八
「小六さん、茶の間から始めて。それとも座敷のほうを先にして」とお米が聞いた。
小六は、四、五日まえとうとう兄のところへ引き移った結果として、
「
縁先は右の方に小六のいる六畳が折れ曲がって、左には玄関が突き出している。その向こうを
時々寒い風が来て、後から小六の坊主頭と
「寒いでしょう、お気の毒さまね。あいにくお天気がしぐれたもんだから」とお米が
小六は実際こんな用をするのを、内心では大いに
それで
「こんな紙じゃ、またすぐ破けますね」と言いながら、小六は巻いた小口を一尺ほど日にすかして、二、三度力まかせに鳴らした。
「そう? でも
二人は長く継いだ紙を双方から引き合って、なるべくたるみのできないようにつとめたが、小六が時々めんどうくさそうな顔をすると、お米はつい遠慮が出て、いいかげんに
「皺が少しできたのね」
「どうせ僕のおてぎわじゃうまくはいかない」
「なに兄さんだって、そうおじょうずじゃなくってよ。それに兄さんはあなたよりよっぽど無精ね」
小六はなんにも答えなかった。台所から清が持ってきたうがい茶碗を受け取って、戸袋の前へ立って、紙がいちめんにぬれるほど霧を吹いた。二枚目を張ったときは、先に霧を吹いた分がほぼかわいて、皺がおおかた平らになっていた。三枚目を張ったとき、小六は腰が痛くなったと言いだした。実をいうとお米のほうは
「もう一枚張って、茶の間だけすましてから休みましょう」と言った。
茶の間をすましているうちに
「小六さん、下宿はごちそうがあって」
こんな質問にあうと、小六は下宿から遊びに来た時分のように、淡泊な遠慮のない答をするわけにゆかなくなった。やむをえず、
「なにそうでもありません」ぐらいにしておくと、その語気がからりと澄んでいないので、お米のほうでは、自分の待遇が悪いせいかと解釈することもあった。それがまた無言のあいだに、小六の頭に映ることもあった。
ことに今日は頭のぐあいがよくないので、膳に向かっても、お米はいつものようにつとめるのがたいぎであった。つとめて失敗するのはなおいやであった。それで二人とも障子を張る時よりも、言葉少なに食事をすました。
午後は手が慣れたせいか、朝に比べると仕事が少しはかどった。しかし二人の気分は飯まえよりもかえって縁遠くなった。ことに寒い天気が二人の頭にこたえた。起きた時は、日をのせた空がしだいに遠のいてゆくかと思われるほどに、よく晴れていたが、それがまっさおに色づくころから急に雲が出て、暗いなかで
「兄さんは来年になると月給が上がるんでしょう」
ふと小六がこんな問をお米にかけた。お米はその時畳の上の
「どうして」
「でも新聞で見ると、来年から一般に官吏の増俸があるという話じゃありませんか」
お米はそんな消息をまったく知らなかった。小六から詳しい説明を聞いて、はじめてなるほどとうなずいた。
「まったくね。これじゃだれだって、やっていけないわ。お
小六にちょっとした好奇心の出たため、二人の会話は存外素直に流れていった。お米は裏の家主の十八、九時代に、物価のたいへん安かった話を、このあいだ宗助から聞いたとおりくり返した。その時分は
「小六さんも、その時分だとわけなく大学が卒業できたのにね」とお米が言った。
「兄さんもその時分だと、たいへん暮らしやすいわけですね」と小六が答えた。
座敷の張りかえがすんだ時にはもう三時過ぎになった。そうこうしているうちには、宗助も帰ってくるし、晩のしたくも始めなくってはならないので、二人はこれを一段落として、糊や髪剃をかたづけた。小六は大きな伸びを一つして、
「どうも御苦労さま。疲れたでしょう」とお米は小六をいたわった。小六はそれよりも口さむしい思いがした。このあいだ文庫を届けてやった礼に、坂井からくれたという菓子を、戸棚から出してもらって食べた。お米はお茶を入れた。
「坂井という人は大学出なんですか」
「ええ、やっぱりそうなんですって」
小六は茶を飲んで煙草を吹いた。やがて、
「兄さんは増俸のことをまだあなたに話さないんですか」と聞いた。
「いいえ、ちっとも」とお米が答えた。
「兄さんみたようになれたらいいだろうな。不平もなにもなくって」
お米は特別の挨拶もしなかった。小六はそのまま立って六畳へはいったが、やがて火が消えたと言って、火鉢をかかえてまた出てきた。彼は兄の家にやっかいになりながら、もう少し立てば都合がつくだろうと慰めた安之助の言葉を信じて、学校は表向き休学の
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