母 恵子

 コンビニでおにぎりとサンドウィッチ等の軽食を購入して帰路に着く。

 帰りの電車内で写メ日記と今日来店してくれた客の中でLINE交換をしてる客に御礼のLINEを送っていると、あっという間に自宅のある駅に着いた。レナとしての時間は自宅近くの駅に着いたところで一旦終わりだ。


『お母さん、私。今駅に着いたけど、何か買っていくものはある?』

『お帰り。遅くまで仕事大変だったね。卵が少なくなってきたから買ってきてくれる?疲れているところを悪いね』


 スマホ越しに聞こえる母・恵子の声は思いの外元気そうだった。

 駅に着くと決まって母に電話を入れる。そうする事でレナとしての時間は終わり、本名の川原 美奈子に戻れるのだ。そして電話をするのにはもう一つ理由がある。


 母は数年前から認知症を発症しており、日々感情には波があった。顔を見なければ判断できない時もあるが、声は正直なので電話で話すとだいたい今の感情が穏やかか否かが解かる。今の声を聞く限り、比較的穏やかだ。


『大丈夫よ。じゃあ卵買って帰るから、もう少し待っててね』


 今の穏やかな気分を刺激しないよう言葉を選び、明るい声で電話を切った。


 母の様子に変化が生じたのは美奈子がレナになる前…OLとして勤めていた時だった。

 朝の挨拶をしても反応が薄く、倦怠感を訴えていた。 その時は出勤時間だったこともあり、季節外れの風邪だと思ったので特に気にも留めずに出社した。しかし昼休みに電話がかかってきて、その声は尋常では無いくらい怯えていた。


『美奈ちゃん…!どうしよう、気分が悪くて何をしていいか分からないの!何もやる気が起きないし、どうしちゃったのかしら!!』


 泣き声混じりでパニックを起こしているその声は、いつもの落ち着いた母の声ではなかった。何とか宥めたものの、心配になり午後は上司に事情を話し早退した。

 帰りの電車内で母のパニックに満ちた声が何度も頭の中でリピートし、不安がよぎった。

 帰宅すると母はリビングの椅子に力無く俯きながら座っており、その表情は「無」そのものだ。


「お母さん…?」

「…美奈ちゃん…?」


 力無い声だった。近くで顔を覗き込むと、さっきまで泣いていたせいか目元は腫れ、涙の跡が薄っすら見える。山ほど訊きたいことはあっても、か細い声と無気力な表情を前に言葉を飲み込んでしまう。


「電話もらって心配になって…早退してきたの。どうしたの?何かった?」

「…早退?」


 それまで俯いていた母が初めて顔を上げ、美奈子を見た。


「早退って…私が電話したから…仕事途中で帰ってきたの…?」

「だって、心配だったから…」

「ご、ごめんね!ごめんね!心配かけて!私が電話したせいで!!お仕事早退させて迷惑かけて…朝から怠くて何をしていいか分からなくて!」


 頭を抱えて泣き喚く姿はまるで小さい子供のようだった。美奈子は大丈夫だから、大丈夫だから。と抱き締めて何度も背中を摩った。


「大丈夫だよ!心配しないで。早退したからって迷惑じゃないから。ちゃんと上司にも事情を話してあるから」


 今までこんなに泣く母を見るのは初めてで、とにかく落ち着かせなければという気持ちから不安にさせないように言葉を選んだ。


 後日、母と一緒に近所の病院で診てもらうと診断結果は『認知症』だった。

 今は軽度だが油断は出来ず、場合によっては症状が悪化して重度になってしまう事もあるという。取り敢えず精神安定剤と、定期的にカウンセリングに通うことになったが、母の感情の波は昼夜を問わず 時には夜中に怒鳴り声を上げたり、興奮したせいで寝付けなくて、翌朝には倦怠感から朝食を作るのもままならない状態が続き、最初は何とか美奈子がフォロー出来たが、重要な会議やら打ち合わせがある日やその前日に感情の起伏が激しいと流石に気持ちの余裕が無くなり、口喧嘩をしてしまう。

 喧嘩したところで解決しないのはよく分かっているのに、心に余裕が無いとここまで他人を思いやれなくなってしまうのか。

 美奈子も最初は仕事と母のフォローを両立出来てはいたものの、昼夜を問わない母の感情の波に振り回され、ギリギリの出社や遅刻、資料のミスや提出遅れが目立つようになり上司や同僚から心配の声や注意が相次いだ。事情は話してあるものの、こうも遅刻やミスが続くと会社としての信用は勿論、美奈子自身も会社に居づらくなってくる。

 

 美奈子は会社を辞めた。仕事は好きだったが、それ故に母のカウンセリングや通院に付き添えないし、仕事中にたまにかかってくる電話にイライラしてしまうし、今のままでは母との親子関係は崩壊してしまうだろう。

 ただでさえ母子家庭で、父親が亡くなって以降苦労して自分を育ててくれたのだ。

 今が親孝行する時…。そう感じた。それに、今の母には自分がいなければもっと症状が酷くなってしまうような気がした。

 これからは母にしっかり向き合って、面倒をみよう。経済的な不安はあるものの、母の状態が落ち着いたらまた考えればいい。

 退職した事は母には告げず、人員異動で部署変えがあったと嘘をついた。退職したと言えば母は悲嘆し、自分自身を責めてしまう可能性があったから。いつか症状が落ち着いたら本当の事を話そう。


 通院に、日々の生活など。色々維持していく為には働くしかないないが、いつ母の症状が悪化するか分からない。以前みたく時間やこちらの都合など関係無しに電話が掛かってくる事も考えると、時間の自由が効く職場が理想だ。しかし現実はそう簡単には見付からず、最後の手段で見つけたのが、吉原での風俗だった。

 自分の身体を売るなんて、と抵抗はあった。しかし、時間の自由が効いて尚且つうまくいけば高収入が得られる。躊躇していては手持ちのお金が底をつき、母の通院も生活も保証出来なくなってしまう。美奈子は決心した。

 『エデン』には面接時に母の認知症の事を包み隠さず話した。店長は理解をしめしてくれて、何かあった時は遠慮なく早退してくれていいと言葉をかけてくれた。

 風俗の世界は様々で、多種多様な女性達がいるように店舗のスタッフも様々いる。初めてのお店だったが、親切な店長で美奈子は安堵した。 

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