五
佐伯の
「なんですね、お米さん。このお
「安さんは」とお米が聞いた。
「ええようやくね、あなた、
「あれもね、おかげさまでようやく学校だけは卒業しましたが、これからが大事のところで、心配でございます。──それでもこの九月から、
お米はただ結構でございますとか、おめでとうございますとかいう言葉を、あいだあいだにはさんでいた。
「神戸へ参ったのも、まったくそのほうの用向きなので。石油発動機とかなんとかいうものを、
お米にはまるで意味がわからなかった。わからないながらただへええと受けていると、叔母はすぐあとを話した。
「
叔母はしきりに鰹船と安之助の話をした。そうしてたいへん得意のように見えたが、小六のことはなかなか言いださなかった。もうとうに帰るはずの宗助もどうしたか帰ってこなかった。
彼はその日役所の帰りがけに
「お米、おれは歯の
「もうお年のせいよ」と言って白い
宗助はその日の午後とうとう思い切って、歯医者へ寄ったのである。応接間へ通ると、大きなテーブルの
その時向こうの戸があいて、
中へはいると、そこは応接間よりは倍も広かった。光線がなるべくよけい取れるように明るくこしらえた部屋の
こう穏やかに寝かされた時、宗助は例の歯がさほど苦になるほど痛んでいないということを発見した。そればかりか、肩も
ところへ顔のわりに頭の薄くなりすぎたふとった男が出てきて、たいへん丁寧に挨拶をしたので、宗助は少し椅子の上であわてたように首を動かした。ふとった男は一応
「どうもこうゆるみますと、とても元のようにしまるわけにはまいりますまいと思いますが。なにしろ中がエソになっておりますから」と言った。
宗助はこの宣告を
「じゃなおらないんですか」と念を押した。
ふとった男は笑いながらこう言った。──
「まあなおらないと申し上げるよりほかにしかたがござんせんな。やむをえなければ、思いきって抜いてしまうんですが、今のところでは、まだそれほどでもございますまいから、ただお痛みだけをとめておきましょう。なにしろエソ──エソと申してもおわかりにならないかもしれませんが、中がまるで腐っております」
宗助は、そうですかと言って、ただふとった男のなすがままにしておいた。すると彼は器械をぐるぐる回して、宗助の歯の根へ穴をあけはじめた。そうしてその中へ細長い針のようなものを刺し通しては、その先をかいでいたが、しまいに糸ほどな筋を引き出して、神経がこれだけ取れましたと言いながら、それを宗助に見せてくれた。それから薬でその穴をうめて、
椅子をおりるとき、からだがまっすぐになったので、視線の位置が天井からふと庭先に移ったら、そこにあった高さ五尺もあろうという大きな
帰りがけに玄関
「おお、そうだったか」と言いながら、はなはだめんどうそうに洋服を脱ぎかえて、いつものとおり
「お米、佐伯の叔母さんはなんとか言ってきたのかい」と聞いた。
歯痛がおのずから治まったので、秋に襲われるような寒い気分は、少し軽くなったけれども、やがてお米がポケットから取り出してきた粉薬を、
「どうも日が短くなったなあ」と言った。
やがて日が暮れた。昼間からあまり車の音を聞かない町内は、宵の口からしんとしていた。夫婦は例のとおりランプのもとに寄った。広い世の中で、自分たちのすわっているところだけが明るく思われた。そうしてこの明るい
この静かな夫婦は、安之助の神戸から
「しかし月謝と小遣いぐらいは都合してやってくれてもよさそうなもんじゃないか」
「それができないんだって。どう見積もっても両方寄せると、十円にはなる。十円というまとまったお金を、今のところ月々出すのは骨が折れるって言うのよ」
「それじゃ今年の暮れまで二十何円ずつか出してやるのも無理じゃないか」
「だから、無理をしても、もう一、二か月のところだけは間に合わせるから、そのうちにどうかしてくださいと、安さんがそう言うんだって」
「実際できないのかな」
「そりゃ
「鰹船でもうけたら、そのくらいわけなさそうなもんじゃないか」
「ほんとうね」
お米は低い声で笑った。宗助もちょっと口のはたを動かしたが、話はそれでとぎれてしまった。しばらくしてから、
「なにしろ小六は
「そうでしょう」とお米が答えるのを聞き流して、彼は珍しく書斎にはいった。一時間ほどして、お米がそっと
「勉強? もうお休みなさらなくって」と誘われた時、彼はふり返って、
「うん、もう寝よう」と答えながら立ち上がった。
寝るとき、着物をぬいで、
「今夜は久しぶりに論語を読んだ」と言った。
「論語になにかあって」とお米が聞き返したら、宗助は、
「いやなんにもない」と答えた。それから、「おい、おれの歯はやっぱり年のせいだとさ。ぐらぐらするのはとてもなおらないそうだ」と言いつつ、黒い頭をまくらの上につけた。
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