田崎俊彦

 マンションに帰宅し、上着を無造作に椅子に引っ掛けた。

 鞄の中身を整理しながら今日一日の事を思い返してみた。今までは特に思い返す事もしなかったが、今日に関して思うのは一つ。今日はセラピストとして手応えを感じ、充実感に満ちていた。


『…もう少し、頑張ってみるか…』


 予約を貰い、嬉しい反面、不安もあった。新人とはいえ、まだセラピストとして接客の数をこなせていない。そんな自分がサービスを提供し、お金を貰う事が果たして正しい事なのか。とはいえ、体調不良以外のこちらの都合で断るのは失礼なので予約が入った以上 精一杯自分が出来ることをやろう。そう思い、今日に臨んだ…しかし今日レナは自分の施術を気に入ってくれて、気持ちよくなってくれた。笑顔になってくれた。まだまだ満足とは言えない部分はあるものの、改善の余地はあるし、もう少し続けてみようと思えた。


『レナさん、今日はありがとうございました。色々教えていただいて感謝しています。

レナさんはお仕事大変でしょうが、お身体には気を付けてください。またお会い出来るのを楽しみにしていますね。僕も次回まで色々勉強します!お休みなさい。


ツカサ』


 何だか御礼というより決意表明みたいになってしまったが、レナにDMを送った。

 ここでツカサとしての時間は終わる。


 翌朝、田崎俊彦は鏡の前でワイシャツにネクタイを結び、髪型を整え、最後に伊達眼鏡を掛けた。

 朝食はシリアルと軽く焼いたパンのみ。それを写真に撮ってみたが、今まで朝食は勿論、食べ物系の写真を撮ったことは無く、ましてやそれを撮ってSNSに上げる事も全くやってこなかった。女性がお洒落なスイーツや食事を綺麗に撮影し、SNSに載せているのが今更ながら感心してしまう。

 撮影に夢中になってしまい、気が付けば家を出なければいけない時間になっていた。

 いつもなら余裕で家を出るが、今日から写メ日記やTwitter用に写真をいくつか撮っていこうと決め、ワイシャツや朝食の写真を撮っていたら時間が無くなってしまった。


 朝のピーク時間を過ぎている電車内は満員というほどではないが、そこそこ人が乗っているが、俊彦にとってこの時間帯の出勤は苦ではない。今の部署に異動する前は満員電車に揺られ、会社に着く頃には多少の疲労感を覚えていた。満員電車、人の流れ…今となっては遠い存在のように思えてならない。

 


 都内でも有数の大企業が集う場所に、俊彦が勤める大手広告代理店『電承堂』がある。長い歴史の中で初めて改装された今のビルは、世界でも有名なデザイナーがビルの設計を担当した事でも話題になった。

テレワークやリモートワークを導入しているが、それでも一日の人の流れは多く、この会社だけで一つの街のようだ。

 ガラス張りのエレベーターで6階に上がる。その階で降りる人間は殆どいない。

 エレベーターを降りて、廊下を進んでいった先に俊彦が出勤する部署『メール課』がある。


「おはようございます」


 ドアを開け、お決まりの挨拶をし、自分のデスクに座る。同じ部署の人間が挨拶を返してくれる。

 広い窓から見える都会の景色。規則正しく並んだ各デスクには俊彦を含めた6人の社員が決められたデスクでそれぞれ自分達の仕事をしている。

 席に着くなり、パソコンを起動させ、早速今日の各部署から入っている「依頼内容」の確認を始めた。 


 俊彦の仕事は、各部署から必要な資料や備品の依頼をメールで受け、それらを揃えたら社内便を含む郵便物と共に台車に載せ依頼があった部署に持って行くというもので別名『便利屋』と呼ばれていた。

 俊彦は異動当初、今まで所属していた『営業企画課』と180度異なる業務内容と環境に戸惑った。何故なら、『メール課』は便利屋と呼ばれるのとは別に『閑職課』と呼ばれていたからだ。そこに配属される者は余程の変わり者か、更には訳ありの者…などと噂されていた。俊彦も内示を受けるまで『メール課』に関しては無縁な部署だと思っていた。

 ここに配属された当初、課長の井上はそれまで無縁な部署だと思っていた所にやってきた俊彦を気遣ってか、「ここは時間も自由だし、急ぎの仕事も無いから気楽にやってくれ」と肩を叩かれた。確かに営業をしたり企画を練ったりする事も無く、納期も無い。

 依頼が片づけば備品チェックや発注をかけ、決まった時間にやって来る各配送業者が配達物を持ってくれば、それも各階に仕分けて持っていく。その際に社内便と呼ばれる社内間で交わす封筒も回収し、指定の部署へ持っていく。それも終わればスマホを弄ろうが何をやっても咎める者などいない。スケジュールに追われ、営業をし、企画を立て、ミーティングを行なってきたあの頃とは全く違う空間。何だかあの頃が遠い夢の中の出来事のように思えてしまう。

 思い出せば必ずため息が出てしまうが、今日は一度もため息をついていない。

 同じ部署の社員が「今日は何だかいつもと違いますね」と言ってきたが、今日は笑顔で「まぁね」と軽い返事を交わした。


 交代で昼休憩を取っている為、社内が昼休み中などはどうしても人手が少なくなり、俊彦も備品や配達物を依頼先の部署に届けに行かなければならなくなる。今日もそうだ。しかもよりにもよって、かつて俊彦が所属していた『営業企画課』に。しかし他に行ける者がおらず俊彦は行かざるを得なかった。なのでわざと昼休み中を狙って『営業企画課』へ向かう。

 届けた備品や配達物は各部署の入口に置いておけば気付いた者が持って行ってくれる。なので今なら誰とも顔を合わせる事は無いはずだ。

 しかし、運悪く途中の会議室で何人かの社員が休み時間返上でミーティングをしていた。ガラスの向こうを盗み見てみると、俊彦の元同僚や同期の社員が何人かいる。に気にしないようにと、顔を伏せて通り過ぎてようとしたが、案の定 同期の安島と目が合ってしまった。ミーティング中で話しに来る事は無いものの、流石に気不味くなり足早にその場を去った。


 備品を届け終えた俊彦はその足で会社近くの定食屋へと向かう。今の時間なら人の波は引いていて空いているし、前の部署の人間と会う確率も低い。

 サバ味噌定食を注文し、待つ間にポケットから『ツカサ用』のスマホを取り出した。


『おはようございます! 今朝はバタバタのため朝食はこんな感じ〜』


 朝方Twitterに朝食の写真をアップしてみたが、『いいね』が8件ほど付いている。Cielも公式Twitterをやっているので、Cielがいいねを付けると同じく所属のセラピストもいいねを付けてくる事がある。今回もセラピストが付けているのかと思ったが、公式の他、レナ、そして初めて見るアカウントが数名いた。食べ物系は反応しやすいのだろうか。

 今回はサバ味噌定食を写メ日記に載せてみることにした。


『皆さん、こんにちは!今日から少しずつですが写メ日記に色々な事を書いていこうと思います。まずは昼ご飯はサバ味噌定食!このお店のサバ味噌は癖になる美味しさ!!皆さんのお昼ごはんは何でしたか?』


 こんなもんだろうか。それまで写メ日記やTwitterなどのSNSは閲覧だけで、特に活用する事は無かった。セラピストを始めて活用する立場になったものの、これで何か変わるのか、誰が見るというのか…常に疑問符が頭に浮かんでいた。しかし先日同業者であるレナと出会って、考えるより自分なりに活用してみようかと思うようになっていた。特に朝方のTwitterは何も考えずアップしてみたが、こうして反応があると嬉しい。


 昼間に更新した写メ日記の文末に出勤日程を載せた。

 ツカサは平日が17:00(時々16:00)〜23:00、土日祝は10:00〜19:00を主な出勤時間にしていた。会社にセラピスト用の荷物を持ってくるのは難しいので、駅のコインロッカー、もしくは『Ciel』の事務局に鞄を預けたりしている。勿論、この会社で俊彦がセラピストをしている事は誰も知らない。話す必要もないし、今後も隠していくつもりだ。


 昼休憩が終わり、備品の在庫チェックをしていると珍しくツカサ用のスマホに通知がきた。『Ciel』の事務局からのLINEだ。


『ツカサさん、お疲れ様です。 

新規のご予約が入りました。

希望日:○月○日

時間18:00〜 性感コース90分

名前:大川みつき様

場所:新宿』


 新規の予約の連絡だ。

 Twitterや写メ日記を読んでくれたのだろうか。少なくともこうして予約が来るのは嬉しい。口角が上がりそうになるのを堪えながら、『了解しました』とだけ返信した。


 それからというもの、写真を撮る手間はあるものの、写メ日記とTwitterを交互に使いこなしながらセラピストとしての出勤日程を出来る限り更新していった。写メ日記は文章を考え、写真も載せることから仕事前の出勤時間に。

 Twitterは短文で済むのと、写真を載せなくても成り立つので、手が空いた時などに更新する事にした。Twitterには好きなコーヒー飲料や食事、お気に入りの文具などを載せてみる。すると今まで出勤日程だけ載せていた時とは明らかに違って、フォロワーの反応が徐々にくるようになった。顔が見えない相手にあれこれと日常の切れ端を見られるのはまだ抵抗があるものの、『いいね』の反応があるのは素直に嬉しかった。


 新規のお客である『大川みつき』と会う当日。

俊彦はいつも通りに出社し、いつもと変わらない素振りで仕事をこなしていた。やがて定時に退社すると、待ち合わせの新宿に向かう途中で、『Ciel』の事務局に立ち寄り、セラピスト用の鞄にタオルとその他必要な備品を用意した。 事務局内の更衣室を借り、ネクタイを外して、ワイシャツの第二ボタンまでを外し、かけていた伊達眼鏡からコンタクトに替え、最後に髪型を軽く整えると「セラピスト・ツカサ」が完成した。 


 待ち合わせの時間は18:00。17:45に待ち合わせ場所であるアルタ前に着く事が出来、新規のお客である大川みつきという女性の到着を待つ。

 大川みつきという女性は18:00ぴったりにアルタ前に現れた。


「みつきさん、初めまして。ツカサです。よろしくお願いします」


 セラピスト・ツカサとしての時間が始まった。

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