う度に段々と艶めきを増していて、更に大人の色気を纏っているように思えた。

 ツカサと一緒にいる時、「好き」とか「恋をしている」の感情とはまた一つ違う「安定感」のような心地良さをレナは感じていた。

 また今月もツカサに予約を入れている。今度会えたらどんな施術をしてくれるだろう。想像するだけで顔がニヤついてしまうのをグッと堪え、仕事に集中する。ツカサもセラピストとして日々努力をしながら成長している。同業者として、レナも負けてはいられなかった。


 佐野を見送り、片付けをしながらツカサの事を考えていた。

 予約を入れた前後以外だけDMのやり取りがあり、それ以外は互いの写メ日記やTwitterが更新がされた時は『いいね』を付けるだけだった。

 『Ciel』の最新のランキングを見てみると、ツカサはまだナンバー入りはしていないが、ナンバー入り候補の中には入っている様子だ。その証拠にここ数ヶ月、ツカサの予約日程の欄に【予約満了】の文字が並ぶようになった。ツカサはDMで出勤日程の調整も可能だとのことで、レナは予約の時DMでツカサの都合を訊いて、事務局に正式な予約を入れるやり方を取っていた。


 片付けが終わり、鞄にしまっていたプライベート用のスマホを取り出すと福祉センターの川崎から何度も着信が入っていた。

 

「川崎さん、何度も電話をいただいていてごめんなさい!」

『美奈子さん、お忙しいところ何度も電話してすみませんでした』


 電話口の向こうで川崎は申し訳なさそうに謝ってきた。


『実はお母様の事なんですが、最近物忘れが進行していて、お昼を食べた事を忘れてしまったり、少し目を離すと何処かへ行ってしまう、いわゆる徘徊が目立ってきているんです。こちらも気をつけて見てはいますが、なにぶんスタッフの人数にも限りがあるものですから、お母様を優先して見る事が難しい状況なんです。それで電話をしたのは、もし今日お仕事が早く終われるようでしたら、福祉センターにお母様を迎えに来ていただく事は可能かどうかをお伺いしたくて』

 

 川崎の言葉を聞きながら、美奈子は最近の母の様子を思い返してみた。

 母は最近、食事を終えてもその数時間後にはまた「お腹が空いた」と訴えてきたり、夜中に財布や印鑑が無い!と騒いだかと思えば次の瞬間には騒いでいた事も忘れて布団に戻り、呆気なく熟睡してしまう事もある。症状が進行していけば夜中に徘徊したりする可能性も懸念していたが、今のところそれ見られなかった。しかし、川崎の話でいよいよ母の症状が本格化してきた事を悟った。

 今は福祉センターの方で何とかしてくれるが、これが自宅に戻って夜中徘徊されたら、自分1人で探せるだろうか。


「分かりました。今日は早退して、夕方5時頃に迎えに行きます」

『申し訳ありません。では夕方5時にお待ちしていますので』


 電話を終え、小さな溜め息が漏れた。

 覚悟していた事だ。今どんなに症状の進行を遅らせようとしても、いずれ症状は進行し、弱から強へと移ってしまうものだ。

 ここ数ヶ月でほんの小さな歪みから、段々と徐々が進行していってしまった。徐々に壊れ、いつか娘の美奈子の事を認識出来なくなる日もそう遠くないのかもしれない。



 店長に早退の旨を伝え、15時に来店したフリーの客を見送ると急いで店を後にし、福祉センターに向かった。


 センターに着くと母はセンターのスタッフと一緒に編み物を編んでいた。しかし、以前と違い、手付きがぎこちなく、上手く次の作業に進めていない様子だった。


「美奈子さん」


 川崎がスタッフルームから出てきた。


「美奈子さんごめんなさい。電話といい、お迎えまで頼んでしまって」

「いいえ。こちらこそ色々ご迷惑をおかけしていまして…」

「おうちでは、徘徊の様子はまだないですか?」

「はい、物忘れは以前からありますが、最近夜中に突然起き出しては財布が無いとか言って騒いだりしています」

「そうですか。ご自宅ですと美奈子さんがほとんど1人で家事をしなければならない状況がこれから増えていくかもしれません。私共もしっかりサポートをしていきたいのですが、現状、人数不足でなかなか難しい所もありまして…」


 センターの人数が足りていない事は以前川崎から聞いていた。確かに今は福祉センターの認知症サポートに1人につき症状によっては2人か3人が付いている。求人を出していても応募はあるが、なかなか長続きしないらしい。そんな現状下で母の面倒をみてもらっているのは有難いが、やはり彼らの負担になる事は避けたかった。


「美奈子さん、酷な話ですが将来、お母様を施設に入れる事もご検討なさってはいかがかと」


 川崎は遠慮気味に言葉を選びながら発言をしていたが、美奈子は川崎の口から施設に入所する提案が出た事に少し安堵していた。このまま自分が母の介護を出来ればしていきたい。しかし症状が進行していけばいくら福祉センターの人がサポートをしてくれても、自宅へ戻り美奈子だけになったら、1人ではどうにもならない事が出てくる事だって充分考えられる。だから施設への入所という選択肢があれば気持ちは少しだけ軽くなる。


「そうですね。施設への入所も考えておきます」

「分かりました。こちらでも探しておきますので」


 母と2人で手を繋いで…というより美奈子が母の手を引くような形で自宅に向かって歩いていた。以前は手を繋げば握り返してくれた母の手は最近はそれをせず力無い状態で美奈子に引かれているだけだった。母の表情はどこか虚で、俯く事も多くなった。何か話さなければと思っていても、かける言葉が見つからない。


「お母さん、今夜、何食べたい?」

「う〜ん、お刺身」


 以前より低くなった声も美奈子の中にある不安を煽った。しかし顔に出す事なく「分かった」と答え、ゆっくり歩いていく。

 歳を取っていくのは人間なら当然の事。母親との思い出が濃厚ならばそれ故に目の前の母親の声が低くくなっていき、認知症も進行し、髪には白髪も増えている。そんな現実を受け入れなければいけないのに、全て受け入れられないでいる自分がいた。


 帰宅して夕飯の準備をしようと冷蔵庫を開けた。しかし母が希望しているお刺身は生憎切らしてしまっている。リビングの方で母はテレビを見ているし、歩いて直ぐの場所にスーパーがある。少しだけなら。

 急いでスーパーに向かい、お刺身を購入して直ぐに帰ってきた。

 足早に帰宅すると母の部屋から何やら物音がした。電気はつけられておらず、この数分の間に誰かが入ってきたのだろうか。恐る恐る母の部屋に近づくと、何かを落としたような鈍い音が響いた。意を決してドアを開けると、母が箪笥の引き出しから洋服や小物を乱暴に引っ張り出しており、部屋中 洋服や小物、花を生けていた花瓶が散乱している。


「お母さん!どうしたの?!ねぇ、お母さん!」

「無いのよ!私の財布!泥棒―!私の財布が盗まれたぁ!」


 母は髪を振り乱し、大声で叫んだ。止めに入った美奈子も手を押さえるのが精一杯で、錯乱状態の母は喚きながら美奈子の押さえていた手を振り払い、次の瞬間 手が離れバランスを失った美奈子の体は床に倒れてしまった。

 母は床に倒れた美奈子を見ようとせず、再び引き出しの中を物を乱暴に引っ張り出していく。

 美奈子がまだ幼い頃、家の中でよく転んだ。その都度、母は優しく抱き起こし、転んだショックで泣く美奈子の頭を撫でながら涙を拭いてくれた。そんな母はもういないのか。

 いつかこんな日がくるのは覚悟していたはずなのに、一つ一つが現実になっていく様を目の当たりにしてしまうと、どうして良いのか分からず、体が硬直してしまう。

 目の前で暴れている女性は、誰なのだろう。本当に私の母親なのだろうか。


 あれからどれくらいの時間が経ったのか。気付けば部屋は元の静寂を取り戻し、母は暴れ尽くして疲れたのか、床に横になって眠っている。 美奈子は今までこの部屋で行われていた状況が遠い出来事…まるで映画やドラマの中で起こるアクシデントのように思えてならなかった。しかし、部屋中に散乱する服や雑貨を目にし、これが現実なのだと無言の刃を突き付けられた。

 涙が出そうで出ない。目の前では母がさっきまでの騒ぎが嘘のように安らかな表情で寝息を立てている。こんな状態になった部屋でどうして寝れるのか。

暴れる母を押さえようとして床に倒れた美奈子の腕と膝には痣が出来てしまった。明日、母はこの部屋を見て、美奈子の腕と膝を見て、自らが暴れた事を思い出すだろうか。

 美奈子は力無く立ち上がり、部屋の電気を消した。


 ようやく自分の部屋に戻ると、それまで平気だった腕と膝が痛み出した。


「痛い…痛い…痛いよ…お母さん…!」


 気付けば泣いていた。

 今まで母の事で悩む事はあっても決して泣くまいと思い我慢してきた。しかし、さっき見た暴れる母。更に倒れた自分に見向きもしない母の姿がフラッシュバックし、自然と涙が出てきた。

 泣いても何の解決にもならないのに、今は泣きたかった。

 これからも母は暴れたりするだろう。また同じ事が起きた時、どんな言葉をかければ良いのだろう…。


 あの夜以来、母の症状は日を追うごとに酷くなっていた。

 無くなってはいない物を失くしたと思い込んではパニックを起こし、探しては暴れ。食事を終えたのに「ご飯はまだ?」と何度も訊いてくる。その都度「さっき食べたでしょ」と返すのだが、母は食べた事を忘れており「食べていない!」の一点張りだ。

 昼間は福祉センターの川崎やスタッフが見てくれているから安心だが、夜は美奈子1人で夕食の支度、掃除、洗濯等の家事をしなければならない。

 家事をしている最中も母の行動は予測不可能で、少しでも目を離せばフラフラと外へ出てしまいそうになる。止める度に母はか細い声で「家に帰りたい…」と訴えるが、美奈子は「お母さん、ここが家よ」と言い聞かせた。しかしそれでも母は外へ出ようとし、しきりに「家に帰る!」と訴えてくる。それを何度も繰り返しているせいで家事も進まず、ようやく時間が出来ても深夜を回っているため、サラリーマンや仕事をしている客への深夜の返信は迷惑になってしまう。その為、レナとして写メ日記やTwitterの更新、お客へのLINEの返信も遅れ気味になっていた。スマホを握っても、眠気が勝り寝落ちをしてしまう。しかし深夜になっても恵子は突然起き上がり、トイレに行こうとする途中で排尿をしてしまう事も多くなり、美奈子の睡眠時間は削られる一方だった。



「レナちゃん、顔色悪いけど大丈夫?」


 久しぶりに来店してくれた佐野の言葉でハッと我に帰った。

 レナの隣りに座る佐野はそれまでどんな話をしていたのか分からないくらい、レナは意識だけが睡眠状態にあるみたいで、上の空だった。


「あっ!ごめんなさい!ちょっと最近寝てなくて…」

「以前話していた、認知症のお母さんの事?」

「はい。ここ数ヶ月で症状が悪化しちゃって、目を離せなくなってきたんです。特に夜おトイレに行く途中でしてしまったりとかも最近多くなってきて」

 

 佐野はお客なのに、何で愚痴みたいな事を口走っているのだろう。今までのレナならこんなことはしなかったのに…何だか自分が情けなくなってきた。


「そうか。俺の親戚にも親を介護しているのがいるけど、想像以上に大変らしいね。レナちゃんの場合、この仕事しながらでしょ?尚更大変だと思うよ。何かしてあげたいけど、何も出来なくてごめんね」

「そんな!謝らないでください。佐野さんに心配させてしまうなんて、私はプロ失格です。謝らなければいけないのは、私の方です」

「そんなレナちゃんの姿勢、俺は好きだな。真面目で、でも少し頑張り過ぎちゃうところもあって。だから応援したくなるんだよ」


 佐野は残りの時間をタバコを吸ったり、レナに軽く触れたりしながら話をしたりとまったりしながら過ごした。


「レナちゃん、今度元気が出るようなケーキ買ってくるよ。一緒に食べよう」

 

 別れ際に佐野は満面の笑みで手を振って店を出て行った。そんな気を使ってくれる佐野のような客の存在を有り難いと思う反面、もてなす側のレナの不調で気を遣わせてしまった事に心から申し訳なさを覚えた。

何とか切り替えなければと思っても、連日の睡眠不足で体は疲労困憊を訴えていた。

 少し時間を開けてから数人の客の予約が入っている。50分や80分 頑張れば…と思っても出口の無いトンネル内を彷徨っているみいで、今のレナにはポジティブに考えられる余裕は何処にも無かった。


 翌日。

 今日は夕方にツカサの予約を入れている。しかし連日の睡眠不足と母の介護の疲労で顔色は良いとはいえないが、月一の楽しみだ。毎月ツカサに予約を入れているから何とか頑張れている。そして何よりツカサに会うと気持ちが前向きになれるのだ。


 今日は3人の事前予約が入っており、全員マットを希望しているレナの常連客ばかりだ。なので昨日の佐野のように、こちらの体調管理の問題で変な心配をさせたくなった。

 

 最初のお客は何とか気持ちで乗り切ったものの、見送った後に軽い眩暈に襲われた。

 流石にスタッフも見兼ねて心配の声をかけてくれ、いつもなら自分でする後片付けやベッドメイクはスタッフにやってもらった。スタッフが作業をしている間、レナは小休止という形で少しだけだが目を閉じ、数分間だけ軽い睡眠をとる事が出来た。


 最後のお客を見送りが終わり、ツカサに会うための準備をしながらプライベート用のスマホを見てみると、福祉センターからと川崎から何度も着信がきていた。今までこんなに何度も連絡が来たことなど無かったのに。


『もしかして…』


 不安が過り、急いで川崎に折り返しの電話を入れた。


『はい!川崎です!』


 川崎の声は走ってるのか、かなり荒い息遣いだ。


「折り返しが遅くなってしまってごめんなさい。仕事中で…」

『こちらこそごめんなさい!実はお母様が、センターからいなくなってしまったんです!ちゃんと見ていたのですが、ちょっと目を離した隙に…、本当に申し訳ありません!』


 返す言葉が見つからず押し黙ってしまった。


『他のスタッフも一緒になってずっと探しているんですけど、まだ見つからないんです。美奈子さん、お母様が行きそうな場所に心当たりありませんか?』


 母が行きそうな場所。すぐ思い当たる所と言えば…公園、近所のスーパーかコンビニなど様々で、色々あり過ぎて分からない。

 もし母に何かあったら…

 もしも事故に巻き込まれていたら…

 もしも徘徊している途中でコンビニ等に入って品物を持ち出し、そのまま店を出てしまったら万引きとみなされ、最悪警察沙汰になってしまう。

 時計を見ると、ツカサとの待ち合わせ時間 1時間前だ。とてもこの状況ではツカサに会いに行くのは困難で、もはやキャンセルするしか選択肢が無い。今優先すべきは母の行方だ。


「川崎さん、これからセンターに向かいます。私も探しましから」

『本当ですか!ありがとうございます!!よろしくお願いします!』


 電話を切り、荷物をまとめると足早に店を出てタクシーに飛び乗った。

 いきなり乗ってきたレナに、運転手は時折心配そうに声をかけてくれるが、今はそんな親切も上手く受け止められない。とにかく1分でも早く福祉センターに着いて欲しい。母にもしもの事があったら…という不安だけが先走ってしまい、信号待ちで停車するたびイライラが募り、心臓の鼓動が早くなる。

 

『そうだ、ツカサにキャンセルする旨を伝えなければ!』


 思い出したようにツカサにDMを送ろうとするが、普段はDMの文章を打つのにそんな時間はかからないのに、変に手が震えてしまってなかなか思うように打てない。


『ツカサさん

今日お約束でしたが、ケアセンターで見てもらっている母がセンターからいなくなってしまい、急で申し訳ありませんが、今日の予約をキャンセルさせてください。本当にごめんなさい』


 これ以上の文章が思い浮かばず、送信した。

 ツカサはどう思うだろう。レナ1人のキャンセルが今のツカサに影響が出るかは分からない。本来レナが入れていた時間に急遽誰か他の客が入るのだろうか。はたまた次の予約の時間まで何処かで時間を潰すのだろうか。

 こんな時にまでツカサの事を考えているなんて。しかしこんな時だからこそ、ツカサの事を考えたら気持ちが落ち着いてきた。改めてツカサは今のレナにとってとても大きな存在なのだと思い知らされた。


 福祉センターに着くと、事務のスタッフが迎えてくれた。


「美奈子さん!お母様見つかりましたよ!」


 事務員の言葉に足から崩れ落ちそうなくらい力が抜けてしまった。


 良かった…!


 母は事務所の応接室で川崎と一緒にいた。

 足元を見ると、かなり歩いたのだろうか。靴が土で汚れてしまっている。美奈子は安堵したが、母は美奈子の方を見ようとせず、ひたすら目の前の白い壁を凝視していた。

 探し回ってくれたスタッフの話によると、美奈子からの折り返しの電話を切った後、再び川崎達は福祉センターの周辺をくまなく探して回り、ようやくセンター近くの公園でベンチに座る母を発見したという。 川崎が母に声をかけると「家に帰りたい」と何度も口にしていたそうだ。


 母が無事で嬉しいはずなのに。


 『家に帰りたいって、私とお母さんは親子なのに。一緒に住んでいるのに。いつもいつも「家に帰りたい」なんて。あなたが言う家って何処よ!』


 脳内でもう一人の美奈子がこっちを見ようとしない母の腕を掴み、怒りをぶつける映像が流れた。もしも今この場に母と2人だけだったら、きっと脳内で流れた映像が現実になってしまっていただろう。

 口を突いて出そうになる言葉を必死で飲み込み、冷静さを装った。


 福祉センターから帰宅しても美奈子は母に声をかけようとしなかった。正確にはかける言葉が見付からず、沈黙が続いてしまっているのだ。

 リビングで無気力に座っている母を気にしつつ、夕食の用意に取りかかる。お湯を沸かし、野菜を刻みながら、ふとツカサの事が頭を過った。キャンセルのDMを送ってからスマホを見れていないので、ツカサから返事が来ているか分からない。確認したい気持ちはあるが、少しでも目を離して母がまた外に出たら大変だ。

 味噌汁と野菜炒めを作り終わった時、リビングの方からガチャガチャという音がした。

 見ると、母がガラス窓を左右に揺らしたり叩いたりしながら開けようとしている。


「お母さん!何やってるの!?」


 美奈子が慌てて止めよとすると母は激しく抵抗を始めた。


「ギャァー!離せーー!!ここから出せーーー!!」

「お母さん!落ち着いて!ここはお母さんと私の家だよ!」

「誰だお前!!助けてーー!!殺されるーーーー!!!!」


 尋常ではない叫び声を上げる母は美奈子の言葉を聞こうとせず、ひたすら暴れ、大声で叫びながら部屋中を逃げ回る。止めようとする美奈子を激しく拒絶し、悲鳴を上げ続けた。

 近所に聞こえたら…いや、もう聞こえているだろう。しかしそんな美奈子の不安などお構いなしに、母は「人殺しーー!!」「助けてーーー!!!」と声を上げて泣き喚き出した。

 

 『ヒトゴロシ』

 『ダレダ、オマエ』


 母から浴びせられた言葉達が何本もの針となって心を突き刺さし、攻撃してくる。それらは今まで美奈子が信じ、自分の人生や幸せを犠牲にしてでも一生掛けて守ろうと誓った存在…母親・恵子の姿を無惨に破壊し、目の前で暴れ回る悪魔のように美奈子の瞳に映っていた。

 認知症のせい…それは分かっているのに…

目の前で暴れている人が母の本来の姿ではなく、認知症のせいなのに…

 今の母が口にした言葉を真に受けてはいけないのも、本心でない事も分かっているのに…でも一度開いてしまった感情の蓋は容易に閉まる事はなく、抑えていた感情が怒りとなって美奈子の思考を支配してゆく。


 母を支える為に仕事を辞め、ソープで働き、2人の生活を維持し、共に生きていく為に色々な事を犠牲にしてきた。

 毎日見ず知らずの男性の欲望を受け止め、時に精神が削られるような思いもしてきた。

 この仕事を続けていて何になる?今は良くても、賞味期限が過ぎたらどうする?

 答えの見えない問い。

 街で見かける幸せそうなカップルやキャリアウーマンのような女性達を目にする度、今の自分と比べてしまい、これからの将来や何処かに置き去りにしてしまった『自らの幸せ』を考えさせられるのだ。

 そんな漠然とした日々の中で出逢えたのがツカサ。女風…女性用風俗という形ではあったが、ツカサの存在は常に不安定な中にいる美奈子にひと時の安らぎを与え、笑顔をくれた。前に進むための刺激をくれた。今まで恵子だけが美奈子の生活の全てだったが、ツカサと出会った事で潤いが生まれ、物事の捉え方、向き合い方に変化が生じた。月に1度だけはツカサに会う楽しみがいつしか大事な支えになっていた。それなのに、今日だって本当はツカサに会いたかった。会って癒してもらうだけでなく、色々と互いの話ししたかったのに…。

 仕方ない事とはいえ、心配し、福祉センターに向かう車中でどれだけ不安に駆られ、どんな思いでツカサにキャンセルのDMを送ったか。


『アンタに分かるかぁ!!あんなに心配したのに!何かあったらって心配で、不安な中駆け付けたのに!!月に一度の楽しみもキャンセルしたのに!!なんで!なんで、こんな言われ様なの?!私がいなければいいの?!』


 頭の中でもう1人の美奈子が叫び、暴れている。言葉で、今の思いを全て母にぶつける事が出来たら、楽になるかもしれない。魔法が解けた様に、母が我に帰ってくれたら…どんなにいいだろう。


 まるで嵐が過ぎ去った様な静寂が流れていた。あの後、どうやって母を落ち着かせたのか、全く覚えていない。

 目の前にはゆっくり箸を動かしながらご飯を食べる母の姿がある。


「あら、食べないの?お口に合わなかったかしら?お客さんなのに、お茶も出さないでごめんなさいね」


 どうやら母にとって目の前に座っている美奈子は来客という設定らしい。次から次に変わる母の脳内のシチュエーションに美奈子はついていけなかった。もう考える気力も、怒る気力も無い。

 ふと鏡を見ると、髪は乱れ、腕や足、首元に引っ掻き傷が幾つもあり、薄いものや濃いものまで形状も様々だ。

 スマホを見ると、TwitterのDM通知が届いていた。 ツカサからだ。


『レナさん。

ツカサです。

お母様の事、驚きました。心配ですね!大丈夫ですか!どうか無事でみつかりますように。

キャンセルの件は気にしないでください。事務局には僕の方から連絡をいれておきますので』


 文面からして驚いたツカサの表情が見て取れた。急なキャンセルだけでなく心配をかけてしまった。しかし、美奈子にとってはそんなツカサが美奈子の気持ちに寄り添ってくれる姿勢が何よりも嬉しかった。


『ツカサさんへ

夜分遅くにごめんなさい。ご心配をおかけしました。母は無事に見つかりました。取り急ぎのご連絡ですが、ご心配いただきありがとうございます。そして、今回は本当にごめんなさい』


 文章を打ち終わり、即送信した。

 DMを送り終わった瞬間、一粒の涙がスマホ画面に落ちた。もう泣くのは何度目だろう。

 これまで母の事で悩み、泣いてきた。考えれば考える程答えが見付からない場所まできてしまったのだろうか。悲しさ、悔しさ、不安…それらが涙となって一気に溢れ出した。

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