女風ユーザー・大川みつき

 アルタ前で待ち合わせした大川みつきは、深く帽子を被り、恥ずかしいのか視線を下にしながら、ツカサの手を握り歩いている。


「あの…ホ、ホテルとか…特に決めていなくて。ごめんなさい…」


 か細い声でツカサに謝ってきた。

 事前に挨拶メールと希望を伺うメールは送ったが、特に返信は無かったので、ツカサは何軒かホテルをリストアップしているので問題は無いが、ツカサの手をしっかり握っているみつきは、防止を深々と被っているせいで、その表情はよく分からず、緊張しているせいもあるのか、出会ってから一度も互いの目を見て話していない。ツカサはどんなお客でもさ数いるセラピストの中から自分を選んでくれたのだから、精一杯その人に寄り添いたいと思っているが、みつきという女性はこうして歩いていてもあまり会話が無いため、どう接して良いか悩んでしまう。


 ツカサが念の為ピックアップした最初の一軒目のホテルは小ぢんまりしていてリーズナブルだが、室内は綺麗で2人でゆっくり出来そうだ。


「みつきさん、ここで良いですか?」

「は…はい…」


 『空室』の表示がされた部屋をツカサが選び、みつきにも見せるが、何故か怯えている様に返事をするだけだ。もしかして彼女は、男性恐怖症なのか?いや、だったら一緒に歩いている時、しっかりツカサの手を握る事は無く、むしろ拒否するはずだ。

 受付でみつきが支払いを済ませ、部屋がある2階にエレベーターで移動する時も彼女は無言で、ただお互いの手だけがしっかり握られていた。

 部屋に入るとツカサはみつきの上着を預かると、みつきは広くないソファに腰を下ろしたが、帽子は被ったままだ。


「みつきさん、お帽子は?」

「……ごめんなさい。このままで…」


 2人きりの空間でなければ聞き取れないくらい小さい声だ。

 ツカサは相手の顔を瞳をしっかり見て今からの流れを説明したいが、みつきは帽子を外してくれそうにない。ツカサはそっとみつきの両手を包み込むようにそっと握った。みつきは最初は驚いたようだが、払いのける様子は無い。

 暫く沈黙が流れ、最初に口を開いたのはツカサだった。


「みつきさん、今回は僕を選んでいただいてありがとうございます。これからの流れを説明していいですか?」

「は…はい。あ、あの…」

「何でしょう?」

「…このまま、手を握っててもらってもいいですか?」

「このまま?」

「…だ、駄目でしょうか?」


 駄目な訳などない。自分を指名してくれたお客が望むなら。


「いいですよ。では、このまま手を握っていますね」


 少なくとも、自分はこのみつきから嫌われてはいないようだ。手を握っていても説明は出来るし、こうして互いの体温を交換しているのも新鮮だ。

 一通り説明を終えた。相変わらずみつきは帽子を深々と被り、時々ツカサからの確認に小さく返事をするだけだが、手は握られたままなので受け入れてはくれている。


「ご説明は以上です。ではみつきさん、これからシャワーを…」

「あ、あの!」


 待ち合わせてから初めてみつきがハッキリした声を出した。


「はい、どうしました?」

「…わ、私、接するの、難しかったでしょう?」

「え?」


 困惑するツカサをよそに、みつきはそれまで頑なに被っていた帽子をゆっくり取った。

 初めて見るみつきの顔。色白で整った肌。しかし、右額部分に紫のアザがあった。ずっと帽子を深々と被っていたのはこのアザを隠すためだったのか。


「…ごめんなさい。こんな姿で…」

「痛そうだ。大丈夫ですか?」


 ツカサがその痣に触れようと手を伸ばすと、みつきは怯えたように身構えてしまった。

 初めて見せるみつきの激しい動きに、ツカサは動揺してしまった。


「すみません、つい」

「わ、私の方こそ…ごめんなさい」

「立ち入った事を訊きますが、その痣はどうされたんです?」

「…夫に…叩かれて…」


 DV…ドメスティックバイオレンス。昼間の会社生活の中で周囲にDV被害に遭ったりした者はいないが、にわかに聞いたことはある。都内でもいくつか相談室やシェルターはあるものの、家庭内で行われる暴力は第三者が介入し辛い上、被害者も暴力が更に酷くなる事を恐れて声を上げ辛いというのが現状だ。みつきもそんな見えない暴力の被害者で、家庭や夫婦という出口が見えない空間でひたすら夫からの暴力を受け止めているのだろうか。


「警察や、それ関連の窓口とかには?」

「…一度だけ警察に逃げ込んだんですが、夫は上手く誤魔化して、連れ戻されました。以来、些細な事で怒鳴られることが増えてしまいました」

「…そんな」

「私が悪いんです。専業主婦なのに…家のこと、全然出来ていないから…だから夫が、怒るんです…」


 みつきは言葉にしながら、思い出したこととで恐怖から躰が震えている。

 みつきの夫は長い時間、みつきに暴力を振り、彼女の躰を傷付けただけでなく正常な思考も奪ってしまっているようだ。 

 しかしみつきは男性に、しかも自分の夫からここまで傷付けられているというのに、何故女性用風俗を、自分を指名してくれたのだろう。ツカサはふと小さな疑問が湧いた。訊いていいのだろうか。安易に訊いて、みつきの心を傷付けてしまったりしないだろうか。様々な思いがぐるぐるとツカサの脳内を駆け巡った。


「あ、あの…こんなことを訊いて、失礼かと思いますが、旦那さんからこんな仕打ちを受けているのに、どうして僕を指名してくれたんですか?」


 もう少しオブラートに包んだ言い方をすべきだったか。しかし変に他所よそしく訊きたくなくてストレートな質問になってしまった。


「今朝も、夫に朝食の味付けを注意されました。その後、色々な言葉を言われて…どんな言葉を言われたのか、思い出せません。気が付いたら、以前友人から教えて貰った女性用風俗のサイトを見て、夫と年齢が近いセラピストさんを探していたんです」

「旦那さんと年齢が近いからって、こんな酷い目に合わされたのに…」


 ツカサは続いて出そうな言葉を飲み込んだ。


「…そうですよね。普通に考えたらおかしいですよね、夫に叩かれたり、怒鳴られたりしているのに、こうして男性をお金で買っているなんて…最低だと思いますよね?」


 ツカサはどう反応して良いか分からず押し黙ってしまった。

 みつきが言った言葉は図星で、ツカサが言おうとしていた言葉であり、思っていることだった。

 どれくらいの頻度は分からないが、もし彼女の夫が日常的に暴力を振るい、みつきは夫の機嫌に神経をすり減らしている生活で、こうして夫と年齢が近いセラピストを呼んだりするだろうか。確かに女性用風俗の使い方は女性それぞれだし、読んでもらったセラピストがどうこう言う資格など無いが、ツカサはみつきの考えが腑に落ちなかった。


「予約して、事務局さんから予約完了のショートメールを貰った時ふと我に帰って、自分でも何やってるんだろうって呆れました。でも予約してすぐキャンセルするのも申し訳なくて…兎に角会ってみようって。待ち合わせの間、ずっとドキドキしていました。 ごめんなさい…それは嬉しいドキドキでは無く、何ていうか、恐怖にも似ていて…容姿とか全然違うのに、夫がくるのではとか…有り得ないことを考えてしまって」


 ツカサは怯えながらもしっかりと話すみつきから目が離せなかった。


「でも、実際にお会いしたツカサさんは、優しくて、何より私はツカサさんがしっかり私の手を握ってくれたのが嬉しかったんです」


 実際、ツカサはみつきからの要望でまだ彼女の手を握ったままだ。だがツカサはそれがみつきの望みであれば全く問題はない。

 思い出してみれば、待ち合わせからホテルまでの道のりでみつきはずっとツカサの手を握り、最初は緊張していて手先が歩いている内に和らいだのか、徐々にしっかりとツカサの手を握ってきてくれた。

手を繋ぐことは最初の大事なスキンシップだとツカサは思っている。女性の中には緊張していて手も繋げない人がいるから、最初から手を繋げるのは相手を知る為の大きな一歩だと先輩セラピストから聞いたことがあった。


「…夫も知り合った時は、よく手を繋いでくれたんです。でも、それは最初だけで、結婚したら些細なことで怒鳴られるようになって…普段は顔を叩いたりしないんですけど…」

「普段はって、じゃあいつもは顔以外を?」

「今日は機嫌が悪いのと、勢いあまって顔にこんな痣を作ってしまいました」


 聞いていて、ツカサはここまで冷静に淡々と時折り笑みを浮かべて話すみつきが不思議に思えた。日常化した夫の暴力がそうさせているのか、それともみつきは生まれつき処理能力に長けていて、痛みや苦痛を上手く自分の中で分散させる事が出来ているから、こんなに冷静に他人事のように話せるのだろうか。

 話を聞きながらみつきの思考を朧げでも理解しようとするツカサだが、考えれば考えるほど聞けば聞くほど、みつきの思考が見えなくなってくる。それは今までのツカサにとって初めての経験だった。


「みつきさんは、辛くないんですか?こんなにされて」

「…辛くない、と言えば嘘になります。でも、元々は主婦として出来ていない私が悪いですし、私が我慢すれば、丸く収まりますから…」

「そんな…」


 諦めたようなみつきの言葉に、ツカサは今まで感じたことの無い憤りと、今こうして手を握りながら話を聞くことしか出来ない自らの無力さし痛感していた。 会ったことも無いみつきは夫も夫だが、みつきも逃げる選択をせず、自らが苦痛を受け入れ、我慢する道を選ぶなんて。


「ツカサさん、ごめんなさいね」

「え…?」

「予約して、ホテルに来たのに、こんな辛気臭い話しばかりで…」


 そう言うと、みつきはツカサの手を離し、鞄から一枚の封筒を取り出してツカサに差し出した。


「今回の料金が中に入っています。後ででもいいので確認してくださいね」


 みつきが差し出した封筒は和紙の造りで、封筒の隅っこには小さく『Ciel ツカサ様』と綺麗なペン字で書かれていた。


「何かツカサさんに話を聞いて貰ったら気分がスッキリしました。ありがとうございます」


 ツカサはみつきにお礼を言われる程大したことはしていない。むしろ何も出来ていないのに、こうしてセラピストとしてお金を頂くことに躊躇してしまう。


「…みつきさん、僕はみつきさんに何もしていませんし、何も出来ていません。だから、今の僕はみつきさんからお金を受け取れません」

「え?」

「みつきさんが今して欲しいことってを言ってください。僕はみつきさんの望みを可能な限り叶えるためにここにいます。だからせめて今して欲しいことを言って欲しいんです」


 みつきはツカサの真面目な表情と言葉の前に、暫く考えると、戸惑いながら口を開いた。


「…じゃあ、一緒に、お風呂に入ってもらっていいですか? 身体に痣があって醜い躰だけど…背中とかを洗ってもらえたら」

「分かりました。今お風呂の用意をしますね」


 ツカサはそう言うと、浴室へ行きシャワーで浴槽をひと流しするとお湯を入れ始めた。

 熱過ぎず、ちょうど良い温度を探りながら湯を張り、シャワーで冷たい床を温め、スポンジを袋から出し、浴室をみつきが使い易いように整えていく。


「みつきさん、お待たせしました。では僕が先に入りますのでみつきさんのタイミングで入ってきてください」


 お互いに服を脱いで一緒に入ろうと思ったが、みつきの物言いからして夫から受けた暴力の跡をいきなり見られるのは抵抗があると思い、ツカサが先に入って浴室を温めておくことにした。

 ツカサが全身を洗い終わった頃、みつきが胸までバスタオルを巻いた姿で浴室に入ってきた。はやり肌を見られるのには抵抗があるようで、顔を伏せ気味で戸惑いながらツカサの手を取り風呂椅子に座ると、ツカサはみつきの身体に巻かれていたタオルを取り、シャワーを少しずつ彼女の全身にかけていく。


「熱くないですか?」

「…はい、大丈夫です」


 ゆっくりと全身を流すと、スポンジにボディーソープを染み込ませ、軽く泡立てると肩から腕へとスポンジを滑らせた。

 泡立ったスポンジをみつきの肌に這わせながら、彼女の身体の至る場所に打ち身の跡が見当たり、ツカサは身体を洗いつつ気にしていないようにしていたが、その痛々しい姿に居た堪れない気持ちになる。


「…やっぱり、気になりますよね」

「え…?」

「身体の痣…」

「すみません。お湯加減はこのままで良いですか?」

「はい、とても気持ちいいです。人に洗ってもらうって恥ずかしいけど、いいものですね」


 身体が温まったせいか、みつきの表情が和らぎ笑顔を見せてくれた。それはさっき話の中で見せた冷めた微笑ではなく、緊張の糸がほぐれ安心感からくる微笑みだ。

 その微笑みに、ツカサも連れて口元が緩んだ。

「あの、みつきさん」

「はい?」

「もしみつきさんさえ良ければ、シャンプーもさせてもらえませんか?」

「え?」


 我ながら馬鹿なことを言ってしまったと思った。折角みつきが笑ってくれたのに。

 でもツカサはみつきに尽くしたかった。みつきに、もっと笑顔になって欲しくてこの様なことを言ったのだ。しかし、一緒にお風呂に入るのも、男性に身体を洗ってもらうのだって勇気がいるのに、ましてや洗髪なんて今のみつきは了承してくれるだろうか。


「…面白いですね。いいですよ」


 軽く笑いながら答えるみつきにツカサはほっと胸を撫で下ろした。

 

 ボディーソープを洗い流し、みつきには一度湯船に全身浸かってもらい、ツカサはタオルで首元に置いてみつきの身体が冷えない、負担がない形でゆっくりシャワーを彼女の髪に流し、満面なく濡らしていく。シャンプーを手に取り、ゆっくり地肌と髪に馴染ませると程よく圧をかけながら指を動かしていく。

 美容師でも無いツカサは人にシャンプーをするのはこれが初めてだ。専門の人間に教えてもらった訳でもないが、よく行く美容院でシャンプーの時にマッサージを受ける。その手つきをただ真似ているだけだ。


「気持ちいい〜」


 みつきが歓喜の声を上げた。


「まさかシャンプーまでしてもらうなんて。ツカサさん、上手いんですね」


 ただの真似事だが、みつきが喜んでくれるだけでツカサは嬉しかった。

 まさかお客とはいえ、赤の他人にこうしてシャンプーをするなんて。考えるより言葉が口を吐き、身体が勝手に動いた。打ち身や痣を消すことは出来ないが、今はみつきに辛かった時間を忘れて笑って欲しい。そして自らが幸せを感じること、笑うことを諦めないで欲しかった。


 お風呂を終えタオルでみつきの身体を拭き、髪にドライヤーをあてた。これも美容師の手つきを思い出しながらの真似事だが、みつきは真似事なんて気にせずただツカサの指先に委ねている様子だった。



「ありがとうツカサさん、こんなに色々してくれて」


 ガウンを羽織り、ツカサが出した氷水を口にしながらみつきは言った。

 顔の痣はやはり消えてはいない。しかし、会った時より表情は明らかに柔らかだ。


「みつきさん…」


 ツカサはみつきに一枚の紙を差し出した。

 みつきはツカサから紙を受け取るとら中身を見てみる。そこにはペンで『DV専門相談室』、『専門シェルター受付窓口』、『DV専門弁護士』等の電話番号が書かれていた。ツカサが書いたものだ。


「これって…」

「余計なお世話かと思いましたが、一度それぞれの所に連絡してみてください」

「どうして、ここまで…」

「自分でも、よく分かりません。でも、僕はみつきさんとこういう形で知り合ったけど、みつきさんの力になりたいと思いました。勿論僕はみつきさんへ援助したり、旦那さんから完全に守ることは出来ません。出来る事なんて殆ど無いのかもしれないし、綺麗事かもしれない。でも僕はみつきさんを心で支えたいと思っています。簡単なことじゃないけど、今僕が出来る事を考えたら、こういうことしか思いつかなくて」

「……」

「みつきさんは、旦那さんから辛い目に合わされていても、僕を指名してくれて、会ってくれた…普通なら、男性恐怖症になることだってあるのに、みつきさんは凄く勇気があって素敵な方です。今の僕に出来ることはとても少ないけど、せめて一緒にいる時は辛い事を忘れて、みつきさんが心から笑ってもらいたいんです。そう思ったら、スマホで色々と調べていました」


 みつきはツカサの言葉を聞きながら、ツカサがメモした各専用窓口の番号が書かれた紙をただじっと見つめていた。 

 2人の間に無言だけが広がる。

 出過ぎた事を…余計な事をしてしまったか。

 ツカサはみつきの言葉を待った。恐る恐るみつきを見ると、身体を震わせ泣いている。


「…ありがとう、ございます…」

「みつきさん」

「…本当は、夫の暴力が怖かった…でもどうする事も出来なくて…分かっていたんです。我慢していたって何も変わらない…ちゃんと声を上げて、助けを求めなくちゃって…」

「……」

「でも、以前警察に助けを求めても連れ戻されました…だから、同じ酷い目に合うなら我慢した方が楽だと思って、助けを求めるのも諦めてました。だけどツカサさんがこんなに優しくしてくれて、ここまで考えてくれて…嬉しい!本当にありがとうございます」


 みつきはツカサに深々と頭を下げた。

 

「みつきさん、そんなことしないでください。 その代わり、僕からお願いしたいことがあります」

「お願い?」

「幸せになることを諦めないでください。みつきさんは今までご主人から暴力を受けても、自分を犠牲にしてご家庭を守ってきたんだと思います。でもこれからはご自身が幸せになることを最優先に考えてください。ご自身が幸せになるな為に、何度でも逃げてください」


 ツカサは自分でも驚くほどしっかりみつきを見つめ、出会った時同様に彼女の手を握りながら言った。


「……」

「みつきさんがご自身の手で幸せを勝ち取ったら、その幸せに溢れた笑顔を僕に見せてください。それが、僕からのお願いです」


 どうしてこんな言葉を言ったのだろう。今は田崎俊彦ではなく、セラピスト・ツカサだからだろうか。 普段なら言わない言葉たちが次々と口をついて出た。しかしツカサは本心からみつきの幸せを願っている。何も出来ない。しかし、みつきの幸せをただただ願いたかった。

 みつきは暫く黙っていたが、涙声で「分かりました。ありがとうございます」とツカサに告げた。



 新宿の街はいつでも人が多い。

 ホテルから出たツカサとみつきは来た時と同じ、互いの手を繋ぎながら新宿駅へ向かって歩いていた。 ただ最初の時と違うのは、みつきが最近は深々と被っていた帽子を浅く被っていて、時折りツカサを見ながら楽しそうに笑っていて、ツカサに心を開き、信頼しているようにみつきもしっかりツカサの手を握り返していた。


「ツカサさん、今日はありがとうございました。私、色々頑張ってみます」


 新宿駅の改札口前に着くと、名残惜しいがみつきとの時間もここまでだ。


「こちらこそ、僕はみつきさんを応援しています」

「私も、ツカサさんを応援しています。次はいつ会えるか分からないけど、必ずまた予約します」


 そう言うとみつきはツカサの身体をそっと抱きしめた。

 普段なら、ツカサからすることだが、こうして女性側からされるのも悪くは無い。


「ツカサさんみたいな優しい人に出会えて良かった」


 優しい人…その言葉にツカサの心臓が跳ね、表情が曇った。みつきは気付くこと無く、ゆっくりと身体を離すと、満面の笑顔をツカサに見せるとカバンからPASMOを取り出して改札口へ向かっていった。

 見えなくなるまでツカサはみつきに手を振り、やがてみつきの姿が人混みに紛れると、ツカサの心に不穏な影が広がっていき、複雑な気分になった。


『優しい人に出会えて良かった』


 みつきがくれた言葉が何度か脳内でリピートする。


『優しい人…優しい人…優しい…』


 再び心臓が早鐘を打ち始めた。


『…あなたは、冷たい人よ…』


 あの声だ。あの声がすると、気持ちが立ち止まってしまう。


「…僕は、優しくなんか…」


 誰に言うわけでもない、やり場の無い独り言が口をついて出てしまった。

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