十七
宗助とお米の一生を暗くいろどった関係は、二人の影を薄くして、幽霊のような思いをどこかにいだかしめた。彼らは自己の心のある部分に、人に見えない結核性の恐ろしいものがひそんでいるのを、ほのかに自覚しながら、わざと知らぬ顔に互いと向き合って年を過ごした。
当初彼らの頭脳に痛くこたえたのは、彼らのあやまちが安井の前途に及ぼした影響であった。二人の頭の中で沸き返ったすごい
「まあよかろう」と宗助が言った。
「病気よりはね」とお米が言った。
二人はそれから以後安井の名を口にするのを避けた。考え出すことさえもあえてしなかった。彼らは安井を半途で退学させ、郷里へ帰らせ、病気にかからせ、もしくは満州へ
「お米、お前信仰の心が起こったことがあるかい」とあるとき宗助がお米に聞いた。お米は、ただ、
「あるわ」と答えただけで、すぐ「あなたは」と聞き返した。
宗助は薄笑いをしたぎり、なんとも答えなかった。その代わり
その
「少しぐあいが悪いから、すぐ寝よう」と言って、火鉢に倚りながら、帰りを待ち受けていたお米を驚かした。
「どうなすったの」とお米は目を上げて宗助をながめた。宗助はそこに突っ立っていた。
宗助が外から帰ってきて、こんなふうをするのは、ほとんどお米の記憶にないくらい珍しかった。お米は卒然なんとも知れない恐怖の念に襲われたごとくに立ち上がったが、ほとんど器械的に、戸棚から夜具蒲団を取り出して、夫の言いつけどおり床を延べはじめた。そのあいだ宗助はやっぱり懐手をしてそばに立っていた。そうして床が敷けるやいなや、そこそこに着物を脱ぎ捨てて、すぐその中にもぐり込んだ。お米は枕元を離れえなかった。
「どうなすったの」
「なんだか、少し心持ちが悪い。しばらくこうしてじっとしていたら、よくなるだろう」
宗助の答はなかば夜着の下から出た。その声がこもったようにお米の耳に響いた時、お米はすまない顔をして、枕元にすわったなり動かなかった。
「あっちへ行っていてもいいよ。用があれば呼ぶから」
お米はようやく茶の間へ帰った。
宗助は夜具をかぶったまま、ひとりかたくなって目を眠っていた。彼はこの暗いなかで、坂井から聞いた話を何度となく反覆した。彼は満州にいる安井の消息を、家主たる坂井の口を通して知ろうとは、今が今まで予期していなかった。もう少しのことで、その安井と同じ家主の家へ同時に招かれて、隣合わせか、向かい合わせにすわる運命になろうとは、今夜
小六から坂井の弟、それから満州、蒙古、出京、安井、──こう談話のあとをたどればたどるほど、偶然の度はあまりにはなはだしかった。過去の痛恨を新たにすべく、普通の人がめったに出会わないこの偶然に出会うために、千百人のうちから
この二、三年の月日でようやくなおりかけた
「お米、お米」と二声呼んだ。
お米はすぐ枕元へ来て、上からのぞき込むように宗助を見た。宗助は夜具の襟から顔をまったく出した。次の間の
「熱い湯を一杯もらおう」
宗助はとうとう言おうとしたことを言いきる勇気を失って、噓をついてごまかした。
翌日宗助は例のごとく起きて、平日と変わることなく食事をすました。そうして給仕をしてくれるお米の顔に、多少不安の色が見えたのを、うれしいような哀れなような一種の
「
宗助は下を向いて茶碗についだ茶をのんだだけであった。なんと答えていいか、適当な言葉を見いださなかったからである。
その日は朝からから風が吹きすさんで、おりおり
役所では用が手につかなかった。筆を持って
ようやく時間が来て
「どうもなくって」と聞いた。宗助はやむをえず、どうもないが、ただ疲れたと答えて、すぐ
「いいあんばいね、風がなくなって。昼間のように吹かれると、
お米の言葉には、魔物でもあるかのように、風を恐れる調子があった。宗助は落ち付いて、
「今夜は少しあったかいようだね。穏やかでいいお正月だ」と言った。飯をすまして煙草を一本吸う段になって、突然、
「お米、
少し時間が遅れたので、寄席はいっぱいであった。二人は座蒲団を敷く余地もないいちばん後の方に、
「たいへんな人ね」
「やっぱり春だからはいるんだろう」
二人は声高に話しながら、大きな部屋にぎっしり詰まった人の頭を見回した。その頭のうちで、高座に近い前の方は、煙草の煙でかすんでいるようにぼんやり見えた。宗助にはこの累々たる黒いものが、ことごとくこういう娯楽の席へ来て、おもしろく半夜をつぶすことのできる余裕のある人らしく思われた。彼はどの顔を見てもうらやましかった。
彼は高座の方を正視して、熱心に
中入りの時、宗助はお米に、
「どうだ、もう帰ろうか」と言いかけた。お米はそのとうとつなのに驚かされた。
「いやなの」と聞いた。宗助はなんとも答えなかった。お米は、
「どうでもいいわ」と半分夫の意にさからわないような挨拶をした。宗助はせっかく連れてきたお米に対して、かえって気の毒な心が起こった。とうとうしまいまでしんぼうしてすわっていた。
小六は席を立って、
「おもしろかったですか」と聞いた。夫婦は十分ほどからだを
翌日になっても宗助の心に落ち付きがこなかったことは、ほぼまえの日と同じであった。役所がひけて、例のとおり電車へ乗ったが、今夜自分と前後して、安井が坂井の家へ客に来るということを想像すると、どうしても、わざわざその人と接近するために、こんな速力で、
坂井が
かように、堕落の方面をとくに誇張した
彼は坂井の家のそばにたって、向こうに知れずに、ひとをうかがうような便利な場所はあるまいかと考えた。不幸にして、身を隠すべきところを思いつきえなかった。もし日が落ちてから来るとすれば、こちらが認められない便宜があると同時に、暗いなかを通る人の顔のわからない不都合があった。
そのうち電車が神田へ来た。宗助はいつものとおりそこで乗り換えて、
時刻が時刻なので、
表は左右からさす店の灯で明らかであった。軒先を通る人は、帽も衣装もはっきり物色することができた。けれども広い寒さを照らすにはあまりに弱すぎた。夜は
彼はこの晩にかぎって、ベルを鳴らして忙がしそうに目の前を行ったり来たりする電車を利用する考えが起こらなかった。目的をもって路を行く人とともに、抜け目なく足を運ばすことを忘れた。しかも彼は根の締まらない人間として、かく漂浪の
彼は黒い
彼は行く行く口の中で何べんも宗教の二字を繰り返した。けれどもその響きは繰り返すあとからすぐ消えていった。つかんだと思う煙が、手をあけるといつのまにかなくなっているように、宗教とははかない
宗教と関連して宗助は、
彼はいまさらながら彼の級友が、彼の
ようやく
宗助は糸底を上にしてわざと伏せた自分の茶碗と、この二、三年来朝晩使い慣れた木の箸をながめて、
「もう飯は食わないよ」と言った。お米は多少不本意らしいふうもした。
「おやそう。あんまりおそいから、おおかたどこかで
宗助はこういうふうに、なんぞ事故ができて、役所の
「なにべつにこれという
「そうしてお
「まあ、そうだ」
お米はおかしそうに笑った。宗助はむしろ苦しかった。しばらくして、
「留守に坂井さんから迎いに来なかったかい」と聞いた。
「いいえ、なぜ」
「
「また?」
お米は少しあきれた顔をした。宗助はそれなり話をきりあげて寝た。頭の中をざわざわなにか通った。時々目をあけてみると、例のごとくランプが暗くして床の間の上にのせてあった。お米はさも
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