七
円明寺の杉がこげたように
「まるで前の本多さんみたようね」とお米が笑った。前の本多さんというのは、やはり同じ
「お爺さんはやっぱり植木をいじっているかい」
「だんだん寒くなったから、もうやめたんでしょう。縁の下に植木鉢がたくさん並んでるわ」
話はそれから前の
「ありゃいったいなにをする男なんだい」と宗助が聞いた。この問は今までもいくたびかお米に向かってくり返されたものであった。
「なんにもしないで
宗助はこれより以上立ち入って、坂井のことを聞いたことがなかった。学校をやめた当座は、順境にいて得意なふるまいをするものに会うと、今に見ろという気も起こった。それがしばらくすると、単なる
「なぜほかの家の子供はブランコへ乗せないんだい」
「つまりけちなんでしょう。早く悪くなるから」
宗助は笑いだした。彼はそのくらいけちな家主が、屋根がもると言えば、すぐ
その晩宗助の夢には、本多の植木鉢も坂井のブランコもなかった。彼は十時半ごろ床にはいって、万象に疲れた人のように
お米は気にするように枕の位置を動かした。そうしてそのたびに、下にしている方の肩の骨を、蒲団の上ですべらした。しまいには腹ばいになったまま、
「あなたあなた」と宗助の枕元へ来てこごみながら呼んだ。その時夫はもう鼾をかいていなかった。けれども、元のとおり深い眠りから来る
お米は
するとまたふと目があいた。なんだかずしんと枕元で響いたような心持ちがする。耳を枕から離して考えると、それはある大きな重いものが、裏の崖から自分たちの寝ている座敷の縁の外へ、ころがり落ちたとしか思われなかった。しかも今目が覚めるすぐまえに起こった出来事で、けっして夢の続きじゃないと考えた時、お米は急に気味を悪くした。そうしてそばに寝ている夫の夜具の
宗助はそれまでまったくよく寝ていたが、急に目が覚めると、お米が、
「あなたちょっと起きてください」とゆすっていたので、半分は夢中に、
「おい、よし」とすぐ蒲団の上へ起き直った。お米は小声でさっきからの様子を話した。
「音は一ぺんしたぎりなのかい」
「だって今したばかりなのよ」
二人はそれで黙った。ただじっと外の様子をうかがっていた。けれども世間はしんと静かであった。いつまで耳をそばだてていても、再び物の落ちてくるけしきはなかった。宗助は寒いと言いながら、
かきがねをおろして座敷へ戻るやいなや、また蒲団の中へもぐり込んだが、
「なんにも変わったことはありゃしない。たぶんお前の夢だろう」と言って、宗助は横になった。お米はけっして夢でないと主張した。たしかに頭の上で大きな音がしたのだと固執した。宗助は夜具から半分出した顔を、お米の方へふり向けて、
「お米、お前は神経が過敏になって、近ごろどうかしているよ。もう少し頭を休めて、よく寝るくふうでもしなくっちゃいけない」と言った。
その時次の間の柱時計が二時を打った。その音で二人ともちょっと言葉をとぎらして、黙ってみると、
「でもあなたは気楽ね。横になると十分たたないうちに、もう寝ていらっしゃるんだから」と言った。
「寝ることは寝るが、気が楽で寝られるんじゃない。つまり疲れるからよく寝るんだろう」と宗助が答えた。
こんな話をしているうちに、宗助はまた寝入ってしまった。お米は依然として、のつそつ床の中で動いていた。すると表をがらがらとはげしい音を立てて車が一台通った。近ごろお米は時々夜明けまえの車の音を聞いて、驚かされることがあった。そうしてそれを思い合わせると、いつも似寄った刻限なので、ひっきょうは毎朝同じ車が同じ所を通るのだろうと推測した。たぶん牛乳を配達するためかなどで、ああ急ぐに違いないときめていたから、この音を聞くと等しく、もう夜が明けて、隣人の活動が始まったごとくに、心丈夫になった。そうこうしていると、どこかで
「清かい」とお米が声をかけた。
清はそれからすぐ起きた。三十分ほど経ってお米も起きた。また三十分ほど経って宗助もついに起きた。いつもはいい時分にお米がやってきて、
「もう起きてもよくってよ」と言うのが例であった。日曜とたまの
「さあもう起きてちょうだい」に変わるだけであった。しかし今日は
下からのぞくと、寒い竹が朝の空気にとざされてじっとしている後から、霜を破る日の色がさして、いくぶんか頂を染めていた。その二尺ほど下の
宗助は玄関から下駄をさげて来て、すぐ庭へおりた。縁の先へ便所が折れ曲がって突き出しているので、いとど狭い崖下が、裏へ抜ける半間ほどのところはなおさら狭苦しくなっていた。お米は
「あすこがもう少し広いといいけれども」とあぶながるので、よく宗助から笑われたことがあった。
そこを通り抜けると、まっすぐに台所まで細い
「でもかわいいわね」と喜んだ。
宗助が霜を踏んで、この記念の多い横手へ出た時、彼の目は細長い路地の一点に落ちた。そうして彼は日の通わない寒さのなかにはたととまった。
彼の足元には黒塗りの
土の上に散らばっている書類をひとまとめにして、文庫の中へ入れて、霜と泥によごれたまま宗助は勝手口まで持ってきた。腰障子をあけて、清に、
「おいこれをちょっとそこへ置いてくれ」と渡すと、清は妙な顔をして、不思議そうにそれを受け取った。お米は奥で座敷へはたきをかけていた。宗助はそれから懐手をして、玄関だの門のあたりをよく見回ったが、どこにも平常と異なる点は認められなかった。
宗助はようやく
「起き抜けにどこへ行っていらしったの」と言いながら奥から出てきた。
「おい
宗助は文庫の中から、二、三通の手紙を出してお米に見せた。それにはみんな坂井の名あてが書いてあった。お米はびっくりして
「坂井さんじゃほかになにか取られたでしょうか」と聞いた。宗助は腕組をして、
「ことによると、まだなにかやられたね」と答えた。
夫婦はともかくもというので、文庫をそこに置いたなり朝飯の
「そうおっしゃるけれど、これが坂井さんでなくって、
「なに、
そこへ清が突然台所から顔を出して、
「このあいだこしらえた旦那様の外套でも取られようものなら、それこそ騒ぎでございましたね。お
食事をすましても、出勤の時刻にはまだだいぶ間があった。坂井ではさだめて騒いでるだろうというので、文庫は宗助が自分で持っていってやることにした。蒔絵ではあるが、ただ黒地に
座敷で見ればすぐ崖の上だが、表から回ると、通りを半町ばかり来て、坂をのぼって、また半町ほど逆に戻らなければ、坂井の門前へは出られなかった。宗助は石の上へ芝を盛って、
家の内はむしろ静かすぎるくらいしんとしていた。すりガラスが
「これはこちらのでしょう。
下女は「さようでございましたか、どうも」と簡単に礼を述べて、文庫を持ったまま、板の間の仕切りまで行って、仲働きらしい女を呼び出した。そこで小声に説明をして、品物を渡すと、仲働きはそれを受け取ったなり、ちょっと宗助の方を見たがすぐ奥へはいった。入れ違えに、十二、三になる丸顔の目の大きな女の子と、その妹らしい揃いのリボンをかけた子がいっしょに駆けてきて、小さい首を二つ並べて台所へ出した。そうして宗助の顔をながめながら、どろぼうよとささやきあった。宗助は文庫を渡してしまえば、もう用がすんだのだから、奥の挨拶はどうでもいいとして、すぐ帰ろうかと考えた。
「文庫はお宅のでしょうね。いいんでしょうね」と念を押して、なにも知らない下女の気の毒がらしているところへ、最前の仲働きが出てきて、
「どうぞお通りください」と丁寧に頭を下げたので、今度は宗助のほうが少し痛み入るようになった。下女はいよいよしとやかに同じ請求をくり返した。宗助は痛み入る境を通り越して、ついに迷惑を感じだした。ところへ主人が自分で出てきた。
主人は予想どおり血色のいい
「いやどうもとんだお
そこへ最前の仲働きが、奥から茶や
「いつものように犬がいるとよかったんですがね。あいにく病気なので、四、五日まえ病院へ入れてしまったもんですから」と主人が残念がった。宗助も、
「それは惜しいことでした」と答えた。すると主人はその犬の
「
主人は時間に制限のない人とみえて、宗助が、なるほどとか、そうですか、とか言っていると、いつまでも話しているので、宗助はやむをえず中途で立ち上がった。
「これからまた例のとおり出かけなければなりませんから」と切り上げると、主人ははじめて気がついたように、忙しいところを引きとめた失礼を謝した。そうしていずれまた刑事が現状を見にゆくかもしれないから、その時はよろしく願うというようなことを述べた。最後に、
「どうかちとお話に。私も近ごろはむしろひまなほうですから、またおじゃまに出ますから」と丁寧に挨拶をした。門を出て急ぎ足に
「あなたどうなすったの」とお米が気をもんで玄関へ出た。宗助はすぐ着物を脱いで洋服に着換えながら、
「あの坂井という人はよっぽど気楽な人だね。金があるとああゆっくりできるもんかな」と言った。
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